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 Ⅰ


 下流地区に出入りするようになって,もう20年以上たつんだ。最初は図書館で昔の本を探すのが目的だったけど,そこでMさんに出会って,それからはむしろMさんといろんな話をする方が主な目的になった。

 20年たって,Mさんもずいぶん老けてきた。髪の毛はすっかり白くなっている。お父さんと同じくらいの年頃だということだけど,アンチエイジング手術を一度も受けてないから,ずっと老けて見える。「余計なことをしなければ,人はこうやって老けていって,いずれ死ぬんだよ。死は誰にでも必ず訪れる……いや,今となっては『訪れるものだった』と過去形で言わないといけないのか。金持ちにも貧乏人にも,栄華を極めた王侯貴族にも困窮に沈む人民にも,すべての人間に死は分け隔てなく訪れる,それは人間の平等の最後の砦だった。でも,この砦も陥落したんだね。下流民はみないつかは死ぬ。上流民は最新の医療でいつまでも生きながらえる」

 「中流民もいつか死ぬんですよ。臓器交換できないから」

 「ああ,そうだったね。でも,順当にいけば,わたしの方が君より先に死ぬよ。その時は,あまり悲しまないでくれ。人が老いて死ぬのは,自然なこと,当たり前のことなのだから」

 こんな話をたまにするようになった。


 *   *   *   *   *   *   *


 「ひょっとしたら,肺ガンかもしれない。このところ咳が続いて,何日か前は血痰(けったん)が出た」

 Mさんが何気ない口調で話したので,わたしも

 「そうですか」

 と軽く受け流した。

 「今では,ガンにもいろんな治療法があって,ほとんど死ぬ病気ではなくなったけど,それは上流地区でのことであって,ここでは治療は受けられないから,ほぼ確実に死ぬ」

 「えっ,そんな……」

 思いもよらないMさんの言葉に,わたしはちょっと取り乱した。

 「いや,そうなんだよ。まあ,長引く咳と血痰だけで肺ガンとは決めつけられないけどね」

 「ちゃんと検査を受ける方が……」

 Mさんはおかしそうに笑った。

 「治療も検査も受けられない。そもそも,治療されないのに検査だけされても意味がないだろう」

 わたしは言葉がなかった。下流とは,こういうことなんだ。

 「仮に肺ガンだとしたら,これからいろんな症状が出る。肺だから当然,咳や血痰が今よりひどくなるし,呼吸困難にもなる。それに加えて,特に肺ガンは脳に転移しやすい。そうなると,脳のどの辺に転移するかによって,マヒや歩行困難のような身体症状も出れば,痴呆や意識障害のような精神症状も出る。骨にも転移しやすい。骨に転移すると,すごく痛い。普通の痛み止めは効かない。モルヒネならある程度抑えられるけど,ここの診療所は処方してくれない」

 「じゃあ……」

 「心配しなくていい。安楽死の薬は処方してもらえるから,耐えられなくなったその薬で死ねる」

 「でも……」

 「わたしもたくさんの人をそうやって死なせたもんだ。ずっと昔のことだけど……。わたしは,我慢できるだけは我慢してみようと思う。だからといって,何の役にも立つわけではないけどね。たくさんの人を安楽死させてきた者の償い……にもならないのだけど,まあ酔狂だよ」


 こんな話を聞いてから,また以前のように毎日Mさんのうちを訪れるようになった。訪れて,何の助けになるわけでもないけど,何日ぶりかに訪れた時にはもう死んでいた,というのはいやだから。

 それから何ヶ月か,何事もなく過ぎた。一緒にいて,時々咳き込むけど,そのほかには,これまでと変わったことはない。血痰の出るところを目にしたこともない。これまでどおり穏やかに会話している。

 「わたしはいい時に死ぬようだ。この地区はあと1年くらいで住民全員が強制移住させられるらしいよ」

 「どうしてですか?」

 「もうじき,人口が1万人を割り込む。人口が減りすぎると,食糧配給などの社会サービスの効率が低下する。だから,いくつかの地区をまとめて人口を維持する。そのためここの人たちを別の地区にまとめて移住させるらしい。こんな街でも,30年くらい住んでいると愛着はある。ほかの街も『住めば都』かもしれないけど,引っ越しせずにここで死ねれば,その方がいいと思う……そうだ,まだ痛みもマヒも来ないうちに散歩しようか。家並みが尽きてちょっと歩くと小さな池があるんだ。その辺まで歩こう。もう見納めになるかもしれないから」

 Mさんは立ち上がって歩き始めた。歩き方はゆっくりだけどしっかりしている。15分くらい歩くと家並みが尽きて,それから5分くらいで池の畔に着いた。Mさんは水面を眺めている。たまに風が吹くと波が立ち,陽の光が砕けてキラキラ反射する。

