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真鶴さんのなくしたもの

礼服――よく見れば岸辺が着ているのは燕尾服で、ああっと思い出す。

そうか、結婚式だ。

軽井沢のチャペル。

 石造りのチャベルだというのに、光があふれ、そして館内の壁を伝うように流れ落ちる水の僅かな音と、やさしい緑のシダが生える。

 二枚に重ねた白手を軽く握り、岸辺は苦笑するように誠一郎へと話しかけた。

「やっぱり、やめておこうかな」

 そんなっ、いまさらひなこを返品なんて、それこそやめて下さいよ。

誠一郎が冗談を言うように軽く首を振ると、ひなこの夫となる岸辺は一旦奇妙な表情を浮かべ、それからまるで宥めるように苦笑した。


「誠一郎君、泣かないで」


 いやいや、泣くなんて。

 これは嬉し涙ですよ。もう本当にひなこには苦労させられたんですから。もう一生ひなこの面倒を見ることになるんじゃないかって、結構本気で覚悟を決めていたんです。


「やっぱり、これはぼくの仕事じゃないよ」


 手の中の白手を押し付けるようにして、岸辺はとんっと誠一郎の肩を叩いた。

 何故自分がそんなものを押し付けられなければいけないのだろうかと誠一郎が眉を潜めながら、軽く肩を押されて見た先に――純白のウェディング・ドレスのなつるが嬉しそうに微笑した。


「誠ちゃんっ、ね、ね、どうかなっ」


――ああ、そうか。

 そうだった。

今日はおまえの結婚式か……産まれたばかりのおまえは、真っ赤な猿ではなくて白い猿だった。粉を吹いてたんだよ、おまえはこの話すると嫌がったよな。

 爬虫類みたいに脱皮して、皮がちょっとかさかさしてて、赤ん坊なんて馴染みがないもんだから、オレは本当に驚いて「ひな姉、これって本当に人間?」って思わず言っちまったんだよ。

 おまえの親父が死んだ時、おまえは少しも理解しなくて、葬式の間もきゃっきゃっとはしゃいでいて、着慣れぬ黒いワンピースドレスを喜んでいて、それが皆の涙を誘った。

「岸辺さん、ごめんね」

 なつるはちらりと岸辺へと視線を向け、軽く頭を下げた。

「いいや。君の結婚式に父親面してエスコートするのは、ぼくには荷が重い」

「岸辺さんに不満がある訳じゃないよ」

「判ってる。君の結婚式だ――おめでとう」

 岸辺はなつるの肩を軽く抱き、そしてまるで誠一郎の父親でもあるかのように慈愛に満ちた眼差しを、さぁっと誠一郎へと向けてくる。


 おめでとう。

そう、笑って言ってやらなければ。

三歳の頃からおまえは色々やらかしてくれたけれど、これでやっとオレの肩の荷もおりる。

 仕事が忙しくて、小学校二年の運動会に行けなかった時、おまえは二日間オレと口をきこうとしなかった。オレはおまえを養うのでいっぱいいっぱいだったんだ。

 でも、見てやれば良かったな。

一生懸命ダンスを練習していたのに、結局オレは映像でしか知らなかった。行けなかったのは小学校に通ううちのほんの二度程度だけど、おまえの晴れ姿を全部、全部ちゃんとこの目で見ておけばよかった。


