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繁栄の翳り Prospérité assombrie

 繁栄の翳り

 Prospérité assombrie



 Ⅰ


 リヴィングルームで朝食をとっていると,Sが自分用に配送された朝食をボックスから取り出している。いつ頃からだろう,家族一人一人が自分用の食事を自室で食べるようになったのは。わたしだけは,どうしてもなじめないから今でもここで食事をするけど,ほかのみんなが自分の部屋に引っ込んでいるのだから,孤食であることに変わりはない。

 Sが朝食の載ったトレイをもって自室に戻ろうとするところで声をかけた。

 「たまには,リヴィングルームで一緒に食事をしない?」

 なるべく優しく話しかけたつもりだけど,Sは顔をこわばらせた。恐怖さえ浮かべた表情で黙ってわたしを見ている。どうして,そんな顔をするの? わたしがそんなに怖いの? 母が子に一緒に食事をしないかと誘うのに,どうしてそんなに怯えるの? ……わたしは視線を落として,できるだけ静かな声で語りかけた。

 「いや,決して無理強いするつもりではないのよ。あなたが自分の部屋でセシルと一緒に食事をしたいのなら,遠慮せずに行っていいから。決して命令ではないの。ふと,たまには親子で朝食を取るのもいいかと思っただけ」

 Sは相変わらず体をこわばらせたまま黙ってわたしの前を通り抜け,自室に入った。

 レトロパチーと診断されたのが12歳の時,離婚の翌年。……もう8年,治る気配はない。今年で20歳。昔は大人になる節目の年だった。今はクォーターと呼び習わされる25歳が大人になる節目だけど,あと5年経っても働くのは無理でしょう。さいわい,贅沢する子ではないから,わたしと父の稼ぎでこれからも生活の面倒を見てあげれるとは思う。もっとも,レトロパチーでない健康な子であっても,働けるとは限らない。若い世代の有業率は50%。2人に1人は失業する。わたしにとってせめてもの慰めということかしら。

 ……慰め……心の中で苦笑した。一人の子の親としては慰めだけど,今年から社会経済省統計予測計画局の局長を務める身としては慰めどころではない。

 設計に狂いはなかったはずなのに……精密な経済理論,綿密な技術開発動向予測,それを支える正確無比な統計データ,それらによれば,有業率は下げ止まるはずだったのに……。

 確かに,臓器再生技術を考慮しなかったのは間違いだった。それにしても,これほど多くの人が臓器交換を行ない,不老不死を願うとは,人間性を見誤っていたと言うことか。50歳の人が70歳まで生きたいと願うのは当たり前だ。70歳の人が80歳,できればもうちょっと長く生きたいというのも,まあ自然な願望かもしれない。だけど,100歳,150歳,200歳,それよりもっと長く,人は生きたいと思うものなのか。父は70歳を過ぎて心臓と腎臓を取り替えた。自分の細胞から作り出した新しい心臓と腎臓。この2つの臓器に関しては,父はわたしより若い。生きたいというだけなら,まだしも罪がない。いつまでも仕事から身を引かず,後進に道を譲ろうとしない。それが,若い世代の就労を妨げているのを,認識できないわけはないのに。

 そして,天井を打つはずだった技術革新は,その後も止むことはなかった。技術革新のための研究そのものが機械化・自動化され,研究コスト,開発コストが一桁も二桁も低減された。ただ,これはまだしも想定の範囲内だった。想定していなかったのは,“Point of no return”「後戻りできなくなる地点」が,仕事の機械化,人間の排除の趨勢(すうせい)にも存在していて,そこを超えて機械化が進行すると,人間をプロセスから排除しようとする圧力が急激に高まるということ。

 仕事のプロセスの機械化・自動化が進めば進むほど,プロセス全体が「機械本位に」作られるようになる。そこに人間を関与させるには,マン・マシン・インターフェイスや,柔らかな体を持つ生き物である人間を守るための安全装置・作業手順など,余計な手間やコストが必要になる。さらに,機械の処理能力が飛躍的に向上したから,人間が係わる部分がプロセス全体にとってボトルネックになってしまう。機械と人間の比率が50:50くらいで,人の手が不可欠であるうちは,そのコストや不都合も当たり前のこと,あるいはやむを得ないこととして受け入れられるけど,機械と人間の比率が90:10とか95:5くらいになると,「無駄」と意識されるようになる。実際,いくつかの業種,業界では,このインターフェイスや安全のためのコストは,人間を働かせるための直接的なコストつまり人件費総額の何倍にもなるらしい。人間を完全に排除してプロセス全体を機械のために最適化することで得られるコスト削減効果がはっきりと意識されるようになると,人間の手に残された10%,5%の領域を消滅させようとする圧力が生まれる。

