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真鶴さんでも嫉妬する

 その猫の名前はミィだった。

何の変哲もなく、ミィと鳴くからミィ。

随分と太っていて、なんだかよろよろとしていて、目脂(めやに)があってお世辞にもかわいいという猫では無かったけれど、おやつの魚肉ソーセージを嬉しそうに食べたのを見たら、なんだか自分まで嬉しい気持ちになった。

 中学に入って一年――


部活の先輩は意味が判らない八つ当たりをしてくるし、父親は仕事だと言って帰らない。時々帰ってくると、母親と二人でなんだか揉めていることが続いていた。


 離婚すればいいのに。


いつの間にか芽生えた気持ちは、冴え冴えとしたものだった。

母親も仕事が忙しく、けれどどうやら「子供に理解のある良い母親」を無理やり演じていた。

 公園の片隅にいたミィをこっそり飼うのには不自由が無い自由――それは結局、父も母も、ぼくにそれほど関心など無かったのだろうと結論付けていた。


「そうか……おまえ、ただのデブ猫じゃなかったのか」


 ある日学校から帰宅して驚いたのは、押入れの中にいるミィが増えていた。

――勿論、ミィのサイズが増えていた訳ではなくて、ちいさな手のひらサイズのなんだかほかほかとした不思議なイキモノだ。

 耳が小さくて、目がひっついていて、もそもそと芋虫みたいに動いている。あれだけご飯をやって世話をしてやったというのに、ミィはぼくに向かって「カカカカカっ」と威嚇して、ぼくが手を伸ばすと「シャー」っと低く蛇のように喉の奥をふるわせた。


「猫でも子供を守るのにね」


――ぼくの家族はミィと、ミィの子供達。

それはぼくにとってとても幸せな日々だった。

毎日のように子猫達はちょっとづつ大きくなって、目を開けて、かわいい小さな声で鳴きながら母親の乳にすがる。


 ぼくはせっせとミィにご飯をあげながら「ちょっと触らせてよ」とミィにお願いしてちょっとだけ子猫をさらわせてもらう。

 学校では相変わらず先輩が意味も判らずえばっているし、お父さんは居ないし、お母さんは――


「どうしてあんな汚い猫!」


一月後、ミィとミィの子供達はどこかぼくの知らない遠くに捨てられていた――


***


 幾度か社内で見かけたことはあったが、きちんと挨拶以外の会話を交わしたのは神榮建設の社長が病気の為にその場所を退き、少しばかり揉めつつも新しい社長を紹介する為に開かれた都内某ホテルでの会合でのことだった。

 まるで何かの襲名かと――あながち間違いではないが――思う程に男達の黒一色。下請けやら孫請けまでの交えての場で、面白いように名刺が飛び交っている。

 浅宮貴臣の手元にもそんな名刺が一枚。


「知っていますよ。高凪さんですよね」


 差し出された名刺の端に、何故か猫。

デフォルメされた猫がエンボス加工された名刺に、貴臣は思わず「さらりとした挨拶」から逸脱し、会話を差し向けていた。


 会社の下請けである高凪設備の社長である高凪誠一郎は、着慣れぬ様子の礼服に着られ、居心地悪そうに首を巻くネクタイを軽く緩めて笑みを向けてくる。

 百七十八センチの貴臣とさほど身長の変わらない相手は、確か年齢的にはだいぶ上の筈だが、柔和な目元がどこか幼さを見せ付ける。

 建設関係の仕事仲間の中では自らCADを駆使して図面を興し、仕事の提言をする誠一郎は柔軟な動きを示し、重宝されていた。

 面倒ごとを押し付けられているという話でもあるが、意外に世の中をうまく渡る術を身につけているのか、嫌な仕事はたくみによけて生きている。

学歴社会というが、誠一郎のように生きる術を身につけている相手を見るのは、実に興味深い。 


だが――誠一郎は営業部長だったろうか?


