四粒と一片
わ~い、わ~い。連休だ連休だ、とのんびり惰眠を貪ったのは雪柳だけ?
だらだらしていたら、更新が遅れてしまいました。
読んでくださっている方、申し訳ありませぬ。
シイとレンとイオがちょっとずつ…動き出しました。
その男は人の姿を取りながら、人ではなかった。
自分たちも…この300年もの間に随分と混血してしまったものの…
厳密には人ではない。
始まりを辿るなら、その男にも自分たちと同じ血が幾ばくかは流れている。
同じ波動を身の内から感じることもあるから。
けれど、本能が告げる。その男は仲間ではない、と。
自分たちは深き森を尊び、高き山を住処とし、そこに息づく全ての命との
調和を図ったが、その男は壊し、殺し、人間のみが生きる場所を拡げた。
意に添わぬ命を刈ることに、その男は何ら躊躇いを覚えぬようだ。
一応“仲間”であるはずの人に対してさえ、邪魔と判断すれば、
何の感慨もなく“片付け”てしまう。
自分たちは追い詰められ、山間の小さな渓谷に身を寄せて暮らしていた。
仲間と呼べるものは、もはや十数世帯しか残っておらず、その中に純血は
一人も残っていなかった。長きに渡る人間との不毛な戦いに倦み疲れ、
ただ静かに“種”としての滅びを待つのみであった。
その男が自分たちの隠れ郷に姿を現わした時、誰もが最後を覚悟した。
掃討という無差別殺戮が始まるか、征服という終生隷属が強いられるか。
全ては男の掌中にあった。
「お前たちの中で一番小さいのを寄越せ」
ところが、その男は驚きの提案をした。
一人を差し出せば、隠れ里の安全を保証すると言うのだ。
「俺のお姫さまが寂しがり屋でな。
側にいつでも置いておける“ぬいぐるみ”を欲しがっていると聞いた。
どうせならもっと気のきいた、色々役に立つ良い物を贈ってやりたい」
人との混血が進んだ結果、仲間の中には人語を解す者も多い。
但し、その男のいう“お姫さま”だの“ぬいぐるみ”だのは意味不明だ。
だんだんと苛つき始める男を宥めすかしつつ、何とか理解したのは、
要するに男には小さな娘がいて、その娘の世話をしろ、ということらしい。
鬼神も魔神も逃げ出しそうな男に小さな娘がいるというのも驚きだが、
その娘が将来この一帯を統べる者になるというではないか。
「働き次第では、森も山も、これ以上潰されないで済むかもしれないぞ?」
その男は魅力的な条件を囁くのも忘れなかった。
『シイ、お前行け』
『ヤだよ!』
与えられた一晩の猶予が過ぎ、長老は最年少の子どもを差し出すことに
決めた。実際のところ、その子ども以外選択肢はなかった。
次に若い者でも40を過ぎていたからだ。
『お前はまだ若い。
僅かでも生き残る道があるなら、我らはそれに賭けたいと思う』
『ヤだよ!』
人語を理解はするものの、碌に話すことはできない子どもは滅茶滅茶に
暴れた。人の領域などに下る位なら仲間たちと共に静かに滅びたかった。
とんでもない提案をした男が憎く、また恐ろしかった。
そして男の娘なぞ…会いたいとも思わない。
人間の小娘なぞに触れられたらきっとぞっとしてしまうだろう。
『ヤだ!ヤだ、ヤだっ!』
逃げ回る子どもに…長老ほか仲間たちはめったに使わぬ力を行使した。
山犬に追い立てられ、熊に首根っこを咥えて運ばれ、
大鷲に全身を突つかれ…意識が混濁したところで、山の麓に捨てられた。
『酷いよ、酷いよ』
仲間たちに裏切られ、生け贄にされた子どもの瞳は涙でいっぱいだ。
ズタボロ状態で地面に突っ伏したまま、動けない。
口の中に土の味が広がった。
それなのに。
拾いにきた人間の娘に自分でもありえないと思うくらいに
シイはコロっとまいってしまったのだ。
自分より少しだけ年上の人間の少女。
自分を仲間たちから引き離した元凶を作った少女。
けれどもまた自分たちが生き残る道を残した少女。
惹かれたのは、その躍動感溢れる生命力か、
或いは、寂しさを隠して強くあろうとする心根か。
「シイ、行くわよっ!」
少女の背中を追いかけて、異種族の子どもはいつしか願うようになった。
この娘とずっと歩んで行きたい。
この長い命が尽きるまで、と。
*** *** *** *** ***
目覚めた時、シイは何よりもまず女主人の気配を探した。
自分の具合も周囲の状況も後回しに。
サーヤはどこだ。
緊迫したのは一瞬だけで、直ぐに愛しい者を見つける。
シイの横たわる寝台の片隅に顔を俯けて眠っていた。
(サーヤ)
