雲の上の欠ける月
人間という種族に生まれた僕は淡々と、死なない限り歩みを進める。
目の前に不老不死の薬があったら飲んでみるのもアリかもしれない。この世の終わりはきっと美しいから。
「あいにく曇ってて、関東近辺じゃまず無理だよ」
その日の深夜、いや正しくは翌日の明け方に皆既月食があると、眩いばかりの笑顔を振りまいて千代は僕の手を握った。
「無理という言葉は体験してから使うべきよ。まだわからないじゃない」
「月食なんて珍しくもない。年に何回かあるでしょ。それに明日は平日だよ」
「なんでも良いから起きててよ。きっとよ」
一方的な口約束だったが、無碍に断ることはできない。
深夜二時を回って、時計の針の音がだけが薄暗い室内に響きわたる。静寂に鼓膜を切り取られたみたいに辺りは静まり返っていた。虫の声もなければ夜風が草木を撫でることもない。丑三つ時の言葉の通り、世界は眠りに落ちていた。
携帯のランプが、ホタルの明滅みたいに、繰り返しメール着信を知らせていた。
二つ折りの携帯を開き、液晶のバックライトに目を細めながら、メールを確認する。
『起きてる?先にいってるから。無理そうならシカトしていいよ』
ごめん、寝てた、と打ち込む前に僕はのっそりと上体を起こし、カーテンを滑らせそっと外を覗いてみた。
外は明るかった。それが月や星の輝きなのか、ただ単に都会の幻想なのか、僕にはわからない。
カバンに菓子パンと買っておいた缶コーヒー、使うことはないだろうけど念のためサイフと、それから携帯電話をいれる。外着に着替え、家族を起こさないよう注意しながら、こっそりと家を出た。
まだ肌寒い初夏の空気を全身に浴び、空を見上げてみた。夜でも分かるくらい、分厚い雲が広がっている。ため息をつくことはない。わかっていたことだ。
それにしても、自分の生きている音を浮き彫りにするかのようなこの静寂は、不思議と高揚感を与えてくれる。靴底がこすれる音と、国道をたまに通るトラックやバイクの音がなければ異次元に迷いこんだと勘違いしてしまいそうだ。
4年前この辺りは、小高い丘になっていて、公園を抜けた先に子どもたちしか知らない秘密の遊び場があった。
今は公営住宅建ち並ぶ居住区になっているのだけだけど、4年前は僕らの秘密基地がたしかに存在していた。
「来てくれたんだ」
「まあさすがにほっとけないしね」
ヘルメット被った作業員たちに見つからないよう、基地は一時的に橋の下に移された。橋といっても地面の上にアスファルトが乗せられてあるだけで、見てくれは完全に防空壕だ。
そこに段ボールを敷いて、当時流行ったトレーディングカードゲームで遊んだり、他愛の無い話をしたり、そうこうしている内に僕らは小学校を卒業して、目まぐるしい環境の変化でいつしか秘密基地があったことさえ忘れていた。
薄情と後ろ指さされようと、幼き日をいつまでも覚えている人はそう多くないだろう。橋の下の防空壕でうずくまる千代はその少数派だった。
「私がここにいるってよくわかったね」
「長い付き合いだし、待ち合わせ場所がどこかくらいはわかるよ」
「懐かしくて死ぬかと思ったよ。基地取り戻せなかった悔しさも蘇ってくるし」
「バカなこというなよ」
彼女の無邪気な一言でまた思い出が蘇る。開発で住処を追われた動物のように工事で遊び場が奪われた僕らは、いつかかつての秘密基地を取り戻そうと、橋の下で誓いを立てたんだった。
無理だとはわかっていたけど、アニメや映画の復讐に心踊るのと同じように、ひたすらやりもしない奪還劇のシミュレートを繰り返したっけ。
「それにしても残念。空、晴れなかった」