「猫好きなんですか?」

「え、はい?」

「真鶴さんって変わった名前ですね」

 そう問いかけると、誠一郎は一瞬きょとんと瞳を丸くし、ついで未だに貴臣の手にある自ら差し出した名刺を認め「うわぁっ」と小さく叫んだ。


「すみません。ソレ、ちょっと駄目です」

「え?」

「うちの事務員がふざけて作ったヤツで、ああ、すみませんね。どうして混ざったかな」

 慌てながら誠一郎はポケットに入れたアルミのケースを慌てて引き出し、つま先で弾くようにケースを開いて確認すると、誠一郎曰く「ふざけて作ったヤツ」ではない名刺を引き出した。


「失礼致しました」


 今度は味気も素っ気もない極一般的な名刺――名刺の左側にはエンボス加工で会社のマークが刻まれ、高凪設備と社名。そして代表取締役という仰々しい肩書きの下に高凪誠一郎と書かれている。

 あとは所在地、電話、ホームページアドレスに電話番号という名刺の見本のようなものだ。

 貴臣はそれを受け取り、二枚の名刺を重ね合わせた。

「あの、ソレ」

「何か?」

 猫のイラスト、そして何より肩書きが営業部長の高凪真鶴さんの名刺は、そのまま貴臣の名刺ファイルの中に仕舞われた。


「猫好きなんですか?」

 もう一度問いかけると、誠一郎はバツの悪そうな表情を浮かべたものの、少し乱れた前髪をかきあげた。

 かきあげたその髪が湿っているように見えるのは、おそらく整髪料ではなくシャワーの後で慌てて来たというところか。

「うちの事務所にいるんですよ。三毛猫なんですけどね。相当ふてぶてしい感じのが」

 言いながら誠一郎は逡巡した様子だが、貴臣が興味深そうにしているのと会場の退屈さを紛らわせるように自らの携帯を引き出した。


 待ち受け画面には三毛猫。

無理やり押さえ込まれ、ポーズをとらされている顔が本気でいやがっているのが可愛らしい。

 背景はどこかの事務所。もちろんこの場合の事務所は誠一郎の高凪設備だろう。仕事用の味気のない灰色の机にパソコン、そして事務用の回転椅子に座った女性。

 自分の膝に三毛猫を立たせ、背後からその手をしっかりと掴んで盆踊りを躍らせるという格好の女性は――無邪気に笑っていた。

 

 あけすけで裏表の無い幸福に満ちた微笑。

ふと、こんな風に女性に笑顔を向けられたことが無いことに気付いた。絶対の信頼と愛情、安堵感、全てを示す、微笑み。

 媚びるでなく、甘えるでなく、ただ自然に。


「可愛い猫ですね。この子の名前が真鶴さん?」

「可愛いですかね? うちの近所じゃ不細工で有名だけど」

 だんだんと口調が打ち解ける誠一郎に、貴臣は「不細工な猫がどれだけ可愛いか」をたっぷりと教え込んだ。


その待ち受け画面をQRコードで受け取るまで、延々と一時間程――


 猫の話であれば何時間でも喋り続けられる自信がある。

子猫の扱いから、野良猫のナンパ方法。騙して捕まえるテクニック。どこを触れば猫が喜ぶか、ねこじゃらしのじらしテク。


そう、浅宮貴臣は――控えめに言えば、猫好きである。


***


「猫、飼ったらいいじゃないですか」

 珈琲をドリップするのを一心不乱に見つめながら、飯塚なつるはそんなことを言い出した。

 まるでドリップされる過程を見ていないと珈琲とはまったく別のマズイものが抽出されるとでも言わんばかりの様子だが、浅宮貴臣は相手が自分を相当煙たいと思っていることには気付いていた。


相当、かなり、激しく。


「さすがに真鶴さんはあげられませんけど、こんなにしょっちゅううちに来て真鶴さんを撫で回しているより、自分の猫をかわいがるほうがずぅっと楽しいと思いますよ」

 この言葉の意味は実にわかりやすい。


――しょっちゅう来るな。


「今は一人暮らしだからね」

「せい……うちの社長も一人暮らしですよ」

 とっさに、ごく自然に「セイチャン」という愛称を彼女は口にしようとする。

自分の会社の事務員が社長を下の名前で呼ぶのを想像すると、実際に気色が悪い。相手が禿げた年寄りであれば愛称とか、親愛を込めてととれるかもしれないが、高凪誠一郎は三十代の半ばだろう。


