六粒と三片
冬至を過ぎ、世の中は少しずつ明るくなってゆきます。
折しもクリスマン・シーズン、街中は賑やかで楽しげです。
しかし、マルモア王都では、女王が壊れ、サヤも大変なことになります。
悪い男は2名。宰相と第五枢機卿だ!・・・ということで三片を送ります。
主神殿を訪れたエルミヤ辺境伯爵は、取次の神官から法王猊下への目通りが叶わぬ
旨を告げられた。
…予想通りである。辺境伯という身分は決して軽いものではないが、そもそも法王は
俗世の身分関係に無縁である。
神の慈悲は無限でも“神の代理人”たる法王の時間は有限だ。
多忙な猊下が謝罪に来ただけの娘を後回しにするのも当然と言えば当然であった。
しかも、サヤの評価は間違いなく負の方向を辿っている。何しろ若き第五枢機卿を
誘惑し、堕落させた悪女なのだ。
「厄介だねぇ」
重い溜め息をついたのは、第二枢機卿サヴァイラだ。
こちらは、待ちかねたかのように、サヤに会ってくれた。しかし、表情は暗い。
「この度の叙爵式ではご迷惑をおかけしました」
「むしろウチの5番目が迷惑かけたね。あれも…式の最中は心を殺すつもり
だったんだ。それが、レンが格好良く登場するわ、シイが人外の力をひけらかすわで
焦ったんだろうねぇ。あそこで何らかの行動を起こさないと、お前に捨てられると
思ったんだろう」
それはあながち間違いではない。サヤはあの時、確かに心の中でイオに別れを告げていた。
初めて自覚した恋心を封じるつもりだった。
「イオは、大丈夫なんですか?」
「謹慎中なのは聞いているんだろ?後はどうなるか…主神殿の中で揉めている。
エルミヤ管区長を外されるのは確実だ。問題は枢機卿を降ろすかどうかだが、
難しいところだよ。イオは最年少の枢機卿ってだけじゃない。“神の使者”と呼ばれる
特別な存在だ。当然、神殿の内外に崇拝者が多い。
第一、枢機卿を降ろせば、イオの思う壺だろ?還俗したがっているのだから、
降格したらその分、辞めやすくなるってもんだ」
「王女さまから、もう一つの可能性もお聞きしました…神王座を狙っていると」
「それは今に始まった話じゃないよ。
イオの出生を知る者たちが昔から画策していたことだ」
「止めさせて下さい」
無意識の内にサヤは胸の前で両手を組んでいた。
神王なぞにならせてはダメだ。そんな今以上に手の届かない…いやいや、そうじゃない。
権力が一極集中するような旧体制に戻してはダメだ。
それに…例え望んでくれたとしても、自分は神王妃にはならない。絶対に。
「5年前に王都が荒れたことは聞いているんだろ?」
もちろんだ。女王が病気になり、王女は暗殺されそうになり、神殿では反乱が起こった。
エルミヤが戦火に曝されることはなかったが、中央からの交付金は滞り、
折悪しく冷夏、厳冬、大雪と続き、その救済に走った母が亡くなった
…一度も宰相が見舞うことなく。
「あの騒乱の中、主神殿ではイオを担ぎ出そうという動きがあったんだ。
まぁ本人が乗り気じゃない上に当時将軍だった宰相が身体を張って鎮静化したからね」
「女王さまと王女さまのために…」
「違うだろ?お前の母親とお前のためにだ」
嘘だ。
「ずっと辺境伯代理やっていたんだから分かるだろ?
あの頃のエルミヤは今よりもっと中央に依存していた。王都で政権交代があり、
強いられる。それを宰相は防ごうとしたんだ。瀕死の重傷を負いながらも、ね」
「瀕死の重傷?」
サヴァイラの言うことが理解できない。あの宰相が…母を、自分を守っていた?
信じられない。それも、エルミヤの大地ごと守っていた?