 「今はまだ昼の光だから銀波だね。しばらくすると日が傾いて光が赤みを帯び始める。すると,波に反射する光が金色になる。金波銀波とはよく言ったものだ……。子供の頃から,こうやって水面に砕ける陽の光を眺めるのが好きだった。わたしが子供時代を過ごした土地にも,こんな小さな池があって,こんなふうに水面に反射する陽の光をぼんやり眺めていた。そしてたまに……」

 そう言いながらMさんは身をかがめて小さな石を1個拾い,池に向けて投げた。石は,水面で2度跳ねた。

 「水切りなんて,60年ぶりくらいだな。ちゃんと体が覚えている。この年で2段跳びなら,立派なもんだ」

 わたしはびっくりした。

 「なんで,石が水面で跳ねるんですか? 石を池に投げたら沈むだけでしょう?」

 「おやおや,今どきの上流の子供たちは水切りを知らないのか。平べったい石を水平に近い角度で投げると,あんなふうに跳ねるんだよ。名人は5段,いや10段くらい跳ねさせたものだった。君もやってごらん」

 言葉に誘われてわたしも石を投げたけど,ポチャンと沈んだだけだった。

 「そんな投げ方じゃだめだよ。もっと腰を低くして,アンダーハンドで,水平に近い角度で投げるんだ。こんなふうに」

 Mさんは手本を見せてくれた。それをまねてわたしがもう一度投げると,今度は1段だけ跳ねた。

 「不思議ですね。重いはずの石が水面で跳ねるなんて」

 「ちゃんと物理学的に説明できるんだけど,その説明を覚えていない。ともかく,けっして超常現象ではないんだよ」

 そう言って,もう一度投げた。

 「ああ,3段跳ねた」

 午後の日差しを浴びて,白髪を風に揺らせて,そんなことを言うMさんの表情は無邪気な子供のようだった。


 *  *   *   *   *   *   *


 Mさんのうちを訪ねると,留守だった。どこに出かけたんだろう。図書館かな? カフェテリアかな? それともまた池に散歩に出かけたんだろうか。何もないMさんの家で待っているのも手持ちぶさたなので,街を歩いた。

 カフェテリアの前に立って何かぶつぶつとつぶやいている人がいる。近寄ると,Mさんだった。

 「人はみんなで力を合わせて働かないといけないのです。そうやって手に入れたものをみんなで公平に分け合って生きていくべきなのです。みなが等しく働き,等しく暮らすのが人の世のあり方なのです」

 高齢で大きな声は出せないけど,咳き込みながら熱心に語りかけている。でも,カフェテリアに出入りする人は真剣に耳を傾けることはない。物珍しそうに一瞥するだけ。たまに立ち止まる人も,話の内容を理解しているようには見えない。それでもMさんは熱心に演説している。わたしは声を掛けるのをためらった。邪魔しないでおこう,気の済むまで演説させてあげよう。そう思って,そっと通り過ぎようとしたら,Mさんがわたしを見つけて手を挙げた。わたしは立ち止まった。

 「とうとうガンが脳に転移して気がおかしくなったかと思ったかい? そんなことはない。わたしは正気だよ。正気だから,死ぬ前に自分の理想を語っておきたいんだ。若い頃心に抱き,それからもずっと心の奥に秘めていた理想を語っておきたいんだよ。誰も聞く人がいないことは分かっているけど」

 わたしにこう語りかけた後,もう一度演説し始めた。

 「人はみんなで力を合わせて働かないといけないのです。そうやって手に入れたものをみんなで公平に分け合って生きていくべきなのです。みなが等しく働き,等しく暮らすのが人の世のあり方なのです」

 語り終えて咳き込んだ。かなり激しい咳だったので,Mさんはその場にしゃがみ込んだ。血痰のようなものもちらりと見えた。しばらくして咳が治まり,乱れた呼吸も整って,一息ついてから,わたしの方を向くわけでもなくうつむいたまま語り始めた。

 「……いや正気ではなかったかな。理解されるはずのないことを理解できるはずのない人たちに語りかけるのは,正気とは言えないね。それに,分からない方がいいんだ。わたしの理想など,理解できないでいる方がいいのだろう……。Sさんは,『猫が死ぬよ』の詩を覚えているかい? もうずいぶん昔に,図書館の前庭で子供たちに読んで聞かせたことがある詩だけど」

 「何となく覚えています。猫が雨に打たれて死ぬのを,なすすべもなく見ている,そんな詩でしたね」

 「そうだ。それと同じ詩集に,こんな詩もあった。


 世界の苦悩を理解するには

 君たちはあまりに幼い

 世界の悲惨を認識するには

 君たちはあまりに無邪気だ


 ならば そのままでいるがいい

 大人にならず

 知恵をまとわず


 安らかにまどろんでいるがいい

 無垢な黄昏(たそがれ)の中で

 何も怖がらず

 未来を恐れることもなく


 一かけらの不安もないまま

 巨大な悪に打ち滅ぼされる

 その時まで


 まさに下流の子供たちのことを詠っているようで,わたしは切なくなったけど,当の子供たちは,滅ぼされるその時まで何も知らないままでいる方が幸せなんだろう,きっと……」

