四粒と三片
“あの男”の甘~い過去の記憶がちょっぴりとだけ出てきます。
けれど、その後が大変。
まさかの求婚に続いて、ぶっ壊れた少将登場。
その後、追い打ちをかけるように、まさかの噂が届いて。
サヤはついに…!
雨音が密やかに響いてくる。
………優しい恵みの雨だよ。
びしょ濡れになって悪態をついた彼を、そう言って窘めた女性がいた。
その時からであろうか。彼は雨が嫌いではなくなった。
むしろ晴天の日を恨むこともあった。
無理やり仕事を片付け、わずかの休日をもぎ取って“帰って”きても、
かの女性は、やれ農地・牧地の見回りだ、橋梁・貯水池の点検だと出掛けていることが
多いのだ。
…野外作業ができない雨天の方が、一緒にいられる。
「もうすぐウチの“お姫さま”が十歳になるだろう?何を贈ればいい?
何を欲しがっている?」
かの女性の濡れた髪をゴシゴシ…「もう少し優しく拭いて!」と怒られてからは、
おっかなびっくり力加減を試しつつ…拭きながら、彼は尋ねた。
「そうねぇ…そう言えば、熊の縫いぐるみが欲しいと言っていたわ」
「クマのヌイグルミ?」
「10歳になるのに、縫いぐるみはちょっと幼いかな~とも思うのだけど。
あの子、ああ見えて寂しがり屋だから。一人の時、ぎゅっと抱きしめられる、
温かくて安心できるモノが欲しいみたいなの」
かの女性は彼の問いかけを「どうして熊の縫いぐるみが欲しいのか」という意味に解した
らしい。けれど、彼が聞きたかったのはもっと根本的なことで。
「…クマのヌイグルミとは何だ?熊の毛皮を縫って、包めば良いのか?
10歳の女の子にはむしろは早過ぎるのではないか?
大き過ぎるし重過ぎる…いや、もちろん、あの子が欲しいというのなら反対はしないが。
ああ、子グマを使えば良いのか」
「………ぶっ」
かの女性は、しばし絶句した後、盛大に吹いた。
「カーヤ?」
「熊の毛皮って…アギィ、あなた、本物の熊を…あは、あっはっは!」
彼は自分が“またも”常識外れな発言をしたらしいと悟った。説明を求めようにも、
目の前の女性はバンバンと床を叩いて笑い転げ、まともに話せる状態にはない。
物心ついた時から親はなく、彼は独りで生きてきた。
その才覚と、腕っ節、更に言うなら、恵まれた容姿で這い上がり、のし上がってきた。
権力や財力を持った女を誑し込む…いやいや、“味方につける”ことも戦略的に重要
であったため女の欲しいモノやコトについては熟知している自信がある。
けれども、小さな女の子が欲しがりそうなモノなど皆目見当がつかない。
だから奥さんに尋ねたのに。
かの女性は、未だ床と“お友だち”になったまま、お腹を苦しそうに押さえている。
「ひどいな」
むくれかけたところに、不意打ちで柔らかな唇が宛がわれた。
かの女性からの接吻は大変に、大変に貴重なものだ。
何百と与えても、あちらから返ってくるのは一回くらい。
むろん、すぐさま応戦する。こんな好機を逃してはならない。
寝室に連れて行くのもモドカシク、その場にて、互いを激しく求め合った後、
ようやく彼は“クマのヌイグルミ”なるものの正体を教えてもらった。
自分の派手な間違いに、かの女性が大笑いしたのも無理はないと頭を掻く。
彼は一生懸命に考えた。
娘に寂しい思いをさせている自覚はある。
都には厄介ごとが多く、どうしても離れている時間の方が長い。
だから、どうせなら、単なる“縫いぐるみ”よりも何倍も良いものを贈ってやりたい。
両親が構ってやれない時も娘が寂しくないように…娘を守れるように。
そうして彼は名案を思いついた。
「…名案だと思ったのだがな」
一体、どこで間違ったのだろう。
気がつけば口に出して呟いていた。
薄暗い部屋の中で彼…宰相は、束の間、微睡んだだけであった。
昔の夢を見ていたようだが、目を開けた瞬間に、その記憶は散り散りとなって
消え去ってしまった。
「少しはお休みになれまして?」
頭上から女の声が降ってくる。
そうだった。
