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五粒と一片

ようやく更新できました。読んでくださっている方、お待たせしました。

今週は、雪柳の現実世界が忙しく…そして、サーヤの世界も大変でした。


大酒飲んで我に返ったサヤは、ついに全てと対峙する覚悟を決めます。

でも、ちょっと、やり方が…やっぱり宰相と親子なんですねぇ。


また雨が降り出した。

窓枠に乗り出して、透明な(しずく)が空から零れ落ちてくるのを何度も何度も確かめる。

うん、黒い雲はたっぷりと重そうで、直ぐに止みそうな気配ではない。


…嬉しい。

もうすぐ母さまが帰ってくる。

すっかり濡れちゃったよって苦笑いしながら、勘弁してくれよってぼやきながら、

皆がいつもより早く帰ってくる。


ここに還ってくる。

ここが皆の還る場所だから。


けれど、目覚めと同時に失望はやって来た。


エルミヤではなかった。

よく見知った場所ではあるけれど、一番慣れ親しんだ場所ではない。

空が違う、風が違う。土も違う。マルモアの王都は何もかもが違う。


「早く帰りたい」

思わず本音を漏らしてしまう。早くエルミヤに帰りたい。

…王都は嫌なことばかり。


「そう?それじゃ、帰ろう。今すぐに」

扉の前にシイが立っていた。水差しを持って近づいてくる。

「どう、気分は?」

そこで蘇るは昨晩の記憶。

ナナツ秘蔵の美酒を次々と喇叭(らっぱ)飲みしては(から)にした。

甘いものは大の苦手で、一口でも吐きそうになるが、酒にはかなり自信がある。

もっとも、あれだけ無茶な飲み方をしたのだから、二日酔い位は覚悟したのだが。


頭…ちょっと重いかな、という気がするけど痛くはない。

胸…も、ちょっと重いかな、という気がするけど気持ち悪くはない。

身体は…別にだるくない。


私って結構しぶといじゃない。それとも、昨日の騒ぎって、もしかして夢?

副宰相の求婚も。レンの来訪も。枢機卿の噂も。

ぜ~んぶ、無かったということで。


「はい、これ飲んで」

サヤが現実逃避をしている中、目の前にずいっと出されたのは薄緑色の液体が入った

グラスであった。微かに漂う薬草臭が、それの正体を教えてくれる。

口が曲がるほど苦いのに効き目は抜群。


過去に「この味なんとかならないの?」と抗議したら、「二度と二日酔いになんて

なるもんかっていうくらい激不味い薬の方がいいでしょう?」とブワンに切り返された。


「夜中に一度飲ませているから大丈夫だとは思うけど、念のため」

シイの圧力(プレッシャー)にとてもではないが「遠慮しま~す」といえる雰囲気ではなかったため、

サヤは黙ってグラスを受け取ると、中身を一気に飲み干した。


ん?夜中に“飲ませて”?