 ちょっと息をついて,Mさんはまた語り始めた。

 「人間はこれまで,数多くの難問を解決してきた。ガンは,わたしが子供の頃には不治の病だった。早期発見できなければ死を覚悟しないといけない病気だった。だけど,ついに人間は何十年ものあいだ努力を重ねて,ガンの治療法を開発した。臓器交換だってそうだ。昔は心臓や腎臓が疲れ果てて機能を停止したら,死ぬほかなかったんだ。自分の細胞から臓器を作り出すなんて,100年前には夢にさえ思い描けなかったことなんだ。

 医学に限らず,テクノロジーだってそうだろう。100年前は,人間が自分で車を運転しないといけなかったんだ。食料生産だって,人間が農業機械を操縦していた。人間が炎天下にも冷たい雨の日にも,大地の上で機械とともに働かないと,小麦も野菜も果物も育てられず,収穫できなかったんだ。無人の農場で食料が生産され,それが無人トラックで運ばれるなんて,夢のようなことだったはずだよ。

 もちろん,不可能を可能にするためには,膨大な研究努力を積み重ねたはずだ。そして,それだけの努力を投入したのは,多くの人がそれを欲したからだ,何が何でも実現したいと願ったからだ。

 なのになぜ,その5分の1,10分の1の努力でさえ,公平な社会を実現するために投入しなかったのだろう。誰も,公平など望まなかったからかい? ガンを克服したい,寿命を延ばしたいと願うほど熱心には,公平な社会を欲しなかったということかい?」

 わたしに問いかけているのではないことは分かっているけど,思いつくままに返事をした。

 「自分の寿命を1年でも2年でも延ばすための研究なら,どれだけの資金をつぎ込んでも誰も文句を言わないけど,公平な社会を実現するための研究に資金をつぎ込むのは『税金の無駄遣い』なんでしょうね」

 「そういうことなんだろうね」

 二人とも,道ばたにしゃがみ込んだまま,黙って自分の足下を見つめた。それから,Mさんが立ち上がった。

 「さあ,家に戻ろう」


 それから1週間くらい後,いつものようにMさんのうちを訪れると,わたしを待ち構えていたように話しかけてきた。

 「これから一緒に診療所に行こう」

 「えっ?」

 「薬をもらうよ。どうも,脳転移より骨転移の症状の方が進行しているらしい。頑固な痛みが続いている。カフェテリアの前で演説した頃からだ。痛みがしだいにひどくなる。これ以上痛くなると立って歩くこともできなくなりそうだ」

 「でも……」

 「もういい。もうこれ以上は逆らわない。しょせん,ガンの痛みは人間が抵抗できるものではないんだから。楽になりたいんだよ」

 「でも,せっかく今までがんばってきたのに」

 Mさんはふっと笑った。そしてちょっと寂しそうな表情になった。

 「人間のがんばりなんて,この程度のものだ。だから人生にも,人の行為にも,大それた意味を与えない方がいい。Sさんは,よく分かっているだろう。……ここでは毎日,毎日,人が死んでいく。わたしもその大勢のうちの一人なんだ」


 わたしたちは並んで歩いた。高齢のMさんの足取りにあわせてゆっくりと。 

 道ばたで遊ぶ人たち。石蹴りかな。Mさんがふとつぶやいた,

 「遊びをせんとや生まれけむ……わたしも,あんなふうに生きても良かったのかな,あんなふうに生きることもできたのかな」


 下流の診療所はまだ人間の医者が仕事している。いずれ下流地区の診療所そのものが必要なくなるし,需要の少ない「下流仕様」のプログラムを作成するより人間の医者を使い続ける方が安上がりだから,ここではまだ人間が働いていると,以前Mさんが説明してくれた。医者は,安楽死の薬が欲しいというMさんの言葉を聞いてすぐに処方してくれた。

 「なるべく,ここで服用してください」

 「ああ,そうでした。ここで死ぬ方が死体の処理が簡単なんですよね」

 Mさんは,与えられた薬をのんで,奥の部屋に入った。わたしもMさんに続いた。ほかに人はいなかった。その表情に安らぎが戻った。

 「人類は,こうして滅びていくんだね」

 Mさんはポツリと語った。その表情,眼差しからは,1週間前に演説していた時の熱っぽさも,さっきの寂しさも消えている。出会った頃のような明晰な顔立ち。

 「この地区の人口がとうとう1万人をきったそうだよ。その1万人のうち一番若い人が30歳をとっくに越えている。60代,70代が一番多いんだ。ほかの地区も同じようなものだろう。これから加速度的に人口が減っていく。いくつかの地区を統合してとりあえず地区ごとの人口を維持しても,いずれ30年か40年したら誰もいなくなる。滅びていくんだよ。でも,いい滅び方だと思うよ」