絶対嘘だ。
「宰相が5年前の怪我がもとで軍を退任したのは知っているだろう?酷い怪我だった。
王家打倒を狙った連中に背中を滅多斬りにされ、出血多量の上に脊髄を損傷した」
それはサヤの知らない人の話だ。死にかけたなんて。
命は取り留めたものの、足に障害を残した。
そんなこと…誰も言ってくれなかった。
それとも、母亡き後のエルミヤを守るのに精一杯で、聞こえていなかったのだろうか?
「アガイルがカヤの死を知ったのは、だいぶ経ってからだ。
意識を取り戻して、重傷を押して王都の安定を取り戻して…たぶん一月は経って
いたと思う」
「…サヴァイラも言わなかったんだ」
どうしても責める口調が出てしまう。
母の病状が刻一刻と悪くなっていたことを知っていたくせに。
「カヤに口止めされていたからね。それに、まさか、想像もしなかったよ。
あのカヤが死ぬなんて!」
第二枢機卿の叫びにサヤは直ぐに後悔する。この人は母の死を嘆いてくれているのに。
「まだ准将だった頃のアガイルが何の気紛れか、ある時話してくれた。
『雪山から独り、猪背負って降りてくる小柄な女に俺はどうやら惚れたらしい』と」
あ~確かにそれ母さまだわ、元気な頃の。“優しい女王さま”に猪狩りは無理、無理。
でも“あの男”が母に惚れていた…?
「宰相はカヤが死んでから意地でもエルミヤに入ろうとしないだろ?
お前の実力を認めさせるというのが理由の一つ。けど、本当のところはカヤの死を
認めたくないんだろうね」
…というところまでは、しんみり聞いたが続きが酷かった。
どうも昇華できない哀しみが、恨みつらみとなって、表に噴き出す時は死んだ妻への
罵詈雑言となるらしい。
なんてメンドクサイ閣下なんだ!やっぱり早くエルミヤに帰って縁を切りたい!
「それで、神王の件だけど、5年前と違い、イオは本気になりかけている。
宰相もたぶん静観の構えだ。となると、成功する確率は高いよ。
ちなみに主神殿の大半はアイオン神王誕生に好意的だ」
…そうだった。親子の“雪解け”は後回し。まずはイオの暴走を止めなければ。
「サヴァイラは?イオが神王なんて反対じゃないの?
イオは国も王家も神殿も…どれも本当は好きじゃない。
守って育んでいこうなんて思ってない」
「けれど神王座はイオが持ちうる最強の手札だ。
ディヴァンのシイに対抗するにはそれしかないと判断したんだろ」
「勝手に決めないで欲しいわ!」
シイとイオは違う。全然、違うのに。
神王なんて無謀だ。というか阿呆だ。
そんな権力、望んでいないはずなのに。望むのはもっと…
(全てを捨てて、君と二人で)
イオの心の叫びが聞こえてくるようだ。
…できない。
(お願いだ、私と二人で生きていこう)
…ごめん、できない。私はエルミヤを捨てられない。エルミヤが私の還る場所だから。
(サーヤ)
ごめん。
(ならば、君も止めるな。私が神王となることを。
神王となって、私は王国全土を、そしてエルミヤもエルミヤ辺境伯も支配してやる)
後ろ髪を引かれる思いで、サヤは主神殿を後にしようとした。
当然ながら第五枢機卿に会うことは許されなかった。
叙爵式の騒動さえなければ…第五枢機卿はエルミヤの神殿管区長。
いわばエルミヤにおける"聖界の長"である。
そしてサヤは今やエルミヤの正式な伯爵。いわばエルミヤにおける"俗界の長"。
聖俗の長が顔を頻繁に顔を合し、意見交換しても、何ら不思議はなかったのに。
イオの幽閉場所はサヴァイラも知らないということだった。
主神殿の在る一体は森林に囲まれ、無駄に広く、高位聖職者でも全てを把握している
訳ではないと言う。尤も、半世紀以上、主神殿を住処とする第二枢機卿のこと、
当たりはつくらしいのだが、いずれにせよ厳重警備で近づけないとのことだった。
「お前は反対しているけどね。真面目な話、女王さまの“次”はどうするんだい?