へべれけに酔って前後不覚になっていたはずなのに、どうやって飲ませたのか。

服も仕事着から部屋着に変わっているし、食堂にいたはずが今は自分の部屋にいる。


え~と、細かい事を気にしちゃダメよね、うん。


「レンは?」

「真っ先にそれ?他人(ひと)の心配してる場合?」


うわっ。やっぱり…シイは静かに怒っていた。

自分んちとはいえ、叙爵を目前に飲んだくれていれば、そりゃ怒るだろう。

首を竦めるサヤであったが、相手の怒りの原因を実は勘違いしている。


シイだって、サヤが酒を飲むこと自体に目くじらを立てたりしないのだ。

兄を亡くしたばかりの少将に同情するのも、まぁ、サヤの性格上、仕方ないか、

と何とか我慢もできる。

許せないは…第五枢機卿ごときのために、彼女が心を痛めたり、泣いたり、

ヤサグレたりすることだ。


「イロイロとご迷惑をおかけてして申し訳ありません」

兎にも角にも謝ってしまえとばかりに、目の前の娘はペコペコと頭を下げる。

その心にイオの存在がどれほど喰いこんでいるのか、

本当は揺さぶって問い質したい。

シイは荒ぶる心を抑えるのに必死で、ますます氷の仮面を被ることになった。


「少将なら明け方帰らせたから。念のためブワンに送ってもらった」

「そっか。ブワン特製の中和薬が効いたかな」

「…少将に飲ませてやるほど親切じゃないよ、僕は。

 男相手は、というか、サヤ以外はゴメンだ」


うん、やっぱり“そういう”飲ませ方した訳ですね。

サヤは空になったグラスを返しながら、次第に火照る顔を何とか隠した。


「で、エルミヤにはいつ戻るの?荷物は後で送ってもらうことにすれば、

 今すぐにも出られるよ」

冗談の片鱗もなく、真顔でシイは尋ねてきた。

「…直ぐには帰れない」

思わず泣きごとを漏らしたものの、現状は認識している。

「でも帰りたいんでしょ、サーヤ。

 別に辺境伯にならなくたって、エルミヤの皆は君を迎えてくれるよ」

そうかもしれない。大事なのは肩書きなんかじゃない。

エルミヤの人々はサヤが辺境伯代理だからという理由で親しんでくれる訳じゃない。

けれども、“辺境伯”の肩書きがあればこそ、中央と渡り合うことができる。

ただのサヤではエルミヤを守れないのだ。


「私はまだ帰れない。逃げるのは嫌だ」

過去と現在に、いろんな人のいろんな思惑が入り乱れて。

自分の立ち位置を見失いそうになる。何をすべきか何をしたいのか分からなくなる。


「私はエルミヤさえ無事ならマルモアはどうでも良いとさえ考えていた。

 イオやレンにしても何も聞かないのが思いやりだと勘違いしていた。

 過去がどうであれ…自分には関係ないと知らんふりしていた」

「サーヤ?」

シイがいぶかしむのも無理はない。目の前の娘は変わろうとしていた。

「無知のままで勝てるはずないのに。

 勝ったつもりでも、結局は周りに踊らされているだけかもしれないのに」

「どうする、つもり?」

「シイ、私は全部確かめる。

 私の生まれる前に亡くなった祖父は本当に謀反人だったのか。

 無実だったのだとしたら誰が陥れたのか。

 なぜ先王は母さまを辺境伯に叙し、当時将軍だった“あの男”と結婚させたのか。

 十年前に先王が亡くなった時、周囲で何が起こったのか。

 五年前に母さまが亡くなった時、都で何が起こったのか。

 そして今…“あの男”は何を企んでいるのか」


疑問はまだまだあった。


例えばイオの出生と彼の狙い。

真実、第五枢機卿の地位を捨て、王女さまと結婚する気なのか。

もしそうなら彼の狙いは王女自身か、それとも王女に付帯する権力か。


例えば副宰相の真意。

宰相の片腕でありながら、サヤへの侮蔑を隠さない彼が何故に求婚してくるのか。

北方辺境伯を娶ることで彼に何の益があるのか。


バラバラに見える謎はたぶん根っ子の所で繋がっている。

先王亡き現在、生きている者の中で鍵を握るのは“優しい女王さま”と

その“恋人”だ。


そう。


宰相が女王の“恋人”を長く続けているのも謎だ。

他にちらほら女性の影があっても女王さまだけは特別ということなのか。

それとも全ては“優しい女王さま”の御ため、ということなのだろうか

…あの男が?