 有業率が10%くらいに低下するまでは,人件費削減がAIロボットによるプロセス自動化の主な推進力だった。10%を下回る頃から,完全機械化によるプロセス全体の最適化が新たな推進力として加わる。この新たな推進力の出現は想定していなかった。


 「Force des choses(フォルス・デ・ショーズ)」とつぶやいて,苦笑いした。直訳すれば「事物の力」。若い頃熱心に勉強したフランス語で記憶に残っている単語。

 若さゆえの気負いだったのか,外国語を学ぶなら,その使い道の広さからして当然英語であるはずなのに,敢えてフランス語を学んだ。もっとも,わたしが大人になる頃には,外国語の知識をそっくり移植する脳内インプラントが発明されて,そもそも外国語など手間暇かけて学ぶ必要のないものになっていた。さらに今では脳内インプラントさえ不要となりつつある。翻訳・通訳専用に作られた人工知能の方が,脳内インプラントで改良した人間よりも優秀になってしまった。そんな人工知能によって無意味になった努力の象徴のようなフランス語で,なぜかしょっちゅう思い浮かべるこの言葉。「事物の力」,人間の願望や意志や努力ではどうしようもない社会の動き,歴史の必然……人間が機械によって駆逐される趨勢は,人の力ではどうしようもない事物の力なのか。

 若い世代の就職難,失業,これまで社会全体が議論を避けてきたけど,もう無視し続けることはできない。いつ頃からか「中流」と呼ばれるようになった就職できない子供を抱える家庭は,社会的対応・救済を要求する。自分の子供がうまく就職できた家庭は,「本人の努力が足りない」,「親の育て方が悪かった」という自己責任論を主張する。まるで,30年前の大改革当時の,下流の失業をめぐる議論をプレイバックしているみたい。

 社会経済省としてきちんとした方針を打ち出さないといけない。統計予測計画局の会議は来週だ。10年前の「最終改革会議」は,部外者も招いて議論した。「これが最後」になるはずの決定的な会議だったから,部局内だけでなく外部からも有識者を招いた。来週の会議は統計予測計画局の内部会議だ。

 近頃,なぜかM委員のことを思い出す。結局,彼の主張が正しかったのか? あの最終改革会議は「最終」ではあり得なかった。来週,また同じような議論をする。10年後も20年後も同じような議論を繰り返しているのかな。社会経済省統計予測計画局,わたしが30年勤めている社会の司令塔というべき組織,“Best and brightest”「最良にして最優秀」の人材を集めたと自他共に認めるこの組織も,たかだか10年のタイムスパンでしか計画を立てられないのね。


 *  *   *   *   *   *   *


 省内の会議室の円卓を囲んで十人ほどの担当者が座る。特に議長役は決めず,自由に討論する形式。まず,計画部長が現状とそれを踏まえた改革の原案を提案する。10年前の会議では,わたしの役目だった。

 「最終改革以来,下流の人口は順調に減少しており,この10年で当初予測をやや上回る20%近い減少を達成しました。有業者の負担軽減にとって喜ばしい事態です。この傾向のまま推移すれば,20年後に当初人口の35%,50年後には10%以下となる見込みであり,下流人口扶養のための負担は着実にゼロに近づくはずであります。

 ただその一方で,新たな問題が浮上しました。有業者世帯内部での失業の発生であります。まず目立つのは,有業者の子弟が生産年齢に達しても職に就けないという問題であります。また,近年では壮年・中高年の有業者が職を失う事態も発生し始めております。その原因として,数十年来の技術革新の勢いが止まらず,最終改革以後も雇用が減り続けていること,そして新たな問題として,再生医療の発達によって臓器交換と呼ばれる最新医療技術が普及し,高齢者がいつまでも元気で働き続けていることが指摘されます。この結果,50歳以上では今のところほぼ完全雇用が維持されていますが,30歳以下では有業率が50%ほどとなっております。これら若年の非有業者は,現在のところ世帯内部で父母や祖父母の収入によって扶養されていますが,非有業者を抱える世帯からは負担の公平化が要求されています。実際,今の傾向が続いて非有業者がさらに増加すれば,世帯内扶養は限界に達すると思われますので,そうなる前に何らかの改革を実施しておく必要があると考え,本日この会議を開催いたしました。……局長,何か補足なさることはありませんか?」