昨晩の記憶が怒涛のように押し寄せてくる。
副宰相にいたぶられた身体の傷みと精神の痛み。
人間如キ二
凄まじい破壊衝動に、あのままの状態が続けばどうなっていたか
分からない。たぶん、いや、間違いなく、自分に触れる者たちを
殺して回ったことだろう。
(サーヤ)
彼女がまた引き留めた。
このロクデモナイ人間の世界に。
シイの本能は別段、殺“人”を躊躇わない。
鹿や猪を狩るのと何の違いがあるというんだ、と思う。
けれど、彼女と生きるなら、彼女の同族を気儘に殺すのはダメだ。
シイは両手を伸ばして、眠るサヤの横顔に触れた。
髪に、頬に、首に、肩に。
主が無防備に眠りこけている時によくシイはこっそり触れて相手の
安否を確かめていた。
疚しい気持ちは断じてない。
いや、ちょっとしかない。
いや、かなり…あるかもしれない。
しかし、主目的はあくまでサヤの安否確認だ。
何しろ彼女ときたら四六時中見張っていても小さな怪我を
よくこさえてしまうのだ。
(これは…?)
だからシイは即座に見つけてしまった。
こめかみの引っ掻き傷。唇の腫れ。首筋の痣。
赤い痣が肩に向かって点々と続いていて…シイはそっとサヤの上着に
手を入れて捲った。
「……っ!」
息を飲む。叫び声を何とか留めたものの、衝撃で身体が震える。
痣は背中一面を薄紅色に見せるほどであったのだ。
「うん?シイ?」
徹夜明けに宰相邸を訪れ、最悪な精神状態で帰宅したサヤは、
シイを見舞うなり、緊張が解けて意識を飛ばしてしまっていた。
かなり深い眠りに入っていたのだが、ここにきて段々と覚醒する。
「ちょ、何してんのよ!」
目覚めてみれば、片袖が抜かれ、背中が肌蹴ている。
その上、シイの両手は両肩に。
「この痣どうしたの!」
羞恥心もシイの剣幕にあっさり吹き飛ばされる。
「ここも、ここも、ここも。酷い!背中じゅう痣だらけだ。
誰がこんなことを!一体、誰が!」
「シイ、落ちついて。貴方のほうが重傷なのよ」
「僕のことなんてどうでもいいよ!言ってサーヤ、誰が君にこんな事!」
「いや、これはまぁ、作戦、というか」
片手で胸元を押さえつつ、一生懸命言い訳を考えるも、起き抜けで
良い知恵が浮かばない。
だいたいこういう時のシイは簡単に誤魔化されてはくれないのだ。
「まさか副宰相がサーヤにも…?」
「違うよっ!」
「じゃあ誰にやられたの?僕を地下牢から出すのに相当無茶したでしょ?」
「あ~細かいことはもう良いじゃない」
「良くないっ!」
くわっとシイが牙を向いたところで、エリゼが食事を持って入ってきた。
置き時計を見やれば、既にお昼を回っている。
一時休戦で、やれやれである。
「シイ食べられそう?」
痛めつけられた身体は熱を帯びていて、顔色も悪い。
体力回復のためには少しでも食べた方が良いのだろうが、
胃が受け付けるかどうか。
心配するサヤにエリゼがぽんと肩を叩いて励ました。
「特製塩鳥と玉子のさっぱりスープだよ」
「ありがとう、エリゼ」
サヤはトレイごと受け取ってテーブルに載せた。
エリゼは余計なことを口にせず、屋根裏部屋から出て行った。
シイが大人しくスープの入った椀と匙を受け取ったので、
サヤも自分のをよそい、食事を始めた。
口の端が腫れているので、少し滲みる。
けれど、シイの前では何でもないように振る舞う。
…これ以上、心配をかけたくない。
「ちょっとでも食べて、シイ」
「サヤが誰にやられたか教えてくれたら食べる」
「…教えない」
「じゃ、食べない」
ぷいっと横を向いてしまう。
「シイ!」
どこの子どもか、お前は。だが、こういう時の彼は本当に頑固なのだ。
「あのね、シイの収集している手紙を一つ使わせてもらったの。
その際、王女さまを油断させる必要があったというか…」
「ああ…」
それだけでシイは大筋を把握したようであった。
伊達に四六時中一緒にいるわけじゃない。そればかりではない。
「あんのクソ王女…」
悪態の付き方も二人は良く似ている。
共に過ごす時間が長いと使用する語彙も似通ってくるということか。
シイはその後、約束を守ってスープに口を付けた。
サヤは自分も食べながら、相手の姿をぼんやりと瞳に映す。
普段はきっちり後ろに束ねているシイの髪が今は肩の所で広がっている。
その端正な横顔を眺めつつ、どうしたことか視界が曇る。
瞬きを繰り返し、頭を左右に振るも、思考力が鈍るのを止められない。
あれ…なんか、ちょっと変な感じ?