彼は女に膝枕をしてもらって、仮初めの安らぎを得ていたのであった。
「ああ。助かった。柔らかくて温かくて心地良い」
女の両膝に鼻をこすりつけ、宰相は礼を述べた。
「お客様がいらっしゃいましたわ」
言われる前から分かっていた。
わざわざ視線をやるまでもなく、気配で相手が誰なのかというも。
楽しい会話にはなるまい。
そう察っせられて、宰相はのろのろと女から身を起こし、長椅子に座り直した。
「それでは、わたくしは王女さまのところに戻ります」
引き際を心得ていて、宰相と入室してきた男に一礼すると、女は足取りも軽やかに
部屋を出て行った。
「俺の見間違い、聞き間違いでなければ、王女さまの所の古株侍女だよな」
「そうだな、間違ってない」
「何やっているんだ?あんた」
「…互いに連れ合いを亡くして久しいんだ。たまに慰め合っても罰はあたらないだろう」
宰相は全く悪びれた様子なく、のたもうた。
つい先日も違う女性について娘に同じような弁明をしたばかりだが、これが彼の日常
なのだ。別に権力づくで恣にしているわけでなし、非難される覚えはない。
「で、何で、お前が来るんだ、ナナツ?サヤはどうした?」
「叙爵の準備で忙しんだ。代わりに俺が来た」
「その叙爵の準備で呼んだのだが。宰相の呼び出しに応じないとは、けしからんな」
いや、俺が出向いて正解だよ、と口にはしないまでも、ナナツは実感していた。
音楽会の忌まわしい記憶も新しい中、王宮に呼び出す宰相も宰相である。
せめて邸の方にすれば良いものを、自分が忙しいせいか、王宮に来いと命じてくる。
女王や王女や副宰相と遭遇する可能性もあるというのに。
しぶしぶながらも赴けば、呼び出した男は王女さまの侍女に膝枕してもらって休憩中。
基本、親子喧嘩には口を挟まぬつもりだが、これでは…あまりにサヤが気の毒である。
「実の娘でも孫でもないくせに、面倒見の良いことだな、ナナツ」
「実の親がダメダメなんで、仕方ないんですよ、宰相」
「ああ、母親は全くダメだな。娘の成人も結婚も出産も見ずに死んでしまって」
「ダメなのは父親の方だ。分かってんだろ、宰相閣下」
…どうしても嫌味の応酬になる。
かたや60過ぎのエルミヤ郷代理。かたや50手前のエルミヤ都代理。
ともに辺境伯代理を補佐し、ともに手を携えてエルミヤを守る立場にある者たちだが、
誰がどう見ても犬猿の仲である。
サヤ同様、ナナツもまた、王宮に足を踏み入れたり、宰相に会ったりするのは
“真っ平ごめん”なのである。それでも宰相からの召喚状を受けて、いそいそと身支度を
するサヤを止め、自分が出向いたのには理由がある。
一見何の代わり映えもなく、粛々の業務をこなす“お嬢サマ”が、実は失恋(した、
と本人は思っている)の痛手でかなり萎れていることに気づいたからだ。
あの状態のまま王宮入りさせて、またぞろ宰相が下手な言動でもしようものなら、
今度こそ流血を見ることになるかもしれない…そう危惧したからだ。
サヤから宰相を闇討ちしたいと相談されれば、ナナツは止めない。
むしろ積極的に手を貸すつもりだが、今はまだ時期ではない。まだ少し“だけ”早い。
「どうせ、あんたのことだ。財務大臣夫人にも手を出しているんだろう?」
宰相はその問いに口角をわずかに持ち上げただけであったが、ナナツは肯定と受け取った。
女王の女官長。王女の侍女。そして財務大臣夫人。
なんの関係もない女性たちのようだが、一本の隠れた細い繋がりがある。
ナナツはそれを知っていた。
女官長の5年前に亡くなった夫。侍女の10年前に亡くなった弟。
財務大臣夫人の以前の婚約者で、やはり10年前に亡くなった男。
そして、もう一人。
計4人は皆、名家の出身で、見事な赤茶色の髪をしていた。
「サヤに余計なことは言うなよ?もう10年も前に終わったことだ。
あれには関係ない」
「そうかな?“4人”とは直接関係なくても、先王や、女王、王女との血の繋がりは
否定できまい。先王はサヤの母親の従兄、女王も従妹。
