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真鶴さんでも同意する

 小百合の愛猫、一号の出産が始まったのは誠一郎が「これはもう帰ったほうがいいんじゃなかろうか?」と思い始めた刻限だった。

 もともと終電については諦めていた。

帰りはタクシーで帰ればいいだろうと覚悟は決めていたのだ。

 一人暮らしの女性の家を訪問したことが無いとは言わない。

だが、相手は学校の教師――つまり聖職者だ。

聖職者、という言葉が性職者と変換され、誠一郎はそのベタなAVタイトルのような馬鹿さ加減に「うわぁっ」と叫んで思い切り壁に頭を打ち付けたい衝動に駆られた。


二十歳そこそこのガキじゃあるまいに、落ち着けオレ。


 二人でマンションに来る間に、駅ビルに入っているレストランで食事を済ませ、猫の出産の為に必要だろうからとガーゼと薄手の手術用手袋とを購入をすませた。

 小百合のマンションは有名な不動産グループの冠マンションで、賃貸だと恥ずかしそうに笑って、部屋ごとに付けられている小さな門を通り「散らかってますけど」と囁きながら誠一郎を招きいれたものだが。誠一郎は「――そうですね」という言葉をなんとか飲み込むことに成功した。


 誠一郎は特別綺麗好きではない。

だが、彼の姉であるひなこは極度の「できないさん」だった。

放置しておくとひたすらモノを溜め込む。捨てることができない。そして片付けることが出来ない。台所は使ったら使いっぱなしになり、誠一郎が見てみぬフリができるのは二日の間だけだった。

やがて誠一郎は仕事で自分の手に現金が入るようになると、食器洗い機と、乾燥までもこなす全自動洗濯機を購入した。なれない外仕事、事務、それに合わせて子育てと家事、誠一郎は自分が過労死する現実しか見えなかった為だ。ただし、乾燥までしてくれる洗濯機は、乾燥してそのまま放置され、しわくちゃの衣類に悩まされたが。


 小百合は玄関に入ってすぐに置かれているゴミ袋をどかしながら「えっと、あの……どうぞ?」と頬を染めていた。


 着替えて来るという小百合を見送り、リビングに残された誠一郎は買い出して来た袋と、そして自分の持ち込んだタオルなどを手に頭をめぐらせた。

 部屋の主が居ない間に、ほんの少し片付けるのは無作法だろうか。

ここは女性の部屋だ。きっと手を触れられるのは真理的にイヤなものだろう。イヤに違いない。

 だが、リビングのテーブルの上は片付けてもいい筈だ。


ソファの上の洗濯物に手を触れなければ!


 幸いソファの上の洗濯物は着替えをすませた小百合が慌てて一気に抱き込むようにしてどこかの部屋に運ばれていった。誠一郎の経験上、この部屋が片付くとまた別の部屋が混沌とするのだと理解していたが、それには目をつむろう。

 洗濯物がなくなると、なんとなく部屋が片付いているような気もする。

 テーブルの上の……カップラーメンの食べ残しとか、やたら気にかかる気がするが、気のせいだ。と、言葉遊びのように単語が踊る。


「一号は?」

「一号はいつも奥の猫部屋です。ベランダにも出られるとこで、日もあたるし、居心地が良いように」

 と、案内された猫部屋は、意外にも片付いていた。

というか、モノが無い。四畳程の――おそらく、納戸とか、物置とかに使われそうなその部屋には、猫用のキャットタワーが置かれ、猫用の荷物を置く為のカラーボックス。そして産箱。餌と水とが置かれている。トイレはどこだ? と誠一郎が眉を寄せると、ベランダに出られるように小さな出入り口が作られ、トイレはベランダに有るのだと小百合は説明した。もともと、猫飼いの為の部屋なのだという。最近はマンションも猫飼いや犬飼いに優しい作りをしているようだ。思い返せば、マンションの入り口の脇に犬用の足用シャワーも作られていた。

「一号を頂いた時は、動物禁止のところで――すぐにここに引っ越したんです」

 と、小百合は恥ずかしそうに言ったが、誠一郎はまったく別のところで恥ずかしがって欲しいと切に思った。


 大雑把にリビングを片付け、デバ地下で買った小百合おすすめのスイーツを食べ、産箱のある猫部屋を時折覗き込み、小百合の使っているというノートパソコンで猫の出産についてを確認しながらのんびりと過ごす。

