真鶴さんは気にしない
「ああ、おめでただね」
具合が悪そうになっていた愛猫の様子に、加賀屋小百合は泣きたい気持ちで動物病院に駆け込んだ。
小百合は小学校の音楽教員で高学年の生徒をもってはいるが、担任はしていない。だからといって時間の融通が利く訳でもない。
最近愛猫―― 一号の様子が少し違うような気はしていたが、卒業式だの入学式だのの忙しさにかまけて後回しにしてきてしまった。
どんどんと後ろめたさが溜まり、どうしようと悩んでは一号を譲ってくれた、学校の通勤途中にある設備会社の入り口で溜息をついていたら、窓辺からこちらをのぞきこんでいる三毛猫の真鶴さんと視線があった。
「なうー」
真鶴さんが口を軽くあけて鳴く。
それは小百合をせめているように感じて、とうとう一号を病院につれて行ったのだ。
「おめ、でた?」
医師の言葉に、小百合はその場にへたりこんでしまいそうになった。
「見た感じは三匹くらいかな。でももう一匹くらいは覚悟したほうがいいけど――」
馴染みの動物病院の藤堂は、言いづらそうに言葉をつなげた。
「処理するつもりなら、そのまま避妊手術もしてしまったほうがいいね」
「え?」
「……予想していなかったんでしょう?」
藤堂が暗い顔を見せることに、小百合は思わず声を荒げそうになり、留まった。
――猫の妊娠など考えていなかった。
一号と、もしかしてもう一匹くらいならなんとか面倒がみれるかもしれない。けれど、三匹、若しくは四匹の猫の世話など自分にできるだろうか?
一号の子供……あら、猫って一匹で妊娠するの?
「加賀屋さん?」
「あの、猫って一匹で妊娠するんですか?」
ぼんやりと小百合が尋ねると、藤堂はなんとも不思議そうな顔をした。
「あ、ごめんなさいっ。でも、うちの一号は室内飼いで、マンションのベランダくらいしか出ないから」
天気の良い日にはマンションのベランダで日向ぼっこをしている。ブラッシングでつやつやした黒毛がとても綺麗で小百合はその姿が大好きだ。
「加賀谷さん、部屋は何階?」
「三階です」
「……微妙なところだけれど、おそらくそのベランダによその猫が来たんだと思うよ? どうします? 先ほども言いましたけれど、処理するなら避妊手術も一緒にしてしまったほうがいい」
小百合は今まで一号の避妊のことを考えていなかった。
一度その決意をしたのだが、こことは別の医者に「手術は全身麻酔で、そのまま目覚めない可能性も無いとは言えません。その覚悟はして下さい」と言われた時、絶対に避妊などしないと誓ったのだ。
病気なら仕方ない。けれど、病気でもないのにそんな風に一号と別れる可能性などイヤだった。
猫飼いとして怠慢だといわれれば、小百合は何もいえなくなってしまう。
そして、避妊しなかったばかりに今回のような事態が持ち上がったのだ。
小百合はぎゅっと自分の手首を強く掴んだ。
一号は洗濯用のネットに入れられ、寂しそうに小百合を見上げて「ニャー」と鳴いている。
その瞳を見つめ、小百合はきゅっと唇を引き結んだ。
――もう二度と、命をないがしろにしたくなかった。
あの時のように。
「避妊は――あとでお願いします。でも、今回は……今回できた命は、大事にしたい」
引き絞るように出た言葉に、藤堂は安心するように息をついた。
「現在の状態から、産まれるのは半月程たってからのことだと思います。だいたいこの辺りかな」
カレンダーをボールペンの後ろで示し、藤堂は続けた。
「ダンボールか何かで産場を作ってあげて下さい。お気に入りのタオルとかを入れて。幾つか作ってあげると、気に入った場所におちついてくれますよ。基本的に人間が手助けしなくとも勝手に出産してくれます。時間は結構かかりますが、できれば一号の神経を逆撫でしないように見守ってあげて、もし出産におかしな点、母猫があまりにも泣き叫ぶとか、子猫が途中から出てこないとか異変がありましたら、病院につれてきてください」
「出産は病院じゃないんですか!」
咄嗟に真っ白になって叫んだ小百合だが、藤堂は苦笑しながら「ご自宅です」と簡潔に告げた。
***
幸い、生まれた後の子猫の貰い手はすぐに見つかった。
「そうですか、残念です」
体育の国立教諭が爽やかな笑顔で猫の貰い手はもうつきましたから、と断る小百合に微笑んで見せたが、正直に言えば国立の許にはもともと子猫をあげる気は無かった。
馴れ馴れしいこの青年は苦手なのだ。
それより目下小百合を悩ませているのは、日に日に大きくなる一号のお腹だ。
昨日病院に連れて行ったところ、今日の夜か明日あたりには産まれるのではないかと藤堂が請け負った。
できれば自分が仕事をしている間に生まれていて欲しいと思っているのだが、出産という事象は不思議なもので、夜に集中するのだという。
このところ小百合は良く眠れない日が続いていた。
いつ出産がはじまるかとか、一号が苦しくて悲鳴をあげている夢を見たり、もっとおそろしいことに一号の腹を食い破るようにして子猫が産まれる悪夢に悩まされているのだ。
子猫が産まれることは純粋に嬉しい。
嬉しいのだと思う。
それと同時に、自分のことを激しくののしっていた。