そしてのサヤと王女は再従姉妹の関係にある。
本人は全く自覚していないが、サヤは現王室に最も近い血筋の娘だ」
「だとしても。くだらない王室のばかげた継承問題なぞ、あれが知る必要はない。
…どうせもうすぐ消滅するものだ」
冷たく言い放った宰相にナナツは息を飲む。
やはり、彼は、もうすぐ終わりにするつもりなのだ。
“優しい女王さま”の恋人という滑稽や役割を。恐らくは現王室とともに。
「そんなことより、サヤに伝えてくれ。新しい求婚者が現れたと」
「誰だ?」
一方的に話題を変えた宰相であったが、内容が内容だけにナナツとしても無視できない。
叙爵の条件として、しかるべき殿方との婚約発表が求められているとは聞いている。
現在の最有力候補…というか、ほとんど決まり札のような状態になっているのが
カレント少将であることも。
しかし、ここに来て新たに告げられた名前に、ナナツは我が耳を疑った。
年は少し離れているが、一回りくらいの違いは政略結婚で普通にありうる。
少将ほどではないが、名家出身で家柄に文句なし、少将に比べると職位は上で、これも
文句なし。財力があって、宰相の覚えもめでたい…そんな男だ。
しかし、最悪の選択だ。宰相の底意地悪さも筋金入りというもので。
「サヤが承知すると思うか?」
「いいや、まったく思わない」
からからと笑う男に、ナナツは殺意を抑えるのがやっとであった。
「なんで、そんな縁談、最初から握り潰さない?あんたなら簡単だろう」
「なんで、握り潰す必要がある?客観的に見て好条件だろう?もちろん、真っ平ごめんと
言うのなら、“予定通り”レンと婚約すれば良いだけだ」
早い話が新たな求婚者は当て馬というわけだ。
あんな男と結婚するくらいなら…と確かに、少将を選びたくなるだろう。
政略結婚をしぶるサヤを納得させるために、宰相が次なる手を打ってきたのだ。
「最低だな」
「そうか?これでも一人娘の幸せのために心を砕いているつもりなんだが」
それは…そうかもしれない。相手がレンということ自体、ナナツに不満はない。
だが、娘のためと言いながら、結局宰相は自分の思い通りにコトを進めている。
二人が険悪な雰囲気で睨み合う中、宰相の部下が一人、部屋に滑り込んでくる。
ナナツの存在を気にしながらも、彼は何やら上司に耳打ちし、また直ぐに出て行った。
「何だ?」
忍び笑いを漏らした宰相が不気味で、ナナツは問うた。
「センが…レンの兄が死んだ」
「“4人”の内の最後の一人か?」
「そうだ。これで全員がいなくなった。女王を脅かす者も慈しむ者ももはや存在しない」
「少将には辛いことだな」
「どうだろう?最後まで正気に返ることはなかったようだ。
ようやくセンは…レンも…解放されたんだ。喜ぶべきなのかもしれない」
10年前の生き証人は気の触れたまま、終に息を引き取った。
これで真実を知る者は宰相と女王のみになった。
結局、何とために来たんだ俺は、と納得がゆかないまま、ナナツは宰相の執務室を
辞そうとした。
新たな求婚者のことをサヤの耳に入れなければならないが、正直、気が重い。
つい先日、「弟、辞めました」とナナツに宣言したシイの出方も気に掛かる。
「おい」
すっかり足取りが重くなったナナツを宰相が背後から呼び止める。
「まだ、何かあるんですか?」
叙爵の式典はもう自分とシイと第二( サヴァ)枢機卿でどうにかする。
宰相に聞かなくても他からの情報収集で何とかなるだろう。
「一つ確認したいんだが…私はサヤに本気で嫌われているのか?」
よろり。
ナナツの膝から力が抜けた。本気で床にへたりこみそうになった。
何だ、その、今更な質問は。
マルモアきっての権力者である宰相は権謀術数に長けた男であるはずで。
そのはずが、ごく稀に…とんでもなく阿呆になる。
そうだ、この男は、こういう奴だった。
泣き笑いの奇妙な顔をして、ナナツは思い出したくもないことを思い出してしまった。