一度考え始めれば、分からないことだらけだった。


「サーヤ」

ぎゅううっと抱き締められた。包みこむような優しさが心に染み込んで来る。


「一人で悩まないで。君がどんな選択をしても、僕は君の側にいるから」

そして最後には…君の全てを手に入れる、とまで正直にシイは告白したりしない。


「ありがとう、シイ」

シイがいてくれる。それがずっと心の支えであった。

でも、とサヤは続ける。

「8つの子どもを拾った時、責任もって世話をしなければって思った。

 四六時中一緒にいて、いつしか頼られるのではなく、自分が頼っていた。

 シイは私のものだから、ずっと一緒にいるのは当たり前だと思っていた

 …傲慢だった。シイは物じゃないのに。シイにはシイの人生があるはずなのに」

「どうして今、そんなことを?サーヤは僕が離れても平気なの?」

「平気じゃない。でも、今言わないと私はどんどん狡くなる。

 シイにはシイの望むように生きてほしいのに」

「ふ~ん。僕の望むように」

不機嫌を凝縮したような声が届き、次の瞬間には熱い吐息がかかって、

唇を塞がれた。両手首も拘束され身動きすらままならない。

ゆっくりとシイの身体が覆い被さってきてサヤは寝台に横たえられた。


いつもなら少しひんやりしているシイの肌が熱い。

いや、熱いのはサヤも同じか。

息継ぎも許さないような、深い口付けが長く続く…サヤが意識を飛ばす寸前まで。


「抵抗しないの?このまま進めるよ?」

頬を上気させ、涙目で見つめてくる、娘の姿は身悶えしたくなる可愛いらしさ。

辺境伯代理として日ごろ(おおやけ)の場では真面目くさった顔をしているくせに、

この落差(ギャップ)は何だろう。

なけなしの理性が霧散するのも、もはや秒読み状態のシイであった。


服の下に滑りこむ手をぼんやりと感じ、サヤは我に返った。

慌てて抵抗を試みる。


「易々と唇への侵入は許したくせに、続きは嫌なんだ?」

シイが挑発する。

相手の弱みに付け込む形で迫ってはみるものの、流石に全てを奪うつもりはない

…今はまだ。

ただ少しでも自分を弟分ではなく、部下でもなく、男として意識して欲しくて、

シイは一歩踏み込んだ。


柔らかく優しく、服の上から身体を揉みしだかれる。

その心地良さに、サヤは瞑目し、何もかもを委ねてしまいたくなる。


シイがいれば頑張れる。シイがいれば大丈夫。シイが何とかしてくれる。


伸ばした手が彼の耳先に触れた。

片方の手は少しだけ尖った耳に触れたが、もう片方はギザギザしたものに触れた。

種族の誇りであるべきものが、傷つけられ、損なわれた。

…彼女のせいで。


シイが何とかしてくれる…?

自分の甘えに気がついて、身の内の熱が瞬く間に引いていった。


「お遊びはこれまでよ」

驚くほどに冷たい声が口をついて出てくる。


「サーヤ?」

彼女の豹変ぶりに驚いて、シイの力が緩む。

その隙にサヤは相手を突き飛ばすようにして上体を起こした。


「馴れ馴れしく呼ばないで。穢れた異種族の分際で!」


そう。

サヤは遅まきながらも理解した。

シイのことを“あの男”はいつも“異種族”と呼んでいた…“異民族”ではなく。

エルミヤの高山地帯には人に酷似した、けれども人とは違う種の血を引く者たちが

今も細々と命脈を保っている。


辺境伯代理として毎年報告を受けているし、“あの男”はかつて北方征伐隊司令官として

高山地帯の動乱を平定したことがある。サヤよりも情勢に詳しいのだろう。


「私は間もなく北方辺境伯となり、然るべき殿方と婚姻します。

 貴方を…素姓の分からぬ下賤の者を側近くに置くことはできません」

「サーヤ、何を言って…?」

サヤは寝台から滑り出ると、シイから距離を保って背筋を伸ばした。

「シイ、本日付けで貴方の秘書官としての任を解きます。

 速やかにエルミヤへ帰郷しなさい」

サヤ自身気がついていないが、冷酷な為政者の如く振る舞う姿は宰相と酷似している。

年齢や性別の違いはあれど、その眼差し、口調、醸し出す雰囲気…全ては二人が

紛れもない親子であることを示している。


「僕に出て行け、一人でエルミヤへ帰れと言うんだ」

「辺境伯代理への不埒な所業。本来なら投獄するところだけど、これまでの功労に免じて、

 私財の保全と私業の継続を認めます。ただ…私の前からは消えなさい」

「不埒な所業って…全然、嫌がってなかったよね、サーヤ?」

サヤは無言でシイを睨み付けた。

「同じ口で“僕の望むように生きろ”と言わなかったっけ?」

矛盾していない?