――きちんと避妊手術しておけばよかった。
不安で、不安で、最近は帰宅する途中の高凪設備の出窓の三毛猫――真鶴さんを見ながら涙まで流してしまった。
「あ、一号ママ先生」
ひょいっと顔を出した高凪設備の事務員である女性の姿に、小百合は慌てて目頭を押さえて涙を隠した。
「こんにちは、真鶴さんはいつも元気そうですね」
とりつくろうように言えば、事務員――飯塚なつるは肩をすくめる。
「もぉホント、無駄に元気ですよ」
「真鶴さんは……」
「はい?」
「――去勢してるんですか?」
込み入った話しだ。こんなことを尋ねるなんて。
慌てて言葉を訂正しようとしたのだが、なつるは気にしていないようだった。
「真鶴さんはおんにゃのこですので避妊手術ですよー。まぁ、勿論してます」
言いながらなつるは「ちょっと待っててくださいね」と示し、一旦店舗に戻ると真鶴さんを抱えて戻った。
ふてぶてしい顔の三毛猫は、迷惑そうに「なー」と鳴いた。
小百合はそっと真鶴さんの頭を撫でた。真鶴さんもきちんと手入れをされていて、毛艶が良い。
さわり心地は一号にとても似ていて、またしても泣きたいような気持ちになった。
なつるは人好きのする笑顔でおもむろに真鶴さんの持ち方をかえて、くるりと真鶴さんのお尻を小百合に見せた。
「はい、おんにゃのこなのに、なぜか毛がもっさりしててたまたまに見える真鶴さんのお尻」
小百合は思わずぶーっと噴出してしまった。
「面白いでしょー」
なつるがけらけらと笑うが、小百合にはなつるが面白かった。
「真鶴さんをオスだと勘違いした人が、譲ってくれーって大騒ぎしたこともあるんですよ。メスだって言ってるのに。まぁ、真鶴さんってほら、ふてぶてしい顔してるから男の子っぽいし」
眦に浮かんだ涙は、楽しさからくるそれで――小百合は久しぶりに心から笑えたことに感謝した。
と、事務所の奥から「なっちゃーん、ちょっと」と声がかかり、なつるは小百合にぺこりと頭を下げた。
「呼ばれちゃった。一号ママ先生、今度はゆっくりお茶でものみに来てくださいね?」
「ええ」
うなずきながら真鶴さんをもう一度撫でて、ふっとなつると真鶴さんの背を見送った。
ガラス張りの事務所の扉を通って、なつるが奥にいる高凪設備の社長である高凪と楽しそうに話している。
それを見ながら、なんとなく、笑顔がだんだんと消えていくのを感じた。
小百合は――誠一郎を見ると、罪悪感で一杯になるのだ。
***
あの日、おそらくきっと……はじめにダンボールの中の子猫を見つけたのは小百合だった。
音楽コンクールの準備があり、いつもより早く出勤していた小百合は、公園の入り口でその箱を見つけてしまった。
つたない子供のような文字で「かわいがってください」と書かれていて、それを見た途端、小百合は自分の心臓が鷲づかみにされたような息苦しさを感じた。
箱の中から、か細い声が「にーにー」と聞こえていて、咄嗟に小百合は「見ちゃ駄目っ」と呟いた。あたしは見ていない。あたしは知らない。自分には仕事があって、仕事が……――ひょこりと、箱の中から、子猫が顔を出した。
その時はそのショックが大きくて、その子猫が産まれてもう一月はたっているということにすら気付かなかった。ただひたすら恐ろしいもののように、逃げた。
学校にいる間も、小百合は自分に言い続けた。
自分には仕事がある。
自分には無理――きっと誰かが、きっと……
それと相反して、小百合は違うことを考えていた「あの子猫達はもう死んでしまったかもしれない。誰にも拾ってもらえなかったかもしれない。あたしが……あたしが見殺しにっ」
数日の間眠れない日々が続いた。
あの公園を避けて暮らした。
そして―――ある日、子供達が話しているのを聞いた。
「この間公園に捨てられてたにゃんこ達、高凪設備のおじさんとこにいるんだって。出窓のとこで遊んでるの超可愛い」
「知ってるよ。うち一匹もらうことにしたの。今、おじーちゃんと交渉中。パパもママもいいって言うんだけど、おじーちゃんは犬派だからさ」
楽しそうに言う子供達の脇をすり抜けて、小百合は荷物をぎゅっと抱きしめて――その日、まるで怖いもの見たさのようにいつもとは違う道を通って高凪設備の前を通った。
出窓のところには子供達が張り付き、子猫の愛らしさをああだこうだといっていて、そして高凪誠一郎が「窓に指紋つけだくってんなー」と笑いながら、中にいた子猫を抱えるようにして事務所から出て、子供達に披露した。
三毛猫、黒猫、サビが二匹。一匹はしろ。
面白い程柄違いの愛らしい子猫達を、誠一郎はいつくしむようにしながら眺めて、子供達と楽しそうにしていて。
――小百合は、胸が一杯になった。
まるで幸せの象徴のようだった。
切ないくらい。自分にはないものを相手がもっているかのように見えた。
猫を見捨てた自分と、そして――猫を拾った誠一郎。
酷い自分と、優しい誠一郎。
誠一郎が三毛猫をあやしながら、ふと視線をあげて小百合を見た。
「ああ、確か」
「一匹、頂いていいですか?」
小百合は切羽詰るように言った。
言ってから、後悔した。自分に子猫が育てられるかどうか自信などないのに――無責任な!
