真鶴さんには関係ない
「あれ、社長は?」
なつるがアイス珈琲をグラスに入れ、丸盆に乗せて事務所へと顔を出すと、そこに誠一郎はいなかった。
規則正しく並べられた灰色のビジネス・デスクに向かっている古沢のみ。
古沢はパソコンの画面を眺めながら、彼の癖で左手でくるくるとペンを回した。
「真鶴さんと応接室。きっと今頃黄昏てる」
「……社長、最近ちょっと年寄りくさいよね」
なつるは思わずぼそりと呟き、アイス珈琲のグラスを一つ古沢の机に置いた。
「ぼくも黄昏たい」
「どしたの?」
「――喫茶店の菜々子ちゃんにオジサンって言われてしまった。いつもお客さんって言うんだけどね、そりゃ、一応デートだから、親しみをこめたのかもしれないけど。せめてそこは古沢さんって言ってほしかった。何のタメもなく突然、オジサンって」
どうやら相当へこんでいる様子の同僚に、なつるはお盆の上の二つのアイス珈琲を気にしながら小首をかしげた。
「でも、悪い意味で使ってる訳じゃないんじゃないかな?」
「オジサンなんて悪い意味いがいにどうあるの?」
「だから、自分でも言ってるでしょ。親しみを込めて。頭の中でハートがついてたかもしれないし」
いや、かなり無理があるか。
なつるは内心でそう思ったが、しばらく一人で考えていた古沢は、突如復帰した。
「そうか、そうかな。
うんうん。
やっぱりなっちゃんも女の子だね。聞いてよかった」
やっぱりって、女の子意外の何だと思ってるの。
なつるは口元を引くつかせたが、いつも明るい古沢が落ち込んでいるのは見ていてもうっとうしいので、簡単に浮上してくれたことには純粋に感謝した。
「んじゃ、あたし応接室でアイス食べてくるから。誰か来たら対応よろしく」
お盆の上にのせてあるアイスをつんっと指先でつつくと、なつるはアイス珈琲を片手に、応接室を無遠慮にあけた。
「はい、珈琲おまちー」
「ノックくらいしなさいよ」
なつるの言葉に誠一郎が声をあげる。そのすぐ後に、ぴゅっと真鶴さんが応接扉がしまる寸前に脱出をすませ、ぱたりと応接扉は閉じられた。
***
出窓に落ち着いた真鶴さんが、まずはじめに反応を示した。
伏せていた体がぴくんっと動き、体を伸ばしたかと思えばたたっとどこかに行ってしまう。もともとあまり動かない、のったりとした猫が俊敏な動きをみせるものだから、古沢は手の中のボールペンをくるくると回しながら体を伸ばし、事務所のガラス扉を押して入ってきた相手に、ああっと呟いた。
「浅宮クンかぁ。もしかして浅宮クンってば真鶴さんに嫌われてる? 一目散に逃げてったよー」
へらへらと言いながら、手元ではくるくるとペンを回す。
そんな古沢の様子に、浅宮貴臣は眼鏡の奥の眼差しを細めて「そんなことはないですよ」とやんわりと言う。
なんといっても、来るたびに極上の猫用デザートを献上している上に、猫をとろけさせるテクニックにかけては誰にも負けない。嫌われる要素など皆無だ。
「猫ってしつこくすると嫌われるんだよね。ぼくも時々真鶴さんを撫で回しすぎると、すんごい勢いで齧られる」
「私は今のところ齧られてませんよ。そうだ、なっちゃんは?」
それに、猫に齧られるくらい何だというのだ。
甘噛みはカウントしない男浅宮。
「ああ、なっちゃんなら応接室」
アイス食べてるよ。
と、続けようとして、それもどうだろうと古沢は珍しく気を回してしまった。空気を読めないと言われている古沢だが、時には同僚のサボリを隠してやるだけの優しさも示せる。
――これって男としてポイント高くない?