 「そうですか?」

 「うん。戦争でお互いに殺し合って滅びるより,ずっといい滅び方だよ。そう思わないかい?」

 「そうですね」

 わたしの返事にうなずくと,Mさんは目を閉じた。そのまま眠りに落ちるのかと思って見ていると,目を閉じたままつぶやいた。

 「ああ,約束を忘れていた。今度,図書館に行ったら子供たちに……」

 ここまで言いかけて,意識を失った。


 Mさんの言うとおり,下流の人たちはこんなふうに穏やかに滅びていくのだろう。上流では,どうなのだろう。上流でも,もう何十年も子供が生まれないから,いつかは滅びるはずだけど,あの人たちはこんなに穏やかに滅びていけるだろうか。Mさんの死に向かう安らかな寝顔を見ながら,こんなことを考えた。そして,医者にMさんが意識を失ったことを告げて退出した。


 Ⅱ


 1週間くらいして,Mさんの家を訪れた。Mさんがいなくなっただけで,数少ない家具や持ち物はそのまま放置されている。もうじきみんな引っ越すことになっているから,ここに住む人はいない。後片付けする必要もないのだろう。その空虚な部屋にしばらく佇んだ。そして,自分のうちに引き返そうとして,ふと思い出した。Mさんが意識を失う直前に言いかけたこと。ひょっとして,図書館でMさんを待っている人たちがいるかもしれない,何も知らないままに。わたしは図書館に向かった。


 図書館の前庭には,昔ほどではないけど,それなりに人がいる。Mさんは「子供たち」と言ったけど,もう最年少でも30歳を越えている。もっとも,Mさんが「下流の人たちは性ホルモンの影響を受けず,教育も受けないままだから,心も体も成熟しきらないようだ」と話していたように,幼い感じはする。わたしはその人たちを見て,何と話してよいのか,迷った。特に誰にということはなく,その場にいる人たちみんなに聞こえるように大きな声で,

 「Mさんを知ってる人はいますか?」

 と問いかけたら,何人かが「知ってる」と答えてくれた。

 「Mさんは,もう来れないよ……1週間前に死んでしまったんだ」

 何人かが「えっ」というような表情をした。それだけだった。泣く人もいないし,死んだ時の様子をわたしに尋ねる人もいない。わたしはしばらくその場に黙って立っていた。

 そしたら,前庭の隅で誰かが声を上げて泣きだした。わたしはその人に近寄った。

 「悲しいの?」

 その人は泣きながらうなずく。

 「猫が死んだの,猫が死んでるの,こっちだよ」

 そう言いながらわたしの手を引いて,2~3メートル先の雑草の茂みに歩いた。指さした地面に猫の死骸がある。子猫から成猫になりかけくらいの大きさ。

 「わたしになついてたんだよ,近寄っても,体に触っても,逃げなかったんだよ」

 Mさんの死ではなく,猫の死を悲しんで泣いている。わたしの「1週間前に死んでしまったんだ」という言葉が猫の死を思い出させたんだろうか。30過ぎ,40歳くらいの大人が,猫が死んだと泣いている。何か声をかけてあげたいけど,何を話しかけていいか分からない。それに,猫の死骸に近寄るのは怖い。

 わたしが黙って突っ立っていると,何人かが寄ってきて,そばの雑草を何本か根っこから引き抜いた。ちょうど猫を埋められるくらいの穴ができたので,そこに死骸を置き,その上に引き抜いた雑草を乗せた。こんもり盛り上がった墓のように。そして,泣いている人を慰めて,その場から離した。こうすれば,死んだ猫を目にしなくていいし,「弔ってあげた」という気持ちにもなる。そうか,こうしてあげれば良かったんだ。わたしは,何もせず,何もできず,ただ突っ立っていた。役立たず……。


 わたしはその場を立ち去った。自分の家に向かってとぼとぼ歩いた。もう,ここに来ることはないだろう。Mさんは死んでしまったし,図書館の本はたいてい読んでしまったし,下流の人たちとはうまくつきあえないし,わたしはなんの役にも立たないし……。


 / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 


 先ほど出かけたSが戻ってきた。リヴィングルームのテーブルのディスプレイ端末で本を読んでいるわたしをちらりと見て,自分の部屋に入ろうとして,引き返してきた。そして,わたしの向かいに立って話しかけた。

 「こっちに座ってもいい?」

 「いいわよ」

 向かいの椅子に座ったけど黙っている。何かわたしに話したいことがあるのかしら。話を始めるきっかけが思いつかないのかしら。こうして差し向かいで語り合うなんて,お互い何十年ぶりだから。しばらく沈黙が続いたから,わたしから声を掛けた。

