真鶴さんとも関係ない1
目が合った――
平日の昼時、普段であれば会社兼社長自宅の台所で適当に社長(笑)の前夜の残り物を食べて昼食代を浮かせるところであったが、その日は炊飯器の中に御飯も残っていなかったし、万能食材である卵すら冷蔵庫に入っていなかった。
「誠ちゃんののーなし」
親愛なる叔父への悪態をぼそりと呟き、仕方なく近所のスーパーにでもお弁当を買いに行こうと財布を片手に出かけた帰り。
運がいいのか悪いのか、ばっちりと目があってしまった。
……白と黒のハチワレの仔猫。
おそらく生後二ヶ月程度の、それはそれは愛らしい仔猫様。
道端でぺたりとすわり、こちらを見て声の出ない鳴き声をあげている。
「……」
ぱぁっと脳内にアドレナリンが撒き散らされ、一気に心はお花畑に旅立った。猫がいる、それはすなわち構い倒さなければ嘘というものだ。
しかし、慌てて近づくのは浅はかだ。
警戒心のある仔猫を相手にそんなことをしては一目散に逃げられてしまう。幸い自分の右手には先ほど購入した弁当――いやいや、駄目だ。人間の食べ物は基本的によろしくない。油やら調味料で味付けされたものはまったくもって許されない。
お米のみ、食べてくれるだろうか?
――というか、餌付け行為は禁止。
心の中で葛藤を繰り返し、むぐむぐと口元が歪むのを感じる。
悩んで悩んで、必殺――そぉっとしゃがみこんでじりじりと近づき、手を軽く握るようにして何か持っているフリ作戦。
なんといっても弁当の香もちらっとするかもしれないし、人間に酷い目に合わされていないのであれば結構近づいてくれるかも。
そんな悪い考えでじりじりとしていたら、猫は案外あっさりととてとてと身近にやってきて、差し出した指にすりっと身をすりよせた。
「――」
***
出先から戻った誠一郎は、わざとらしい程に深く息を吐き出した。
「で、どうするのよ、コレ」
「どうしましょうか、コレ」
膝の上には真鶴さん用のとっておき御飯であるマグロ猫缶を堪能し、てっぷりとお腹をふくらませた八割れぶち仔猫が気持ち良さそうに寝ている。
そしてエサを奪われた真鶴さんは、現在ずいぶんとおかんむりの様子で何故か台所の冷蔵庫の上で置物のように座っているらしい。
「近くに親猫がいたんじゃないのか?」
「そうかなって思って二時間くらいまったけど、いなかった」
「おまえは仕事しないで本当に何してるのっ」
しまった。昼間仕事をさぼっていたことを暴露してしまった。
事務所はちゃんと鍵をかけておいたといえば許されるだろうか? 逆に火に油を注ぎそうな気もしないでもないが。
「じゃあ、誠ちゃんはこんな小さい子を捨てておけっていうの?」
「飼い猫かもしれないだろ」
「こんなちっさい子を外飼いにしている人なんていないよ」
「逃げた猫とか」
「じゃあ保護しないとっ。秋もとっくに深まって、あっという間に冬だよ! あっという間に冷凍にゃんこ」
立て続けのやり取りに、誠一郎は天井を仰ぎ見てがっくりと肩を落とした。
今だ! と勢いをつけて寝ている猫をわしづかみにしてずいっと誠一郎の前へと突きつける。
「とにかく! 置いて来いっていうなら、誠ちゃんがおいてきて。あたし無理。絶対に無理」
「お前なぁ。どうせ飼うってなったらお前が飼う訳じゃないんだろうが。お前のアパートペット不可じゃないの?」
「飼うもんっ。ここでっ」
「その場合の飼い主はお前じゃなくてオレっ」
大当たり。
声をあらげた誠一郎だが、無理やり仔猫を押し付けられて嘆息交じりに眠たげな仔猫を抱きこみ、顔を覗きこんだ。
「あれ……」
「なに?」
「なんか、この猫……――似てる、かな?」
誠一郎は無意識のように呟き、更に顔を近づけて猫をよくよく観察しだす。眉間に皺を刻みつけて、首をかしげて見せる様子になつるも首をかしげた。
「誠ちゃんの隠し子?」
「オレ猫じゃないし」
「真鶴さんの隠し子?」
「避妊手術してあ――あああっ、それだっ」
誠一郎は目を見開き、仔猫をひっくり返して尻尾の付け根を確認した。それから更に唇をへの字にまげて、ずいっとなつるに猫を返してよこす。
「誠ちゃん? 真鶴さんは避妊済みだから隠し子は無理よ?」