「でも、ここは事務所で昼間はなっちゃん(・・・・・)もいるし」

 貴臣がなっちゃん、という呼び方で彼女を呼んだのは、今日がはじめてだった。

 この小さな設備会社の人間達は親しみを込めているのか、この事務員を「なっちゃん」と呼んでいる。ならば、自分もそう呼ぶことに不都合は無いだろう。


 だというのに、なつるは浅宮が「なっちゃん」と言うたびに微妙に眉間に皺を刻みつける。

「猫飼うと別れることになるだろう?」

 いつか来る別れを口にすれば、なつるは冷蔵庫の方へと移動しながら「そんなこと言っても、最近じゃ猫の寿命も結構延びていますよ。真鶴さんは今二歳だけど、きっとあと十八年くらいはふてぶてしく生きると思うし」


 猫の寿命を決めるのは――人間だ。

完全室内飼いで定期的に病院に通ってさえいれば、猫は二十年近く生きられる。だが、外に出るとその寿命は途端に縮まる。

 通りを歩けば車が、そして悪意を持つ人間が猫の害になる。

完全な野良猫は五年生きるかどうかと言われる程だ。


「……以前飼っていた猫は、一月しか駄目でね」

 ふっと視線を伏せて口にし、自分で驚いた。

そんなことを言うつもりは無かった筈だ。そんな昔話など、深い場所に落としこみ、決してこじ開けるべきではない。

――無力であった頃の自分。

 いびつな心の母親のことなど。


『捨てたって、何……言ってるのさ』

『猫が欲しいなら血統証つきの子を買ってあげるわよ。あんな病気もっていそうな野良なんて冗談じゃないわ。貴臣』

『母さんっ、猫どうしたのさっ』

『いい加減にしなさい! あなたは勉強もしないで猫をかまってたんでしょう? あの猫は捨てたわっ。川に投げ捨てて来たんだから、もう忘れなさいっ』


――実際に川に捨てたのではないことは、一月もしないうちに言い訳のように言っていた。ただ遠い橋の下において来たのだと。

 だがそれがどうだというのだろう。

中学の二年程になるころ以来、母とはまともに口を利いていない。

 父親のほうが立派だとか、母親がどうとかいう話ではない。

あの時にあった僅かな信頼関係と、そして温かであった何かを破壊された子供は、母親をまっとうに見ることを止めただけなのだ。


「じゃあ、今度はもっと長く大事にしてあげないと」


 なつるはさらりと言いながら、珈琲を氷の入れられたグラスに落とし込んだ。

「動物との別れはどんなものでも悲しいですけど、だからもう飼わないって――自分がカワイソウなだけですよね? 自分が辛かったからもう飼わないって、何か違う気がする」

「……」

「それでなくたって世の中に捨て猫とか一杯いるんだから、一匹でも多くかわいがってあげて、失った猫にしてあげたかったこと一杯してあげたり、もらった気持ちとかの恩返しとかしたほうがお互い幸せだと思うけどなー」


