真鶴さんとも関係ない4
翌日、菓子折りを持参した主婦と子供が一人。
「うちの子が迷惑をおかけしました」
丁度誠一郎が居ない時間であった為、対応したのはなつるであった。なつるは勢いをつけて頭をさげる少年に困惑する。
もちろん、誠一郎から話はきいていたが、そんなに早く相手が来るとは思っていなかった。むしろ来ないのではないかと思っていたくらいだ。
「いえ、うちは仔猫を拾っただけですから」
「この子も反省しておりますし。我が家できちんと話し合いました。このまま仔猫を引きとって帰りたいと思っているのですが、可能でしょうか?」
そう母親が言えば、少年はうさぎのようにぴょこんっと顔をあげる。その頬は蒸気して嬉しそうではあったが、あいにくともうすでにこの事務所には仔猫がいないのだ。
なつるは受け取った菓子を返すべきではなかろうかと思いつつ、ゆっくりと首をふった。
「すみません。
猫は現在――」
一号ママ先生の家に戻っていますと口にしかけて、慌てて口を閉ざす。たらたらと汗が流れそうになったのは、普段から一号ママ先生で済ませている為に小百合の名前を度忘れしたのだ。
「あの、音楽の先生の家に」
「小百合先生のとこに返しちゃったの?」
非難するような甲高い少年の言葉に、ぺしっと母親の手がその頭をはたく。
「そうですか――いろいろとお手数をおかけして申し訳ありません。社長さんによろしくお伝え下さい」
深々と頭をさげ、ふと窓辺に香箱座りをする真鶴さんに眼差しを細めた。
「真鶴さんにも迷惑をかけちゃったわね。ごめんなさいね」
――とっておきの猫缶を四つも食べられたわよ!
真鶴さんが言葉を操ることができたのであれば、おそらくそんな苦情が届いたことだろう。なつるは出ていく二人の背を見送り、息をついた。
果たして小百合は彼等に猫を渡すだろうか。
いったん裏切られた信頼を構築しなおすのは難しい。
自らの愛猫から産まれ落ちた仔猫たちを、愛しんで慈しんで育てて身を切るような思いで里親に出したのであろう。なつるにも覚えがある。そもそも、真鶴さんは他の兄妹猫達と一緒に捨てられていて、なつると誠一郎で育てて里親へと送り出した。
一匹一匹減る仔猫に激しい寂しさを覚えたものだ。
小百合にしてみれば、自分の目の前で生れ落ちた仔猫達だ、その思いはきっとひとしおであったに違いない。
だから、どうしてもため息が出てしまう。
――あの親子を見れば、きっともう似たような過ちをすることはないだろう。ほほえましいような気持にもなる。だが、小百合にもう一度あの子を手渡す気持が出るかどうかは判らない。
失った信頼は……
なつるは音をさせて事務椅子に腰を落とし、窓辺で我関せずと眠りこけている真鶴さんを眺めた。
もう一つ、ため息がでる。
時刻を見れば、いつもであれば浅宮が顔を出す頃合い。
けれど、浅宮はやって来なかった。
彼自身が最後に残した言葉は、永遠の決別の言葉であったのか。
――なつるは彼の心に踏み込みすぎた。それは十分、判っていた。
三日たち、週が変わり更に週が変わった。
毎日の生活の中でなにもかわっていない筈なのに、どんどんとなつるの気持が沈み落ちていく。
ただ猫好きが顔を出さなくなっただけ。
仕事に支障がある訳でもなく、ただ、ただ――ふっとなつるの視線が自らの携帯に向かう。当然のように携帯電話の呼び出し音もならない。メールも届かない。
唇を噛んで、そっと携帯に手を伸ばした。
掛ける言葉は浮かばない。
ごめんなさいというのもおかしい気がする。確かに自分は相手の気持ちを無視して入り込みすぎてしまったかもしれないけれど、思っていることは変わらない。
自分で自分に鎖をかけて、心を閉ざして。
誰も望んでいない。誰も幸せになれない。
猫が好きなら、そんな風に自分を痛めつけて生きていかないで欲しい。好きなら好きだでいいじゃないかと思うのは、なつるが単純すぎるのだろうか。
なにも、なにも浮かばない。
泣き笑いの顔でいるなつるに、ふといつもの出窓にいた真鶴さんがいつの間にか事務机の上にとんっとおりたち、すりっとなつるの腕に身を摺り寄せた。
まるでなつるの沈んだ気持を慰めるかのように。
なつるは息をついて、メール画面を開いた。
――真鶴さんに会いに来ませんか?
いったん打った文字を、一文字づつ消去する。
まっさらになった画面に、息を吸い込んでゆっくりと文字を入力した。
――来て、くれませんか?
なつるはそのままばったりと机に突っ伏し、かぁっと上がった体温に悲鳴をあげたくなった。
じたばたと暴れるなつるの耳に、来客を示すカウベルの音が入り込む。大慌てで体を起こせば、そこに立つのは誠一郎で――あからさまに自分の気持ちががっくりと項垂れるのを感じた。
「おかえり、なさい」
「おう。明日の朝、四号が来るから世話頼むな」
さらりと言われた言葉の意味が判らずに、なつるは首をかしげた。
四号――
「なにかの材料?」
四号管?