「サーヤ」
気が付くと自分の手の中にあった碗も匙も片付けられ、ただただ
温かい腕に包まれていた。
「大丈夫、泣いていいよ」
北方辺境伯代理に「泣かないで」ではなく、「泣いていいよ」と告げる
のはシイだけだ。
強気な彼女は人前で泣いたりしない。自分の“敵”にはもちろん、
“仲間”の前でさえ滅多に涙を見せたりしない。
だから、サヤが安心して泣ける場所を作るのもシイの役目だ。
そして、彼はこれからも、その役目を誰にも譲るつもりはない。
「シイ、ごめん。私…辺境伯になろうというのに、弱すぎる」
ボロボロっとサヤの眼から大粒の涙が転がり落ちた。
どんな貴重な宝石よりも価値あるそれをシイは拭ったりせず、
流れるにまかせる。
悲しい時は下手に我慢せずに、泣きたいだけ泣けばいい。
シイはただサヤを胸に抱き寄せ、小さな子どもをあやすように背中を
ぽおん、ぽおんと優しく叩き続ける。
『仮にも 一地方を治めようという者にしては自覚がなさすぎる。
甘すぎる。己の感情に左右されすぎる』
悔しい。哀しい。腹が立つ。
あんな不実な…人間失格な宰相に叱責されるなんて。
けれど、他ならぬその男がマルモア国を実質的に統べていて、
その恩恵の上に自分は生かされている。
「私、馬鹿すぎる、小さすぎる…」
情けない。エルミヤを守ると息巻きながら、女王や王女や宰相や
それを取り巻く人々の言動に振り回され、容易く動揺してしまう。
「声を殺さないで。僕以外、誰も聞いてない、見てないから」
「私のせいで、シイの耳がっ…!」
みなまで言えず、サヤは盛大に泣き声を上げた。
少し尖ったシイの耳。
異民族と一目で分かるその特徴はマルモア王宮では歓迎されない。
けれど、お伽話に出て来る古の長命種族を彷彿させるもので、
サヤは大好きだったのだ。
それが今、副宰相の心ない仕業によって、片耳の先が無残にも
千切られてしまった。
出血は止まっても齧り取られた傷痕が生々しい。
王都に連れてくるべきではなかった、と後悔する。
こんな目に遭わせるくらいなら。
シイにはエルミヤの山や森が似合うのに。
秘書官だ、護衛だ、弟分だの幾つも理由をこじつけて、自分の都合を
押しつけて、連れてきてしまった…残酷な人間ばかりが集う王都に。
「サーヤ、僕に対しての罪悪感や同情なら要らない」
「シイ?」
いつもと違う固い声にサヤは顔を上げた。
その瞬間、両頬を固定され、溢れるにまかせていた涙を拭われる。
シイの両腕はサヤの両頬にがっちり固定されている。
目元に触れる柔らかで温かな感触は、つまり。
つまり…
「う、くっ、あ!!!」
サヤの口から言葉を構成しないバラバラな音が零れる。
巡り合って十年。近しい二人ではあるが、こんな慰め方をしたことも
されたこともない。
あまりの驚きでサヤの涙はそこで引っ込んでしまった。
「僕はサヤの“ぬいぐるみ”に選ばれて良かったと思う」
「“ぬいぐるみ”?」
訳がわからない。何でシイが“ぬいぐるみ”?
