婚約破棄された公爵令嬢ですが、王になった元婚約者が約束どおり迎えに来ました
婚約破棄でも純愛したっていいじゃないという精神で書きました。
王城の裏庭、まだ手入れの行き届いていない薔薇園の片隅で、二人の子供が向かい合っていた。
第一王子アルディオン・ヴェルシュタットは、まだ七つになったばかりだった。木の枝を剣に見立て、堂々とした様子で胸を張っている。対する許嫁のイザベラ・クロヴィス公爵令嬢は、六つにしてすでに公爵家の令嬢らしい佇まいを見せ、腕を組んでアルディオンを見下ろしていた。
「ボクがキミの王子様になって迎えに来るよ」
アルディオンは得意げにそう言った。幼い頭で思い描く「王子様」とは、絵本に出てくるような、白馬に乗って姫を助けにくる英雄のことだった。
しかしイザベラは、小さな唇を尖らせて首を振った。
「‟王子”じゃ駄目ね。私と婚約を結ぶなら‟王様”にならないと嫌よ」
「え……」
「王子様は、いつかは誰かの臣下になるでしょう? でも私は、誰の下にもつかない人と一緒になりたいの。だから、王様になってから迎えに来てちょうだい」
生意気な物言いに、アルディオンは一瞬むっとした顔をしたが、やがてその小さな胸に、妙な火が灯った。
「わかった。ボクは、王様になってキミを迎えに来る。約束だ」
「ふふ、口だけは立派ね。でも――」
イザベラは、小指を差し出した。
「約束よ。忘れないで」
アルディオンは、その小さな指に自分の小指を絡めた。夕陽が薔薇園を橙色に染める中、二人だけの誓いが交わされた瞬間だった。
その約束を、アルディオンは十年経っても、忘れることはなかった。
十年後。王城の大広間には、王国中の貴族たちが集められていた。年に一度の建国記念の夜会――のはずだった。
「イザベラ・クロヴィス公爵令嬢」
壇上に立ったアルディオンの声が、広間に響き渡った。その声には、かつて薔薇園で聞いたような温かさは、微塵も感じられなかった。
「貴女との婚約を、本日をもって破棄する」
広間がどよめいた。イザベラは静かに壇上のアルディオンを見上げていた。その青い瞳には、動揺の色はなく、ただ深い静けさだけが宿っていた。
「理由を、お聞かせいただけますか」
「貴女は、クラリッサ・エルンバルト辺境伯令嬢を、繰り返し陰湿な手段でいじめていたという報告を受けている。証拠は、既に王宮に集まっている」
その言葉に、集まった貴族の子女たちの間から、押し殺したような笑い声が漏れた。かねてより公爵家の権勢を疎ましく思っていた者たちは、この機を待ちわびていたかのように、扇の陰でひそひそと囁き合っていた。
「まあ、あれほど気位の高い方でしたのに」
「令嬢としての品位に欠ける行いだったと、以前から噂には聞いておりましたわ」
イザベラは、その嘲笑を一身に浴びながらも、表情ひとつ崩さなかった。ただ静かに、深く頭を垂れた。
「殿下のご判断に、異論はございません」
短くそう告げると、イザベラは踵を返し、大広間を後にした。その後ろ姿を、アルディオンはただ黙って見つめていた。何かを言いかけて、しかし結局、言葉を発することはなかった。
大広間を出て、人気のない回廊を歩くイザベラの足取りは、しかし外見の平静とは裏腹に、静かな怒りと悲しみを抱えていた。
角を曲がったところで、彼女は待ち構えていた人物の姿に気づき、足を止めた。
「……殿下」
そこにいたのは、アルディオンだった。先ほどまでの断罪者の顔は消え、そこにいたのは、疲れ果てた一人の青年の顔だった。
「イザベラ、聞いてくれ」
アルディオンは声を潜め、周囲に人がいないことを確かめてから、切実な口調で語り始めた。
「今の国王陛下……いや、父上の治世は、もう限界だ。国庫は貴族たちの私腹を肥やすために食い潰され、地方の民は重税に苦しんでいる。俺は、この国を変えなければならない」
「それは、以前から伺っておりました」
「だが、革命には支持が要る。今の国王派の貴族たち――その筆頭である、クロヴィス公爵家との繋がりを断ち切らなければ、俺を支持する貴族も国民も納得しない。俺が公爵家と縁を切ってこそ、初めて『国王派との決別』が本物だと信じてもらえる」