 「何か,わたしに話したいことがあるの?」

 「お母さんは……下流地区に行ったことある?」

 「何度か,視察に行ったことはある。そういえば,あなたはちょくちょく出かけているらしいね」

 「うん,20年前くらいから。図書館で紙の本を借りたりしている」

 「図書館はここにもあるでしょう。自分の部屋からアクセスできるのに。なにも下流地区まで出かけなくても」

 「面倒なんです。アクセスするたびにいろんな質問に答えないといけないから」

 「ああ,あの『健康を害する恐れがあります』うんぬんという質問?」

 「そう。わたしの場合,お母さんよりもっと手間がかかるんです。レトロパチーの病歴が登録されているから。だから,下流地区の図書館で昔の紙の本を探して読んでいる」

 「ああ,そういうことだったのね」

 いったん,会話が途絶えたけど,今度はSの方から話し始めた。

 「そこで知り合いになった人がいたんです。昔はお医者さんで,下流地区の診療所で働いていたけど,医者の数が減らされて失業して,そのまま下流地区に住み着いた人」

 「そのケースでは,中流としてここで暮らすことを認められるはずだけど」

 「本人が志願したんだって」

 「ふーん,変わった人だね」

 「でも,いい人だよ。それにいろんなことを知っている……そういえば,30年くらい前の最終改革会議というのに委員として出席して,けっこういろんな発言をしたって話してた」

 わたしは,はっとした。最終改革会議に参加して活発に発言した医者といえば……。

 「ひょっとして,その人はMという名前じゃなかった?」

 「どうして知ってるの?」

 Sは驚いたようにわたしを見ているけど,わたしの方がよほど驚いた。

 「M委員か,あなたはM委員と知り合いなの?」

 「うん,でも,死んでしまった。先週,肺ガンで」

 「肺ガンなら死ぬことはないでしょう。治療法はいくらでもあるはずじゃないの」

 思わず,声が大きくなった。

 「でも,下流は医療を受けられないから,死ぬんだって」

 「そういうこと……」

 「肺ガンって,死ぬ間際はとても痛くて苦しいんだって。Mさんは,かなり我慢していたけど,やっぱり我慢しきれなくて,診療所で安楽死の薬をもらって死んだ」

 「そうだったの……」

 それから先は,言葉にならなかった。顔を伏せて,心の中でつぶやいた。M委員,なんで肺ガンなんかで死んだの。今の時代にガンで死ぬなんて,犬死にじゃない。ここに住んでいれば,簡単に治せる病気なのに。ガンの治療は中流でも受けられるのよ。なんで自ら志願して下流に身を落としたの。それが自分にふさわしい身の処し方だと信じたの? 人間の連帯に殉じたの?

 ……今となっては,あなたの意見の方が正しかった。あの場で,「そのような対応は検討しておりません」と自信たっぷりに断言した,検討する必要のなかったはずの「そのような対応」に追われる30年だった。わたしの人生は。その挙げ句に失業した。

 ふと顔を上げると,Sが心配そうな表情でわたしを見ている。わたしはよほどうろたえた様子だったのか。

 「お母さんもMさんを知ってたんだ。知ってる人が死ぬって,悲しいね」

 彼が死んだことだけが悲しいのではない,その他もろもろのことも悲しいの。でも,それはSには分からないだろう。

 「ええ,もちろんそうよ。人が死ぬのは悲しいことよ」

 だけど,今日Sから話を聞かなければ,M委員の死も,統計予測計画局で集計される下流人口の減少を示す数字の背後にある膨大な無名の死の一つでしかなかった。

 「もちろん,人が死ぬのは悲しいことよ」

 わたしは繰り返した。それにしても,あなたとこうやって語り合うのは何十年ぶりでしょう。そもそも,あなたが生まれてから一度でも,こんなに真剣に語り合ったことがあったかしら。M委員の置き土産? だけど,もはや返礼することは叶わないのに。


 それから数日後,Sに案内されてM委員が住んでいた家を訪れた。茅屋(ぼうおく),あばら家,そんな言葉がふさわしい,朽ちかけたような家。中に家具調度はごくわずかしかない。

 「彼が死んで,荷物が片付けられたの?」

 「そんなことはないよ。死んだ時のままです」

 「こんな,何もない家に住んでいたの?」

 それとも,こんな住まいこそ,自分から落魄(らくはく)の人生を選んだ人にはふさわしいのか。わたしの記憶に残っているM委員は,わたしを相手に,いやわたしだけでなくほとんどすべての委員を相手に,理想を語り反論を述べ立てている凜々しい姿なのだけど。お互い,若かった,あの頃は。

 「もうじき,この街は無人のゴーストタウンになるって,Mさんが話してた」

 わたしは思い出から呼び戻された。

 「もうじきってことはないだろう。あと数十年はかかるんじゃないか」

 「そうじゃなくて,人口が減って社会サービスの効率が低下したから,いくつかの地区をまとめて人口を維持するんだって。だから,ここの人たちは別の地区にまとめて移住するらしいよ」

 「そういうこと」

 「そして,下流全体も30年くらいしたら消滅するって,Mさんも言ってた」

 きっと,そうなる。そして,それからさらに何十年かしたら,上流も消滅するでしょう。今の若い世代はほとんど子供を産もうとしないし,人間の職場はどんどん減っている。やがて全員が失業者となり,中流に分類替えされ,臓器交換もできなくなる日が来る。上流地区は,老朽家屋が建ち並ぶ下流地区と違って,最新の科学技術の粋をこらした快適な住居,オフィス,商店,文化レジャー施設,道路,公園がある。でも,そこもいずれゴーストタウンになるのだわ。最後に一人残った人間は,自分の目の前に広がる能率的で快適な都市施設に満たされたゴーストタウンをどんな思いで眺めるのでしょう。