「先生は一人暮らしですか?」
誠一郎はしばらく小百合を見つめそう聞いてきた。
「一人暮らしです」
駄目ですか?
いや、むしろ駄目なら駄目でホッとした。ホッとしながらますます自分がイヤラシクて汚いものに感じてくる。
あたしの馬鹿!
「じゃあこの子がオススメ。一人でいるのが好きだし、大人しい。でもあと二ヶ月はこっちで預かりますよ。トイレのしつけとかはできてるから心配は要らないですけど、その間に猫に駄目なものは片付けておいて下さい。細かいものとか誤飲したりするし、悪戯されて困るものは片付けたりね」
三毛猫をおろして、ひょいっと持ち上げたのは黒猫だった。
――ああ、やっぱりお前はあたしのところに来る運命なんだ。
ダンボールからひょこりと顔を出したあの時から、もう決まっていたに違いない。
そう思った途端、自分の中にあるどろどろとしたものが流れ落ちた。
そっと抱き取って、誠一郎に笑いかける。
「大事に、大事にします――このコに一目惚れだったんです」
***
一号が産箱に入ってる。
朝、それを確かめてそっと手をいれると一号は低く威嚇するような音を出した。
もうすぐ、そうきっと今夜辺り。
そう思うと不安がどんどん膨らんでいく。一号のお腹がでこぼこの形で、おかしな動きをするのが怖い。
もう何度目かの覚悟を決めて、けれど今夜家に帰るのが怖い。
だらしのない自分を叱責して通勤していると、自分の目の前で高凪設備のシャッターが内側から開いた。
「……」
作業用のジャケットを着た高凪誠一郎がシャッターをあげて伸びをする。
その姿を見た時、小百合は――安堵した。
それまで不安で押しつぶされそうになっていた自分が嘘のように。
「おはようございます」
一瞬ためらったが、それでも声をかけると誠一郎は軽くうなずくようにして同じ言葉を返してくれた。
「先生、肩のとこ猫の毛が」
「あらっ」
慌てて確かめようとしたけれど、誠一郎はそれからすぐに事務所に戻っていこうとするから、なんだかがっかりとした。
けれど誠一郎は中からカーペット用のコロコロ粘着シートを手に戻り、
「失礼」
そしておもむろに小百合の肩にコロコロを押し当てるから、小百合は内心動揺していた。
まるで夫婦か何かのように親密な行動で、けれどちっともイヤな気持ちにならない。
衣類に毛がついているなんて異性に言われたら、きっと憤慨すると思うのに、むしろ幸せな、優しい気持ちになった。
「すみません、ありがとうございます」
「いやー、えっと」
誠一郎が照れるように慌ててそんな風に言うから、はじめて照れくさいような気持ちになった。
気恥ずかしさを誤魔化すように、慌てて視線を落とせば誠一郎の足に真鶴さんが身を摺り寄せた。
「真鶴さんは今日も元気そうですね」
その言葉に誠一郎はコロコロを片付け、真鶴さんを抱き上げた。
きっと彼は自分の子供のこともああして優しく抱き上げるに違いない。
まとわりつく子供を優しくあやして、日曜日には親子三人、あたしと誠一郎と子供とで手をつないで――
そのシーンを思い浮かべて、小百合は動揺した。
――ちがっ、そうじゃ……なくて。
「先生のトコの一号はどうしてます?」
ふいの言葉に、小百合はハっと息を飲み込み、ついで現実を思い出した。
一号は、一号は……
「あの、時間ですので」
おかしな妄想と、そして現実とに何を言うべきか判らなくなって、慌てて逃げるようにその場を後にしていた。
足音高くその場を離れながら、小百合は激しく後悔した――
一号の妊娠を、きっと誠一郎は喜ぶだろう。
きっと優しく笑みを浮かべて、真鶴さんを抱っこするように子猫達を扱ってくれる。
そう思うと小百合は決意していた。
――自分には無いものを持つあの人に――
一号、ついでに真鶴さんも。
「今日っ、私の家に来てくれませんかっ?」
勇気を、頂戴。