「なつる」


なっちゃん……


 オレ、おまえが大学に行かないと言い出した時、怒ったよな。

その時は岸辺も一緒になっておまえが大学に進学するようにって説得したけど、おまえはてこでも言うことを聞かなかった。

 挙句「就職活動もしない。あたし、高凪設備で事務員するから」って、その言葉にオレは更に怒った。


「楽なものばかり掴み取ろうとするな」そう、言った。

けど、本当は違うんだよな。

――おまえは、ずっとずっと、オレに申し訳ないなんて感情を持っていたんだよな。

 オレが大学の進学を諦めて仕事をすることになったことを、おまえはずっと――気にしていたんだ。


 馬鹿だな。

本当に馬鹿で、仕方なくて……

 そんなのは孝行でも何でもない。オレができなかったことだからこそ、お前には大学にきちんと行って欲しかった。でもな、本当は嬉しかったよ。

 おまえが気にかけていることを苦いと思いながら、それでも嬉しかった。

おまえが優しくて、いい子に育ったって。

 ちゃんとオレなんかのことも気にかけていてくれる子に育ってくれたんだって――本当は少し、嬉しかったし、誇らしかったんだ。


「いやだな、誠ちゃん、泣かないでよ」

「泣いてないって」

「――……」


 笑って、おめでとうって言いたいんだよ。

誰よりも幸せになれって。言いたいんだ。

なつる。おまえまで泣きそうな顔するなよ。化粧がはげるぞ。なぁ、口元がゆがんじまって、みっともないだろ。


 けれどなつるは、それまで耐えていたものを決壊させるように突然誠一郎の腕にぶつかるようにして抱きついた。


「やっぱ、やだっ。やめるっ。あたし結婚やめるっ。

誠ちゃんとずっと一緒にいるっ」

馬鹿言うなって。


そう言ってやりたいのに――

「やめちまえ。いいから。結婚なんてしなくていいよ。オレが一生面倒みてやるから」

 お前の後ろでめちゃくちゃ怖いのがすごい顔してるけど、気にするな。


「嫁なんていかなくていいさ」


言った途端に――目が覚めた。


 見慣れた天井と、カーテン越しに入り込む朝の光。

外から聞こえる雀の声。

急激に覚めていく自分の感覚に、乾いた呻き声がもれた。

「うぅぅ、絶対に同じ哲は踏むまい」

 寝台の上で身を起こし、誠一郎は頭を抱え込んだ。

 夢だとしてもなんと生々しい。

体に余韻が残るようにけだるく、挙句本当に泣いていたようで眦からは冷たい涙がつつっと落ちる。


「なー?」


 一緒に寝ていた真鶴さんは、隣の誠一郎が突然体を起こしたものだから不愉快そうに鳴きながら睨みつけてくる。目つきの悪い目を最大限に利用して。

 誠一郎はその頭をぐりぐりとなでて、はははっと乾いた笑いを浮かべた。


「あー、朝からいやな夢見た」


 気だるい体を抱え、誠一郎は枕カバー代わりにしたバスタオルを無造作に引っつかみ、それを引きずるようにしてその足でバスルームへと向かった。


――何より、たかがなつるが浅宮とデートするという話を耳に入れた程度で一足飛びに結婚の夢なんて、これが父親なのか?

 挙句、結婚式やめちまえなんて、そんな恥ずかしいこと現実で言ったらマズ過ぎる。

 軽く自己嫌悪に陥り、生ぬるいシャワーで――冷たいシャワーは三十でやめた――目を完全に覚ますと、誠一郎は塗れた前髪をかきあげるようにして撫で付け、ガラス扉の向こうで当然のように待っている三毛猫に苦笑した。


「おまえ、水は嫌いなのにオレが風呂入ってる時は決まってそこで待ってるよな?」

 それともおまえもシャワー浴びるか?

扉を開けて手を伸ばすと、真鶴さんは一目散に逃げ出していった。


***


「ああ、アレね。断っちゃった」

しかし、なつるはしれっとした口調で言った。

「え?」

「猫喫茶、断っちゃったの。本当に、心の底から猫喫茶は行きたかったけど、考えてみれば浅宮さんと行く必要はないでしょ」

 あっさりと言い切り、なつるは届いた郵便物をとんとんっとテーブルの上で整え、封筒の端に鋏をいれていく。

 本日の外回り分の仕事を終えた誠一郎は、なつるの様子に乾いた笑いを落としてしまった。

 べつに浅宮を応援してやるつもりはないし、率先してくっつけたいと思っている訳でもないのだが、同じ男として少しばかり浅宮が不憫に思える。


「確か、前は浅宮クンの声がすごい素敵ってミーハーしてなかったか?」

「電話の声しか知らなかったからでしょ」

 なつるがまるきり一生の不覚だとでも言うように、顔をしかめつつ封筒の中から引き出したものがダイレクト・メールだと確かめ、ゴミ箱の中に放り込む。


 それにしても、何故浅宮はなつるにそこまで嫌われているのだろう。

いや、嫌われている訳でもないだろう。嫌っている相手との約束など、もとよりしない。

 眉を潜め、なつると浅宮がはじめて顔を合わせたのはなつるが事務的なミスをしたことが原因であったと思い出すと、そのミスのおかげで何事か言われたのか、それともただの気恥ずかしさからきたものなのかと判断することにした。