王位を継ぐのは、王女さまか、イオか、お前か、よっく考えるんだ」
そこで提示させた選択肢はいずれもサヤが頭を抱えるものであった。
その1 神王アイオンと神王妃サヤ
その2 マルモア女王サヤと大公カレント
その3 エルミヤ女王サヤとシイ補佐官ほか
「宰相の力を借りて、今なら選び放題だよ」などと、第二枢機卿は無責任にのたまう。
おおっ三択…ってどれも選びませんから!
だいたい最後のシイ補佐官“ほか”って何だ。私は“あの男”とは違う。
“優しい女王さま”とも違う。複数の恋人やらを侍らせたりするものか。
神王妃またはマルモア女王あるいはエルミヤ女王。何だそれは、と叫びたい。
エルミヤのため、母のために、何より自分の意志で、辺境伯爵の座を望んだ。
けれどそこまでだ。それ以上は望まない。
チュン
頭の上で目白が小さく囀った。サヴァイラの前では沈黙していた小鳥が羽を震わせ
自己主張する。
「これから帰るから、心配しないで、シイ」
目白の丸い円らな眼を覗き込みながら、サヤは、ゆっくり、はっきりと発音する。
シイの“人外の力”では鳥の目を借りることができるらしい。
但し、音声を拾うのは結構体力を消耗するそうで、大抵は唇の動きを読むそうな。
小鳥に話かけるなんて、他人が見たら可笑しなことをしていると思ったら、
自然と笑みがこぼれた。
指先に止まって小首を傾げる目白が可愛いらしい。
…供に付けられたのが禿げ鷹とか大鷲とかでなくて良かった。
こういうところの選択もシイは心得ている。
車止まりに向かうサヤはそうやって目白を愛で、しばし現実逃避した。
「小鳥相手に、こんな時にそんな笑顔を見せるんだ。許さないよ、サーヤ」
降ってきた声は間違えようもない。
それは幽閉されているはずの人のものだった。
振り返って、その銀の短髪を、琥珀の瞳を、褐色の肌を確かめようとして
…できなかった。
どうしたことか、急速に視界が暗く、狭くなり、手足の感覚が失われた。
目を閉じる前に映ったのは地面に堕ちてバタバタともがく目白の姿だった。
(シイ…)
唇だけで、名を告げる。
そのことが、彼女を捕らえた男を一層苛立たせることになるとも知らず。
*** *** *** *** ***
腹立ち紛れに振り上げた真珠の手が飾り台に当たる。
たちまち玻璃の花瓶が床に落ちて粉々になり、水が溢れて近くの絹織の絨毯を濡らし、
更には深紅の薔薇が花びらを散らした。その場が血溜まりを彷彿させるような
不気味な気配を帯びる。既に壁に嵌め込まれた装飾鏡には幾つかヒビが入っており、
文机の上にあったものは綺麗に薙ぎ払われていた。
マルモアの芸術の粋を集めたような書斎が今や嵐の直撃を受けたように滅茶苦茶
にされていた…他ならぬ、女主人の手によって。
「女王さま、どうかお静まりください」
女官長は既に十回以上はこの台詞を口にしていた。
しかし、女王の心は鎮まるどころか一層荒れてゆく。それに伴い書斎も壊れてゆく。
「呼びなさいっ!今すぐに、アガイルを!」
「宰相閣下は体調が優れず、登城が適わぬと。
何度か使いをやりましたが、一切の客を断り、部屋に籠もっているそうです」
「女王の召還に応じないなんて不敬よ。衛兵を遣わして、引き立てて来なさい」
「陛下、宰相閣下にそのような無茶はできません。
第一、閣下相手に軍は指一本だって動かさないでしょう」
「マルモア王国の支配者はわたくしよ!宰相ではないわ」
吐き捨てるように告げ、同時に残された理性で悟る。
女王は軍のことなど何も知らない。
アガイルが将軍を引き、宰相になってからも全てを任せてきた。
宰相捕縛を命じようも、誰を呼び出し、どのように指示したらよいのか見当も付かない。
(アガイル、どうしてっ?貴方はわたくしのっ…)
運命の恋人であったはず。