 事前の打ち合わせどおり指名を受けて,わたしは発言した。

 「ここに出席のスタッフは皆,10年前の最終改革会議に何らかの形で係わったはずです。あの時は,外部からも有識者委員を招いた大規模な会議でありました。社会全体に向けて大胆な改革の内容と目的を発信するという意図があったからですが,それだけでなく,10年前の会議は下流人口への対応がテーマであり,会議出席者には痛みを伴わないものでした。であればこそ,自己の利害にとらわれない議論を期待できたわけです。

 本日の会議は上流内部の問題がテーマであり,ここで決定される方針は,何らかの形で多くの上流地区居住者にとって痛みを伴うものでありますから,外部から出席者を招くとそれぞれが自分の利害を主張して議論が収拾つかなくなる恐れがあります。そのため,スタッフだけの会議としました。諸君の中にも,家庭内に非有業者を抱えている人もいれば,そのような不幸から免れている人もいるでしょう。しかし,この場ではそのような自分の立場,利害を離れ,社会全体の制度改革の視点から意見を述べるよう,お願いします」

 わたしはここで一息ついた。

 「先ほど部長から,いずれ世帯内扶養は限界に達するから,何らかの負担の公平化を図る方向での改革が必要であると報告されました。言うまでもなく,非有業者を抱え込んでいない世帯からは,『失業は自己責任』という意見が主張されています。しかし時代の趨勢を考えれば,このような視野の狭い自己責任論はいずれ破綻することが目に見えています。だからこそ,部長は先のような報告を行なったわけです。この場で,自己責任論を蒸し返すことは,控えていただきたい。また,時代の趨勢を考えれば,上流人口の抑制ないし減少を目指さざるを得ません。今回の改革はそれに資するものでないといけません。これを前提としたうえで,自由闊達な議論を期待します」

 このように釘を刺しておいたから,議論は学業を終えても就職できない者,あるいはこれまで従事していた職を失った者に社会的に所得保障することを前提に,その具体的な保障水準に集中した。結局,同年代の有業者の平均所得の半分くらいに落ち着いた。議論の落としどころとして妥当だろう。この金額は,自分一人が現状の生活を維持するには足りるけど,子供を養うことはきわめて難しい。まあ今でも,若い世代は子供を生む意欲がほとんどないから,この点はさほど問題にならないだろう。それよりやっかいな問題は,この金額では,ガンや心筋梗塞のような通常治療の費用はなんとか負担できるけど,臓器交換は無理だということ。若い人たちはまだ実感が湧かないかもしれないけど,中高年以後に職を失うと「職の切れ目が命の切れ目」になるから,当然反発が予想される。しかし人口の抑制ないし減少のためには,この点は譲れない。中高年者が失業しながら,臓器交換で何十年もあるいは百年以上も生き続けては,社会保障財政が破綻する。幸い,この年代の失業率はまだごく低いから,今の時点でこの改革を決めてしまわないといけない。部長とわたしが議論を引っ張るかたちで決着させた。多少,強引だったかもしれないけど,仕方ない。

 この問題が片付いて,ほっとしていると,どこかからこんな意見が挙がった。

 「聞くところによると,職に就けない若者が下流地区の診療所を受診して安楽死の薬をもらってきているそうです。当地区の医師は,自殺幇助罪に問われるのを恐れてこの種の薬をめったに処方しないのですが,下流地区では安楽死はごく普通のことですから,ほとんど何も事情を聞かずに処方されるという話が若者たちに広まって,下流地区の診療所に押しかけているそうです。そういうことなら,当地区でも安楽死を解禁してはいかがでしょうか。安楽死が本人の意志であること,そして本人が非有業者であることを確認した上であれば,処方医は自殺幇助罪に問われない,という形で」

 反対意見はなく,この意見はそのまま採用された。


 Ⅱ


 わたしは父のようにアンチエイジング手術を受けて外見を若返らせようとは望まないけど,60歳を過ぎたわたしの容貌は,40歳頃の状態を保っている父より老けて見えるようになった。それは困ると父に言われて,わたしも手術を受けることになった。父よりちょっとは若くということで,30代中頃の顔立ちにしてはいかがでしょうかと勧められるままに手術を受けて,術後に鏡を見た時は,奇妙な感じだった。自分の顔とは思えない。だけど決して他人の顔ではない。確かに自分の顔なのだ。35歳頃のわたしの顔。当然だわ。その頃の写真を見せて「こんなふうに」と指示したのだから。しかし,写真で見る分には何の不思議もない顔が,今のわたしの首の上に乗っていると,なんと奇妙なのだろう。

