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真鶴さんは知りません

 ぴーぴーぴーという電子音が止まり、車のサイドブレーキを引くと丁度社長――高凪誠一郎が事務所の横にある自宅用の玄関から出てきたところだった。

 仕事でなくとも着ている高凪設備のロゴが入ったジャケットではなくて、今は普段着の様相に夏用の薄手のジャケット、いつもとは違うエコバックのようなものを持っている。

 窓から「社長」と声を掛けると、誠一郎は苦笑するように片手をあげた。


「お疲れさん、どうだった? 古沢は?」

「古沢の給料減らしてやってよ。あいつ最後の丹さんの自宅行く時に、デートだからって逃げやがりましたよっ。そりゃ、スポットで入ったヤツで人間も要らないけど」

 茶化すように言えば、誠一郎は肩をすくめた。

「そういえば、以前からニマニマとデートだからって楽しみにしてたっけか。すまんな、一人で大丈夫だったか?」

 ずっと好きだった喫茶店のウェイトレスの子にやっと声をかけてとりつけたデートで、本来であれば今日の仕事はもっと早く終わる予定だった。

 だからやきもきした古沢喜一は途中で逃げ出したのだ。


 大きな会社ならともかく、大木健吾の居る設備会社は小さく、そして社長はさまざまなてんで融通を利かせてくれる。

 健吾自身、無茶を言って突然休みをもぎ取ったこともあるし、今回とは逆に仕事の途中で古沢を説き伏せて半ドンをかましたこともある。

 ただ、はじめのうちこそそれを許す誠一郎を対応を「チョロイ」と思って馬鹿にしていたが、彼の人となりに馴染むうちに自分の行いに嫌気がさして、今は誠一郎の信頼に応えられるようになり、やがては独り立ちし、時には誠一郎の期待に応えるように肩を並べて仕事をしたいとまで考えるようになっていた。


「個人宅の水周りくらい楽なもんですよ」

 空笑いを浮かべ、先ほど古沢の行いを告げ口のように言ったのも忘れたように「古沢にウェイトレスの子の友達と合コンセッティングしてもらえないかと狙ってましてね。社長もどうですか? ばりばりの大学生ですよっ」

「大学生かぁ、無理。なっちゃんくらいの年齢はどうもね」

 誠一郎はひらひらと手を振った。

事務員のなつるは現在二十歳で、誠一郎はなつるが三歳の頃から父親のように面倒を見ていたのだという。なつると同年代だと思うとどうしても恋愛対象にはならないのだろう。未だ三十五手前で、小さいとは言え会社を切り盛りしているのだから、そこそこ悪い物件ではないと思うのに、誠一郎自体に女性にたいしてのやる気が見られない。健吾などはそれを見るともったいないと思う。

 誠一郎は坊主でもあるまいに達観しすぎだ。


「じゃあ片付け済ませたらあがって。昼間、隣のおばさんから佃煮頂いたんだ。なっちゃんに言ってあるから、良ければ持ってかえって」

「佃煮……スカ」

 好んで食べるものでは無いので曖昧に呟くと、誠一郎が笑う。

「味は美味かったよ。イナゴだ」

――アウト。

完全に無理だ。

 健吾はびよーんとイナゴがその脚力でもって飛び跳ねるのを想像して身震いした。

「じゃあ、オレ出かけるから」

 誠一郎が軽く手を振って歩いていくのを見送り、健吾は助手席の上着を引っつかんで仕事用のバンからおりた。

 普段であればガラス扉のところに三毛猫の真鶴さんが出迎えてくれるのだが、今日はその姿が見えない。

 眉を潜めて扉を開くと、事務机のところで「私は仕事中です」という顔をした飯塚なつると、猫じゃらしをはたはたと振るスーツ姿の男が一人。

「お疲れさまです」

 なつるが嬉々として声をあげた。


オレピンチ――


 なつるの眼差しがまるで救世主を面前にした乙女のように輝いているが、猫じゃらしを手にしている男は正反対の眼差しを向けている。

 ゴミ虫を見るような……と表現しても差し支えはないだろう。無機物である石ころでももう少し優しさをもって迎え入れられてもおかしくないのではないかと思う。

「大木さん、お疲れ様です」

 なつるは救世主である健吾ににこやかに対応し、立ち上がるといそいそと言った。

「外、暑くなかったですか? アイス珈琲いれましょうか?」

「……いや、うん。ありがとう」

 普段であればなつるがそんな気遣いを見せることなど滅多にない。自分が飲みたい場合のみ「大木さんも飲む?」と聞いてくるぐらいだというのに。今日の彼女ときたら、まるきり一般的な事務員のようだ。