正式な婚姻は許されずとも、互いに身命を捧げた、唯一無二の存在であったはず。
先王の命により、心ならずも宰相はエルミヤの前辺境女伯を娶ることになったけれど、
彼の愛も忠誠も少しも変わることなく、女王にのみ捧げたものであったはず。
アガイルの娘…政略結婚の末に生まれた可哀想なサヤに、女王は慈悲深く、
エルミヤ辺境伯爵位を授けてやった。
そころが、その後、娘の伴侶の座を巡り、信じ難く、愚かな争いが起こった。
父親であるアガイルが求めた副宰相との婚約を、結果として法王は拒絶した。
誰にも顧みられなかったはずの娘は…王都中の娘が焦がれてやまないカレント少将を
虜にし、不可思議な力を振るう異種族の青年を従え
…そして最年少の枢機卿である“神の使者”アイオンすらも惑わした。
(あのカヤの娘がこんなにも求められているなんて…!)
そして大混乱となった“儀式の間”で、当惑するでなく、激怒するでなく、宰相は
まるで…自分の娘を取り合う愚かな若者たちを見て愉しんでいるかにようであった。
パリン
女王の心の中で何かが砕け散る。それは自分の中に積み上げた虚構。
身も心も捧げて、なお届かない。手にすることが叶わない。
宰相はわたくしのことなんて…?
(嘘よっ…!)
「私の娘に辺境伯位を授けてくださり、ありがとうございます」
叙爵式の後、宰相は丁寧に礼を述べた。
動けなくなっていた女王を彼は抱きかかえるようにして寝室まで運んでくれた。
いつものように壊れものを扱うように、それはそれは大切に。
けれども、その後に連ねられた言葉は残酷で。
「偽りの“恋人”役もこれで終わりだ」
先王が死の床で望んだのは王国の安泰。
そして何よりも自らが翻弄し続けた王妃と王女の平安。
しかし、そのいずれもアガイルにとってはどうでも良いものばかりであった。
もともと傭兵あがりの彼には愛国心なぞ希薄だった。
それに終始色目を使う王妃にも、甘ったれで我が儘な王女にも辟易していた。
そんなものを守って都に留まるなぞ真っ平ごめん、エルミヤに居る妻と娘の所に
転がり込みたいというのが本音だったのだ。
小さな娘は寝顔を見る度に(起きている時に会えた例がほとんどない)成長している。
このままではあっと言う間に成人して嫁に行ってしまう。
いや、一人娘ゆえ、他所には出さないとしても、いずれは他の男に盗られる。
「お父さん大好き」も「お父さんと結婚する」も言われることのないままに。
当時、将軍だったアガイルは内心、焦りを感じていた。
「亡き王との約束ごとだ。
十年…娘が一人前になるまでは王国も王家も守ると。それも今日で終わりだ」
先王への忠誠もアガイルにとっては終生のものではなかった。
けれども恩義は感じていたのだ。
先王は己が治世の障害となった実母や叔母を死に追いやった。
また、己が命で名家出身の4人を王妃の“側仕え”としておきながらも、
後に己の勝手な都合で死か発狂へと追いやっている。
そんな“非情な王”ではあったが、他方で、一介の傭兵であったアガイルを誰よりも
高く評価し、出自に関係なく引き立ててくれた主君であった。
そして何より、いかなる思惑があったにせよ、彼とエルミヤ女伯カヤとの
絶望的ともいえる婚姻を“政略結婚”という建前で実現させてくれた人物だった。
十年。それがアガイルの示した恩義。
彼が死の間際まで心配していた王妃と王女を守ること。
そしてマルモア王国の平安を保つこと。
それは即ち、エルミヤ…はともかく、エルミヤを統べるカヤを守ることに繋がる。
カヤが望めば彼女が手にするはずだった全てを取り戻せるように、
そして娘サヤに全てが受け継がれるように。
男は先王との約束を守る一方で更なる権力を望んだ。
その過程で一番大切なものを失うことのなるとは想像すらせずに。
「女王さま」
優しい腕が、彼女を包み込む。
(ほら、来てくれた!)