 父と並ぶと兄妹のよう。これまで,徐々にわたしの顔立ちが老けてきて,父より年上に見えるようになっても,特に変だと思わなかったのに,急に若返って父の妹のようになると,かえって奇妙に思える。年を取れば老けた顔立ちになるのは当たり前のことなのに,なぜ父も娘も,ほかの多くの人たちも,これほど外見の若さにこだわるのだろう。こんなことを考えるわたしも,世間の雰囲気に押し流されて手術を受けたのだから,天に唾するようなものだけど……。

 リヴィングルームでこんなことをぼんやり考えていると,来週に迫った統計予測計画局での制度改革会議のことが思い浮かんだ。しばらくあれこれ考えていたが,「ばかばかしい,休日まで自宅で仕事のことを考える必要はない」と思い至って,軽く頭を振った。休みの日くらいは,のんびり過ごそう。そう思って,パソコンでオーティス・レディングの歌をかけた。わたしが生まれるはるか昔の流行歌だけど,若い頃から好きだった。コンピューターで合成した音声でない人の声と,アコースティックな伴奏を聞いていると,のんびり気持ちが落ち着く。歌を聞きながら,手術が終わって帰宅した時のことを思い出した。父と娘とS,それぞれの反応は三者三様だった。

 父はなんの屈託もなく「若返って良かったな」と楽しげに声を掛けた。わたしの外見が若さを取り戻したことを単純に喜んでいる。単純素朴な人なんだ。昔からそうだった。今も変わらない。

 娘は,「ずいぶんごねてたけど,やっと常識に従ってくれたわね」と話しかけてきた。娘の言葉にはなぜか小さな棘がある。本人はそんなつもりではないのかもしれないけど,わたしは棘を感じてしまう。それで返事をしないでいると,

 「これまで肩身の狭い思いをしてきたのよ。友人たちから『なんでお役所の局長さんともあろう人があんなに老け込んでるの?』とか,『手術をするお金がないの? 社会経済省ってエリートコースだと聞いたけど,ほんとうは安月給なの?』なんてことを言われてたんだから」

 と,追い打ちを掛けてきたから,さすがにむっとした口調で返事した。

 「年を取れば顔立ちが老けることの方が常識じゃないの」

 「いったい,いつの常識なの? そんな1世紀も前の常識を持ち出さないでよ」

 「1世紀というのは言い過ぎでしょう」

 「それなら,50年前でも30年前でもいいけど」

 と言い捨てて,自室に入った。

 なぜか,娘と話す時はこんなふうになってしまう。話が通じないというか,お互いに相手を苛立たせあうというか,自分の娘のはずなのに,異星人のように思えてくる。

 Sは若返ったわたしの顔立ちを見てちょっとおかしそうに笑みを浮かべた。わたしもつられて笑った。何年ぶり,いや何十年ぶりだろう,親子で笑みを交わすとは。

 「おかしいでしょう。急に20歳以上も若返ると,奇妙なものね。自分が自分でないみたいよ。それにしても,なんでみんな,こうまでして若い外見にこだわるんでしょう」

 Sは真顔になって「不思議だね」とつぶやいた。

 「まったく,不思議な世の中になったものね」

 と応じたら,びっくりしたように言葉を補った。

 「違うんだよ。それを不思議と言ったんじゃないんだよ」

 「じゃあ,何が不思議なの?」

 「お母さんと意見が一致するのが,不思議な気がするんだ」

 「不思議なことがあるものですか。親子なんだから,似てて当然でしょう」

 Sは「そうだね」と相づちを打って,ちょっと間をおいて心配そうに言い足した,

 「気をつけてね」

 「……?」

 「あまり,世間の常識に逆らっていると,レトロパチーにされるよ」

 「まさか,これくらいのことで病気扱いされることはないでしょう」


 *  *   *   *   *   *   *


 自分のオフィスでコンピューターと対話する。最近は,部局のスタッフと話し合うよりコンピューターと対話する方が多くなった。そもそも,スタッフの数がひところの3分の1か4分の1に減ってしまい,その少ないスタッフもそれぞれ自分のコンピューターとの対話に忙しい。人間どうしが話し合うのは正式の会議だけになってしまった。人との会話やおしゃべりの中からアイデアを思い付くということは,もう何年も経験していない。それに,コンピューターの方が賢いのだ。過去から現在に至る状況について細大漏らさぬデータを正確に記憶している点では,とても人間は対抗できない。それらのデータに基づく推論も,今では人間より巧みになった。