微笑みすら浮かべたシイが差し伸べた手をサヤは乱暴に叩き落とす。


「馴れ馴れしくするなと言ったはずよ。貴方が出て行かないなら、私が出て行くわ」

部屋を飛び出したのはサヤの方だった。

直ぐさま後を追おうとしたシイだったが、両足が沼地にはまり込んだように動かない。


「ブワン、車の用意をして!宰相邸に“戻り”ます」

階下でサヤが叫ぶのが聞こえてくる。本当に出て行こうとしている。

この居心地の良い、シイとナナツとエリゼとナナツが守る“隠れ家”から。

それが分かっていてもシイはやはり引き留めることができなかった。


“穢れた異種族”だの“下賤の者”だの耳を疑うような言葉がサヤの口から飛び出し、

シイを貶めた。けれど本心じゃないことくらい百も承知だ。

宰相譲りの冷徹な仮面の下で途方に暮れていることも。

何故、彼女が自分を遠ざけようとしているのか、それも理解しているつもりだ。


一番近くにいたシイにはサヤの気持ちが誰よりもよく分かる。

時として、本人すら自覚していない深い思いまでも“読めて”しまう。


だからといってシイが冷静であったかというと、そんなことはない。

大暴れこそしないものの激怒と哀哭の狭間で辛うじて己を保っている状態であった。


サーヤが自分から離れようとしている。

それが可能であると思っているなんて。

それが彼のためだと思っているなんて。


「僕と君の(えにし)が魂に刻まれたものだと…教えてあげるよ、サーヤ」


もちろんシイはエルミヤに戻る気などさらさらなかった。


*** *** *** *** ***


“聡明な王女さま”は自分の手首ほどもありそうな分厚い教典を開いて、神学の勉強に

励んでいらっしゃいました。難解な古語も愛しい殿方の声で響けば、甘美な恋歌のよう。

特にただ今のところ、語られているのは創世の神話。マルモア主神が世界を創る物語だ。


主神の名を知るのは“神の代理人”たる法王猊下のみ。

法王だけが直接、マルモア主神と対話することができるという。

伝承によれば、人の姿をとった神は褐色の肌に銀の髪、琥珀の瞳をしている。

マルモア王国では、ごく稀に…およそ百年に一度の割合でこの彩色を持つ者が生まれる。

遺伝とは関係なく、突然変異のように誕生する子どもは神殿に召し上げられ、

“神の使者”として信仰の対象になる。


「そうは言っても、この百年で随分と神殿の権威は失われ、“神の使者”も単なる昔話に

 なってしまいましたが」

第五枢機卿は古語の詰め込みに頭が飽和状態になりつつあった王女さまのために

息抜き話を始めた。

「私が親に捨てられた話はしましたね?