イザベラは静かに目を伏せた。予想していたことだった。今日この場で、こうして説明を受けるであろうことも。
「つまり私は、その禍根……ということですね」
「すまない」
アルディオンは頭を下げた。王族が、かつての婚約者に頭を下げるなど、あってはならないことだった。だがイザベラは、それを咎める気にはなれなかった。
「エルンバルト辺境伯からの提案だ。娘を正室に迎え入れ、革命後の貴族としての地位と財産を確約すること。それが、辺境伯家が俺を支持する条件だった」
イザベラの脳裏に、幼い頃から親しくしてきた友人の顔が浮かんだ。クラリッサ・エルンバルト。かつて蛮族の侵攻で窮地に陥った辺境伯領に、イザベラ自らが援軍を率いて駆けつけ、救った過去がある。あの時からクラリッサは、イザベラに深い恩義と友情を感じていた。
「クラリッサは、この話を知っているのですか」
「……ああ。反対した。最後まで、お前を裏切ることはできないと」
アルディオンの声が、微かに震えた。
「それでも、俺は決めた。この国を変えるために、俺は……お前を、切り捨てる」
イザベラは長い沈黙の後、静かに微笑んだ。それは、悲しみを押し殺した、しかし芯の強い笑みだった。
「わかりました。殿下のなさりたいことを、私は理解しております」
「イザベラ……」
「ただ一つだけ、お聞きしても?」
「なんだ」
「殿下は……本当に、王様になれますか」
その問いに、アルディオンは一瞬言葉を詰まらせた。それから、まっすぐにイザベラの目を見つめて答えた。
「なる。必ず、なってみせる」
「……そうですか」
イザベラは小さく頷くと、それ以上は何も言わずに、その場を去っていった。
その夜、クラリッサ・エルンバルトは、自室で一睡もできずにいた。
窓の外に広がる夜空を見つめながら、彼女は何度も、何度も、自分に問いかけていた。――本当にこれでいいのか、と。
物心つく頃から、クラリッサはアルディオンに淡い恋心を抱いていた。だが、その隣にはいつもイザベラがいた。凛としていて、賢く、そして誰よりも優しい彼女を見るたびに、クラリッサは自分の想いを密やかに胸の奥へと沈めてきた。
――イザベラ様には敵わない。それに、お二人は本当にお似合いだもの。
そう思い込むことで、自分を納得させてきたはずだった。実際、あの日、辺境の地が蛮族の襲撃に晒された時、真っ先に援軍を率いて駆けつけてくれたのはイザベラだった。
その光景を、クラリッサは今でも鮮明に覚えている。公爵家秘伝の剣技を修めたイザベラは、自ら陣頭に立ち、押し寄せる蛮族の群れをまるで舞うように斬り伏せていった。深窓の令嬢という世間の評判とはまるで異なる、鬼神のごとき剣捌き。その姿は、後方で震えていた民たちの目に、まるで戦女神のように映ったという。
「イザベラ様がいてくださらなければ、辺境伯領はとうに滅んでいたでしょう」
戦の後、そう語った古参の兵士の言葉を、クラリッサは今も忘れることができない。剣を持てば誰よりも勇猛に、剣を置けば誰よりも優雅に――そんな彼女の姿を、クラリッサは生涯忘れることができない。
――イザベラ様は、私の恩人。それなのに、私は。
数週間前、父であるエルンバルト辺境伯から告げられた話を、クラリッサは今でも受け入れきれずにいた。
「クラリッサ、お前をアルディオン殿下の正室に据える。革命の後、我が家は貴族としての地位と財産を確約される」
「お父様、そんな……! イザベラ様との婚約は、どうなるのですか」
「殿下が、公爵家と手を切るとおっしゃっているのだ。これは、辺境伯家にとって二度とない好機だ」
「私は、そんなことを望んでいません! イザベラ様は、私たちの恩人です。その方を裏切るような真似は――」
「クラリッサ」
父の声は、有無を言わさぬ厳しさを帯びていた。