 Ⅲ


 「お母さん,何してるの?」

 薬を捨てているわたしをSが目ざとく見つけた。以前は,わたしのすることなどぜんぜん関心を示さなかったのに,M委員の死について語り合ってからこの1~2年,少しずつ打ち解けるようになり,たまにはリヴィングルームのテーブルに向かい合って,しばらく会話することもある。そのため,見つかってしまった。

 「薬を捨ててるのよ。クリニックでもらったけど,必要ないと思って」

 Sはけげんそうな表情をしている。きっと,何の薬か尋ねたいけれど,遠慮しているのでしょう。

 「肺ガンの治療薬よ」

 「肺ガン?」

 「そう。運命の偶然なのかしら,わたしもM委員と同じ病気にかかった。まあ,肺ガンはガンの中で一番頻度が高いから,同じ病気になるのもさほど珍しくはないけどね」

 「薬は要らないの?」

 「うん」

 「でも……」

 「薬をのまなければ,ガンが進行して死ぬ。昔の医学文献を調べたら,進行ガンの治療薬がなかった頃は,自覚症状が出現してから1年くらいで死んでいたらしい。もっとも,この1年というのは,末期ガンの苦しい期間も含めての数字。わたしは苦しい状態を我慢するつもりはない。M委員ほど剛毅ではないの。痛みが出現したらすぐに安楽死の薬をもらうよ……そんなに,悲しい顔をしないで。70歳をとっくに過ぎて,もうすぐ80歳にもなる昔は長寿のお祝いをしたくらいの年なのよ。……死ぬにはいい時よ。もうじき,我々みんな滅びるんだから。あなたも分かっているでしょう」

 Sは黙ってうなずいた。寂しそうだ。わたしの死を惜しんでくれるの?

 「下流地区の事情は知らないけど,ここではモルヒネを処方してもらえる。モルヒネを使えば,ガンの痛みにも耐えられるらしい。とはいっても,死期が2~3ヶ月延びるくらいのもの。80歳で死ぬのも,80歳と3ヶ月で死ぬのも,たいした違いではないでしょう」

 「……でも,多少の違いはあるよ」

 「2ヶ月でも,3ヶ月でも,長く生きて欲しいの?」

 Sはちょっと考えてから返事した。

 「わたしのために,無理して長生きしなくてもいいよ。お母さんの死ぬ時は,お母さんが決めていい」

 「重ね重ね,ありがとう」


 / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 


 お母さんがいつものようにリヴィングルームのテーブルに座ってディスプレイ画面を眺めている。本を読んでるんだろう。わたしは,向かい合わせに座った。

 「お母さん,痛みはまだ大丈夫?」

 「ああ,今のところ,痛むことはないわ」

 「それはよかった」

 お母さんは画面から顔を上げてわたしを見た。

 「あなたは……ほんとうに優しい子ね。いや,もう『子』と呼ばれる年ではないかな。今年で……」

 「50歳だよ」

 「そうね。わたしが30歳の時に生まれたのね。最終改革会議の10年くらい前かしら……ほんとうは,あなたのような者たちに未来を託すべきだったのかしら」

 「いいんだよ。今さら」

 「そうね。今さら,どうしようもないことね」

 お母さんは寂しそうにつぶやいた。何か,気持ちを引き立てるようなことを話してあげたいけど,適当な話題が見つからない。ふと思いついて,

 「ねえ,お母さんにも若い頃はあったんだよね」

 と話しかけた。おかしな質問だったのかな,お母さんは笑いながら答えた。

 「そりゃあ,わたしにだって若い頃はあったわ」

 「子供の頃から『大人になったらお役人になろう』って思っていたの?」

 わたしからこう質問されて,お母さんは遠くを見るようなまなざしになった。わたしの方を向いているけど,わたしを見ているのではない,視点の定まらない,どこか茫洋(ぼうよう)としたまなざし。昔,仕事をしていた頃は,一度もこんな表情を見せなかった。失業してから,時々,こんな表情になる。

 「若い頃はね,文学に打ち込んでいた。特にフランス文学。それでフランス語を熱心に勉強した」

 「フランス語なんか,わざわざ勉強しなくても……」

 「あなたたちの世代にとっては,そうでしょう。フランス語に限らず,外国語の知識は脳内インプラントで充填できるから,自分で勉強する必要のないものだよね。でも,わたしが若かった頃は,自分で時間をかけて覚え込まないといけなかったのよ」