 小百合が「すみません、少し仕事しますね」と作業する間、誠一郎は猫部屋に引きこもって時折産箱をのぞいていた。

 時刻はどんどんと巡り、終電のことを考え始めた頃あいに、誠一郎が一旦トイレを借りていた時に小百合が悲鳴をあげた。 


「高凪さんっ、なにかいるっ」

 慌ててズボンのチャックを引き上げて、大雑把に手を洗って猫部屋へと駆け込むと、小百合が半泣きで誠一郎へとぶんぶん手を振った。


 一匹目はすでに産み落とされていた。

濡れて、頼りなくよろよろというかよよよと動く物体に、覗き込んだ小百合はもう一度悲鳴をあげそうになり、慌てて自分の口を両手で塞いだ。

 親猫は次の出産の方に意識を向けていて、産み落とした子供のほうは放置されているような状態だ。

 誠一郎はこくりと喉を鳴らし、用意していた薄手の手袋をはめ込み、手のひらに途中で立ち寄った量販店で買ったガーゼをのせた。

「先生、洗面器にお湯を」

「あ、はい、はいっ」

 慌てている小百合だが、指示すればすばやく動き出す。お湯はすでに準備万端で電気ポットで沸かされている。それに水を足している気配を感じながら、これなら大丈夫だろうと誠一郎は意識を猫へと向けた。


 産まれたての子猫は自分の頭も重そうに頼りない。体中が濡れていてほかほかと湯気がたち、それがやがて震えにかわっていくから、誠一郎は丁寧にガーゼで体を拭ってやった。

 一匹目、血やらなんだかねばつくモノを拭い去って綺麗にすると、今度は二匹目が産まれている。

 親猫の一号はやっと「生まれた子猫は舐めてやる」という本能を呼び覚まされたのか、今度の子供はべろべろと舐めてやっていた。

 それを確認して少し安堵する。と、尻のほうでは三匹目の出産が始まっていて誠一郎は優しく「あとはオレがやってやるからな」といいながら、猫の目を見ながらそっと子猫を引き取った。

 一匹目をタオルにくるんで膝に抱えていた子百合は、小さな声で「二号ちゃん、寒くない?」と囁いていて、誠一郎は危うく噴出しそうになった。


――そうだよな、一号の子供だから二号か。

んじゃ、こっちが三号でこっちが四号……


 おかしな脱力を覚えていると、ふいに小百合が誠一郎を呼んだ。

「高凪さんっ」

「はい?」

「……この子、鳴かない?」

 五号――四匹目の子猫が産み落とされたが、その羊膜が破れると途端に他の子猫達はか細く鳴いていたというのに、その子猫は声をあげず、くたりとその場にへたれていた。

 一目見て駄目だと理解できた。

他の子猫よりひときわ小さく、身じろぎもしない。小百合の瞳が大きく見開くより先、誠一郎は汚れたタオルの上に横たわるその小さな体をすくい上げ、その顔に思い切り息を吹きかけた。

 水泡のようなものが小さな鼻腔を塞いでいたのを吹き飛ばし、顔を少し乱暴にふき取って口を直接つけて息を吹き込む。その間にもガーゼで小さな体をさすり水分を拭う、二度、三度、息を注いで――けぷんっと、くしゃみのような小さな音と共に、子猫は身じろぎした。


「よしっ、偉いぞ五号」


 誠一郎が安堵して声にすると、小百合が顔をあげ「え、どうして――」と口にした途端、かぁっと顔を赤らめた。一号の四番目のコドモだから当然五号。だが混乱をきたしている小百合はその名前を誠一郎が口にした意味が理解できなかったのだろう。

 単純にして明快であるのにも関わらず。そして咄嗟に口にした途端に理解した。

一瞬そんな相手を「可愛い」と認識してしまった誠一郎は、奥歯を噛み締めて色々な感情を押し殺した。


 そんな人間達など知らぬ様子で自らの子供を心配そうに見ていた一号が「カカカカ」と鳴いた。思い切り威嚇されてしまったが、誠一郎は苦笑でそれを流し、意識を切り替えた。

 気がたっている出産時の猫にしては、一号は我慢している。それでも、誠一郎はそっと肩をすくめて「おまえね、オレは命の恩人だろ?」と愛情を込めて囁いた。

 拾った時の一号は、こんなに小さな産まれたての猫ではなかった。

産まれて一ヶ月くらいは経過していただろう。

 一月――それはつまり、無責任な飼い主が飼い猫から生まれた子猫を一月見つめ、そして捨てたのだ。もし親猫も野良だったというのであれば、おそらくあの箱の中に親猫もいた筈だ。

 それを思うと誠一郎は苦い気持ちがこみ上げる。

それとも捨てられた猫を更に捨てた?