「そこからか、そこから俺はあんたに説明しなきゃならんのか!」
相手が宰相閣下でも、怒鳴りつけてしまうのは仕方なかろう。
「いや、てっきり、若い娘特有の反抗期かと」
「自分の娘を幾つだと思っているんだ。反抗期っていう歳か!」
「いや、ちょっと遅いなとは思っていなんだが。先日、極東の島国から
朝貢使節がやって来て、見事な漆細工の小箱を献上されたんだが…いや、それは
ともかく。かの国の流行り言葉に“ツンデ~レ”なるものがあるそうだ。
思うに娘はそれに当たるのではないかと」
もはや、まともに取り合う気力もなかった。
過去何度も、何十回も、この男を抹殺しようとして果たせなかったのは、
この男の、このどうしようもない“ぼけ”にある。
殺してやるのも馬鹿らしくなってしまうのだ。
「その使節なら俺も商工連会長の所で会った。
見事な螺鈿細工の小箱を献上されたんだが…いや、それはともかく。
やはり、かの国の流行り言葉に“ヤンデ~レ”なるものがあるそうな。
あんたはまさにそれだな。サヤがイロイロな意味で気の毒すぎる」
「“ヤンデ~レ”?何だそれは。どういう意味だ?」
「教えるか。自分で調べろ」
吐き捨てるように言って、ナナツは会話を一方的に打ち切り、足取りも荒々しく
部屋を出て行った。宰相がその後、極東の使者を丁重に訪って、かの国の流行り
言葉について学んだことなど、彼は知るよしもないし、どうでもよいことであった。
*** *** *** *** ***
ナナツが諸々の用事を終わらせて、街中の“隠れ家”に戻って来たのは、丁度
ささやかな夕食が始まる頃合いであった。食堂(兼居間兼客間…以下略)に
集まったのは、サヤ、ナナツ、シイ、エリゼ、ブワンという、お定まりの5人。
「聞いて驚けっ!」
膝に敷く白い布ナプキンを旗のように振り回しながら、ナナツがヤケッパチに叫んだ。
「そう宣言されちゃうと、逆に驚けないわ」
柔らかく煮込んだ人参をもぐもぐしながら、サヤがお相手をする。
今日のメインはエルミヤ風ブラウンシチューだ。
エリゼとブワンが作る料理はいつも美味しい。
失恋した(と、本人は思っている)サヤは誰にも知られず(と、本人は思っている)
自室でわんわん泣いたので、体力を消耗してしまい、普段より腹ペコ状態にあった。
そのため、スプーンを操る勢いも、パンを千切る勢いも普段より断然強い。
「お嬢様に新たな求婚者が現れました」
「こんな時期にかい?」
エリゼが驚いて、思わず口を挟んでしまうのも無理はない。
叙爵は4日後に迫っているのだ。
「ふ~ん、宰相閣下も何を考えているんだか。で、相手は?わたしの知っている人?」
ここまではサヤも冷静であった。
「何と、信じがたいことに、あのリウなんだ!」
「へ?どのリウ?」
心底嫌そうに宣言するナナツに、サヤは首を傾げた。
あのリウも、このリウも心当たりが、ない。
ん?リウ? いたぞ、一人そんな名前が。
抹殺名簿の筆頭に載っている名前が確かそんな名前で。
でも、まさか、ありえん。
「新しい求婚者って、まさか…ありえないだろう!」
一緒にいる時間が一番長く、同じような語彙を持つシイがサヤの気持ちを代弁した。
「俺もありえんと思うが、宰相に言われたのは、ま・ち・が・い・な・く、
カリウド副宰相だ!」
既に衝撃を経験していたナナツを除く4人の意識が数刻、暗転した。
最初に立ち直ったのはシイで、彼は隣りに座る女主人の様子を伺うなり、
「ニンジンが、ニンジンが」と呟いた。齧りかけで歯形のついた小さな欠片が
サヤのスプーンから転がり、テーブルクロスに点々と滲みを作っていた。
「副宰相…ある意味、すごい神経の持ち主だわ。あれだけのことをやっておいて、
求婚者として名乗りをあげる図々しさ。王都でのし上がるにはそれくらいじゃないと
ダメってこと?なのかしら」
冷静に分析しているように見えて、微妙に現実逃避しているサヤである。
「でも、お嬢さまが副宰相を選ばないことくらい容易に想像できますよね?