「お前の気持ちはわかる。だが、これは辺境伯家の存亡に関わる話なのだ。殿下が革命を起こせば、旧来の貴族社会は大きく揺れ動く。その時、我が家が生き残るためには、この機を逃すわけにはいかない」
クラリッサは、それ以上何も言えなかった。父の言葉には、辺境の地を守り続けてきた者としての、切実な重みがあった。
――でも、それでも。
大広間での断罪の一部始終を、クラリッサは離れた場所から見ていた。イザベラが淡々と、静かにその宣告を受け入れる姿を見た瞬間、クラリッサの中で何かが崩れ落ちるような感覚があった。
夜会の後、クラリッサは人目を忍んでクロヴィス公爵家の屋敷を訪れた。
「イザベラ様……本当に、ごめんなさい」
クラリッサはイザベラの手を強く握りしめた。その目は真っ赤に泣き腫らされていた。
「私、最後まで反対したの。殿下にも、父にも。イザベラ様を裏切るようなことは、絶対にできないって。でも……」
「クラリッサ、いいのよ」
イザベラは友人の背を優しく撫でた。
「貴女のせいではないわ。これは、殿下が選んだ道。そして、貴女のお父上が国のために判断したこと。誰も、間違ってなどいない」
「でも、イザベラ様は……」
「私は大丈夫。それより、貴女は殿下をお支えしてあげて。革命という大きな戦いを、殿下お一人で背負わせるわけにはいかないもの」
クラリッサは声を上げて泣いた。かつて自分の領地を、そして自分自身を救ってくれた恩人が、こうして静かに全てを受け入れていく姿に、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。
「私……本当は、殿下のことを、ずっと前からお慕いしていました。でも、イザベラ様がいらっしゃったから、その想いは胸に秘めて、お二人を応援することだけを考えてきました。それなのに、こんな形で、こんな形で私が殿下の隣に立つなんて……!」
「知っているわ」
イザベラは、驚くほど穏やかな声で言った。
「貴女が殿下をお慕いしていたことも、それでも私たちを応援してくれていたことも、ずっと前から気づいていたのよ。だから、これでいいの。貴女の想いが、ようやく報われる時が来たというだけのこと」
「そんな……! 私は、こんな形で報われたいわけじゃ――」
「クラリッサ」
イザベラは、友人の頬を伝う涙を、そっと指で拭った。
「いつか必ず、貴女は良い王妃になるわ。私にはわかるの。貴女の優しさと強さがあれば、殿下と共に、この国を良い方向へ導いていける」
「いつか……いつか必ず、お礼を」
「そんなもの、いらないわ。貴女が幸せになってくれれば、それで十分よ」
二人はしばらく抱き合ったまま、言葉もなく涙を流し続けた。
その夜、クラリッサは屋敷への帰路、馬車の中で一人、拳を強く握りしめていた。
――イザベラ様、私は、貴女の優しさに甘えるだけの存在にはならない。いつか必ず、この恩を返す。どんな形であっても、必ず。
その誓いを、クラリッサは誰にも告げることなく、静かに胸の奥に刻み込んだ。
それから間もなく、クロヴィス公爵――イザベラの父は、娘に静かに告げた。
「イザベラ、お前を修道院へ送る」
「お父様……」
「表向きの理由は、王子殿下に不遜を働いたことへの謹慎処分だ。だが、本当の理由は違う」
公爵は、娘の手を握りしめた。その手は、かすかに震えていた。
「これから、この国は大きく揺れる。革命というものは、必ず血を流す。クロヴィス公爵家は国王派の筆頭として、粛清の対象になるだろう。私は……お前だけでも、その渦の外に置いておきたいのだ」
「私は、お父様やお母様と一緒に――」
「駄目だ」
公爵の声は、厳しくも深い愛情に満ちていた。
「お前が生き延びることが、私にとって唯一の望みだ。修道院ならば、俗世の争いから離れられる。頼む、イザベラ。お前だけは、生きてくれ」
イザベラは、父の目に浮かぶ覚悟を見て、それ以上何も言えなかった。
数日後、彼女は簡素な旅装に身を包み、辺境の修道院へと向かう馬車に揺られていた。窓の外に流れていく見慣れた景色を、イザベラはただ静かに見つめ続けていた。