「――一号の子に似てる、気がする、ような気がする」
ぼそりとあやふやに呟いた誠一郎は、やがて吐息を落とした。
「で、この子どこにいたって?」
「一号って、一号ママ先生のトコの? ただの他人の空猫じゃない? だって一号ママ先生の家って電車乗って行くんでしょ? この子を拾ったのは、そこのスーパーの近くの道路だよ? 公園の近くの」
いくら何でもこの距離を移動はしまい。そもそも、一号やら真鶴さんを拾ったのはこの近所の公園の為、もしかしたら血の濃い兄弟猫やら従兄弟猫やらがいてもおかしくはないだろう。
じぃっと仔猫の顔を観察しても、いまいち良く判らない。嘆息を落として誠一郎はなつるの手へとその猫を戻した。
「貰い手みつけるなりなんなりしろよ」
それは当面はおいておいていいという許可。
ぱっとなつるの顔に笑顔が広がったが、いつの間にか某家政婦のように扉の影に移動していたらしい真鶴さんは、顔半分だけ出した形で「ぐなー」と鳴いた。
ぶつぶつと言いながらも事務所の右手の扉、台所へと通じる扉を抜けて自宅へと入っていく誠一郎を見送り、なつるは上機嫌で仔猫を膝に乗せた。
「エサは仔猫用買って来ないと駄目かなー。缶詰は真鶴さん怒るみたいだし。真鶴さんのカリカリをふやかせばいける? あ、でもミルクは必要か。人間用の牛乳は駄目だし」
ぶつぶつといいながら仔猫の柔らかな体毛に指先を沿わせ、反対の手ではさっそくネットで猫用品をチェックする。気持ちが浮き足立っていた為か、なつるは夕方の来訪者に気づくのに一拍遅れをとった。
「おじゃまします」
カウベルの音と共に美声が響く。
相変わらず声だけは麗しい。
「――あー、浅宮さん」
引きつった笑みを浮かべ、ついですぐになつるは膝の上の仔猫を持ち上げた。
「浅宮さん、仔猫要りません?」
「――」
実物を目にすればイチコロだと思われた猫フェチであったが、飛びつくどころか軽く目を見開いて口元を微妙に歪めた。
「いえ……猫は、飼わないことにしているので」
確か、以前にもそんなような話をした覚えがある。
浅宮は本当に心の底から変態かお前といわれそうな程に猫フェチではあるが、最終的に猫と別れることを気に病んで猫は飼えないというのだ。
「でも、この子は産まれ立てですよ」
脈略もなく言ってみた。
別れるにしたってずっと先だ。十年、二十年はいかなくとも十五年だって生きられる。別れがあったとして、ずっとずっと先だという思いで口にしたのだが。
「生後二ヶ月から三ヶ月です」
きっちりと訂正された。
どうやら大きさで判るようだ。さすが猫フェチ――ぱっと見だけで言い切る。
「貰って来たのですか?」
「違いますよ。道路にいたから拾ったの。親猫も見えなかったし」
「だったら迷い猫ですよ。目脂も無いし」
浅宮は言いながら手を伸ばし、なつるの手にいた猫をすくいあげるようにしてさらうとひっくり返した。
「口も汚れていない。匂いも――お尻も綺麗なものだし。この子は室内にいた子です」
尻尾の先をつまんで肛門をチェックするスーツの男に、なつるは笑顔を引きつらせた。これほど微妙な雰囲気をかもしだせるのはある意味立派な才能だ。
「迷い猫として届けたほうがいいですよ。探しているかもしれない」
「でも。首輪もしていないし」
「ああ、もしかしたらマイクロチップが入っているかも」
――そこまでは考えていなかった。
「あー、じゃあ病院に連れていけば」
マイクロチップの有無は調べてもらえるだろう。動物病院にはマイクロチップを読み取るリーダーがあるはずだ。
ぼそりと言った言葉に、浅宮は激しく反応した。
「まさかと思いますけど」
「え?」
「拾ったあとでまだ病院にいってないのですか?」
「え、うん。拾ったのさっきだから」
その後浅宮は驚愕に目を見開いた。
「もしこの子に病気があって、真鶴さんに病気が移ったらどうするのですか! 猫風邪とかっ、一度キャリアになったら一生ついてまわるのですよっ。
まだ予防接種だってしていないかもしれない猫とペットを一緒にしちゃ駄目ですよ」
――相手は重度の猫フェチである。
……
「スミマセン」
もうなんか謝っておいた。