副宰相に痛めつけられて、思考回路が壊れたのかと心配になってくる。
怪訝な顔をするサヤに構わず、シイは続けた。
「主が寂しい時に安らぎと癒しを与える存在
…あの男が“ぬいぐるみ”を正しく理解していたかどうか
怪しいけど、ま、そんな事だろうな、と」
単なる布と綿の固まりよりも生きたモノの方がマシだろうと、
“あの男”なりに娘を思いやっての選択だったのかもしれない。
そして、つい先刻は“ぬいぐるみ”の役目を逸脱したと怒り狂って
自分に制裁を加えた男。
宰相閣下はシイにとって疫病神そのものだ。
けれどサヤに巡り会わせてくれたことだけは感謝してやる。
「サヤ、弱くても、馬鹿でも、小さくても良いよ」
「何よ、それっ!」
予想外の上から目線に、サヤは憤慨した。
「僕が、強くて、賢くて、大きな人物になるから。
サヤを守れるくらい。
サヤと一緒に長い、長い、生涯を歩んでいけるくらい」
真剣な瞳がぐっと近づいてきて、額に額が触れる。吐息がかかる。
本能的に逃亡したくなるも、両頬をがっちり固定されたままで動けない。
「シイ、あの…」
どうしちゃったの?と茶化したいのに、それすらできない雰囲気で。
「僕の一族は、長く続く闘いに倦み疲れ、最後の純血者を失ってからは、
滅びを待つだけになってしまった。
けれど、本来は…本気になれば人間などに負けない。
そう、守るべき者、生きる理由さえあれば」
あと少し力を込めれば、サヤの唇を奪うことができる。
けれど、その甘美な誘惑をシイはぐっと押しとどめた。
今は、まだ。
まずは、サヤの幸福の妨げとなる者たちを排除しなければ。
それから、サヤの伴侶の座を狙う者たちも蹴散らしてやる。
サヤが幸せなら、誰を選ぼうと構わない…などと、殊勝な考えは止めた。
シイの人ではない本性は完全に目覚めていた。
“ぬいぐるみ”役を辞した青年は獲物を定めた捕食者となってゆく。
…自分が図らずも捕え、捕らわれたことをサヤはまだ知らない。
*** *** *** *** ***
“聡明な王女さま”は翌朝、えらくご機嫌斜めでいらっしゃいました。
それも仕方のないことで、昨晩は大変な目に遭われたのです。
卑しい田舎領主の娘がこともあろうに王宮に押しかけ、王女さまへの
面会を強行。自分の従僕を助けろと理不尽な要求を突き付けました。
それをきっぱりと断り、無礼を叱った王女さまを娘はこともあろうに
脅迫し、夜の地下牢へと連れ出したのです。
生まれた時から暮らしている王宮ですが、世継ぎ王女が地下牢に
足を向けるのはこれが初めてでした。
そこで見たおぞましい光景に
…王女さまの精神も身体も打ちのめされました。
それなのに、誰も王女さまの辛い心の内を察してくれないのです。
やたらに何が起こったかを話すわけにもいかないので、周囲に
察しろというのも無理な話かもしれませんが…苛々が募るわけです。
「カレント、ここに居てちょうだい。今夜はずっとここに」
地下牢に迎えにきた少将に部屋まで送ってもらう。
自分のしでかした行為と副宰相がしでかした行為。
それらが恐ろしく、不安で、王女は無言で立ち去ろうとしていた
少将を呼びとめた。
「衛士も侍女もいるから、何も心配ないだろう。俺はもう失礼する」
名家出身で軍の高官でもある彼はいつも丁寧で仕事に卒が無い。
けれども、この時の彼はいささか倦怠感が漂っていた。
「あの娘は貴方に相応しくないわ!」
かっとなって王女は叫ぶ。
「あの娘?サヤのことを言っているのか?」
「そうよ。いくら宰相さまの命令だからと言って、あんな田舎娘と
結婚するなんて、わたくしが許さないわ」
「宰相閣下には勧められたが、命じられたわけではない」
「貴方にはもっと相応しい相手がいるはずよ。望めば…王女の夫君に
だってなれるかもしれないのに」
「望まない」
完璧なる拒絶に王女は絶句した。
そういえば、カレントの口から敬語が消えている。
明るい空色の瞳が翳を帯びて凍えるように冷たい。
睨んでいる…少将が王女である、この私を?
「俺は未来の女王の伴侶たる地位を望まない。
俺が望むのは未来の北方辺境女伯の伴侶たる地位だ。
あの娘が俺に相応しくない、だと?