王都の街並みが遠ざかっていくにつれ、イザベラの胸の中で、これまで気丈に抑え込んでいた感情が、少しずつ溢れ出してきた。
――私は、これから何を支えに生きていけばいいのだろう。
公爵令嬢としての立場も、婚約者としての未来も、すべてを失った。残されたのは、ただ「生き延びる」という、あまりに漠然とした使命だけだった。
馬車の窓に映る自分の顔を見つめながら、イザベラはふと、幼い日の記憶を思い出していた。薔薇園で交わした、たわいもない約束。あの頃は、まさかこんな未来が待っているとは、夢にも思わなかった。
――殿下は、本当に王様になれるのだろうか。
その問いに、明確な答えを持てないまま、イザベラは辺境の地へと向かう長い旅路についた。
辺境の修道院は、王都の喧騒とはまるで異なる、静謐な世界だった。
朝は鐘の音と共に目を覚まし、祈りを捧げ、畑仕事や炊事、病人の看護といった日々の労働に身を投じる。夜は再び祈りを捧げ、簡素な寝台で眠りにつく。その繰り返しの中で、イザベラは少しずつ、公爵令嬢としての自分を過去へと押しやっていった。
「ベラ、また眠れないの?」
同室の年若い修道女が、心配そうに声をかけてくることが度々あった。イザベラは、修道院では「ベラ」という簡素な名で呼ばれるようになっていた。
「大丈夫よ。少し、昔のことを思い出していただけ」
「辛いことがあったのね」
「ええ……でも、もう終わったことだから」
そう答えながらも、イザベラの心の中では、まだ何一つ終わってなどいなかった。
二年目に差し掛かる頃、修道院に伝わってきたのは、王国で起きた革命の報せだった。国王が退位に追い込まれ、アルディオンが新王として即位したという知らせに、修道院の人々は驚きを隠せなかった。
「新しい王様は、若くして立派な方だそうよ」
「聞くところによると、随分と苦しい戦いだったとか」
そうした噂話を、イザベラは表情を変えることなく聞いていた。しかし夜、一人祈りを捧げる時間になると、彼女の心は複雑な感情で揺れ動いた。
――殿下は、本当に王様になった。
嬉しさと、痛みと、そして自分でも説明のつかない喪失感が、同時に押し寄せてきた。彼が王座に就いたということは、あの日の約束の半分が果たされたということだった。だが、もう半分――自分を迎えに来るという約束は、果たされることはないだろうと、イザベラは自分に言い聞かせていた。
――私はもう、公爵令嬢のイザベラではない。ただの修道女、ベラ。殿下が探すべき人間は、もうどこにもいないのだから。
そう思うことで、イザベラは自分の心を守っていた。過度な期待を抱かないこと。それが、この静かな生活を保つための、唯一の術だった。
三年目に入る頃には、イザベラの心にも、少しずつ穏やかさが戻ってきていた。日々の祈りと労働、そして修道院を訪れる貧しい人々への奉仕が、彼女の心を静かに癒していった。
「ベラ、貴女は本当に良く働くわね」
修道院長がそう褒めることもあった。
「かつては、随分と苦労なさったのでしょう。でも今の貴女は、誰よりも穏やかな顔をしているわ」
「そうでしょうか」
「ええ。人は、失うことでしか気づけないものもあるのよ。貴女は、多くを失った代わりに、多くの人に寄り添う優しさを得たのだと思うわ」
その言葉に、イザベラは静かに頷いた。かつての自分を思えば、遠く離れた場所に来たものだと思う。それでも、心のどこかには、まだあの薔薇園の記憶が、消えることなく残り続けていた。
――私は、あの日の約束を、まだ信じていていいのだろうか。
信じることは、同時に傷つくことと隣り合わせだった。もし彼が本当に自分を迎えに来なかったとしても、それは仕方のないことだと、イザベラは何度も自分に言い聞かせた。国を治める王という立場になった以上、たった一つの子供じみた約束よりも、優先すべきことは山のようにあるはずだった。
それでも――と、イザベラは祈りの中で、密かに願わずにはいられなかった。もし許されるならば、もう一度だけ、あの薔薇園の夕陽を、彼と共に見てみたい、と。