などと古沢は自己完結し、へらへらと相変わらずペンを回しながら言った。
「社長と二人でお茶してるから邪魔しちゃ駄目だよ」
言葉にしてから、これはこれでやっぱりサボりっぽいなぁと思ってみたものの、言ってしまった言葉は取り消せない。
まぁ、相手は元請の事務員というだけで、別段何の意味もない相手だ。
この事務所がぬるいのはすでに知っていることだろう。それに、この会社の社長とお茶を飲んでいるのだから、サボリではない。
たとえサボリであろうとこれ程合法的なサボリもないだろう。
何より、あの二人は親子程も仲の良い叔父と姪。
「……」
しかし、言われたほうは思考能力を停止させた。
――きっちりと意識した相手が、他の男と共にいると思うだけで腹の中がぐずぐずとくすぶるような気がしてくる。
共に居れば、その心を向けてもらえれば、壊れているような自分でも何かを取り戻せるのではないかと願う相手が――明らかに、好意を寄せている相手と二人きり。
「それより、ちょっとコレ見てよ。すごくない? これがインフィニティ」
古沢は手の中のペンを一旦揺らし、口元を緩めた。
「ペンの後ろじゃなくて前の方で回すのね。で、こっちがソニック。指の間を走らせて、こっちがその応用で」
突然ペン回し講座をはじめてしまう古沢に、浅宮は――持参した土産用の袋を出窓の下にあるソファセットのテーブルにおき、何のためらいもなく続く応接室への扉をノックし、応えも待たずに「お邪魔してます」と中に踏み込んだ。
――どうしたら、彼女の笑顔を勝ち取れるのか未だ判らない。
それでも、じっとしてなどいられないくらい……なつるは浅宮貴臣の中に根付いてしまっていた。
いつか、彼女が屈託なく笑ってくれれば、きっと――
***
「あー、もぉ本当に行けばよかったぁ」
なつるは応接室の低めのテーブルに置かれたパソコン画面を眺めながら口の中にダッシュアイスのチョコモカを一掬い放り込む。
古沢は他にも抹茶味とクッキー・チョコとを常備しているが、なつるは断然チョコモカ推しだ。
「見てよ、この可愛さ」
パソコンには愛らしいグリーン・アイのノルウェージャン・フォレスト・キャットがぺったりと伏せ、その横にはチンチラシルバーがおすましして座っている。そのどちらも生後半年程の様相で、
「今月の新人キャスト。アーニャとイルシーです」
と書かれていた。
「うわぁ、もぉじゃんじゃん指名しちゃうっ」
「どんな店だよ。そもそも猫喫茶って指名制なのか?」
「え? 知らないっ」
まるで風俗店のホームページのように可愛らしい猫たちの写真があげられ、名前と種別、性別と性格がかかれている。
「すごいっ、これって撫で回していいんだよね? もう触りたい放題だよね? 誠ちゃん。やばいよね、これは」
「今現在、素でおまえがヤバイでしょうに」
そのわきわき動かす手はやめなさいよ。痴漢じゃあるまいし。
誠一郎はあきれ返りながらも、なつるにならってパソコン画面を覗き込んだ。
画面の中の猫達は毛艶もよく愛らしさ全開だ。まるで猫ハーレムとでもいえばいいのか、猫好きならば確かにこの画面だけで相当そそられることだろう。
隅にかかれた料金票によれば、時間制でワンドリンク――男としては確かになんだか聞き覚えのありそうなフレーズ。
さすがに「5000円ぽっきり」などの言葉こそ踊っていないが、何が違うと誠一郎は乾いた笑みを落とした。
おそらく、このホームページを製作した側も「楽しんで」そういったイメージを盛り込んでいるのだろう。
いくつかある猫写真を見ながら、誠一郎は思わず声をあげてしまった。
「……うわっ、毛の無い猫がいる」
「え、うそっ。いやだ。スフィンクスだー! 触ってみたいっ」
おかしなテンションのなつるに、誠一郎は少しばかり離れてやれやれと吐息を落とした。