 なつるは大木の言葉にそそくさと奥にある台所へと消えていった。


――頼む、真鶴さん、何とかこの場をどうにかしてくれ。


 世界共通の癒しアイテムよ、その威力を発揮しろ、遺憾なく。

しかし願いは届かないばかりか、真鶴さんはそっぽを向いている。

 頼むからヤツの手にある猫じゃらしにせめてじゃれつけよ。間がもたないだろ。お前は本当に猫なんだろうな? 

 実は中におっさんが入ってるんじゃないのか?


「……」

 健吾は喉の奥で呻きながら自分の席に手を掛け、愛想笑いを浮かべた。

「浅宮さんこんにちは」

「こんばんは」

 浅宮は淡々と言った。


 ちきしょう! そうだよな。今はもう夕方も過ぎだよ。

こんばんはが正解だ。

ドチクショウ!

 普通の神経の持ち主なら、もっとにこやかに「こんばんはですよ、この時間ですからね」とか。若しくは心優しくこちらの言葉に合わせて「こんにちは」って返すだろうが。淡々と「こんばんは」と返すか、普通?

 たのむ、なっちゃん早く戻れ。帰って来てくれ。君こそが真の救世主だ。世紀末の唯一の猛者に違いない。

 そもそも、そもそもだよ。なんで社長も出かけちゃうんだよ。いや、あいつだ。あの馬鹿。ふーるーさーわ! この男と対等に話せるのは空気の読めないお前しかいないんだからな!

 何がデートだ。ふざけんな。


 健吾は作り笑いの口の端がひくひくと引きつるのを感じた。

そのまま自分の席に座ろうとしたが、その場に居たくないという本能が健吾を突き動かす。

「あっれ、っかしぃなぁっ、アレどこだったかな?

……なっちゃん! なっちゃーん」

 わざとらしくなつるを呼びながら健吾は駆け出したいのをおさえながら事務所の奥にある台所に入り込み、戸棚のところで悠長にも珈琲のドリップをしているなつるを発見した。


――ドリップって……普段はパックのアイス珈琲だろ。元々はペットボトルを購入していたのだが、ずぼらななつるはペットボトルの空を大量に溜める為にパックに切り替えていただろ? 絶対に冷蔵庫に入っている筈だろうが。

 そうだよ、そもそも事務所のちっこい冷蔵庫をあければ缶コーヒーだって入ってるだろ? 一缶五十円程度の大安売り箱買いのやつがさ。


「なんでわざわざ時間掛けてるかなっ」

 思わず声をおさえて忌々しさを隠さずに言うと、なつるは恨めしいというように上目遣いに健吾を睨んだ。

「どうして大木さんはアレを放置してこっち来るかなっ。真鶴さんの貞操が危ないっ」

なんだそれ。

「なっちゃん」

 ひそひそと二人で話していると、突然背後から声が掛かった。

まるで悪いことをしているかのようにすぅっと背筋に寒いものが走る。なつるもびくりと身をすくませ、引きつったように顔をあげた。


「はいぃ?」


 なつるは完全に声を裏返した。

事務所と台所を隔てている扉を開き、不細工な三毛猫を抱っこした男はまるで気配を感じさせなかった。

 無駄なところで存在感をばりばりにかもし出すくせに、こんなときは猫のように動けるらしい。

「なっちゃん、私にも珈琲をもらえるかな」

 浅宮は穏やかな調子で言うのだが、何故こんなに威圧感があるのか健吾には理解できなかった。

 この男はこれがデフォルトだ。

普段からこんなおかしな気配をさらして生きている人間がいると思うだけで世の中って怖いと思う。

 しかもこの浅宮という男は、極度の猫フェチだった。


――この事務所の主である三毛猫の真鶴さんを目当てにこの会社に訪問している、健吾が知る限り一番の、ものすっごい猫フェチだ。

 ドーベルマンや巨大シェパードが似合いそうだというのに、この男はその腕に無理やり完璧雑種のでぶった三毛猫真鶴さんを抱いている。

 真鶴さんは心底嫌そうにこちらを見ながら「なー」と低い声で鳴いていた。

目つきの悪い猫は惜しむことなく迷惑そうだが、健吾は心から真鶴さんを生贄として進呈したい気持ちだった。

 真鶴さんが自分の猫であれば、もうさっさとリボンとノシとをぐるぐる巻きに巻きつけてお歳暮でもお中元でもいいので差し出していたことだろう。だが、あの不細工で目つきの悪い太った猫は残念なことに健吾の猫ではない。