「なっちゃんは……」


 浅宮は喉の奥が引き連れるように気持ちを抱きながら、口元に笑みを刻んだ。


「楽天家だ」


――もっと早い段階で母親に猫のことをきちんと話していれば、勝手に捨てたりしなかったかもしれない。

 自分がこっそりと勝手に飼っていたからこそ、母親は怒って何の承諾も得ずに捨てに行ったのだ。

 芽生えた母親への嫌悪感と、自分の無責任さ、無力さへの絶望。


きっとそういうものを、なつるは持ち合わせていない。

信じられないくらいオシアワセな人間。


「失礼ですね」

 なつるは楽天家と言われた言葉に、軽く浅宮を睨み返した。

「褒め言葉だよ」

「いや、絶対に褒めてないですよね?」

「褒め言葉だよ」


――幸せそうな君が、とてもねたましい。


 褒め言葉だとしつこく言っても信じていないなつるは、円形のお盆の上にアイス珈琲の入ったグラスを二つ、ついでに菓子鉢を載せて歩き出す。

 台所から事務所に場所を移せば、しかしもうそこには誰の姿も無い。先ほどまでいた高凪設備の従業員はすでに帰宅してしまったらしい。

 だが、確かもう一人この会社には従業員がいる筈だ。

 そのうちに戻るのかもしれないなと頭の片隅に置いて、事務所の窓辺に座っていた真鶴さんの頭を撫でた。


 自分にはまったく関係のない猫。

責任など必要とせずに構い、撫で、餌を与えることが許される生き物。

自分が庇護するものではないもの。

これほど気が楽なものはない。


 かわいいと思う、愛しいと思う、その姿を好ましいと思う。

けれど、その責任を負うことがとても恐ろしいのだと――彼女に告げたところで、理解してもらうことはできまい。


「そういえば、高凪さんが戻るまで残っているの?」

 自分から好むような話題ではないが、なんとなく言葉は口をついた。

高凪設備の高凪誠一郎。

なつるは、高凪誠一郎の前では屈託無く笑ってみせるのに。貴臣の前では表情を強張らせたり、眉を潜めたり、嘆息を落としたりしてばかりいる。

 なつると誠一郎の間には何か強いつながりを感じることが、なんとなく苛立ちを覚えさせられる。


「大木さんも帰ったし、あとはコレ飲んで帰ります」

 だから浅宮さんも出ていってくださいね!

と言外に言い含める口調のなつるは、自分の机の椅子を引き出してパソコンに向かった。仕事をしているのか、それとも仕事をしているフリなのかは判らない。

 

 熱心だなと覗き込んだ時に、オークション画面を覗き込んでいたのを見た時には呆れたものだ。

自分の会社であれば、ホストコンピューター経由ですべて情報が筒抜けで、決してそんな真似はできない。さすが小さな会社は管理が甘い。

 よその会社のことなので言うこともないのだが、一度「クビ切られるよ」とからかう口調で言えば、なつるは絶対の自信でもって「それはないから」と言っていた。

 事務員として、数え上げればきりがない程の失態をしでかしているなつるだが、クビを切られる様子は確かに無いのがまた不思議だ。


「それに、今日は社長帰って来ないんじゃないかな」


 パソコンに向かいながら小さく呟くなつるは、ふっとその声音のトーンを変えた。

「デート?」

 ある種の嫌がらせだった。

おそらく、彼女はきっと嫌そうな反応を示す。

彼女は――誠一郎に何かしらの感情をもっているようだから。

しかし、貴臣の予想とは少しばかり違う反応を彼女は返して寄こしたのだ。


「やっぱりそういうコトですよね?」

「まぁ、高凪さんも結構いい年齢だし」


 くんっと背筋を伸ばすようにして、いっそ瞳をきらきらと煌かせて――なつるはぐっと拳を握り締めた。

 その態度に、危うく真鶴さんを抱き上げていた浅宮は真鶴さんを強く掴んでしまい、手首をがばりとかじられた。猫に齧られたところでたいして痛い訳ではないので噛ませたままにしておく。