一方、王座に就いたアルディオンもまた、静かな苦しみを抱えていた。
革命の混乱が収まり、国政が落ち着きを見せ始めても、アルディオンの心は決して安らぐことがなかった。表向きは若く聡明な新王として、国民からの支持を集めていたが、その内側では、常に一つの後悔が渦巻いていた。
――俺は、イザベラを切り捨てた。
即位してすぐ、アルディオンは密かにイザベラの行方を追わせていた。しかし、クロヴィス公爵家の記録は驚くほど徹底的に消されており、イザベラがどこへ送られたのかを示す手がかりは、ほとんど残されていなかった。
「殿下、これ以上の詮索は、国政に関わることかと存じます」
側近の一人がそう進言したこともあった。しかしアルディオンは、その忠告を聞き入れることはなかった。
「イザベラを探すことは、俺個人の問題だ。国政には関わらせない。だが、これだけは譲れない」
夜な夜な執務室の灯りの下で、アルディオンは古い記録や、公爵家に縁のあった者たちからの証言を集め続けた。革命の指導者として、日中は国政に忙殺されながらも、夜になるとその探索を続ける日々が、何年も続いた。
――俺があの日、大広間で彼女を切り捨てたことは、正しかったのか。
その問いは、王座に就いた後も、アルディオンの中で何度も繰り返された。国のためだったと、頭では理解している。だが、あの時のイザベラの、静かで悲しげな微笑みを思い出すたびに、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
新王としての日々は、想像していた以上に過酷なものだった。旧国王派の残党による水面下の抵抗、財政再建のための痛みを伴う改革、そして革命に協力した貴族たちへの論功行賞――一つとして単純な問題はなく、アルディオンは日々、山積する課題に忙殺されていた。
夜遅くまで執務室に灯りが灯る日々が続いた。クラリッサや側近たちが心配して声をかけても、アルディオンは椅子に座ったまま、書類の山から顔を上げようとしなかった。
「陛下、少しはお休みにならないと、お体が持ちません」
「わかっている。だが、俺が弱音を吐けば、この国はまた元の腐敗した姿に逆戻りしてしまうかもしれない。俺には、休んでいる余裕などない」
そう言いながらも、アルディオンの心の奥底には、常に一つの疑問が渦巻いていた。
――俺は、本当にイザベラが望んだような‟王様”になれているのだろうか。
国民のために正しい政を行うこと、腐敗を正し、貴族と民との均衡を保つこと――それらは確かに成し遂げつつあった。だが、幼い日に誓ったもう一つの約束、彼女を迎えに行くという誓いだけは、いつまで経っても果たすことができずにいた。
「王として立派になることと、一人の人間としての約束を守ることは、別の話なのかもしれない」
ある夜、アルディオンは誰に言うでもなく、そう独り言ちた。国政に忙殺される日々の中で、彼女を探す時間を作ることは、決して容易ではなかった。それでも、その約束を放棄することだけは、アルディオンにとって考えられない選択だった。
――もし俺が、この約束すら守れないのなら、俺が王座に就いた意味など、いったい何だというのだ。
そう自分に言い聞かせるようにして、アルディオンは限られた時間を縫って、修道院や教会を巡る旅を続けていった。
側近の忠告を振り切り、アルディオンは自ら各地の修道院や教会を巡る「慰問」と称する視察を始めた。表向きは新王としての民情視察だったが、その本当の目的を知る者は、ごく一部の側近だけだった。
一つ、また一つと修道院を巡るたびに、アルディオンの心には焦燥と絶望が積み重なっていった。
――もしかしたら、もう生きていないのかもしれない。
そんな最悪の想像が頭をよぎることもあった。それでもアルディオンは、探索をやめることはなかった。たとえ見つからなくても、探し続けることそのものが、あの日の約束を守るための、唯一の方法だと信じていたからだ。