“終わり”なんて嘘。束の間、悪い夢を見ただけだ。
宰相は呼べば来てくれる。自分の所に。必ず。いつだって。
「アガイル、待っていたわ」
さあ、彼を感じながら、今宵も眠りにつこう。
「早く来て」
身を摺り寄せて、寝室に誘おうとして顔を上げた女王は、そこに不思議なものを見た。
手の温もり、肌の感触、耳朶を打つ声。
どれも馴染んだものにはず、間違えるはずはないのに。
「副、宰、相?」
どうしてか瞳に映るのは違う男の姿。
「女王さま、ずっとお慕いしておりました。これからは私がお側でお守りします」
「どう、して、貴方が…?」
「本当にお気づきではなかったのですか?
女王さまを、お慰めしていたのは私です。宰相閣下ではありません」
カリウドは夜の偽りを取り払って現れた。
彼自身、宰相の身代わりを演じるのは限界であったのだ。
夜な夜な愛しい女が自分の腕の中で、他の男を想い、他の男の名を呼ぶ。
女王への愛と忠誠が少しずつ歪んだものとなってゆくのを自分でも自覚していた。
やるせない思いのまま、エルミヤ辺境伯代理との婚約話を持ち出したのは、ある意味、
宰相に揺さぶりをかける意図もあったのだ。
8歳の時に屈服して以来、一度も勝てた例のない男への、一石。
果たして、叙爵式の場で成るはずであった婚約は無効となり、副宰相は衆目の前で
恥をかかされたのだが、それを補って余りある収穫がもたらされた。
「私は女王陛下の“恋人”役を降りる。女王が欲しなら獲れば良いだろう。
サヤの求婚者たちに意趣返ししたいというなら止めんが、サヤのことはもう構うな」
叙爵式から退出する間際に宰相は、そんなことを囁いたのだ。
つまるところ女王は捨てられた。副宰相の付け入る隙が生まれたのだった。
「嘘よ、嘘、アガイルが私の元を去るはずないっ!
呼んできなさい!私の前に引きずって来なさい!」
狂気に駆られたように、女王は室内にあったものを手当たり次第に投げつけた。
女官長以外の召使いはあちこちに打ち身や切り傷を作り、ほうほうの体で逃げ出す。
女王の怒りを発散させるため、副宰相はしばらく動かなかった。
しかし、女王が自らを傷つけかねない錯乱状態になるに及んで、
彼女を後ろから力ずくで抱きしめた。
「陛下、どうぞお静まりください」
その温もりに、あまりにも慣れすぎていて、女王の双眸からポロポロと宝石のような
涙が零れ落ちる。
自分を抱き締める腕が宰相のものでないのなら…突き詰めていけば結論は一つ。
アガイルの心が自分にはないということ。
(でもそれなら、彼の心はどこにあるの?)
誰のものでもないならばまだ許せる。けれども、もしも…?