「誠ちゃんってば、今オンナノヒトの家に行ってるんですよ! 昼間に電話で呼ばれて。もしかして朝帰りとかしちゃったらどうしようってあたし心配で」

 心配、と言いながら何故か嬉しそうなのはどうしてだろうか。

文面だけで見れば、愛しい男が他の女の家にいることが心配だと取れなくもないのだが、なつるときたら何故か嬉々としたという表現が似つかわしい表情を浮かべている。


 意味がつかめず、片眉が跳ね上がった。

ただ文面だけに対して「高凪さんもいい大人だから、彼女と朝帰りなんてむしろあって当たり前だろうに」と口にしたが、いかにも嫌味っぽい。

 自分の大人気ない態度に苛立ちを覚えていると、なつるは一人の世界に入ってしまったようでふるふると首を振った。


「誠ちゃん大丈夫かな……」


――社長ではなく、誠ちゃんと呼ぶのはおそらく彼女の素なのだろう。


「誠ちゃん」と呼び「なっちゃん」と返される二人の関係に更に微妙な気持ちを抱くのは……彼女という人間が理解不能だから。


「そんなに心配?」

苛立ちのままに言えば、なつるは「そりゃあ心配ですよー」と当然のように眉を潜める。

「これはアレですね。ムスコを心配する母親のシンキョウ」

 三十半ばの男を捕まえて、朝帰りしないか心配なんて、こちらこそが眉を潜める状態だ。

しかも、息子の心配する母親とは片腹痛い。

素直に好きな男が心配なのだと言えばいい。


――泣かせたい。


 ふいに浮かんだ感情に苦笑を落とし、貴臣は真鶴さんの顎下を指先でなでた。

 真鶴さんはいやそうにしているが、やはり顎下をなでられるのには弱いのかゴロゴロと喉を鳴らして首をそらしていく。

 それを眺めながら、貴臣は自分の中にある苛立ちと、何か彼女が傷つくような台詞とを頭の隅に押しやって「そういえば」と話を切り替えた。

 自ら高凪誠一郎の話題を出したというのに、さっさとその話題は葬り去ることにした自分が何故かとても子供のように感じてしまう。


「猫カフェとかには興味ない?」


――君の心配の中に、自分は決して入らない。


真鶴さんが猫という単語に反応してか「にゃー」と憤慨するかのように小さく鳴いた。


***


 ミィを川に投げ入れたと言った母親を前に、自分は何もしなかった。

どこの川に投げたのかも、尋ねたりしなかった。

ただ静かに諦めた。

自分はただの中学一年生で、親に庇護をされているだけの何もできない子供だと――自分に言い訳をして。


 あの時、外に飛び出して探し回れば何かが違っていたのかもしれない。

 あの時、母親に怒鳴り散らしていれば今のような人間ではなかっただろう。


けれど、あの時、貴臣はただ身勝手に絶望し、心を閉ざしただけだった。 


「猫が欲しいのであれば買ってあげるわ」

 しばらくした後で、まさに猫撫で声で母が再度持ちかけた。息子の変化に戸惑いを隠さない様子で。

そんな言葉はもうすでに届くことも無いのに。


――野良猫と血統証付きの猫の違いは何だろう。

 血統証があれば病気をもっていないなんて、この人は本気で思っているのだろうか。遺伝的な病気や、何かをもっていないなんて誰にわかるというのだろう。

ミィも、ミィの子供達も決して汚らわしいものでは無かったのに。

 母が自分がしたことを過ちだと思ったとしても、それは猫を捨てたことに対しての後悔ではなく、その時から子供と自分との間にあった何かが崩れたことに対してのものだったろう。


 母と父との離婚が決まった中学の三年――受験が終わった頃合に、父親から「自分が引き取ったとしても親子らしいことはしてやれない。一人にすることも多いだろうが、どうする?」という言葉に、迷いもなく「構わない」と父に引き取られる道を選んだ。

 その時に母親が傷ついた顔をしたとしても、自分の中に母へと向ける優しさなど微塵もなかったのは事実だ。


――心配している。


親子でさえ僅かなことで絆など壊れてしまうのに、簡単に人を「心配」できてしまう人間がいることに驚くと同時、自分の中でどこか馬鹿にしている。

まぁ、その心配の内容はずいぶんと明後日の方向だが。


 知れば知るほど彼女は不可解だ。

感情はあっさりと顔に出るのに、その思考能力は意味不明。

猫を目当てに通いながら、いつの間にか観察の対象が真鶴さんから飯塚なつるに変わっていたのは、きっと彼女のような女性を知らなかったからに違いない。


 仕事に対しては不真面目という程でも無いのに、うっかりで済ませるにはまずいケアレスミスを幾つもしでかす。おそらく同僚として彼女が存在した場合、あまりの無能っぷりに「退職願の書き方のレクチャーでもしようか?」と言うところだろう。

 ただし、なつるにそう言ったところでただの冗談としか取らないおそれがある。


 今まで付き合った女性とはまったくタイプが違う。

だから、それはつまり自分にとってなつるは好みの範疇では無い筈だろうと思うのに、こうして彼女からのメールに苛立ちを覚える。


――ごめんなさい。やっぱり今日はやめておきます。猫喫茶楽しんで来て下さい。


 味も素っ気もない。デコメでもなく絵文字が入るでもなく、阿呆くさい記号が羅列する訳でもない簡潔なメッセージ。


「ああ、ふられた」


 何の感慨もなくぼそりと落ちた言葉でやっとはじめて苦々しくも理解した。


つまり。

どうやら。

自分は彼女に「心配」される立場を羨ましいと感じている。

 絶対の信頼の眼差しで、無邪気に、屈託無く、あの写メを撮られた時のような信頼と愛情とを向けて欲しいと思っている。


猫を、純粋に、ただ純粋に愛するように。

猫すら純粋に愛せない自分には、なんと無茶な話だろうか。






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