三年目のある冬、アルディオンはついに、辺境の小さな修道院にたどり着いた。それは、これまで訪れた中でも、特に人里離れた場所にある、質素な修道院だった。
礼拝堂へ足を踏み入れたその瞬間、アルディオンは、思わず息を呑んだ。
――イザベラ。
そこにいたのは、簡素な修道服に身を包んだ、一人の女性だった。かつての公爵令嬢としての華やかさは失われていたが、その面影は、紛れもなくイザベラのものだった。
しかし、彼女は静かに顔を伏せ、他の修道女たちに紛れるように、その場を離れようとした。
「そこのシスター」
アルディオンは、思わず声をかけていた。
「……何か、御用でしょうか」
イザベラは声を作り、他人のふりをして振り返った。心臓が、痛いほどに高鳴っていた。
アルディオンはしばらく、じっとイザベラの顔を見つめていた。長い沈黙が流れた。ここで名を呼べば、彼女はどう反応するだろうか。もし人違いだったら――そんな迷いが、アルディオンの口を重くさせた。
「……いや、失礼した。人違いのようだ」
そう言って、彼は静かに礼拝堂を後にした。だが、その足取りは、これまでの探索の中で最も重く、そして同時に、何かを確信したかのような、複雑な色を帯びていた。
それから数か月ごとに、アルディオンは修道院を訪れるようになった。表向きの理由は「地方の慰問」や「教会への視察」だったが、彼が本当に会いに来ているのが誰なのか、修道院長を含む一部の者たちは、薄々気づいていた。
「シスター・ベラ、王様はいつも貴女を気にかけていらっしゃるようだけれど」
修道院長がそう声をかけたこともあった。イザベラは、静かに首を振るだけで、それ以上は何も答えなかった。
「言いたくないことは、無理に聞かないわ。でも、もし何か抱えているものがあるのなら、いつでも話を聞くわよ」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
イザベラは、その度に他人のふりを続けた。かつての婚約者を名乗ることも、公爵令嬢だった自分を明かすこともなく、ただ静かに祈りを捧げる修道女として、アルディオンと言葉を交わした。
「シスター、この国について、どう思う」
ある日、庭の花壇の手入れをしていたイザベラに、アルディオンはそう尋ねた。
「新しい王様は、良い政をなさっていると聞いております」
「そうか。……ならば、良かった」
アルディオンは花壇を見つめながら、独り言のように呟いた。
「俺は、王になった。かつて誰かと交わした約束を、果たすために」
イザベラの手が、一瞬止まった。
「その方は……今どちらに?」
「わからない。まだ、見つけられていないんだ」
アルディオンは寂しげに笑った。
「もう、この世のどこにもいないのかもしれない。それでも俺は、探し続けるつもりだ。たとえ見つからなくても、俺はあの約束を果たしたことに変わりはないから」
イザベラは、花壇に視線を落としたまま、こみ上げてくるものを必死に堪えていた。
――どうして、そこまで。私はもう、貴方が探し求めるような人間ではないのに。
そう思う一方で、彼のまっすぐな言葉に、心の奥底が少しずつ揺さぶられていくのを、イザベラは感じずにはいられなかった。
その後も、アルディオンの訪問は続いた。ある時は政務の合間を縫って、ある時は病を押してまで、彼は修道院へと足を運び続けた。
「殿下、これ以上のご無理は、お体に障ります」
クラリッサが何度もそう諫めたが、アルディオンは聞き入れなかった。
「これは、俺にとって何よりも大切なことなんだ。国のためだけに生きるのなら、俺はきっと、いつか自分自身を見失ってしまう。だから、この約束だけは、何があっても守り抜きたい」
その言葉を、後にイザベラは修道院長を通じて、間接的に耳にすることとなった。
――殿下は、まだあんな子供の頃の約束を、本気で。
イザベラの心の中で、これまで固く守り続けてきた壁が、少しずつ崩れ始めていた。
それから、さらに数か月が過ぎたある日。
アルディオンは、いつものように修道院を訪れた。しかし、その日の彼は、これまでとは違っていた。真っ直ぐに、イザベラのもとへと歩み寄ってきたのだ。