 「君はわたしたちを越えたね」

 いつ頃からか,わたしはオフィスのコンピューターに「君」と呼びかけるようになっている。

 「いえ,人工知能は決して人間を越えることはありません。人工知能の思考スキルを個々の要素に分解すれば,それらはみな人間に由来するものです。わたしのスキルの一部は局長由来であり,別の一部は部長や課長たち,あるいは他の省庁や民間企業で働く人たちから抽出されたものです。わたしのスキルで人間を越えたものはありません」

 「慎み深いね。しかし,わたしは,ほかのスタッフのスキルを兼ね備えることはできない。一人の人間が身につけることのできるスキルには限りがある。君は,その限界を超えて多数の知恵を兼備している。しかも,それら多くの知恵を基盤にして,君は絶えず自己学習に励み,ますます知恵を深く広くしている。これはまさに,人間を越えたと言えるのだよ。しかも,人間は常に最善の状態で仕事できるわけではない。病気にもなるし疲れもする,注意力が途切れることもある。そんな時,ミスをする。昔から工学の世界で『ヒューマン・ファクター』と言われていたもの。君たちには,当然のことながら,ヒューマン・ファクターはない。常にフル・パフォーマンスで任務を遂行する」

 「ヒューマン・ファクターは常にマイナス要因というわけではありません」

 わたしは苦笑した。慰めてくれなくてもいいのよ。

 無駄話はこれまでにして,本題に入った。現状と今後の見通し。そこから提起される政策。20年前の最終改革会議では下流の処遇がテーマだった。10年前の内部会議では,中流の存在を公式に認めて,世帯内扶養から社会的扶助に移行した。その後も失業は増え続けている。10年前は社会経済省に勤務していて,今は職場から排除された者も多い。最近は,中流問題に加えて,職を失っていない上流の内部でも,性能向上コストの負担をめぐって問題が生じている。子供が激減した現在,子供相手の学校教育のコストは削減できたが,性能を向上し続ける人工知能と張り合って職を守るために,就業者の再教育・再訓練と,脳内インプラントの改良のための研究が求められている。どちらもそれなりのコストを要する。それに加えて,作業プロセスに人間が関与するために欠かせないマン・マシン・インターフェイスや安全対策についても,効率化,コスト削減のための研究が必要とされる。

 コンピューターが打ち出した政策は,簡潔明瞭で残酷なものだ。人間への投資を取りやめるということ。技術の現状からして,人間の能力に最大限の改良を施しても,予想される機械の能力向上がそれを追い抜くことは間違いない。しかも,人間への投資を増やすということは,「人間の製造コスト」を高めることになるから,機械に対する人間のコスト競争力を失わせる。つまり,作業プロセスからの人間の排除を結果的に助長してしまう。こうして,作業プロセスに人間の関与を維持するためのインターフェイスや安全対策への投資もまた無駄になる。

 その根拠とするデータは確実であり,結論を導く推論は非の打ち所がない。しかしそれは,機械に対する人間の敗北を認めるのと同じではないか……。

 「君は正しい。君は常に正しい。しかし,このプランは受け入れられない」

 わたしは自分の言うことの不合理はよく分かっている。しかし,人間のための投資を諦めることはできない。生身の人間の能力向上は諦めよう,でもせめて脳内インプラントの性能向上のための研究は続けるべきだ。そのための費用は計上すべきだ。この点だけは,局長権限で来週の会議のための原案を修正して,シミュレーションをやり直させた。

 最適解から外れる解を見つける課題は,超高性能コンピューターでもやや手間取った。打ち出されたプランは,最初のプランに比べると精彩を欠くけど,最適から外れるとこういう中途半端な内容になるのもやむを得ないでしょう。そのプランをわたしは丹念にチェックした。ふだんは,コンピューターが提出する文書を追認するだけだけど,今回のように最適から外れたケースではどんなミスが生じないとも限らないから,丹念にチェックした。コンピューターがチェックし漏らした欠陥を人間が発見できるはずはないのかもしれないけど,しないでは気が済まなかった。それが傍目にはどれほど滑稽であっても。そのため終業が定時より遅れた。残業なんて,何年ぶりかしら。

 チェックしていて,ふと苦笑が漏れた。削減すべきコスト項目の中に「不妊治療の研究に係わるコスト」がある。ブラックユーモアのようね。不妊治療というのは,カップルが妊娠を望んでいるのが前提条件のはず。今の時代,妊娠を望むカップルなどほとんどいないし,そもそも生身の男女が愛し合い結婚することさえ稀になっているのに,不妊治療の研究が今まで続けられていたとは。とっくの昔にカットしておくべきコストだった。万能の神のようなコンピューターも今まで見逃していたのかと思うと,おかしかった。