 どうしてこんなに小さな生き物にそんなことができるのか判らない。いや――推測ならばいくらでもできる。面倒くさいとか、飼えないだとか、つまりはそういう理由だ。

 誠一郎だとて、あの日公園で捨てられている子猫達を見つけた時に一目で連れて帰る決断をした訳ではない。


 見てはいけないものを見た。

正直に言えばそうだ。どうして見つけたかな、と思ったものだ。

しばらく箱の中を眺めて、幾度か溜息を落として。

「五匹かー。なっちゃん怒るかな」

いやいや、なつるは怒らないだろう。能天気に「ちょっ、うわっ可愛いっ」と喜ぶだろう。

少しは怒るかな……

 昔はなつるが犬や猫をひろってきて、誠一郎に黙ってこっそりと飼おうとしたものだ。ひなこもグルだった。そもそもひなこは良く考えないから。そうして誠一郎は二人をしかりつけて、なんとか飼い主を見つけたものだった。

 あの当時は到底なつるとひなこの面倒をみながら更に小さな生き物のことなど考えてやれる余裕は無かった。

「やれやれ」

 最後にわざとらしい言葉が口をついた。

 それでも、自分を見上げてくるその生き物達にそのまま背を向けることは無理だった。自分は見てしまった。網膜に張り付いた映像はきっと背中を向けた途端に痛みに代わる。

 どうにかできたんじゃないか。

死んだんじゃないか。

 オレがあの時拾ってやれば……そんな思いをぐだぐだと腹に溜め込むよりは、自分にできることを精一杯やればいい。 

 だが、それができない人間がいることも現実だ。

手を差し出せるか差し出せないかの境界線。たまたま誠一郎であっただけ。

 誠一郎が悲しいのは、きっとその日一日――捨てられた猫達を見た全員が、何かしらの心の痛みを抱えていたということだ。

 動物を捨てる行為は幾人の心にも痛みをもたらす。

見つけた人全てに。

 おそらく捨てた人間は多くの人間が見るようにと公園の入り口に――通学路のそこに置いたのだろう。早く拾ってもらえるように。

 そしてそれをコドモ達は見た筈だ。その小さな胸を痛めたかもしれない。

 

せめて、良心が咎めていればいい。

可愛い子猫達を手放して悲しめばいい。

誠一郎は苦いものに首を振った。

考えても正しい答えなど出るはずはないのだ。

単純なものではないのだから。


 一号の前に子猫を差し出すと、一号がぺろぺろと愛情を込めて最後に生れ落ちた子猫を舐めてやる。

やがて胎盤などの処理を終えると、すでに時刻は午前の三時を巡る頃合となっていた。

激しい虚脱感がどっと押し寄せて、誠一郎の体が壁に寄りかかる。

 ふと思い出して誠一郎が視線をめぐらせると、小百合は――猫用の荷物の置かれているカラーボックスに寄りかかるようにしてくったりと寝ていた。


「……」


 オレにどうしろっていうんだ?


 誠一郎はぐるりと目を天井へと向け、ついで汚れた手袋を外してゴミ入れに放り込み、産箱の中で子猫達に乳をあげている黒猫を眺めた。

黒いものだから目がどこにあるか判らない。

 それでも、横になり産まれたばかりの仔猫達に乳を与え、慈愛を込めてせっせとその毛づくろいをしてやっている。

 まだ目すら開かぬ小さな生き物達は、必死に母猫の乳房にすがりつきもそもそと動いている様子が愛らしい。

 四匹のうち二匹が黒く、一匹が白と黒のぶち。そして一匹が尻尾の先端と耳の先端あたりがわずかに黒っぽい白猫だ。

「どんな組み合わせだ? もしかして一号はもてもてか?」

 他の動物に関して詳しくは無いが、確か猫は雄親に関していえば重なることがある。同時期に違う雄と関係を持てば父親違いの子供が産まれてくることも不思議ではないのだ。


 誠一郎はいつもの癖で手を伸ばして猫に触れようとして、また「カカカカっ」と威嚇された。

「そうつれなくするなよ。なぁ、オレこれからどうしたらいい?」

教えてくれや。

 

 とりあえず手を洗おうと立ち上がり、誠一郎は持参したバスタオルを小百合にかけた。

やれやれと洗面所に行こうと向けた足を――誠一郎は台所の前でぴたりと止めた。

 台所はカウンター式になっていて、リビングから覗き込もうと思えば覗き込めたのだが、なんとなくそれはしてはいけないような気がしていたのだ。

だが、廊下側から誠一郎は扉の無いそこを視界に入れてしまった。

いい訳をするのであれば、見たくて見た訳でない。

女性の一人暮らしだ。各所をのぞくなどとんでもない。誠一郎はその辺りをわきまえていない訳ではない。

 そう、決して。


何よりそこは見てはいけない、禁断の場所だった……――


「真鶴さん、ひなこがいる、ひなこが……」


魂を飛ばすように言葉が落ち、無造作にシャツの袖をたくし上げる。

誠一郎はそのまま台所の中に足を踏み入れ、シンクの蛇口を押し下げた。

つみあがった食器と鍋。


まずは大物の鍋から片付けよう。





 



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