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真鶴さんとは関係ない1

 フレックスタイムの利点は自分の時間を自由に作ることができることだろう。

たいていの人間がゆっくりと出社するのに対し、浅宮貴臣は早い時間に出社し、きびきびと仕事をこなし、もっぱら三時には仕事を終える日々を送っている。

 三時丁度にカードキィを扉横のセンサーにかざし、そこから駅まで十分の道のりを歩き二本の電車を乗り換えて更にバスを使い、四時過ぎにはその小さな事務所の曇りの入った硝子扉に手を掛ける。

――いつもより少しだけ緊張したのは、おそらく日付のせいだろう。

期待したところで、きっとそれが実を結ぶとは思ってはいないが。


「いらっしゃいまーせー」

「……」


 その事務所の扉を開き、こんなに明るく、かつ嬉しそうに受け入れられたことは生憎と初めてのことだった。

一瞬自分が訪れたのは高凪設備ではないのではないかと疑った程。

ふりふりのレースのついた純白のエプロンドレスという驚く程場違いな女性が一人、事務所に置かれている灰色のビジネスデスクの上をふきあげているその姿は、浅宮にとってこちらもまたはじめての光景だ。

 年齢は三十代に掛かるかどうかという女性。何の悩みもなさそうなあけすけな微笑をにっこりとむけられ、浅宮はじゃっかん――いや、かなり、引いた。


 確認するように狭い室内を見回せば、どう見てもここは高凪設備の事務所。

入って正面に灰色のロッカーでカウンターを形作り、その背後に同じく灰色のビジネスデスクが四つ。左側のスペースには合皮の応接セット――その奥には机がひとつ。

 机の後ろには小さな冷蔵庫とキャビネット。その並びにある右側の扉の奥は商談用の応接間。逆の右にある黒猫の模様の入った暖簾付き扉をくぐれば自宅スペースに変わり、台所に直結している。

間違いなくいつもとまったく変わりのない中小企業の小の部分の高凪設備。


「あの、すみません。まさか新しい事務員さんですか?」

――とうとう、とうとう高凪設備のあまり有能でない事務員である飯塚なつるはクビを切られてしまったのであろうか。

 温厚な高凪誠一郎――ただし浅宮に対してのみ底意地が悪い――の堪忍袋の尾が切れたのか? まだ〆日も来ていないのに。

 半ば本気で浅宮がそう思ったところで、かの女性は小首をかしげて微笑んだ。

擬音をつけるのであれば、へにゃりと。


「違いますよー。今日は事務のなっちゃんがお休みなので、臨時のお手伝いさんです」

「なっちゃ――なつるさん、お休みなのですか?」

 おもわずつられて「なっちゃん」と言いそうになってしまう程奇妙な雰囲気の女性だ。なんというかほわほわ、もしくはふにゃふにゃ。猫科か犬科かと問われれば、犬派を思わせる。中型犬で毛がもっさりとしていて目がどこにあるか判らないタイプ。彼女の外見がそうというのではなく、雰囲気が。

 いや、そんなことより、それでは浅宮的にこの事務所に顔を出した意味が半減だ。

よく見れば事務所の中にもう一つの理由である猫すらいない。でかくてちょっと不細工でそれはそれは浅宮的に最高にぶさ可愛い三毛猫の真鶴さんが。

 真鶴さんまでいないのでは、まったく全然微塵もこの事務所に来た意味が無いのだ。

電話で確認してから来ればいいものだが、なんだか最近なつるから拒絶されているような気がしていて、相手の動きを封じる意味でも電話確認をしなくなっていた。

 仕事あがりにお邪魔しますと電話で告げた途端「そうですか」と棒読みで返された挙句、当人は浅宮が事務所にたどり着く前に早退という腹立たしい行動をされたのはつい最近だ。

 避けられているというのは浅宮の思い過ごしかもしれない――ということこそが思いすごしだろう。確実に避けられている。

 もちろん、そんなことはものともしないが。


「ちょっと体調を崩しちゃったみたいな感じなんですよ。ところで、どちらサマでしょ? えっと、あらいやだ。

お仕事のお話ですか?」

 言いながら女性はみるみる眉間に皺を刻み、ついでハっとした様子で事務所の左手、窓側にあるソファを示した。

 会社に訪れた人間に対して「あらいやだ」とは色々問題だ。

「どうぞっ、えっとお茶は緑茶がいいですか? それとも珈琲? 紅茶もありますけど」

 なつるにしろこの女性にしろ、この会社の女性はあまり職業的スキルを感じさせない。実際浅宮は仕事上の客ではないから良いものの、もし仕事としての来客であった場合は何か問題を感じさせる。

 少なくとも商談には支障がありすぎるだろう。

「いや、あの……」

 さてどうするべきか。

悩んだ浅宮だが、この騒ぎを聞きつけたのか奥の右側の扉が開き、いつもの社名ロゴ入りの薄手の上着を引っ掛けた高凪誠一郎が顔を出すと、不本意ながらほっと安堵の息が漏れた。

 何故かこの女性は落ち着かない気持ちにさせる。

「熱だいぶ落ちたぞー、途端にアイス食わせろってあのやろう。ガキじゃないんだから、病気になったとふんぞり返ってここぞとばかりに甘えて駄々こねるのは止めて欲しいよ、ホン――」