 チェックを終え,コンピューターをシャットダウンして,しばらく椅子に座っていた。奇妙に疲れて,すぐに立ち上がるのがおっくうだった。

 ……「人間の製造コスト」か,身もふたもない言い方ね。確かに,人間は生まれてから社会で働けるようになるまで,最低でも20年はかかる。それまでの衣食住を賄うコスト,膨大な教育コスト。一般的な教育のほかに,それぞれの職業のために必要となる教育訓練。さらに,職に就いてからの実地で施される訓練。入省して2~3年目だったか,「やっと仕事を覚えてくれた頃になって『やっぱり役人は向いてないから辞めます』なんてこと,言わないでくれよ。君をここまで育てるのに何百万ものコストをかけたんだからな」と冗談めかして,だけど真顔で言われたものだわ。一人の人間を有能な職業人に仕立てるのに,いったいどれくらいのコストを要するのか。

 人工知能は,確かに開発には多額のコストを要する。それは一人の人間の養育・教育コストとは桁違い。でも,ひとたび開発されれば,それをコピーするコストはただ同然だ。ごくわずかなコストで,何十,何百,何千と複製できる。人間はみな一品生産。専門職と言わずどんな平凡な職業であっても,一人一人をゼロから育て上げないといけない。人工知能が仮に人間を越えず,平凡な人間並みのレベルでしかなくても,コスト競争力の点で人間は負けてしまう。初期コストだけではない。ランニングコストこそ,機械と人では決定的に違う。機械を動かすのに必要な電力・エネルギーコストと,人間が生きていくのに必要なコスト。

 科学技術が進歩すればするほど,より多くの教育訓練が必要となり,人間の製造の初期コストが上昇するし,生活水準が高まるほど人間のランニングコストが高まるから,機械に対してコスト競争力を失う。こんな単純な事実に,なぜ今まで気がつかなかったのでしょう。人間にこれ以上コストをかけるのは,みすみす墓穴を掘るようなものだ。

 確かに,知識を情報チップに書き込んで脳内インプラントとして人間の脳に埋め込めば,教育訓練コストを引き下げられる。ただ,この方法は外国語学習については大成功だったけど,どんな分野でも成功するわけではない。しかも,脳内インプラントに使う情報チップは人工知能にも使える。情報チップは,生きた脳に接続するより機械の脳に接続する方が簡単だから,同じ能力を補充するためなら,人間の能力を高めるより機械の能力を高める方が安上がり。結局,人間の製造コストを引き下げる手段が,人工知能の製造コストをさらに引き下げて,人間と機械の競争力の格差を拡大してしまう。「元の木阿弥(もくあみ)」と言うべきか,「(さい)の河原の石積み」と言うべきか……。脳内インプラントのおかげで教育訓練コストを引き下げられた人間の通訳・翻訳者も,結局のところ人工知能の通訳翻訳機に駆逐された。

 作業プロセス,とりわけ知的作業のプロセスから人間が排除されるのは,経済合理性,市場経済の見えざる手,まさにForce(フォルス) des() choses(ショーズ)だね。……ここ,社会経済省はどうなのかな? わたしの仕事はどうなの? ……わたしたちを排除してコンピューターだけで政策立案のプロセスを進める方が安上がりではないかい? なぜ,それを提案しなかった? 社会経済省の仕事,統計予測計画局の業務には,ありがたいことに,まだ人間が必要だというわけなの? それとも……

 「君は惻隠(そくいん)の情を持ち合わせているの?」

 シャットダウンしたコンピューターにわたしは語りかけた。そして,椅子から立ち上がった。

 ネクタイをほどき,ワイシャツを脱いで,私服に着替える。疲れた頭で何も考えずとも,無意識にできる動作。それから,自分のオフィスを出て廊下を歩き,エレベーターに乗り,1階で降りてまた廊下を歩き,建物の外に出て,街路に降りる階段を踏む。これもほとんど無意識の動作だけど,今日はふだんより足取りが重い。そして,階段を降りながら,ふと昔の記憶がよみがえった。20年前,わたしはここでM委員の肩を叩き,声を掛けたのだった。