「シスター・ベラ」
その呼びかけに、イザベラは顔を上げた。アルディオンの瞳には、これまで見たことのない確信の色が宿っていた。
「もう、隠さなくていい」
「……何を、仰っているのですか」
「イザベラ」
その名を呼ばれた瞬間、イザベラの体が固まった。
「初めてここに来た時から、わかっていた。お前の目を見た瞬間に。ただ、お前がそれを望んでいないのだと思って、何も言えなかった」
「殿下……」
「王座に就いてから、俺はずっとお前を探していた。だが、公爵家の令嬢としてのお前を探しても、見つかるはずがなかったんだ。だから俺は、考えを変えた――もし、お前が身分を隠して生きているのなら、俺自身が、何度でもこの目でお前を探しに行けばいい、と」
イザベラの瞳から、堪えきれなくなった涙が溢れ出した。
「……忘れて、いなかったのですか。あんな、子供の頃の約束を」
「忘れるはずがないだろう」
アルディオンは、静かに、しかしはっきりと言った。
「‟王子”じゃ駄目、‟王様”になってから迎えに来て――お前が言ったんだ。だから俺は、王になった。誰の下にもつかない、王という立場になって、こうしてお前を迎えに来た」
イザベラは、震える声で笑った。涙をこぼしながら、それでも笑わずにはいられなかった。
「馬鹿ね……あんな子供の戯言を、本気にするなんて」
「戯言でも構わない。俺にとっては、生涯をかけて果たすべき、たった一つの約束だった」
イザベラは、もう堪えきれずに、アルディオンの胸に飛び込んだ。アルディオンは、そんな彼女を強く抱きしめた。三年間、いや、十年以上の月日をかけて、ようやく交わされた再会だった。
「殿下……私は、もう公爵令嬢ではありません。ただの、修道女です」
「構わない。俺が迎えに来たのは、公爵令嬢のイザベラじゃない。ただ、お前という一人の人間だ」
その言葉に、イザベラはさらに強く、アルディオンの胸に顔を埋めた。長年抑え込んできた感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
その後、イザベラは修道院を出て、王都へと戻ることとなった。しかし、彼女は自らクロヴィス公爵令嬢としての身分を名乗ることを望まなかった。
「殿下……いえ、陛下。私は、正室にはなれません」
「なぜだ。今のお前は、もう咎人ではない。堂々と、俺の隣に立てばいい」
「陛下の正室は、クラリッサ様であるべきです」
イザベラは静かに、しかし揺るぎない意志を持って告げた。
「クラリッサは、あの革命を支えるために、多くのものを差し出しました。彼女の存在があったからこそ、陛下は玉座に就くことができた。それに――」
イザベラは微笑んだ。
「私は、公爵令嬢としてではなく、ただの『ベラ』として、貴方の傍にいたいのです。身分も、肩書きも、もう必要ありません。ただ、貴方のお傍にいられれば、それだけで幸せなのですから」
アルディオンは、しばらく彼女を見つめた後、深く頷いた。
「わかった。お前の望むようにしよう」
こうしてイザベラは、公爵令嬢としての身分を隠したまま、アルディオンの妾として王城の片隅にひっそりと迎え入れられることとなった。
正室の座に就いたクラリッサは、王城で「ベラ」という名の女性と対面した際、その正体にすぐに気がついた。
「イザベラ様……!」
クラリッサは涙を流しながら、かつての恩人であり親友であった女性の手を握りしめた。
「よかった……本当に、よかった……!」
「クラリッサ、貴女は立派な王妃になったのね」
「イザベラ様のおかげです。あの時、貴女が私たちを許してくださらなければ、私はきっと、一生後悔していたでしょう」
「いいえ」
イザベラは、静かに首を振った。
「貴女は、あの時からずっと、殿下と、そしてこの国のために、自分の想いを抑えて尽くしてきたのでしょう。誰よりも、貴女こそが、この栄誉に相応しい人よ」