そんなに行きたいのなら、やっぱり自分が連れて行くしかないかななどと思うのは、ただの親馬鹿だろうか。
今日、この後連れて行ってやろうかといえば、きっとなつるは阿呆のように喜ぶだろう。
仕事ももう終わりだし、仕方ないなと苦笑する。
「なんか時間延長のクーポンとかあるし」
何が楽しいのかうけているなつるに、
「じゃあ、それ印刷しときなさいよ。店、九時までやってるみたいだしさ」
と続けると、なつるは体をひょこりと起こし、その瞳をきらきらと輝かせた。
「誠ちゃんってば、古いなー。いまどきクーポンって言ったら携帯クーポンだよ」
言いながらなつるは嬉々として自分の携帯を引き出し、パソコン画面のQRコードを読み取るように掲げてみせる。
それを微笑ましいと瞳を細めて眺めていれば、突然――トトンっという軽快なノックの音と同時、こちらの応えも待たずに扉が開いた。
「お邪魔してます」
さらりと言いながら入室した浅宮に、なつるの体がびしりと固まる。
おや、いい反応だことと苦笑し、誠一郎は軽く手をあげた。
「いらっしゃい」
軽く手招いて椅子を示し、誠一郎はなつるに声をかけた。
「なっちゃん、浅宮クンに珈琲入れてあげて」
「はい」
なつるはそそくさと自分の食べていたアイスのカップと珈琲のコップとを下げて、あわただしく出て行くが、浅宮はそれを眼鏡の奥の視線で軽く追う。
そこに苛立ちを見出し、誠一郎は微妙な気持ちになってしまった。
――花嫁の父には、なりたくない。
なりたくは無いが、
「すまんね、せっかく浅宮クンが誘ってくれたみたいだけど――猫喫茶、断ったみたいで」
「そんな話もするんですか?」
浅宮の視線がちらりとパソコンの画面に向かう。
そこに映し出される猫喫茶の画面に、多少鼻の頭に皺が寄った。
「でも、断ったのは悪い反応じゃないよ」
「は?」
「たとえば、うちの会社の誰かがなつるに出かけようといえば、なつるはきっと何も考えないで快諾するよ。でも、キミが誘ったことを断ったっていうのはさ、ある意味あの子なりに何かしら意識してるんだと思うけどね」
――本気でイヤならば、わざわざ誠一郎のところにまで来て相談などしなかったろう。結果としては断ってしまったが、きっとなつるはなつるなりに悩んでいるに違いない。
はたで見てれば判るんだよ。
お互い意識しまくってるのにさ。
何より、三歳からこっちずっとなつるを見続けたチチオヤを舐めるんじゃない。
なつるの初恋だって見破った男だよ、オレは。
「……」
浅宮が渋い顔をしているのを尻目に、誠一郎は肩をすくめた。
「今度は、真鶴さんは関係なしでちゃんとあの子自身に向き合ってごらん」
「それは、年長者の余裕ですか?」
挑発的な目で見返す若者に、誠一郎はにまにまと口元を緩めて見せた。
相手が思い切り勘違いしているのが、まさに手にとるように理解できる。この勘違いに浅宮が気づいた時、おそらくこのすかした顔の男でも激しい羞恥心を覚えることだろう。
浅宮を苛めたことを反省した筈だというのに、この顔を見ると苛めたくなってしまうのは何故だろうか。
「余裕? 何の話か判らないけれど。あの子はオレにとっても大事な子だからさ――回りくどいことばっかしてる子供に引っ掻き回されるのはごめんだよ。好きな女一人正攻法で落とせない優柔不断な男に、あの子はあげられないな。
ああ、ただの遊びなら本当に論外」
浅宮がすくりと立ち上がり「生憎、遊びの時期はとうに過ぎました。年長者の余裕をいつか後悔しないといいですが」と低く応えて出て行こうとするのを見送り、誠一郎は楽しげに言葉を続けた。
「そうだ。いつでも遊びにおいでよ?」
「いわれなくても来ます」
誠一郎は途端に体を折って笑いを堪えた。
と、どこから入り込んだのか真鶴さんがとんっと膝の上におりたち「なー?」と声をかけてくる。
「いや、わるいオジサンだね、オレも」