そこまで来て、女王ははっと我に返った。
副宰相からよろよろと身を離すと、次ぎの間に滑り込む。
その小部屋には女王しか知らない、隠し戸棚が壁に作られていた。
本来は玉璽など女王一身に専属するものを臨時に隠す場所のなのだが、
使われなくなって久しい。
空の引き出しの更に奥から一枚の埃まみれの書状を見つけ出し、中身を確認する。
そうしてから、女王は最初の1、2行部分だけを細く縦に切り裂いた。
残りは折り畳んで、元の隠し場所にしまい込む。
「女官長、これを宰相に渡しなさい」
元の部屋に戻ると切り裂いた紙片を撚って、ただ一人控えていた女官長に差し出す。
「女王さま…?」
「渡すだけで構わないわ」
その時、女官長は女王がふんわりと笑うのを見た…良くない兆候だった。
しばし重苦しい沈黙が降りる。
それに耐えきれなくなったかのように女官長が身を翻らせた。
「疲れました。少し休みます」
部屋の惨状を全く顧みず、女王さまは寝室へと向かい始める。
扉の所で振り向いた女王は最後に残った一人、副宰相に声をかけた。
「眠るまで側にいてくださるわね、“アガイル”」
カリウドの表情が昏く、絶望に染まる瞬間であった。
*** *** *** *** ***
始めに取り戻したのは触覚。肌に触れる感覚は、少し熱いが心地良い。
嗅覚が後を追って甦る。微かに漂う香は主神殿でよく利用されるもの。
それから聴覚。サーヤと自分を呼ぶ声が聞こえる。繰り返し、繰り返し。
まだ眠っていたい身としては、少し煩い。静かに眠らせておいて欲しい。
(ん…?眠って?)
いつの間に眠ってしまったのか。
いつの間に夜が来ていたのだろう。
それから味覚。唇に柔らかいものが触れて、歯列を割るように差し入れられたもの。
その“味”をサヤは知っている。
「ん、むむむ…んっ!」
窒息しそうになって思わず身を捩り、手足をバタつかせると、不意に視界が開けた。
しかし、最初に目に入ったものが心臓に悪い。悪すぎる!
銀の短髪に琥珀の瞳、褐色の肌。マルモア主神を映したような、その姿。
吐息の触れる、ではなく、吐息を飲み込むほど密着した距離にいる相手。
「イオっ…?」
驚きと疑問が同時にやって来る。
叙爵式の問題発言で主神殿に軟禁されていると聞いていたが。
(ん…?主神殿?)
そこでサヤは遅まきながら自分がどこにいるのかを察した。
そろりと周囲に目を配ると、なるほど、上等な部屋なのに、窓がない。
陽の光が入らず、代わりに人工の灯りが惜しみなく使用されている。
どのくらい眠っていたのか、今が何刻なのかさっぱり見当がつかない。
「ここって…」
「高位聖職者専用の、いわゆる“座敷牢”だ」
サヤはどうやら第五枢機卿の軟禁場所に“ご招待”されてしまったらしかった。
イオに会いたかったので、“ご招待”自体は歓迎すべきものだが。
拘束されているはずの者が神殿をうろついていたらダメだろう!
「それで迅速に君を攫うため、薬を少々使わせてもらった」
「薬なんか使わなくとも、呼べば来たのに」
「…そうかな?」
サヤを見下ろす琥珀の瞳は酷く冷ややかだ。
第五枢機卿の静かな怒りが蒼い炎を生み出している。
「満足か、エルミヤ辺境伯爵?その足元に三人の哀れな男を跪かせて。
レンは宰相に楯突き、シイは異種族の力を揮い…私は枢機卿の地位を擲った。
次に何を望む?私の破滅か、死か?」
「勝手なことばかり言わないで!」
エルミヤを選び、イオを選べない自分が悲しくて、苦しくて。
そんなサヤの心も知らず、イオは苛立ちをぶつけてくる。
サヤにも言いたいことは山ほどあるのだ。
「だいたい、貴方だって王女さまと!何よ、あの接吻は!」
枢機卿であれば、まだ耐えられた。
“神の使者”の慈愛は普く万民に降り注ぐべきもの。
一人の女性が独り占めすることなど許されない。彼は誰のモノにもならない。
けれども還俗して王女の伴侶になる噂を聞いた時、胸が張り裂けそうだった。
「王女は…半分だけ血の繋がった妹だ」
「その異父妹に貴方は酷いことをしたわ」
イオは王女の心を弄んだ。