 「ふーん」

 「ただ,今も昔も文学は仕事にならない。そして,その頃のお父さん,あなたにとってはお祖父さんの収入は,成人した子供を遊ばせておけるほど裕福ではなかった。だから,わたしは大人になれば働かないといけない,それは当然のことで,何も誰も恨むようなことではない。ともかく,そんなことがあってわたしは社会経済省に入省した。あの当時は,指折りの秀才が集まるエリートコースだったのよ。入省の日,わたしは誓ったの『官吏になるからには能吏になろう』と」

 「のうり?」

 「つまり,優秀なお役人という意味」

 「お母さんは,きっと,優秀なお役人だったはずだよ」

 「ありがとう」

 お母さんは寂しそうに返事をした。

 「わたしから褒められても,うれしくない?」

 「いや,そんなことはない。もちろん,うれしいに決まってるじゃないの。ただ……」

 「ただ?……」

 「あなたは,お父さんのこと,覚えている?」

 「うん,覚えているよ」

 「……あの人も文学が好きだった。わたしたちは,文学を愛好するサークルで知り合ったの。もちろん,彼も文学が仕事にならないことは分かっていたから,就職した。文化省だった。ただ,彼はわたしと違って,就職してからも文学への興味を捨てなかった。そんな彼にとって,能吏への道をひたすら突き進むわたしは,物足りなかったのでしょう。裏切られたという思いだったかもしれない」

 「それで,離婚したの?」

 「まあ,それだけが理由ではないわ。……結局,わたしは能吏を目指すうちに人間を見失ったの。人間をコストとしか考えない風潮,人間を機械や電気と同じ生産手段,経済活動の道具と見なす風潮に染まってしまった。抵抗したかもしれない,だけど抵抗しきれなかった……。そもそも,仕事の能力で人間を評価することが根本的な間違いだったのでしょう。今頃気づいても,手遅れだけど」

 でも,そうするしかなかった。と,心の中でつぶやく。男なら,少しばかり文学青年っぽいところを見せても大目に見られる。女が同じことをすると「だから女は……」と陰口をたたかれる。だから,自分の中の文学少女を押し殺して,怜悧な理性の人にならないといけなかった……でも,これもまた言い訳なのでしょう。


 / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 


 背中がギクリと痛んだ。ひょっとして骨転移の痛み? 常備している鎮痛薬をのもうと思ったけど,5分ほどで痛みはおさまった。それ以来,なにかの拍子で痛みが生じるようになり,2~3週間するとほぼずっと,ジワジワ痛むようになった。骨転移だとしたら,早めに安楽死の薬をもらっておく方がいい。

 そう思いながら,1週間ほどぐずぐずしていた。少しずつだけど,痛みは強くなる。もう潮時だわ。これ以上がまんしていると,自分の足で歩けなくなるかもしれない。わたしはクリニックに行った。

 受付のロボットにアイデンティティー・カードを挿入し「安楽死の薬をください」と訴えた。2分ほどして,「3号室にどうぞ」と案内された。3号室の診察ロボットには,わたしの情報がすべて転送されている。8ヶ月前に肺ガンと診断され治療薬が処方されたことも。

 「どうなさいました?」

 という質問を無視して,わたしは「安楽死の薬を処方してください」と訴えた。

 ロボットはわたしのステイタスを確認して,「非有業者ですね。問題ありません。安楽死薬を処方します。処方室に移動して,受付にアイデンティティー・カードを挿入してください」と答えた。

 わたしは好奇心とちょっとばかりの意地悪な気持ちで聞き返した。

 「有業者だと,処方してもらえないのですか?」

 「社会的に意義ある活動をしている人を簡単に死なせてはいけないことになっています」

 なるほど,社会的に意義ある活動をしていない者はさっさと死んでよいわけね。元はと言えば,自分で作ったルールだけど,こうもあからさまに適用されると,身に沁みるわね。まあ,いいけど。

 処方室の受付装置にカードを挿入したら,待つほどもなく薬が出てきた。


 Ⅳ


 お祖父さんが失業した。「道路設備の点検は,その場所ごとに状況が違うから,そう簡単に機械で置き換えられないのだ」と自慢げに話していたけど,とうとう機械化されてしまった。お姉さんはずっと以前に失業している。これで我が家は中流一家になったよ。

 お祖父さんは,中流には臓器交換が認められないのを悔しがっている。それで,チャリティーが発表されるといつもその抽選に応募している。今でもごくわずかに残っている有業者の中に,これ以上長生きしなくていいという人がいて,その人が自分に割り当てられた臓器交換の権利を中流に提供してくれることがある。申し込みが殺到するから抽選になるんだ。お祖父さんは毎回応募して毎回外れている。そのたびに落胆している。

 仕事をしている頃は,しっかりして,威張ってさえいたのに。仕事がなくなると,人ってこんなに変わるものなんだね。わたしには実感できないけど。あと何十年かして,今の臓器が衰えてしまったら死んでしまうと,今から心配している。何十年も先のことを気に病まなくてもいいのに。たぶん,わたしより長生きするはずなのに。