違う。今の俺こそあの娘に相応しくない」
未来の女王より未来の北方辺境女伯を取る、と彼は言ってのけた。
王女の美しい顔が嫉妬と憤怒の色に染まる。
「認めないわ。貴方とあの娘なんて絶対認めない!」
「“聡明なる王女さま”」
少将はその時、初めて、本気で王女を諌めた。
「そろそろ自分の置かれている状況を正しく認識してください。
貴女が女王さまと同じ道を歩まれるならば、そう遠くない未来に
王室は滅びるでしょう」
震えの止まらぬ王女に背を向け、少将は一度も振り返らずに去った。
それが昨夜のことで。
ろくに睡眠がとれぬまま、午前の講義に出向いた王女である。
体調が悪いと断りを入れても良かったのだが、第五枢機卿による
神学の講義と知って、出席することに決めたのだ。
アイオン枢機卿は王女の良き相談役で優しい兄のような存在だ。
このムシャクシャする気持ちを宥め、癒してほしい。
自分は王女なのだ。もっと敬われ、傅かれて然るべきではないか。
それをサヤといい、カレントといい、忌々しい。
そして副宰相は…汚らわしい。
枢機卿の聖なる力に包まれ、清浄なる心に触れたかった。
ところが、伺候したアイオンは王女の歓待も意に介さず、無機質に
講義を開始した。ぶ厚い教典をめくり、難解な古語を交えて語り出す。
それだけで睡眠不足の王女は頭が重くなった。
「…ねぇ、アイオンは結婚に興味がないの?」
「…は?今は王法による恩赦と神法による免罪と違いを説明申し上げ
ているところですが?」
「私にはまだ古語は難しくて。それより聖職者の結婚について教えて」
もともと神学にはあまり興味がない。
毎週講義を受けているのは、教授が年若いアイオンだからだ。
それに勉強をみてと頼めば、忙しい宰相も時間を割いてくれるからだ。
「エルミヤ神法において聖職者の妻帯が許されぬことはご存じでしょう」
第五枢機卿は王女のやる気のなさを見てとったのか、小さな溜息を
ついて教典を閉じた。
「そんなことは分かっているわ。
私はアイオン自身の気持ちを聞いているの。聖職者のまま結婚は
無理でも、還俗は可能なのでしょう?還俗して結婚したいと思った
ことはないの?」
下級神官ならともかく、法王に次ぐ高位の枢機卿が還俗など聞いたことも
ない。反面、それだけに…若き青年枢機卿が己が地位と神への道を
擲ってまでも結婚したい女性ということになると、世の娘たちはこぞって
羨ましがるかもしれない。
(そうね。アイオンを夫に据えるのも悪い選択ではないわね。
還俗したら、お母さまに頼んで、然るべき大臣職を与えれば良いのだし)
「結婚は…実は何度も考えたことがあります」
想像を膨らませる王女に対して、イオは苦笑を浮かべながら答えた。
「私は生まれて直ぐに神殿に預けられ、両親の顔を知りません。
これまで家族や家庭の温かさというものを知らずに生きてきました。
だからでしょうか。聖職者でありながら、夢見てしまうこともある
のです。愛する女性と夫婦になり、一緒に子どもたちを育てて、
平和な家庭を築きたい、と」
褐色の肌。銀の髪。
エルミヤ神を彷彿させる美丈夫が語るのは思いがけず平凡な夢で。
けれども王女は自分も同じような望みを抱いていることに気づき、
心が揺さぶられる。
政略ではなく恋愛による結婚。義務ではなく愛情が生んだ子ども。
「その夢、叶うといいわね!いいえ、きっと叶うわ」
王女の頭の中では、自分とアイオンが寄り添って歩き、小さな子ども
たちが走り回る姿が浮かんでいた。
「私ができることは何でもするわ!」
「ありがとうございます、王女さま」
差し伸べられた手を優しく握り返しながら…イオは心で嗤っていた。
可哀そうな娘。
政略結婚の末に生まれた、誰にも愛されない可哀そうな娘。
サヤではなく、自分こそが“それ”なのだと、この娘は気づかない。
(お言葉通り。これから何でもやっていただきましょうか、王女さま。
私とサヤの幸福のために)
これまでは王女に対して、一片の憐れみ位は抱いていた。
周囲の歓心得ようと必死に振る舞う姿を可愛いと思うことさえあった。
けれど、それも全て消え失せた。
サヤを打ちすえた王女を…イオはもちろん許すつもりはなかった。
三人の男たちがサヤをめぐって動き出します。
けれども恋にだけ悩んでいられないのが、辛いところ。
北方辺境伯となる日を間近に控え、サヤはついにそれまで「どうでもいい」と
思っていたマルモア王室の秘密に向き合わざるをえなくなります。
次回より過去がじわりじわりと紐解かれてゆきます。




