真鶴さんはアテにはならない
「おはよう、真鶴さん」
高凪誠一郎は自宅の一階にある事務所へとおりていきながら、階段の脇にある棚の上にいた三毛猫の頭を撫でた。
もう片方の手が顎をさするのは、髭をそったものの少しばかり手触りが宜しくないのが気にかかるためだ。
「なっちゃんはまだかい?」
誠一郎の姪である飯塚なつるは、誰より早くやってきて事務所の窓をふきあげるのが日課だが、どうやら最近の彼女は疲れている。
「昨日も浅宮クン来たのかい?」
鼻で息をつくようにして猫に問いかけると、分別臭い顔の三毛猫は「なー」とつまらなそうに鳴いた。
「男女交際っていうのはいいもんだね」
どこかなげやりに言いながら、誠一郎は事務所へと続く扉を開き、薄暗い室内のライトをともした。
高凪誠一郎は年寄り臭い物言いをしているが、実際は未だ三十五のちょい手前。まぁ、二十歳のなつるにしてみれば十分オジサンだろうが。
もともとこの会社はなつるの父親である飯塚義之がやっていたのだが、その義之はなつるが産まれて三年目に病気がもとで亡くなった。義之の妻であり、誠一郎の姉であるひなこは途方にくれた。
「誠ちゃんっ、税務署ってどうすればいいの? ひな姉ちゃんは家計簿だってつけてないのにっ。組合って何? 健康保険と土建ってどう違うの? 予定されてる仕事ってほっといたら駄目? 社員のお給料とかどうしたらいいの?」
――十八歳の誠一郎に何ができるというのだろうか。
自分の将来の為に受験勉強にも打ち込んでいた。大学に入り、その間に海外に行って視野を広めてと色々とあたためていた計画は一気に消えた。
姉のひなこも、まだたった三つのなつるも見放すことなどできなかった。
当時いた従業員の三人が必死に設備について学び、なんとか会社を維持しようとする誠一郎を見捨てていたら今頃はこの会社も無かっただろう。
なつるが十一の頃にひなこは再婚し、それを機会に社名が変わった。
飯塚設備ではなく高凪設備に。
別にそんなものはどうでもいいと誠一郎は言ったが、ひなこは「ここはもう誠ちゃんの会社だから!」と譲らなかった。
そう、ひなこは理解していないのだ。
名前が変われば社印も名詞もロゴも封筒も役所の届けも全て変わって面倒臭いということを!
何度言い聞かせてもひなこは頑として譲らなかった。
「だってここはもう誠ちゃんの会社だものっ!」
――いちいち取引相手に案内状も出さなくてはいけないとか、銀行通帳だって……――そう、誠一郎はひなこに勝てたことはない。
ひなこにしてみれば、新しい夫に対して「飯塚」の名前を残しておくのはイヤだったのだろう。
ただ誤算があるとすれば、なつるは新しい父親との養子縁組を拒絶した。
「あたしは飯塚なつるだし、学校とか名前かわるのイヤだし」
ひなこと新しい父親である岸辺はなつるを説得したが、なつるは最終兵器を突きつけた。
「名前をかえるくらいなら、あたしは誠ちゃんの子になる!」
かくしてなつるは飯塚の名前を勝ち取った。
その強さをオレも持ちたい。
誠一郎は久しぶりに自分で事務所のシャッターをあけながら朝の光を体に受けてぐぐっと伸びをした。
「おはようございます」
丁度事務所の前の通りをランドセルを背負った子供達と、そしてスーツ姿の女性が通りかかり、誠一郎ははじめて自分がいつもよりずっと早い時刻に起きたのだと気付いた。
どうりでなつるが来ていない訳だ。
「加賀屋先生、おはよー」
子供達がはしゃぎながら女性に言う。
そう、彼女は近所にある小学校の音楽の教師である加賀屋小百合だった。
ゆるくウェーブのかかる髪に、ほんのりと化粧をしている。そのスーツについている黒い毛に、誠一郎は笑った。
「先生、肩のトコ猫の毛が」
「あらっ」
加賀屋は途端に顔を赤らめ、ぐりんと首をめぐらせて確認しようとするが、それより先に誠一郎は半身を事務所内に突っ込み、出入り口に置かれているカーペット用の粘着ローラーを引っつかんだ。
「失礼」
肩をコロコロとやってから、はたりと気付く。
これはもしやセクハラかっ?