それとも螺子とか。
「ばーか。猫だよ、猫。小百合先生のトコの仔猫――朝出勤する時に小百合先生が預けていいかって連絡が来たから、いいっすよと言っといた」
呆れた口調に、そうだ猫じゃないかと慌ててしまう。
ハチワレの仔猫は四号ちゃんだった。
「里親がちゃんと決まったんだと。朝出勤時にうちに預けて、夕方引き取りにくるから昼間の間世話してやって」
その言葉に複雑な心境になった。
その後どうなったのか聞いていなかったが、そういうことになったのだろう。心のどこかで、あの少年の家にもう一度戻れるのだろうかといろいろと考えていたのだが、やはり小百合は断ったのか。
まぁ、一度預けた猫を逃がされたというか捨てられたというか……ふつうであればそこに猫を戻すことは無理だ。
嘆息して、なつるはふと手にある携帯を眺めた。
画面は落ちてしまっているが、きっとあの文章がそのまま残されている携帯。出しそびれてしまった一文を、なつるは視線を落として全てキャンセルした。
***
翌日、なつるが事務所に顔を出すとすでにキャリーケースから引っ張り出された猫は従業員である古沢に撫でまわされていた。
「おはよー、なっちゃん。見てみて、ヅラちゃんだよ」
「四号だってば」
なつるは言いながら「早くない?」と首をかしげる。
外仕事の大木や古沢は早出としてこの時刻に事務所にいることはままあるが、時計を確認しても現在はまだ小学生の通勤時間にも早い。
小百合が来ることを見越して、それでも普段よりは幾分か早めに出てきたなつるだ。
「ああ、昨日先生のマンションまで引き取りに行ったんだ。朝の満員電車でキャリーケースなんて持ち込んだら暴動がおきるだろ?」
大げさな物言いで誠一郎が顔を出す。さすがに暴動はおきないかもしれないが、想像すれば確かに迷惑な話だ。満員電車の中に猫アレルギーの人がいないとも限らない。
「社長にしては気が回る」
誠一郎にニヤニヤと言えば、いやそうな顔が返された。
「いっそ一号ママ先生もそのまま自宅に連れてきて泊めてあげればよかったのにー」
「おまえねぇっ」
怒ったように言う誠一郎に、なつるはきゃーっと言いながら台所へと引っ込んだ。台所でコーヒーメイカーにレギュラーコーヒーをセットして、ふと足元にいる真鶴さんにおはようと声をかける。
真鶴さんの眼差しがいつもより剣呑なのは、仔猫の存在がある為かは判らない。なつるは軽く笑って真鶴さんの頭を撫でた。
――真鶴さんに会いに来ませんか?
……我ながらなんともズルい。
真鶴さんなら浅宮を釣れると思う。でも、なぜ浅宮を釣りたいのかといえば――この空虚な心を埋めたいからだ。
たかが二週間顔を見ていないだけで、その声を聴いていないだけでなんとも胸の辺りがすかすかとしてしまう。
今頃は何しているのかとか。
どこの猫に浮気しているのかとか――おかしな思考がもたげてしまう。
認めない訳にはいかない。
それがつまり、どんな感情かなんて。
ものすごく、理不尽でものすごく納得できないけれど。
なつるはふとしゃがみこみ、真鶴さんをひょいっともちあげた。ずっしりと重い猫は、突然だきあげられて「ひゃ」というかすれたような奇妙な高い声で鳴く。
「どうせあたしは……真鶴さんのおまけだもの」
それで甘んじられればきっともっと気持は楽であろうに。それだけではイヤだという思いが、真鶴さんをネタに浅宮にコンタクトを取ろうという気持ちにフタをする。でもそれいがいの何があの人と自分との接点となりえるのだろう。
――きっと、触れてほしくないものに無遠慮に触れてしまった自分に。
「なっちゃん、なつー。
もう出るから――猫、頼むな」
事務所のほうから掛けられる声に、なつるはハッと目をまたたいて慌てて立ち上がった。
すっかりと自分の世界に落ち込んでいて、時計をみればもう随分とすすんでいる。出来上がってしまっている珈琲の香りが台所に充満し、近所にある小学校からチャイムの音が届いていた。
そうして誰もいなくなった事務所で、なつるはキャリーケースに戻されていた猫をひょいっと覗き込んでもう一度目をまたたく羽目に陥った。
「増えているんですけど……」
ハチワレの四号と共に、黒猫が一匹。サイズは四号とかわらない。多少小さいくらいだが、二匹はよりそって眠っている。
「黒猫……えっと、これなんだっけ」
眉をひそめて記憶を手探りし、たどりついたのは里親に出されていなかった四匹目の猫。
一番最後に生れ落ちた為にかちょっとばかり発育不良の、つまるところ、五号ちゃん。
「五号ちゃんも来てたのかー」
なつるは気を取り直して微笑を浮かべた。
一人でいると落ち込んでしまう。真鶴さんを見ると――なんとなく浅宮を考えてしまう。ならばかわいい仔猫を堪能して、今日一日は幸福に浸ろう。
もうじき世の中はクリスマス。
なんとなくもの悲しさを覚えてしまうが、かわいい猫がいれば幸せだ。
「ま、里親に貰われていっちゃうんだけどね。
ただの一時預かりだけどね」
それでも二週間は事務所で保護していたのだから、なつるにだってハチワレ四号ちゃんにはすでに情がある。眠っている仔猫をついついと指先だけで触れて、なつるは今日一日は電話番のみに専念しようと誠一郎に聞かれたら怒られそうなことを考えた。
「まー、いいでしょう」
堂々としたサボリ宣言であったが、事務所で聞いているのは真鶴さんと仔猫が二匹。なつるは仔猫二匹をひょいひょいとつまみあげ、事務所の片隅にある合皮のやっすいソファにどさりと座り込んだ。
浅宮がまるで自分の定位置のように座っていた場所。
「こんな猫天国めったにないのにねー」
強がるように言ったのは――ここには居ない誰かへの嫌味。
届くこともない、呟き。