 やれやれと首のあたりを揉み解しながら顔をあげた誠一郎は、ソファに座る浅宮の姿に睫毛を瞬き、ついで口元を緩めた。


「おや、丁度良かった」

 ぐにぐにと唇を歪ませる誠一郎の態度に警戒心が湧き上がる。

「なんです?」

 不本意を乗せて口にすると、誠一郎は更に意地の悪い微笑を浮かべたように見えた。

「浅宮クン、暇? いや、暇なのは判っているよ。暇じゃなけりゃうちになんぞに来ないでしょ? じゃあ、とりあえず扉を出て左、二つ目の交差点を右に曲がったトコにコンビニエンスストアあるから、そこでアイス買って来てよ。あ、もうちょっと先にあるスーパーでもいいけど。スーパーのほうがちょっと安いし。

とりあえずダッシュ・アイスのチョコ・モカね」

 言いながら誠一郎は上着のポケットから財布を引き出し、千円札を一枚引き出して「ほい」と浅宮の手に握りこませた。


「はーい、ひなこさんは抹茶がいいでーす」

 臨時雇いの事務員が元気に挙手し「ってことで、抹茶が一つにチョコミント一つ、それでモカが一つの計三つ。勿論、浅宮君の分も買って来ていいよ?」の誠一郎の言葉に、浅宮は引きつりつつ「領収書は頂いてきたほうがよろしいのですよね?」と嫌味を込めて言ったのだが、誠一郎は肩をすくめた。

「領収書はどっちでもいいよ」

「そうですか?」

「現場雑費で落とすから。出金伝票切ればいいし」

 ……結局経費落ちじゃないか。

「現場人におやつはツキモノだよ」

「誠ちゃん、出金伝票ってなに?」

 臨時事務員が不思議そうに言うと、誠一郎は視線を逸らした。

「お前は絶対に帳簿に触れるな」

「ひっどいっ。ちょっと判らなかっただけじゃないの。教えてくれればちゃんと覚えますっ」

「ひなこは覚えなくていい。おまえさんは余計な知識を増やすと大事なモンが抜ける」


――ひなこ。

誠一郎の気安いその呼び方に眉を寄せつつ、浅宮は渋々お使いに出かけることにした。そもそも、自分は客なのにという思いが浮かんだが、客といっても別に高凪設備にとって何かしらの利益を与えるものでもなければ「是非来て欲しい」と言われている訳でもない。


では何かと言えば……一番しっくりとくる単語は邪魔者か。

というか、お使いにでる必要は無かったのでは?

軽く苛立ちを覚えつつ、それでも律儀にコンビニで指定されたアイスを購入し、レジ店員につり銭をもらったときに浅宮は硬直した。


――アイス食わせろって……

アイスを食べたいのは誰かと言えば、それは熱を出していた人物で、熱を出していた人物はと言えば――なつるだ。


 飯塚なつる。

従業員であるなつるが、何故あの事務所の奥に――高凪誠一郎の自宅にいるのだろう。

風邪で休みだと言っていたのに。

それとも、会社に来てから熱が上がったのだろうか。

 そう思えば、確かにそれはそそっかしいなつるらしい。

自分の体の調子すら把握できず、会社にたどり着いてへばった姿がありありと浮かんでくる。

 まさに絵に描いたかのような駄目社員だ。

それを想像すると口元が微妙に上向いて笑ってしまったが、それ以前に――多少腹の中でぐずりとうずく。

「買って来ましたよ」

 しっかりと領収書とつり銭付きでアイスの入った袋を差し出すと、高凪誠一郎がにこにこと――嫌味な程にこにことした表情でそれを受け取り、中を確認し、自分の分のアイスとひなこの為のアイスとを取り出した。

「浅宮くん」

「……何ですか?」

 ついっとあがった視線が思い切り笑いを形つくり、口元がニヤリと口角をゆがめてみせる。ものすごく嫌な気持ちになりつつ、それでも相手を促すと誠一郎はわざとらしく小首をかしげてみせた。


「ジャンケンで負けた方が罰として二階の病人にアイスを持っていくというのはどうだろう?」

「えー、ひなこさんが運んであげるよ?」

 誠一郎から自分のアイスを受け取り、さっさと紙の蓋をあけている臨時事務員が言えば誠一郎は「ひなこはうるさい。アイスもいいけど、ひなこは人数分のコーヒーいれて」としっしと追い出しに掛かった。


「……勝ったほうじゃないんですか?」

「こんな罰ゲーム、負けたほうでに決まってる」

「わかり――」

「オレ、チョキだすから」


誠一郎はにこにこと言い切り、浅宮は思い切り相手を睨み付けた。


「オレは確実に勝ちたいからー、絶対にチョキだすから」


……確認するように言う言葉に、即座に浅宮の頭の中はせわしなく動き出した。

チョキを出すと言っておきながら、こちらがパーを出すと見越してグーを出すに決まっている。そんな手にのるものか。

 ここは当然グーを出が出されると予想して、グーに負けるチョキを出す。いや、もしかしたらそこまでを見越した罠か。

 では裏目を考えて。


「だから、チョキ出すって言ったろうが」

 最終的に訳が判らなくなってグーを出してしまった浅宮に、誠一郎は生温かなまなざしを向けた。


 その日、浅宮はぶさ可愛い三毛猫の真鶴さんに会うことも、ましてやなつるに会うこともなく激しい脱力と謎の敗北感を手に帰宅を強いられた。

二月十四日。

期待なんてしていなかったが、ここまで期待が外れずとも良いだろうに。

いや……なつるの口にチョコ・モカが入ったことで良しとしよう。

――出所は誠一郎であることを忘却させる浅宮は随分と幸せ計数が低くなっていたが、当人は今のところ気づいていない。


***


「ねー、誠ちゃん。

あの人何しに来たの?」

「――いや、俺が悪かったのか?」

 ジャンケンに負けた誠一郎は決して相手を甘やかさなかったことをちょっとだけ後悔している。


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