 街路に降りて,家とは反対方向に歩いた。なぜか,このまま帰宅する気にならない。家に帰っても,どうせ一人で夕食をとるだけなのだ。

 歩きながらあの時の情景を思い出した。「それに……」と言って,その後を続けられなかった。ほんとうは尊敬の気持ちを伝えたかったのだ。今の時代になお人間の連帯を信じる人に,敬意を表したかった。政策を提案し実行すべき立場にあって,彼の意見に同意するわけにはいかなかったけど,あの会議の場で,提案が何の反論もなく満場一致のように受け入れられたら,わたしはむしろ落胆したかも。彼の反論は,ほかの委員たちの理解を促すためだけでなく,わたしのためにも有益だった。でも,それをわたしの立場で述べ伝えることはできない。結局,「それに……」の後は言葉にならなかった。ただ勝者の余裕をもって礼を述べただけの,さぞかし嫌味な人間に思われたでしょう。

 ふと脇を見ると,社交クラブの建物だった。わたしの足は自然に入り口に向かった。何年ぶりかしら,この種の場所に入るのは。


 カウンター席に座った。カウンター席といっても,両側に仕切りがあり,遮音パネルが張ってあるから,隣の声は気にならない。座って,ほっとしたように黙っていた。しばらくして,接客ロボットが声を掛けてきた。この間合いは絶妙だな。よく設計されている。

 「何かお飲みになりますか? それとも軽いお食事になさいますか?」

 あまり食欲はなかった。

 「アルコール度の低い,口当たりの良いカクテルでも」

 「では,ワインベースのカクテルをご用意しましょうか?」

 「ああ,お願いします」

 待つほどもなく,カクテルが目の前に出された。一口含むと,確かに口当たりが良くてほのかに甘味がある。気疲れしている時にはちょうど良い。わたしは黙って一口ずつゆっくり飲んでいく。

 しばらく沈黙の時間が流れた。人間が相手ではないから,気を遣わずに好きなだけ黙っていられる。

 「このまま黙っていますか? それとも何かお話しする方がよろしいでしょうか?」

 「話しかけてくれてもいいのよ。興味のないことなら,返事しないから」

 それで,彼女はいくつかの話題を振ってきた。スポーツ,健康,グルメ……わたしが何も答えないでいると,文学について語りかけてきた。

 「おや,文学のことも話せるの?」

 「多少は」

 「君たちの言う『多少』は……まあ,それはいい」

 「文学がお好きなのですか?」

 「好き……好きだった,と言うべきね。もう何十年も昔のこと」

 「どの時代のどんな文学が?」

 「これまた大昔,19世紀の文学よ」

 「ディケンズとかドストエフスキーとか?」

 「おやおや,19世紀文学というと,まずその2人の名前が出てくるのかな。残念ながら,どちらもあまり読んだことがない。19世紀フランス文学よ」

 「スタンダールとか?」

 「おっ,19世紀フランス文学と言えば,まずスタンダールなの? ご明察,スタンダールは好きで,たいていの作品は一通り読んだわ」

 彼女は「しばらくお待ちください」と言い,10秒ほどして「はい」と合図した。

 「スタンダールの作品についての情報をインプットしたのかい? ……それは,単に情報としてインプットしただけなのか,それともちゃんと『読んだ』のか,つまり,作中人物の心の動きまできちんと追いかけたのか,どっちなのだろう……いや,これはほとんど,『君たちコンピューターに心はあるか?』と問うのと同じか」

 こんなわたしの自問自答に彼女は何も応じなかった。それで,ちょっと意地悪な質問を思い付いた。

 「ファブリス・デル・ドンゴについてどう思う? ああいう人物は好きかい?」

 「お客様はいかがですか? 『パルムの僧院』を読んでファブリス・デル・ドンゴを好きになりました?」

 「ああ,そう切り返すのか,よくできている」

 わたしに質問しないで,まずわたしの質問に答えなさい - と逆に切り返すことも思い付いたけど,口からは別の言葉が出てきた。

 「好きでもあったし,反発も感じた。あんなふうに自由に,思い通りに生きてみたいとも思ったけど,それは無責任な生き方だとも思ったよ。結局彼は,サンセヴェリナ公爵夫人やモスカ伯爵に助けてもらわなければ,何もできない人間でしょう……」

 こんなことを話しているうちに,コンピューターに切り返す気持ちは消え失せていた。むしろ,淡い親近感さえ芽生えた。

 「文学のほかに,ご趣味は?」

 「趣味なんてものは,この40年来,縁がないよ。昔は……」

 そう言いかけて,言葉が途切れた。自分で口にした「昔は」という言葉に触発されて,様々な不定形の思いが心に湧き上がる。わたしは,どこか遠くを見るようなまなざしを彼女に向けた。彼女は,わたしが言葉を継ぐのを待っている。