慌てた誠一郎だが、加賀屋は気にしていない様子で微笑んだ。
「すみません。ありがとうございます」
「いやー、えっと……」
はははっとコロコロを手に誠一郎は頭をかいた。
「真鶴さんは今日も元気そうですね?」
加賀屋の視線が、ふと誠一郎の足元に落ちた。
いつの間にか誠一郎の足元に出ていた三毛猫の姿に、誠一郎は慌ててコロコロを元の場所に戻し、真鶴さんを抱き上げる。
真鶴さんは扉が開いているからといって逃げたりはしないが、完全室内飼いをしている誠一郎としては黙ってみている訳にはいかない。
「先生のトコの一号はどうしてます?」
一号、というのは加賀屋が飼っている黒猫の名前だ。
もともとは誠一郎が拾った猫だったが、事務所の出窓で遊んでいた黒猫に心を奪われたという加賀屋によって貰われていった。
真鶴さんの兄弟猫の一匹だから、今頃は真鶴さん同様大きな猫になっているだろう。
「……あの、時間ですので」
ふっと、加賀屋は言葉を濁して視線を剃らした。
慌てるように誠一郎の腕の中にいる真鶴さんの頭を撫でて、そそくさと立ち去るその姿に、誠一郎は言葉を失った。
―― 何か悪いことを言ってしまっただろうか。
だとすれば、それは……
「真鶴さん、世の中ってのは色々あるんだよ」
真鶴さんを抱きしめて、誠一郎は深く息をついた。
誠一郎が拾った猫は五匹で、その全てがきちんと天寿を全うする幸運はきっと少ないのだ。
加賀屋が悪い訳ではない。
運命というものは……
「あれ? でもネコの毛?」
誠一郎は小首をかしげ眉を潜めたが、ふと気付くと通学中の子供達が真鶴さんをつついたり尻尾を引っ張ったりしながら「真鶴さーん」とやっていて、慌てて「学校行きなさいっ」と追い立てた。
***
早い時刻に外仕事から戻った誠一郎は、パソコンで施工写真のプリントアウトをしながら唇を尖らせている事務員であり姪であるなつるの姿に首をかしげた。
「どした? 何か足らないか?」
足らない写真が施工前だった場合はいったいどうしたらよいのか。
「誠ちゃーん」
どうやら考えにふけっているなつるは、事務所内では滅多に呼ばない呼び方で誠一郎を呼んだ。
「今日も浅宮さん来るって」
――浅宮は元請けである会社の事務員で、最近なつるの仕事上のミスがもとでなつると顔を合わせるようになったのだが、しょっちゅう仕事あがりに事務所に顔を出すようになった。
事務の仕事をなつるに教えてもくれるありがたい存在だが、なつるはあまり歓迎していないらしい。
「真鶴さんがハゲないといいけど」
ぶつぶつ言うなつるは、空いている手でネコじゃらしをぶんぶんとうごかしているが、真鶴さんは多少あきているのか、時々面倒くさそうに手を出してやる程度だ。
真鶴さんは結構律儀だ。
「浅宮クンが来ると真鶴さんの餌が豪華だから、真鶴さんも歓迎してるだろ」
彼は決まって高級缶詰や猫用のお菓子を持参し、真鶴さんの写真をとったりと忙しくしている。一見してただの猫フェチだが、その実真鶴さんと一緒にしっかりとなつるの写真もとったりしているので、どちらがダシだか判ったものではない。
なつるはどうやら浅宮が真鶴さん会いたさに顔を出していると思っているようだが――まぁ、若者のことはほぅっておこう。
と、その時事務所の電話が音をさせ、なつるが慌てて背筋をぴんっと伸びして受話器に手を伸ばした。
真鶴さんが固定電話の音に不機嫌そうに「なー」と鳴く。
「はい、お待たせいたしました。高凪設備です」
なつるがてきぱきと対応しているのを尻目に、誠一郎は冷蔵庫から缶ジュースを取り出してプルトップをこじ開けた。
この事務所では生憎と心優しい事務員は不在らしく、戻ったばかりの社長といえど飲み物を用意してはもらえない。
なつるは電話機の保留ボタンを押し、誠一郎を見た。
「社長に電話。1番、相手は加賀屋さん。加賀屋さんって一号ママ先生だよね?」
一号ママ先生、なんか変な言い方だ。
そもそも一号という名前もへんだが、加賀屋の話しによると「ヘタな名前をつけると生徒の名前とかぶってしまうので」ということらしい。
そういわれると確かに。
だが、だからと言って一号ってどうだろう。
誠一郎は眉を潜めつつ、ちらりとなつるを見て隣にある応接室の方に引っ込み、電話を受けた。
「もしもし、お待たせして申し訳ありません。高凪です」
きっと彼女は謝罪を口にするのだろう。
一号のことで。
そう思うと心が痛む。確かに譲ったのは誠一郎だが、もう二年も前のことだし、加賀屋の飼育方法に問題があったなどということは無いだろう。
名前は変だが。
――動物病院ではきっと「加賀屋一号ちゃん」と呼ばれていたと思うと、あまりにもアレ過ぎる。
「あの、今朝はすみませんでした」
どう切り出せばいいだろうかと迷うような調子で加賀谷は言った。
電話を通すと声音が変わる。しかし声楽を学んでいたという加賀屋の声は耳に心地よい。