王宮に呼びつけてまで、何だってそんなことを…」
ブワンが首を傾げる。
「それだけ、レン少将との婚姻を後押したいんだろう。
副宰相と少将しか選択肢がないなら、どちらを選ぶかなんて明白だから」
転がったニンジンの欠片を捨て、トントンとテーブルクロスの滲みを叩いて落としながら
シイが宰相の思惑を予想する。感情を表に出さないように努めるも、腹の中は煮えくり
かえりそうだ。
サヤを侮辱し、自分を辱めた男。
最低最悪の変態男がサーヤに求婚だと?到底許せる訳がない。今晩にも殺してやる。
剣呑な雰囲気が漂う折りも折り、玄関の扉を乱暴に叩く音が響いた。
真夜中ではないものの、他人の家を訪問するにはいささか遅い時刻だ。
「しばしお待ちを」
慌ててブワンが立ち上がり、来客を確かめに行った。
何やら表で唸り声のような叫び声のような音も聞こえてきて、ナナツも席を立つ。
こんな時、シイは、当然、とばかりにサヤの側を離れない。彼が彼女の守りだからだ。
ブワンとナナツは二人して困惑顔で戻ってきた。
「どうしたの?誰が来たの?」
「少将が…」
サヤの問いにブワンの歯切れが悪い。
「レンが来たの?こんな時間に?追い返すのも、どうかと思うから、こちらにご案内して」
噂をすれば、だ。
気が重いが4日後に迫る叙爵…はいいとして、婚約発表について話合わねばならない。
副宰相との婚姻を回避するには、少将の協力を得る必要がある“かも”しれないのだ。
「それが…ちょっと問題が」
「なに?ブワン、はっきり言ってよ」
「ここで誤魔化しても仕方ないだろう」と、ナナツが引き取り、後を続ける。
「ひどく酔っ払っているんだ。酒の大瓶抱えて、千鳥足状態になっている」
「はぁ?あの、少将が」
すっとんきょうな声を出したのはサヤだった。士官学校や軍隊でどう鍛えられたのか、
レンはけっこうぞんざいな口をきく。しかし、育ちの良さは拭いきれず、一つ一つの
所作や相対する者への態度にそれが現れる。
大瓶抱えて泥酔する彼の姿なぞ、想像できなかったのだが。
「言い忘れたが、長患いしていた兄貴が亡くなったそうだ…今日」
その知らせにサヤは言葉を失う。どれだけお兄ちゃん子だったんだと揶揄したい反面、
大切な人が長患いでどんどん弱ってゆき、最後に儚くなってしまう辛さを彼女は
知っている。
「シイ」
「ここに運んで、寝かせるんだね、分かったよ」
お節介焼きと思うものの、弱った人を見れば捨て置けない女主人の性格は把握している。
シイは小さな溜息をついた後、ブワンと連れ立って玄関に向かった。
そこから嫌々ながらも、酒臭いレン少将を食堂まで引き摺ってくる。
その間、ナナツはテーブルを片隅に寄せ、サヤとエリゼはマットとクッションを
持ち出して簡易寝台を作り上げた。
「サーヤ、愛しの婚約者殿~会いたかったよ」
誰デスカ、アナタ?と問いたいくらい、少将は見事な壊れっぷりである。
「センが…あ、俺の兄さんね。死んじゃったんだぁ、今日。年が離れていたんだけど
養子の俺をすっごく可愛がってくれて。頭が良くて、強くて、格好良くて、
優しくて、思いやりがあって、俺の目標だった人なんだ」
やっぱり兄大好き人間だったらしい。それは別に構わないが、幼児退行まで
しているのか、お子さまのようにサヤにすり寄りペッタリくっ付くのは勘弁してほしい。
ともあれ、背後で拳を固めているシイを眼で制する。とりあえず暴力はいけません。
「仕事熱心で、王国や、王室の将来も真面目に考えていて…忠臣だった。なのに、
毒を盛られて殺されかけた」
問わずともペラペラ喋るレンは、過去と現在の時間を行ったり来たりしているようで
あった。“毒を盛られて殺されかけた”の行で憤怒が黒い煙のように立ち上がる。