 社長である誠一郎の愛猫だった。

齢三十五間近にして隠居しているような誠一郎には、確かに真鶴さんは良く似合っている。年寄りが縁側で茶を飲みながらその膝の上に猫を乗せているのを想像して欲しい。それくらいのベスト・マッチだ。

 こっそりと真鶴さんをこの男に進呈したら、今だって隠居しているかのように見える誠一郎は、唯一の心のよりどころを失いあっさりと昇天してしまうのではないだろうか。


 男寡は妻を追うかのように短命になり、女寡は逆に生き生きとして長生きするという。


「なっちゃん?」

 浅宮が瞳を細めて呼びかけると、なつるは「少し時間掛かりますよっ」と早口で言い立て、そして健吾はそそくさとその場から逃れようと足を踏み出そうとしたが、何を思ったのか彼女は思い切り健吾の足を踏んだ。


「――」


 ぐぐぐっと踏みつけられる重みが、なつるの心の全てだった。

いくら鈍い健吾だとてこの場合の彼女の心の訴えなど理解できる。

 だがしかし、健吾は自分が可愛かった。尊敬する誠一郎の姪であろうが、自分より可愛いものは無い。

 ずずっと無理やり足を引き抜き、一目散にその場から離れた。

できればこのまま浅宮が台所で落ち着いてくれることを願いつつ、その脇をすり抜けた。


ったく。なんだって台所になど来た?

おとなしく愛する猫と出窓のところでくつろいでいればいいものを。

嘆息交じりに自分の席に戻り、ふと健吾は眉を潜めて台所へと続く扉を見た。

――まさか、なつる目当て?

 はじめて浮かんだ思考に、けれど健吾はイヤイヤと首を振った。


 浅宮程の男であればもう少し上のランクの女を見つけるだろう。

だが浅宮はあれだけブッ細工で目つきの悪いデブった三毛猫をこよなく愛する男。絶対に趣味は悪そうだ。

 健吾はなつるの容姿を思い浮かべたが、何より先になつるのずぼらな性格を思い出して苦笑した。

 魚を焼けば焦がすか生煮え――仕事も単純なミスが多い。給料計算で間違えを犯したのは二度や三度ではない。ただ、きちんと誠一郎がその後しっかりと計算しなおしているので健吾達の手元には間違いなく届いているのが幸いだ。


 健吾は苦笑しながらパソコンをたちあげ、本日の報告書の作成に没頭した。

本来であれば今日は少しばかり長居して、誠一郎にCADを教わろうと思っていたのだがその誠一郎もすでに居ない。

 事務所はよけいな人間がいて居心地も悪いし、さっさとすませて帰ろう。

健吾がパソコンのキィをたたいていると、ふと視線を感じて健吾は顔をあげた。

「……」

 事務所の出窓のところに顔があった。

高校生くらいの少女。ブレザーの制服にネクタイではなくリボンタイが可愛い。いまどき古風にも三つ編みのおさげという少女は、ハっとした様子で健吾と顔をあわせた途端、赤くなった。


「あー……」

 そのままくるりと身を翻して行こうとする相手の姿に、健吾はキイっと音をさせて事務用の椅子から立ち上がり、さっさと事務所の入り口から顔を出した。


「何か用?」

急いだつもりだったが、生憎と相手はもう駆け出していた。


 健吾は前髪をかきげあ嘆息した。

もう何度目か判らない。彼女はああして時々訪れてはこの事務所の中を覗き込んでいるのだ。

 こんな小さな設備会社にいったいぜんたいどんな用があるのだろうか。

小学生達のように真鶴さんを見ているのだろうか? 真鶴さんはどう見ても不細工で目つきが悪くて、お世辞にも可愛いとは思えないような太った猫だが、何故か小学生には人気がある。いや、浅宮というおかしな男も釣れるのだから、もしかしたら、真鶴さんを「おっさんくさい可愛くない猫」と思っているのは健吾だけなのかもしれない。

 まさか、趣味が悪いのは自分なのか?