むしろ応援してやりたいという気持ちもあるというのに、思い切り遊んでしまった。
「あれ、浅宮さんは?」
「さぁ? 帰ったんじゃないかな――それより、悪い。猫喫茶今度にしてくれや」
新しいアイス珈琲を手に戻ったなつるに、誠一郎はひらひらと手を振った。
「え、なんでっ。どうしてっ」
「ま、近いうちにな」
――浅宮がきちんとつれていってくれるからさ。
男ならきっちり自分から行動しやがれよ。
クツクツと喉の奥を震わせながら、喉の渇きに新しく追加されたアイス珈琲をすすると、なんだか釈然としない様子のなつるが首をかしげた。
「何しに来たんだろ」
「さぁ……とりあえず、今日の目当てはきっと真鶴さんじゃないよ?」
口元をにやつかせて言うと、身に覚えがあるというようになつるの頬が赤くなる。
ほら、おまえだって気づいていない訳じゃない。
だが、そんな誠一郎の攻撃を不快に思ったのか、なつるは突然話題を切り替えた。
「あ、そういえば」
「んー?」
「誠ちゃんと一号ママ先生はどうなってるの?」
……危うく飲んでいた珈琲を噴出してしまいそうになった。
「あたし、絶対に一号ママ先生は誠ちゃん好きだと思うなー。
普通に考えたって、好きでもない男の人を部屋に招くなんて絶対に無理だし。
誠ちゃんだってまんざらでもないと思ってるでしょ?」
「今、仕事中だろ。さっさと事務所戻んなさいよ」
「もぉっ、優柔不断な男は最低だからねっ」
犬の子を散らすようにシッシッと手で追い払い、誠一郎は真鶴さんと応接室に残された。
なんだか沈黙が痛い。
――極力、加賀屋小百合のことは考えないようにしている。
彼女はまだ二十代だろうし、自分はもうすぐで三十五だ。
いまさら誰かと付き合おうという気持ちになれないのは、もうすでに自分の中で結婚とやらを考えていないからだ。
膝の上からソファに移動した真鶴さんが誠一郎を見上げてくる。
その透明な眼差しを受け止めながら、
「まぁね」
と、言い訳のように口にした。
「嫌いじゃないですよ。彼女美人だし? かなり結構、性格だっていいし――でも、加賀屋先生は……オレなんかほんとうに好きなのかね?」
気にかけないようにしなければいけないのは、放っておくと彼女のことを考えてしまうから。
しっかりとしているように見えて、その実ちょっと抜けているらしいところが、心配になってしまう。いや、けれどそれはただ単に、何か放っておけないってだけであって。
ひっくり返して出されるものにいちいち言い訳を繰り返す。
イライラと降り積もるものを押し上げて、深く、深くため息を吐き出して。
優柔不断な自分に天井を見上げた。
「ああ、くそっ。オレだ。オレだな」
――浅宮を苛めたのは、オレの八つ当たりみたいじゃないか、これじゃ。
するりとその頭を押し付けてくる真鶴さんの頭をなでて、苦痛のように誠一郎は呻いた。
「すまん、ちょっと情けないよな、オレ」
――情けないオレに、ほんのちょっとばかりの勇気をくれよ。
真鶴さんに囁きかけ、誠一郎は胸のポケットから携帯を引き出し、一号を小百合に譲った時に教えられた彼女の携帯番号を引き出した。
一旦時間を確かめて、彼女の迷惑まで考えて、それから、それから。
「――この後、暇でしたら。猫喫茶とか行ってみませんかね?」
まるで「あんた馬鹿じゃないの?」とでも言うように、真鶴さんが誠一郎の足に爪をたてた。
***
そのうちに、笑って話せる日がくるだろうか。
夢の中で、「結婚しなくていい」となつると抱き合って泣きながら――
その近くで、まるで花嫁の母親のように着物を着た君が「困った人たち」というように優しい眼差しで見つめていたんだ。
今はあんまり気恥ずかしいから真鶴さんにだけこっそりと教えておくよ。
まぁ、相変わらず真鶴さんは関係ないって顔してそっぽを向いてるけどね。