「いいえ、こちらこそ」
誠一郎は言いながら椅子に座り、なんとなく視線を窓の外――狭い庭に咲く水仙の花を見た。
加賀屋の名前は小百合か……今度暇があれば百合を植えてみようか。
「あのっ、不躾なお願いなのですけれどっ」
加賀屋は突然声のトーンを上げた。
「今日っ、私の家に来てくれませんかっ?」
勢いのままに吐き出された言葉に、誠一郎は思わず「は?」と短くかえしてしまった。
「うちの一号がっ」
「一号が?」
「妊娠してるんですっ」
「妊娠っ!」
誠一郎は思わず大きな声で叫んでしまった。
まて、一号ってメスだったか? 五匹も子猫を拾った為、どれがオスでどれがメスだかぴんと来ない。
「獣医の先生の話しだと、きっとこの数日に産まれるって言うんです。夜に可能性が高いって。お腹、なんかエイリアンがいるみたいにぼこぼこしてて、凄く怖くてっ。勿論妊娠は嬉しいんですっ。子猫が産まれたら欲しいって生徒もいて、だから妊娠は純粋に嬉しいんですけど、とにかく怖くてっ」
「……」
「高凪さんならきっと対処してくれるって信じてますっ」
――三十五の男をどのように信じているんだ。
「えっと……加賀屋先生は一人暮らしなんですよね?」
「一号と二人暮らしです。だから怖くてっ」
「オレがお邪魔していいもんですかね?」
「来てくれないと困るんですっ」
さすがに学校の帰りに二人で連れ立って自宅に行くのは問題なので、駅前で待ってますからと力説され、誠一郎は脱力するような気持ちで受話器を置いた。
一号が生きていてくれたことは純粋に嬉しい。
だが、果たしてこれはいいのだろうか。
誠一郎はぐったりとしたまま隣の事務所に戻り、足元に来た真鶴さんを抱き上げた。
と、視線を上げるとなつるが怖い顔で誠一郎をにらみつけた。
「責任はちゃんととらないと駄目だよ!」
「は?」
「妊娠させたんでしょっ。ああ、もぉっ。一号ママ先生と誠ちゃんがそういう関係だなんてちっとも気付かなかった。ちゃんと誠意を見せてよね? 結婚式はちゃんとあげてあげないとっ」
「ちがうっ!」
***
約束の時間までに、誠一郎はパソコンを前に猫の妊娠についてあれやこれやと調べ、必要なものをプリントアウトして新年の挨拶用であまっているハンドタオルと、新しいバスタオルとを手荷物にまとめあげた。
といったところで、今夜産まれるかどうかなど神のみぞ知る。
あの先生はその辺りをいったいどう考えているのか。
と、缶コーヒーを一口飲んだ頃合に、浅宮がいつも通り猫の餌を抱えて扉を開いた。
「お邪魔します」
「ああ、浅宮クンこんばんは」
「なつるさんは?」
「なっちゃ――なつるは……」
ふとした悪戯心が芽生えたとして何が悪かろう。
誠一郎は口元が緩むのを堪えた。
「なつるはもう帰ったんじゃないかな? 真鶴さんなら窓辺にいるから、どうぞ好きなだけ撫で回していいですよ」
実際はなつるは裏手の倉庫で備品を片付けている筈だ。つい先ほど材料屋が届けてくれたものをラベルをチェックして棚にいれている。
「帰った、んですか?」
冷たい声音に誠一郎は椅子から立ち上がり、窓辺で香箱座りしている目つきの悪い真鶴さんを持ち上げた。
「どうぞ」
「――」
猫フェチなオトコは深く溜息を吐き出し、真鶴さんを抱き上げた。
「……高凪さんは、コイビトはいるんですか?」
ふいに浅宮はちらりと誠一郎を見た。その不信感のある眼差しと、真鶴さんをどこかおざなりに抱くその様子に、誠一郎は笑いを堪えた。
もう少し虐めてやろうかと思ったが、丁度仕事を終えたなつるが事務所の奥の扉を開きながら、「誠ちゃん、ああ、ごめん。社長。テントウムシのメンテした方がいいよ? 埃かぶっ――うおっ、浅宮さん早いですね」と取り繕うように微妙な笑顔を向けた為、誠一郎の浅宮虐めは強制終了となった。
ちなみにテントウムシは超小型ユンボの俗称で、その中央部分が本当にテントウムシの形にデザインされている。ついでに言えば、高凪設備では運搬用手押し一輪車をにゃんこという。
「誠ちゃん……」
小さな声で浅宮が冷ややかに呟いた声は、おそらくなつるには届いていないだろう。
虐めは強制終了したが、どうやら思いがけず相手にダメージを与えたようだ。
笑いを堪えながら誠一郎は用意しておいた荷物を抱えた。
「なつる、オレは次の仕事に行くから、他の連中が戻ったら戸締りきちんとしてかえるように」
てきぱき言いながら、誠一郎は浅宮が持参した猫餌の入っている袋を軽く持ち上げた。
「いつもホントすんませんね」
これは一号の土産にしよう。
真鶴さんの餌は阿呆程あるし、どうせこれからも無駄に増えるだろうから。
誠一郎は内心口元が緩むのを隠しながら、機嫌の悪い浅宮と、そしてどこか疲れたような魂を飛ばしているようななつるから背を向けた。
――真鶴さん、なつるのキューピッド役がんばってくれや。
とりあえず、年寄りは退散してやるからさ。