 ますます浅宮が不憫に感じる。

その不憫な男を時々ちょっぴり苛めていた自分を反省した。

次にあったら、少しくらいは優しくしてやろう。


「……どうせ真鶴さんのおまけだし」

 もごもごとなつるが小さく呟いた言葉は、しかし生憎と誠一郎の耳にまでは届かなかった。


 誠一郎は心の中で浅宮への同情を高めつつ、机の上に置かれているファックスに脱力した。

「ああ、また見積もりやり直しか」

「――そこさー、きっちゃえば? もう意味判らないし」

 事務員なつるがぴくりと反応するが、誠一郎は苦笑で返す。


 昨今のインターネットの情報氾濫は弱小設備屋にも色々と痛手を与えてくれる。

その中でも一番多いのは「この機材、ネットだともっと安いのに」だ。

それは大量に材料を仕入れて右に左に動かしているだけなら安かろう。だが、その値段の中にはメンテナンス代や、取り付け費は含まれていない。

 ネットで購入し「これつけて」と言われて良い顔をする業者はめったにない。取り付けるだけで一万五千円を請求すれば、商品は安いのに取り付け代が高いと文句を言う。

――だが、人間が一人、もしくは二人動くことを考慮して欲しい。車で移動すること、その部品を取り付ける為に使われる材料、工具。時間。


何より、取り付けてその後に何かあればその後のメンテナンスだって喜んでやる。そういったものを諸々コミでの値段設定を、しかし理解してくれない客は多い。

「ま、もう一度出してみるさ」

 軽くファックスをはじくと、窓辺で香箱座りで眠っていた真鶴さんがぐぐぐっと体を起こして伸びをし「なーん」と鳴いた。

 自然と誠一郎はガラス扉の向こうへと視線を転じ、外回りをしていた古沢喜一が戻ったことに気づいた。


「ただいまー」

 人好きのする笑みが、今日ばかりはなんだか少しばかり冴えない。古沢は頭にかぶっていた帽子ではたはたとあおいで風を顔に当てながら、ふぅっと大きく息をついた。


「なっちゃん、心優しいナツル様。おねがい、アイス珈琲頂戴」

「喜一君のダッシュ・アイスくれる?」

「……むむむ。んー……いいよ」

 冷凍庫の中に自分用のアイスを入れている古沢は、疲れた様子で出窓まで行くと、一見すると嫌がらせのように真鶴さんに帽子を突き出した。

「存分にかぐといいよー、オレ臭」

「やめろ」

 誠一郎は思わず本気で言ってしまった。

何がイヤかといえば、真鶴さんがその加齢臭だか汗臭だかわからないものを、まるでまたたびのように好いているのがイヤだ。

 不機嫌な顔をした猫が、嬉しそうにすんすんっと鼻を動かしているのは、大事な娘を汚されるようでいただけない。

 誠一郎は思わずだかだかと真鶴さんのところまで歩き、その帽子に興味深々な猫を抱き上げた。


「猫は加齢臭好きなのにぃ」

「加齢臭っていうような年齢じゃないだろうに」

「いいんです。ぼかぁただのオジサンですよ。大学生にしてみればただのオジサン」

 いつも明るい古沢にしては、どこか切なそうにそんなことを言う。

この間、金曜日に喫茶店の女の子とデートしていた筈だが、何か心に傷を負うようなことになったのかもしれない。


「いいんだー、猫には好かれるから!」

 古沢は言いながら、さっさと自分の席にどさりと座り、おかれているパソコンをたちあげた。


 どこもかしこもレンアイ一色。

 誠一郎はなんだか自嘲するように笑い、腕の中の真鶴さんの顎を撫でてそのまま奥にある応接室へと移動した。


「レンアイなんてオレもおまえも関係ないもんな?」

 ふと浮かんで来そうな人を押し戻す。

今頃はきっと小学生達にあの綺麗な声で話しかけている人を。


 腕の中の真鶴さんが、声も出さずに口だけを動かす。


――真鶴さんは生後約六ヶ月で避妊手術を施した。

後になって知ったことだが、猫は去勢や避妊をすることによって病気の発生率が抑えられるのだという。


 だが、そんなことは関係がなかった。

 真鶴さんの避妊をしたのは、増えたら困る。それだけだった。

オスであれば発情期にスプレー行動や鳴き声でたいへんなことになるだろうが、正直メス猫が発情期にどのような反応になるのかは判らなかった。

 ただ、子供がぼこぼこ産まれたら大変だという思いだけで、避妊手術をしたのだ。


ただ、今ならちょっとだけ――

「一回だけでも、産ませてやれば良かったかもな」

 それもまた自分のエゴだろう。

先日、加賀屋小百合の愛猫である一号の出産を体験し、誠一郎は疲弊すると同時に、じわじわと沸きあがるような喜びを感じた。

 手の中に躍動する小さな、ほんの小さな命。

ほんわかと温かく、切ないくらいか弱い。

 膝の上の真鶴さんの耳の付け根をかきながら、誠一郎は苦い気持ちを味わった。


――去勢、避妊。


 生き物として、そんなことを成されることはつらそうだ。

増やさないようにと手術するのもエゴで、だからといって増えてしまえば猫も、犬もやがては増えすぎて処分されてしまったりする。

 心無く捨てられてしまう幾万の命。

 猫を飼う人間として、だから今手元にいるコノコだけでも精一杯愛することしかできない。

 お前の本能を奪うかわりに、最期のその瞬間まで愛する。

どんな言葉を求めようと、動物を飼うことはエゴにまみれている。

正解など、どこにも落ちていない。

きっと誰にもたどり着けない。


「一号の赤ちゃん、可愛かったよ。でも、きっとおまえの子供のほうがきっとずっと、可愛かったろうな」

 しんみりといいながら、ふいに誠一郎は苦笑した。


「ま、おまえの子供なら、やっぱりちょっと不細工か」


 どうやら不細工という言葉が褒め言葉でないことを知っている真鶴さんは、思い切り誠一郎の指にかじりついた。



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