***
――仔猫は可愛い。
成猫も可愛い。
年老いた猫も当然可愛い。
浅宮にとって、猫はいるだけで正義である。
別に猫が好きだからといって犬が嫌いな訳ではない。猫と犬とを並べられれば、猫が好きなだけであって、猫派であると公言もできるがべつに犬が嫌いな訳でもない。
ただ正義は猫にある。
現在も仕事中であるなつるにかわり、すでに本日の仕事を終えた浅宮は率先して仔猫を動物病院に連れていって初期診療を全てすませて来た。
仕事ができる浅宮はそんなところもできる男であった。
「マイクロチップは無かったです。一応病院の方で迷い猫預かってますの紙を張り出してくれるそうです。連絡先は私のところにしましたから」
「スミマセン」
もう一度謝っておいた。
浅宮は病院が作ってくれたという迷い猫の張り紙をぴらりと見せてくれた。
すでに雛形ができていて、写真部分に仔猫の写真を貼り付けて連絡先を打ち込めば簡単に作れるのだという。
今時は病院がそんなこともしてくれるのか。
なんという親切。
「一枚もらって来たので、事務所の窓に張るといいですよ」
「スミマセン」
一枚きりなので、あとで事務所の隅にいる複合機で数枚印刷しておこう。なつるは病院でとられたとおぼしき仔猫の写真をしげしげと眺めた。
当人は気持ち良さそうにゴロゴロといっている。
浅宮の膝の上で。
……もう飼っちゃいなよ。
そう思うのに、浅宮は自分が猫を飼うという話になるとすっぱりとそれを切り捨てる。外見的には判らないがアレルギーでもあるのかと思えば、そんなことはないようだ。
ただひたすらに、失うことだけがイヤなのだと。
――その堅くなさになつるはそっと溜息を落とした。
「浅宮さんは、もし結婚した相手が猫飼いだったらどうするんですか?」
ふと、なんの気なしにぼそりと呟いた。
「それでも飼わない?」
「……さぁ、私はきっと独身だと思いますしね」
そう静かに言う浅宮の言葉は、何故かひんやりと冷たくて――何故こんな質問をしてしまったのか後悔した。
なに、この空気。
「そうだな。なっちゃんが真鶴さんをつれて嫁に来てくれるなら考えます」
――そうですか、本命はあくまでも真鶴さんですね。
やさぐれた気持ちになった。
「はいはい。もういいです」
なつるはひらひらと手をふり、浅宮が持参してくれた迷い猫のチラシを数枚コピーすると、そのうちの一枚を事務所の出窓に貼り付けた。
真鶴さんが自分のお気に入りの場所に紙を張り出されたのを憤慨するようにカリカリと引っかくが、無視。
ひょいっとその頭を撫でて「とりあえず一月くらい様子を見て……反応が無かったら今度は里親でも探します」と口にした。
勿論、この事務所――というか誠一郎の自宅で飼って欲しいが、真鶴さんもいるし実際あまり無茶はできない。
なつるが一人で暮らしているアパートは、誠一郎が言うようにペット不可だ。もともと面倒くさがりななつるが単独で動物を飼うことができるとしたら、それはおそらく金魚か亀くらいのものだろう。
飼われる金魚や亀にとっても迷惑な話で……最終的にやっぱり誠一郎の寝室にでもこっそりと持ち込んでいる未来が安易に想像できる。
間違ってもなつるの母親であるひなこの家には連れていけない。
――ひなこの再婚相手である岸辺がきちんと世話をしてくれるであろうが、ひなこがいったいどのようなエサを与えるのかを考えると怖すぎる。つまるところ、なつるにとって仔猫を単独で飼育するというのは無茶といっていい。誠一郎がどこまで譲歩してくれるか……
三十五歳の独身男に猫二匹。
婚期がさらに遠のきそうで、なつるにはそこまでの責任は負えそうにない。
その日はそれで終わった。
――浅宮の来訪頻度が格段にあがったのは、なつるにとって誤算であった。
そりゃそうだ。
真鶴さんだけでもこれだけ浅宮をひきつけるというのに、更にプラスアルファの仔猫という最終兵器がいるのだから無理は無い。
なつるは自分がそのうち禿げるのではあるまいかとちょっとだけ危惧した。
なんといっても……一時は憧れていたというのに、その幻想を思い切りぶち破ってくれたお人がほぼ毎日来るのである。
複雑怪奇。