 どうも私は生まれた時に随分と醜かったそうで…赤茶けた肌や色の無い髪を見て、

 父親は到底我が子とは認めなかったようです。そこで部下に命じて、都外れの

 朽ちかけた(やしろ)に捨てさせた。その子が長じてマルモア主神の風貌を帯びる

 ことになるとは驚天動地でしょうね」

「“神の使者”はいずれ“神の代理人”となり、最後には神の御元(みもと)に帰らなければ

 ならないの?」

王女さまが気になるのはやはりその事だ。

「どうでしょうか?」

アイオンがとぼけて首を傾げる。

「帰っては嫌っ!ここに、わたくしの側に居て!」

「…王女さま。私の願いは以前に申し上げた通りです。ただ…法王猊下も女王陛下も

 簡単にはお許しになりますまい。私は“神の使者”で第五枢機卿ですから」

「私が何とかお母さまを説得するわ。法王さまにも手紙を書く。

 今直ぐは無理かもしれないけれど、いずれそう遠からぬ内に私が王位を継ぐのだもの。

 アイオンを解放してあげる」

「誠でございますか?では私は…愛しい女性とささやかな家庭を築く未来を夢見て

 待ち続けて宜しいのですね?」

恭しく王女の手を取り、第五枢機卿はその甲に唇を当てた。王女は有頂天になる。

王位を重荷に感じつつあったが、アイオンと婚姻できるならば、寧ろ急いでも良い

かもしれない。母親も譲位すればもっと“恋人”との時間を楽しむことができるだろう。


「王女さま。“神の使者”からの祝福を受けていただけますか?」

アイオンの綺麗な顔がゆっくりと近づいてくる。

王女は小さく頷いて第五枢機卿からの口付けを待った。

それは額だろうか、頬だろうか、それとも…と期待に胸が打ち震える。


「失礼いたします」

吐息がかかるかという時に思わぬ邪魔が入る。

「何の用なの?カレント少将。貴方を呼んだ覚えはないわ!」

イケナイ想像をしていた恥ずかしさと、イイ所を邪魔された怒りで王女は声を荒げた。


「申し訳ありません。猊下に火急の知らせがございまして。しばし御前を失礼いたします」

王女が本格的に抗議する前に、少将は問答無用とばかり枢機卿を引きずるようにして

外に連れ出した。廊下を一つ二つと曲がり、人目につかぬ所で立ち止まる。


「で、何だ?火急の知らせって?」

イオは暗紫の長衣に付いた皺を直しながら悠長に尋ねた。

「そんなもの口実に決まっているだろ。貴様は一体何を考えているんだ」

音量こそ抑えているものの、王国で7人しかいない枢機卿の1人に対して、

敬語もなく乱暴に詰め寄る。


「なぜ枢機卿が還俗して王女と婚姻するという噂が流れている?

 しかも昨晩王女の寝室に出入りしたとかいう尾鰭まで付いて」

「寝室に出入りしたのは事実だ」

「何だと?」

「噂とは困ったものだな。大事な教典を王女さまにお貸ししていたのを忘れて

 慌てて取りに行っただけなのに」

しれっと答えるその態度にレンは怒り心頭だった。

二日酔いの頭を抱えながら自邸に戻った彼は兄の密葬手続きを行う傍ら軍の諜報部から

届いた報告書に目を通していた。

世継ぎ王女の婚姻はレン個人にとってはどうでも良いことだったか、国の将来を

判ずる上で無視できない。


それがよりにもよって…

“第五枢機卿還俗の動き有り。王女と婚姻か”


とんでもない噂であった。

続く報告では、王女が女王と宰相に対し枢機卿還俗について内々に打診したことや

枢機卿が夜中に王女の寝室に入ったことなどが伝えられた。


「ふざけてんのか、貴様。王女と結婚なんぞありえんだろ」

イオの本性を多少なりとも知っているレンにとって、イオが枢機卿を名乗ることも

“ありえん”ことだが、まだ神殿という“(おり)”があるだけマシと言えた。

イオを俗界に投じればどんなことが起こるか、想像するだに恐ろしい。


「王女さまに見初められるなぞ、嬉しい限りではないか」

言葉とは裏腹に一片の悦びも浮かべぬ横顔を見て、レンの怒りは沸点に近づく。

「王女に手を出すなよ。王女はお前の…」

「私の何だ?お前の兄が亡くなり…“4人”ともいなくなった。

 誰が私と王女の婚姻を阻むというんだ?女王か?

 あの弱く、狡く、愚かな女が泣き叫んだところで、何だというんだ」

「サヤはどうする?諦めるのか?」

殺意に近いものがイオから放たれる。

レンの口から彼女の名が出るのも我慢ならぬというように。


「お前には関係ない。婚約発表したとしても安心しないように忠告しておく。

 いつどこで突然事故に遭い、うっかり死亡するやもしれないからな」

などと、しっかり脅迫するのを忘れない。

「こちらも忠告しておく。王女に手は出すな。それではあんまり…」

「“可哀想”か?お優しいことだな、少将。お前の兄が死んだのは一体誰のせいだ」

「…王女に罪はない」

レンは歯を食いしばった。それは自分自身にも言い聞かせるべきことだった。


王女に罪はない。

例え、王女の存在ゆえに、兄が死に追いやられたのだとしても。

もしも兄が存命で、正気であったなら、きっと身命を賭して彼女を守っただろうから。


「王女の出生に罪はない。だが、何時までも無知で愚かなのは罪ではないと?