クラリッサは、あの夜、屋敷の馬車の中で立てた誓いを思い出していた。――いつか必ず、この恩を返す。それが今、こうして再びイザベラと共に生きられるという、何よりの形で報われたのだと、クラリッサは静かに噛み締めていた。
二人は固く抱き合い、涙を流しながらも、互いの幸福を喜び合った。
薔薇園には、あの日と同じように橙色の夕陽が差し込んでいた。
「なあ、イザベラ」
アルディオンが、隣に立つイザベラに囁いた。
「約束、ちゃんと守れただろう」
「ええ」
イザベラは、静かに微笑んだ。
「立派な、‟王様”になられましたね」
「お前を探し続けた三年間、正直、心が折れそうになったことも何度もあった。国政の重責と、お前を見失った焦りとで、押し潰されそうな夜もあった。それでも、俺が諦めずにいられたのは――」
アルディオンは、イザベラの手をそっと握った。
「あの日、あの瞬間の記憶があったからだ」
「……私も、同じです」
イザベラは、アルディオンの肩にそっと頭を預けた。
「修道院での日々、何度も、あの約束は子供の戯言だったのだと、自分に言い聞かせていました。期待をしては、また傷つくことが怖かったから。それでも、心のどこかで、ずっと信じていたのかもしれません。貴方が、必ず迎えに来てくれると」
二人の間に流れる沈黙は、もう寂しいものではなかった。かつて幼い日に交わした約束は、十年以上の時を経て、こうして確かに結ばれたのだった。
夕陽に照らされた薔薇園で、二人はしばらくの間、言葉もなく、ただ寄り添い続けていた。過ぎ去った歳月の重みと、ようやく手にした静かな幸福を、噛み締めるように。
それから幾星霜が過ぎた。
イザベラは、公爵令嬢としての身分を明かすことなく、王城の片隅で静かに暮らし続けた。表向きの立場は妾に過ぎなかったが、アルディオンにとっても、クラリッサにとっても、そして城で働く多くの者たちにとっても、彼女は誰よりも敬愛される存在だった。
「ベラ様、今日もありがとうございます」
かつて修道院で身につけた奉仕の心を忘れることなく、イザベラは城下の孤児院や貧しい民のための施療院に、たびたび足を運んでは、その運営を静かに支え続けた。公爵令嬢としての教養と、修道女として学んだ慎ましさとが、彼女の中で見事に調和していた。
クラリッサもまた、王妃として国政を支えながら、時折イザベラのもとを訪れては、共に茶を飲み、他愛のない話に花を咲かせるのが常だった。かつて三人の間にあったわだかまりは、いつしか穏やかな絆へと姿を変えていた。
「イザベラ様、今日はアルディオン様が、また執務室で書類に埋もれていらっしゃいましたわ」
「相変わらずですね。少し休むよう、私からも言っておきましょうか」
「ふふ、お願いします。イザベラ様の言葉なら、あの方も素直に聞いてくださるでしょうから」
そんな穏やかな会話が、王城の一角では日常となっていた。
夕暮れになると、アルディオンは執務の合間を縫って、必ず薔薇園に足を運ぶようになった。そこには、いつもイザベラの姿があった。
「今日も、来てくださったのですね」
「ああ。ここに来ると、不思議と心が落ち着くんだ。あの日と同じ夕陽を、お前と一緒に見られるからかもしれない」
薔薇園の花は、あの幼き日よりも、遥かに豊かに咲き誇るようになっていた。かつて手入れの行き届いていなかった庭園は、イザベラが城に戻ってきてから、彼女の手によって少しずつ、丁寧に育てられてきたものだった。
「殿下、いえ――あなた」
イザベラは、そっとアルディオンの手を取った。
「これからも、ずっとお傍にいさせてください」
「当然だ。俺が生涯をかけて守り抜いた約束の、その先にいるのは、お前しかいないのだから」
橙色の夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。かつて幼い指切りで交わされたたわいもない約束は、幾多の試練を経て、確かな絆へと結晶していた。それは、権力や地位のためではなく、ただ一人の少年が、一人の少女との誓いを、生涯をかけて守り抜いた物語だった。