「だから言っただろ。帰って寝ろよ」
「まだ一時間あるし、今から晴れるかもしれないでしょ。ほら、行こ」
ゆっくりと立ち上がり口角をあげると、丘を目指して歩きだした。街頭は少ないし、暗闇を恐れてもいいものだが彼女の歩みは華やかだった。
「皆既月食そんなにみたいの?」
「ううん別に」
「なんだよそれ。んじゃなんで夜更かし?早起き?してまで天体観測なんてしようってのさ」
「秘密、秘密」
楽しげに声を弾ませて、節をつけて歌うように彼女は言った。
公園についたとき、6月中旬深夜の空気は仄かな夜明けを孕んでいたように思える。
空には相変わらず、分厚い灰色の雲が広がっているが、今更気にはならなかった。都会の狭い空の下で育った千代と僕は一面の星空なんて無縁なのだ。
「みんなどうしてるかなぁ」
「みんなって誰?」
「モモやアッコやヒナタや、それから、それから」
「寝てるに決まってるだろ」
「……そういうことが言いたいんじゃなくて」
公園の隅っこのベンチに座って、ぼんやりと夜空を眺める。カバンから取り出した缶コーヒーのプルタブを押し上げ、僕はそれを千代に渡した。
彼女は端的にお礼を述べると気恥ずかしそうに口をつけた。
「……みんな変わっていちゃうのかなぁ」
「なにノスタルジックに浸ってるのさ。そんな歳じゃないだろ」
「そうだけど、みんな私の事を過去の友達にして忘れてるよね。置いてけぼりにされるみたいで、それは、すごく、寂しい」
彼女の呟きは徐々に小さくなって薄暗闇にとけていった。
回顧趣味をとやかく言う気はない。彼女の挙げた名は、かつての友達で仲間で、知り合いで、旧友だ。
僕にとっての現在は一年後に迫りくる高校受験や、別居中の両親のことぐらいで、過去に捨て置いた事柄を広い集めるくらいの余裕は持ち合わせてはいなかった。
甘い菓子パンを口に加え、僕はそっと隣を盗み見た。公園の端にある街頭の灯りに照らされ微かに窺った彼女の表情はなんともいえず悲しげだった。
「僕がずっと覚えてるよ」
「え?」
「千代と、こうして皆既月食を拝みにきたことや、みんなで遊んだこと、死ぬまでずっと」
「ほんと?約束だよ」
「ああ」
パンを頬張りながらじゃないと、そんな青臭いセリフを吐けない小心者の僕を許してほしい。それでも彼女の声は差し込む光明のように明るいものに変わった。
「もう三時だね」
「ああ、もうそんな時間か」
ぽつりと呟いて彼女はポケットから、四角い小箱を取り出した。
「千代、それ」
ギョッとして固まってしまう。彼女が取り出したのはタバコの箱と、100円ライター。未成年の僕らが補導されたら真っ先に没収される代物だ。
「内緒で持ってきた」
「肺を悪くするぜ。やめときなよ」
「うん。好奇心から一本、って思ってたけど、」
彼女は言いながら僕にライターとタバコの箱を差し出した。
「こんな気持ちが良い夜に、無理して咳き込む必要はないよね」
受けとってしまったタバコを慌ててカバンにしまう。
「こんなもの貰っても、僕は吸わないよ」
「だから20歳になった時、火をつけてよ」
彼女の言いたいことはわからなかったけど、約束は守ろうと思った。
「さ、帰ろうか。今日も学校あるしね」
立ち上がり、千代は僕ら以外誰もいない薄暗闇と戯れるみたいにくるくると回った。まるで夜明け前を腰布にしているみたいだ。
「皆既月食は見れなかったけど、夏はもうすぐだね」
「前後の文章が繋がってないよ」
苦笑いを浮かべ、僕も立ち上がる。
明るみはじめた雲の切れ間に欠けた白い満月を見た気がした。
彼女は空を指差して遠くを見つめ、
「ほら、夜明けだよ」
と呟いた。