高慢な王女の鼻っ柱がへし折られ、ざまみろと正直思うが、一方で同じ女として
気分が悪い。
「王女は君に危害を加えた。あの程度の仕置きではまだ足りない」
「報復なら自分でやるわ。“お兄さま”の力を借りるまでも…」
「止めろっ!」
皆まで言わせず、イオが吼えた。
「あれの兄など、ごめんだ!先王が父で、女王が母。
真実を知った時、どれほど己が身体に流れる血を呪ったか。
親などいない方がマシだった。一生捨て子のままでいた方が。
先王は、自分が一度は捨てた子が“神の使者”と認められるや手の平を返して、
“聖界の長”を目指すよう命じてきた。
女王は自分が息子を産んだことなぞないかのようにずっと私に無関心のままだ。
そして王女は自分が王位を継ぐのが当然とばかり、我が儘放題に育った
…血で縛られてはいるが、私の家族はどこにもいない」
確かに、あの両親にあの妹ならイオがグレるのも理解できる。
サヤの父親も最低男・ダメ父の類だが、母親は立派な人だった。
北方の荒れ地で幼いサヤは何度も危ない目に遭ったが、母親とその仲間たちに守られ、
愛情いっぱいに包まれて育った。
「ただ一人…家族になりたい、共に家庭を築きたいと願った君は、私よりエルミヤを
選ぶという。そしてシイの手を取った」
「違う!」
「何が違う?叙爵式が終わって、嬉しそうにシイの手を取っていただろう。
私には一瞥もくれずに」
それは、イオの枢機卿としての立場を慮ったからであって。
だいたい、あの騒ぎの中で、抱擁だの接吻だのしようものなら、宮廷追放される
危険さえあったじゃないか…などなどサヤの弁明は口の中で脆くも消えた。
イオにがっちり押さえ込まれてしまったのだ。
「思えば私は君の仇筋だ。君の祖父を陥れたのは先王の母親と女王の母親だ。
世が世なら君は王女で、いずれは女王になったかもしれないのに。
真実を知って、私が疎ましくなったのではないか?」
「そんなこと、あるわけない!親が誰でも、イオはイオでしょ!」
「だが君は私よりシイを選ぶ」
「違う、そうじゃない、シイは…」
しかし、イオは聞く耳を持たなかった。
「堂々と求婚できるレンも、当然のように側にいるシイも殺してやりたいほど憎らしい。
しかも、シイの奴が君のディヴァン?片割れの魂だって?
絶対に許さない。絶対に、認めるものかっ!」
そうして、骨が砕けそうなほど強くサヤを抱き締める。
「…私はイオが好きだよ」
「嘘だ」
「愛している」
「信じられない」
信じさせてみろ、そんな声のない慟哭をサヤはイオの身体と共に抱きしめた。
25歳の青年枢機卿。
マルモア主神を映したような姿は“神の使者”として崇拝の対象。
しかして、その正体は先王と現女王の間に生まれた唯一の御子。
血統も権威も申し分なく、いずれは法王座に就くことが約束されていた男。
だが、サヤを包み、サヤに包まれるイオは、そんな与えられた全てを厭い、
自由に生きたいともがいている。
「サヤは私のものだ。どこにもやらない。誰にもやらない」
服が取り払われ、肌と肌がぶつかる感触にサヤの身体が燃えるように熱くなる。
人工の灯とはいえ、明るい部屋の至近距離では、全てが曝されてしまう。
羞恥に染まる顔も、物欲しげに震える身体も隠しようがない。
「一緒に行こう、生きよう、サヤ」
「一緒に生きたい、でも…」
エルミヤを捨てられない。
そんな言葉は、サヤの中に押し入ってきたイオのために遮断された。
「あ…イオ、イオっ」
初めての痛みと同時に湧き起こる歓喜。
この人を諦めたくないという思いが、サヤを駆り立てる。
自分の生まれも立場も役目も忘れて、束の間、ただの女になる。
互いを呼ぶ声が交錯し、二人は初めて深い交わりを結んだ。
イオの焦燥は危険域に達していたようで、受け止めたサヤは大変なことになった。
幼少の頃から辺境で鍛えられ、同じ年頃の女性はもちろん、男性にだって引けを
とらない体力・気力を有していたはず。
そのサヤが最後にはへばって昏倒するように眠りに落ちた。
ピピッ…ピピッ……
鳥の鳴き声に意識が再び浮上する。
(シイ?)