 なんだかすっきりとしない気持ちで健吾はガラス扉を閉ざし、台所と事務所とを隔てている扉の左下、猫用の小さな出入り口から顔を出した真鶴さんを見た。

「あれ、真鶴さん」

 そうか、奴隷解放されたか。

太い尻尾の猫はとととっと歩き、いつものように出窓の定位置に落ち着くとせっせと身づくろいをしはじめた。


 まるで浅宮に撫で回されたところが穢れてしまったとでもいうように、せっせと。


――真鶴さんの貞操。


 確かなつるがそんなことを言っていたな、と思い出し、健吾は乾いた笑いを浮かべて出窓に近づくと真鶴さんの頭を撫でた。


「なっ?」

 低くうなるように反応を示す猫をじっくりとながめ、健吾はしみじみと言った。

「おまえ不細工だよな?」

 まさかその日本語が理解できた訳ではないだろうに、真鶴さんはぐりぐりと撫でる健吾の手の下から頭をぐいっと引き出すと、びしびしっと猫パンチが続けて二発炸裂した。


「――真鶴さんは可愛いスよ、ええ、ホントにね」


 しっかりと爪を切られている猫パンチは肉球の感触のみ。

これといって猫好きな訳ではないが、健吾はこの肉球は気に入っている。でかい猫である真鶴さんのパンチ力はなかなか重い。更に身を低くしてパンチを繰り出してこようとする猫から笑いながら離れて、健吾はもう一度席に戻りパソコンに向かった。


 最後のエンターキィを押して顔をあげれば、まだ事務所の中には自分と真鶴さんだけだった。

ちらりと時計で確認すれば、あれからすでに二十分は確実に過ぎている。

果たして自分のアイス珈琲はいったいどうなったのだろうか?

催促しにいくべきか、だがあの台所は今や危険地帯だ。レベル3程度の。


「……なっちゃーん、オレもう帰るよっ」


 返事は期待していないが、ここは台所をのぞいてみるべきだろうか?

何故か本能が止めておけと言っている気がする。

しかしここは会社だ。そしてなつるは同僚だ。敬愛する誠一郎の姪。

何かおかしな事態になっていたらその責任は……

それに、あくまでも姪は姪で娘じゃないし!


「真鶴さん、ちょっと見てきてよ」

「な?」

「いや、だからさ。頼むよ」

 健吾的にはあの扉にはすでに結界が張り巡らされているような気がして開くことに躊躇してしまう。

 ということで、健吾は窓辺のでぶった三毛猫をひっ捕まえるとそのまま台所の扉の下の猫用出入り口の中に猫を放り込んだ。


――あとは真鶴さんに任せた!

何があっても後のことは知らんっ。


 そそくさと自分の荷物を纏め上げて逃げようとした途端、奥から「大木さんっ、佃煮!」と叫ぶように聞こえたが完全に無視した。

 そう、佃煮。

 悪いがそれはダメだ。

足のついた佃煮など食べられません。

 脱兎の如く逃げ出し、自分のバイクへとたどり着いた健吾は、電信柱のところに先ほどの制服の少女がいることに気づいた。


「あのさ?」

 声を掛けると、また慌てだす。

それでも健吾はもう一度口を開いた。

「うちの会社に、何か用?」

 極力優しく問いかける。まさか水周りで何か困ったか? 仕事なら明日に、いや明日明後日は休みだから勘弁して欲しいが、そもそも水周りで困っているのであればもっと早い段階で云うだろう。彼女はだいぶ前から何度も会社をのぞいていたのだから。


 鞄を手にした少女は、思い切ったように視線をあげた。

「あの、誠一郎さん……いませんか?」

 消入りそうな問いかけに、健吾は瞳を見開いた。


――社長! コレはアウトっ。

中高生はダメだろうっ。

犯罪ですっ。

完全に混乱しそうになったが、面前の少女は思い切るようにしっかりとした口調で言った。


「私、真鶴といいます。

誠一郎さんに話があるんです」


健吾の頭におかしなゲーム画面が浮かんだ。

猫耳をはやした可愛い女の子。

「真鶴にゃっ」猫が擬人化して嫁になった。



――んなわけあるか。






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