「一命は取り留めた。けれど、気が触れてしまった。養父も養母も気に病んで…
病み疲れて、母は5年前、父は3年前に亡くなった。
そして兄がとうとう…10年間一度も正気に返ることなく逝ってしまった。
俺はまた喪ったんだ。家族を全員を。
何もできないまま、誰も助けられないまま失くしてしまった」
そこで酒瓶を抱きしめたまま、おいおいと号泣する。
坊ちゃんだとばかり思っていたレン少将の周辺は聞いてしまえば結構悲惨で。
メンドクサイと思いつつ、縋りつく手を邪険に振り払えない。
「どうすんだ、この酔っ払い」
ナナツが耳打ちするも、サヤだって有効な対策を思い付かない。
ただ、泣きたい時は下手に我慢せずに泣いた方が良いのだ、と思う。
慰めも励ましも要らない。レンはここに泣き場所を求めに来たのだ、と思う。
「取りあえず皆、夕食済ませて、テーブル片付けて。シイもまだ本調子じゃないん
だから早く休んで…この“酔っ払い”は私が“監視”しておくから」
エリゼとブワンが片付けものをし、ナナツが明日の仕度をし、シイが一旦部屋に引き挙げ、
とバタバタ動く中、サヤは壁に背をもたせかけ、膝を抱えて簡易寝台脇に座りこんだ。
もう、本当に面倒くさい。
少将が気の毒だと思いつつ、サヤだってそれほど余裕があるわけではないのだ。
失恋の悲嘆に一人浸りたい…ではなく、叙爵の準備に専念したいところなのだ。
「早く寝ろ、この酔っ払い」と心の中で念じつつ、それでも時折は、クダを巻く少将の
背中をとんとんと軽くあやしてやる。
ふと、端に寄せられたテーブルの下に封書が落ちているのが目に入った。
そういえば今宵届いた報告書を確認するのを怠っていた。
バタバタしていたところで床に落ちてしまったらしい。
密偵、というほど大げさなものではないが、北方辺境伯代理として、王宮の動静を
見張らせ、報告させている。このところ大した内容もなかったが、念の為とレンが船を
漕ぎ始めた隙に、封書を手繰り寄せ、中身にざっと目を走らせる。
薄紙一枚の報告書は今回も大したことが書かれていないように思われたが
…最後におまけのように付け加えられた“噂”話にサヤは打ちのめされた。
“第五枢機卿、還俗か。王女との婚姻が噂される”
イオと…王女が?まさか、そんな。
確かに求婚は断ってしまったけれど、こんな直ぐに…まさか。
副宰相の求婚よりも、少将の自我崩壊よりも…遥かに強烈な衝撃であった。
少将が抱えていた大瓶をかっぱらい、更には戸棚から新たに何本か取り出すと、
サヤは据わった目で胡坐をかいた。スカートで隠れるものの、行儀悪いこと、この上ない。
「レン、起きてちょうだい」
うつらうつら泣き寝入りしていたレンをぺしぺし叩いて起こし、サヤは…
それはそれは艶やかに微笑んでみせた。
「今夜はガンガン飲むわよ。泣いて、飲んで、喚いて、飲んで、怒りも哀しみも
ぜ~んぶ、吹き飛ばすわよ!付き合いなさい、少将」
「お、おう!」
らしくない雄たけびをあげて、サヤとレンは酒瓶でぶつけ合って乾“杯”に代えた。
グラスを出すなどまだるっこしいことはしない。
サヤは北国の酒場で、レンは士官学校で強い酒の洗礼を受けている。
そうして、それほど時を置かずに心配して様子を見に来たシイとナナツは…
しばし言葉もなく固まった。
ゴロゴロと酒の空瓶を床に転がし、それでもまだ飲み続けている二人。
王軍少将はともかく、自分たちの主人である辺境伯代理までも見事な酔っ払いと
化しているのを…彼らは初めて目撃したのであった。
ということでサヤ、壊れました。
次回、五粒目に入りますが…サヤが苦渋の選択をします。
イオと王女の噂も、枢機卿が夜半に王女の寝室に出入りした!ということで
俄かに真実味を帯びてきます。