最初に思い浮かべたのは、少しだけ尖った片耳を持つ若者。
身を起こそうとして、鈍い痛みに呻き声を上げる羽目になった。
四肢に絡みつくような圧力に、結局は動けないまま留められる。
「…誰のことを考えた?」
鋭い問いが耳元に響く。
サヤが一瞬自分以外の男を想ったのを敏感に察して、イオの機嫌が急降下した。
「誰にも渡さない」
きつい拘束の中でサヤは漸く正気を取り戻した。言うべきことを言う時が来た。
「イオ、聞いて。神王とか、大それた考えは止めて」
「王女に聞いたのか?」
「宰相邸に怒鳴り込んできたわ」
“神の使者”はそこで舌打ちし、一層面を険しくした。
「貴方の欲しいものは王家や神殿の権力ではないはず。
それに、国も国民も愛していない者が、至高の地位を望むべきではないわ」
「…だからか?」
「え?」
「私を説得するために己が身を差し出したのか?」
「ばっ…!」
とんでもない誤解だった。
目的のために身体を売ったと…そんなことあるはずないのに!
怒りのために、サヤは素早くシーツを巻き付けると、寝台から飛び退いた。
「まったく、エルミヤ辺境伯爵の愛郷心には恐れ入る」
琥珀の瞳が皮肉な色を湛えた。
「変な被害妄想は止めて!こんなコト、好きでもない人としないわよっ!」
「だが君は、シイが救出に来るのを待っている」
うっと、サヤは低く呻いた。半分当たりで半分外れなのだ。
合意の上の行為ゆえ、“救出”には当たらない。
けれど自分を閉じ込める気満々のイオにずっと付き合っていられないのも事実。
冬に備えて、一刻も早くエルミヤに帰還しなければならないのだ。
「還俗しようかと真剣に悩んだが…枢機卿でも“神の使者”でもない男なぞ、
辺境女伯には何の価値もないのだろう?
それならば、神王になってやる。神王になって、サヤに神王妃の聖冠を授けよう。
君が何をおいても優先するエルミヤは君が実行支配すればよい。
それから“寛容な夫”として、異種族の変わった獣を飼うのも認めてやろう」
「止めて、そんな言い方、止めて!」
何もかもが気に入らなくて、サヤは差し伸ばされた手を乱暴に払ってしまった。
枢機卿でなければ価値がないなんて。神王と神王妃なんて。
エルミヤを実行支配なんて。異種族の獣を“飼う”なんて。
サヤが愛した相手は、途轍もなく面倒な、厄介な男であった。
「君の欲しいものは全て与えよう。だから君も私の欲しいものをくれ…君の全てを」
そう言うや、サヤを捕え、問答無用とばかり唇を貪った。
「待っていろ、サーヤ。神王になって直ぐに戻ってくる」
息も絶え絶えとなった娘の頬を最後に優しく撫で、イオは部屋を出て行った。
第五枢機卿のための“座敷牢”は今やエルミヤ辺境伯のためのものとなった。
酷い、宰相、酷い…これで女王さまにも同情票が?
酷い、イオ、酷い…しかしサヤもお子サマ過ぎて、上手く自分の気持ちを
伝えきれていません。
そして、レンとシイ、サヤのピンチに何しているんでしょうね?
それぞれの思惑が次回「七粒」で激突します。