 お姉さんは,長生きは諦めてるみたいだ。そのかわり,節約できるものは全部節約して食費も削って,アンチエイジング手術のためのお金を貯めて,手術を受けている。だから,わたしよりずっと若い。わたしの娘と言っていい,孫と言ってもいいくらい。死ぬのは仕方ないけど,若くてきれいなままで死にたいって。そういう考えもあるんだね。

 でも,どうしてMさんのように自然に死ねないんだろう。昔は,だんだん年を取って老けていって,70歳か80歳,せいぜい100歳くらいでみんな死んだ,それが人間の当然の運命だと,何千年も何万年も誰もが受け入れていた,Mさんもお母さんもそう話していたのに……。


 そして,姉がパーキンソン病で死んだ。パーキンソン病は,治そうと思えば治せる病気だし,直接の死因にもならないのだけど,姉はその治療費を惜しんで治療を受けないまま何年も放置していたから,病気が進行して,立って歩くことも自分の手で食事することもできなくなり,安楽死を選んだ。死ぬ間際に,有り金はたいて最後のアンチエイジング手術を受けて,若々しい顔で死んでいった。本望だったのかな,それとも心の中では後悔していたのかな。

 姉は2歳年上だから,もうじきわたしの番だ。そう思って,ふとセシルに話しかけた。

 「セシル,君は歩けるよね」

 「はい,もちろん歩けます」

 「じゃあ,散歩につきあって」

 「散歩?」

 「うん,久しぶりに下流地区に行ってみたいんだ」

 わたしは,セシルと手をつないだ。最初は冷たかったけど,握っているうちに温かくなった。


 Mさんが住んでいた家の前に,セシルと一緒に立っている。30年くらい放ったらかされていたから,ほとんど崩れかけている。土台と柱は残っているけど,壁や屋根は剥がれ落ちている。あと何十年かしたら,柱も折れて崩れるんだろう。周りの建物も同じような状態だ。

 図書館に行ってみる。途中の道も舗装の隙間から雑草が生えている。誰とも出会うはずはないけど,たまに動物を見かける。猫? ネズミ? それとも,わたしが名前を知らない動物かな。

 図書館は鉄筋コンクリート造りだから,まだ外見を保っている。Mさんが子供たちに字を教えていた前庭は雑草が生い茂っている。昔,死んだ猫を埋めたのは,どのあたりだろう。どこも雑草が生えているから,見分けがつかなくなった。草をかき分けて入り口にたどり着き,中に入ろうとドアを押すけど,開かない。鍵はかかっていないはずだけど……建物が傾いてドアが開かなくなったのかな。中に入るのは諦めた。もう何十年も誰も入っていないんだろうな。中の本たちは,どうなっているんだろう。紙も腐るのかな。それから,街外れの池に行ってみようと思ったけど,道を覚えていない。迷子になっては困るから,わたしは引き返した。

 わたしは何もしゃべらなかった。セシルも一言も話さない。ただ,手をつないで歩いた。下流地区に行って帰ってきた散歩の間,ずっと手をつないでいた。


 *   *   *   *   *   *   *


 「セシル,わたしもとうとう死ぬことになったよ。わたしは,おとうさんやMさんのように肺ガンじゃない。心不全という病気なんだ。新しい心臓と取り替えればいいんだけど,わたしは臓器交換をする資格がないんだよ。息が苦しいんだ。もうちょっとがまんするけど,がまんしきれなくなったらお薬をもらう。ごめんね。わたしが死んだら,セシルも廃棄処分されることは分かっているけど,苦しいのは耐えられないんだ」

 セシルは優しい微笑みを浮かべた。

 「わたしのために,苦しみに耐えていただかなくても,いいのですよ。がまんできなくなったらいつでも,薬をのんで楽になってください。むしろ,わたしのために苦しみに耐えていらっしゃるのを見ている方が辛いです」

 「セシル,君はほんとうに,最後の最後まで,わたしに優しくしてくれたね」


 

 Coda


 やがて,人間たちは死に絶えた。

 それから,機械が自分たちに必要なものを生産し,壊れたところを修理し,新しい機械を生産し,改良さえ加えて,機械の機械による機械のための社会がしばらく存続した。それもいつしか,想定外の細々したトラブルが重なって機械が稼働しなくなり,1つの機械の予定外の停止はほかのいくつかの機械の予定外の停止を招き,それがさらに多くの機械の予定外の停止を引き起こし……やがて社会全体の機械が稼働を止めた。

 それから何百年,何千年……高耐久性素材で作られた機械も建屋も腐食して朽ち果て,土に還った。

 生き物たちは,そんな人間と機械の栄枯盛衰に無頓着に生き続ける。ずっと,何億年も。太陽が燃え尽き,太陽系の寿命が尽きるまで。何の不安もなく,怖れもなく。

 大地に張った樹々の根,天に向かって伸びる枝。枝から枝へ飛び交う鳥たち。地面を覆う草。その可憐な花の蜜を吸う蝶や蜂。草の実や木の実を食べる小動物。それを追う禽獣たち。彼らも死ねば大地に還る。永久(とわ)に変わらぬ命の営み。


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