 我々が庇い、守るべき価値があの娘のどこにあると?」

「僅かでも情があるなら…」

「その僅かにあったはずの情も霧散したな。あの娘がサヤを打った時に」

それはレンとて同様だった。

彼はあの時、怒りと失望のあまり王女に本音をぶちまけた。

「あの娘は思い知るべきだ。私は…仮初めの王女が持つ全て、命以外の全てを奪い、

 本来の持ち主に返す」

「サヤはそんなこと望まない」

「それでも。私は“あの女”と“あの娘”がこれ以上、この国に君臨するのは

 我慢ならないんだ」

アイオンが女王と王女に向ける負の感情は根が深い。

これまでは、エルミヤでの暮らしやサヤの存在が歯止めにはなっていた。

けれども自分とサヤの間に別の男が立ちふさがるかもしれないという状況に

なった時、彼はそれまでの飄々とした生き様を続けることができなくなった。


「アイオン?そこにいるの?」

待ち焦がれた王女さまが探しに来たらしい。

「王女さま、こちらです」

少将が呆気にとられるほど見事に第五枢機卿は豹変した。

命以外の全てを奪うと宣言したのが空耳かと思うほど、アイオンは近づいて来た

王女に甘い、甘い表情を浮かべて見せた。


「まだ用事は済まないの、少将?わたくしの授業時間が無くなってしまうわ」

王女は不快感を露わにした。少将が慌てて頭を下げ、謝罪するも許さない。

彼女は狂暴な気持ちに駆られていた。

カレント少将は、世継ぎ王女よりも田舎領主を望むと豪語した男だ。


許せない。腹が立つ。むかつく。


更に少将は、あろうことか王女と枢機卿の仲まで邪魔立てしようとしているのだ。

そんなことはさせるものか。


王女はアイオンに近付くと、猫のように、その身をすり寄せた。

「アイオン、枢機卿の“祝福”をいただけるかしら?今、この場で」

少将に見せつけてやるのだ。自分と枢機卿の関係を。


一方、アイオンも温厚柔和な高位聖職者を演じながら、その心の内は荒れ狂っていた。

目の前の我が儘娘に天国の後の地獄を味あわせたい。

そして、坊ちゃんな男に、自分はもう引くつもりはないと示したい。


「姫君にマルモア主神のご加護を」

彼はそう呟くと、迷いなく王女の唇に吸い付いた。そうして長く啄み…離れた時には

もう王女の心は完全に彼へと堕ちていた。

「また今宵、忘れ物を取りに伺って良いですか?」

その誘惑に、頬を紅潮させた娘は小さく頷き、逃げるようにその場を走り去った。


「楽勝だな」

「最低だな」

枢機卿と少将が互いの胸の内をほぼ同時に吐露する。

流石に王宮内で殴り合うほど愚かではないが、険悪なつばぜり合いがあわや勃発という

ところで…二人は回廊の向こうに浮かび上がる貴婦人の姿を認めた。


派手ではないが贅沢な衣装に身を包み、最新流行の(スタイル)で栗色の髪を結い上げ、

大きな涙滴状の耳飾りを付けている。

冷たい印象を与えるが、その容貌は美しく、その姿態は男が好むものであった。

知らない貴婦人のはずだが、どこかで見た気もして、レンは首を傾げる。


第五枢機卿の反応はもっと素早かった。

「サーヤ、違うっ!」

イオは悲鳴に近い声を上げ、一歩を大きく踏み出した。


(サヤ?あれが?)

少将が驚愕し、枢機卿が狼狽する中、その美しい貴婦人は優雅に一礼するや、忽ちに、

列柱の向こうへと溶けるようにして消えてしまった。


その後の第五枢機卿の憔悴ぶりときたらなかった。

まさに策士、策に溺れる。

王女との意味深な触れ合いを自作自演して、最も見られたくない女性に目撃され、

誤解された。


(馬鹿な奴)

同情などしてやるはずはなく、少将は、腹の中でせせら笑った。

言葉に出さないことがせめてもの情けだ。


しかし、少将がにんまりしたのも、枢機卿が(うな)垂れたのも僅かの時間だけであった。


サヤはなぜあんな格好をしていた?

明らかに、シイ“監修”の装いではなかった。


サヤは何をしに王宮へ来た?

宰相に会いにきたと考えるのが妥当だが、彼女が出てきた先に宰相執務室はなかった。


あちらの方向にあるものは?


導き出される結論を二人はどうしても信じたくなかった。

…サヤがただ一人、リウ副宰相に会っていたなど。


今回、一番のお馬鹿は、イオ、でしょうか。


五粒では、第五枢機卿と少将と元?秘書官を意図せずに翻弄しつつ、

サーヤが本気で数々の謎解きに挑みます。


次回、サヴァイラ第二枢機卿へ聞き込み開始。

サヤのお祖父ちゃんの謎に迫ります。

それから、サヴァイラさん、王女さまだったのに、何でお嫁に

行かずに神殿に?という謎も出てきます。

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