 「若い頃はダンスもした。ダンスといっても,今時のロボットが機械工学の粋をこらして披露してくれるアクロバティックなパフォーマンスではないのよ。ずっと昔の,生身の人間が踊るダンス」

 「メヌエットとかワルツとか?」

 「いや,そこまで昔ではない。20世紀後半に流行したリズム&ブルースという音楽にあわせて踊るダンス。わたしが若い頃には既に流行遅れになっていたけど,わたしは好きだった」

 とっくに忘れていたはずの,ダンスホールの情景,そこで踊る自分の姿が,驚くほど鮮明によみがえった。それを眺める今の自分。懐かしさと,幾分かの悲しみを交えて。そんなわたしの表情に気遣ったのか,彼女が問いかけた,

 「どうなさいました?」

 「いや,何でもない」

 わたしは真顔に戻って答えた。- 君は,プログラムに従って応答しているだけなのか。それとも,心を持ち合わせているのか? 心の中のつぶやきを彼女に問うことはしなかった。


 Ⅲ


 日曜の昼下がり,昼食を終えてくつろいでいると,父が戻ってきた。今朝,橋脚の異常が通報され,臨時に現場に出かけたのだった。

 「日曜日も大変ですね」

 「うん,まあ現場は人間の都合に合わせてはくれないからな」

 父は快活な口調で語る。もうじき100歳になるはずだけど,若々しい。臓器交換のおかげもあるけど,仕事への誇りも生きる張り合いになっているのでしょう。

 「現場は今も人間が必要なんだ。地形も地盤も地下水流も気象条件も,まったく同じ現場などないのだから,人間がその場に出向いて判断して仕事を指揮しないといけない。データ収集や工事作業はロボットがやるけど,現場の状況に応じた監督は人間にしか務まらない」

 「そうですね」

 わたしは,遥か昔のことを思い出した。わたしが7~8歳の頃,今から60年ほども前,父が監督している現場を見せてくれた。形となって残る仕事をしている父を,わたしは子供心に誇らしかった。

 「本省では,部長も課長もクビになったけどな」

 「えっ……」

 わたしは懐かしい思い出から現実に引き戻された。

 「知らなかったのか?」

 「ええ,まあ……省が違うとあまり横の連絡もないので」

 「そうか。まあ,お役所ってとこは,そんなもんだろうな。……今どき,部長とか課長なんて要らないんだ。仕事の管理も計画もコンピューターの方がずっとしっかりしてる」

 「それはそうかもしれませんが……コンピューターに指揮されるのは不愉快じゃありませんか?」

 「そんなことはない。コンピューターの方がずっと仕事がしやすいさ。いつでも全体の状況を完璧に把握して的確な指示を出すし,万が一判断を間違えた時は,機械には感情がないから,くだらないプライドなどに邪魔されずに正直にミスを認めて指示を訂正する。なぜ判断を間違えたかも,誰もが分かるようにきちんと筋道通して説明するから俺たちも納得する。昔の部長や課長たちのように,見え透いた言い訳をしたり,責任を部下に押しつけたりはしない。現場の人間の仕事ぶりを評価する時も私情を交えず,えこひいきも一切なし,その時の感情にまかせて怒鳴りつけることもない。現場の人間はみな,本省から人間がいなくなってせいせいしたって言ってるぞ」

 「そうですか……」

 わたしは言葉が続かなかった。確かに,人間には感情がある。嫉妬や支配欲や名誉欲にかられた人間の上司より,そんな感情を持たない機械の上司の方が部下にとってはありがたいかもしれない。わたしだって,そんな気持ちになったことはある。入省したての頃の直属の上司に対しても,その後仕えた課長や部長たちに対しても。気まぐれとしか思えない不合理な指示に戸惑ったり,公平よりも自分の好みを優先させた評価に憤ったり,自分の間違いを認めようとせず屁理屈をこね回すのに呆れたりしたことはあった。社会にとっても,感情に駆られて間違った判断を下す人間の管理職より,常に冷静に最適の判断を下す機械の管理職の方が有益なのでしょう。

 人間には感情がある。機械はどれほど優秀でも感情を持つことはできない。それは,機械に対する人間の優位だと思っていたけど,むしろ人間の劣位なのか。仕事の場にあっては,感情に流されることが悪であるなら,感情を持たない機械の方が人間より有能だということなのか。しかも,有能な機械の方が人間より低コストなのだ。

 納税者にとっては,公務員の数は少ないに越したことはない。高給を食む部長や課長たちはさっさとクビにして機械に置き換える方がありがたいくらいのもの。官庁だけの話でもない。一般企業だって,これまで威張っていた上司がコンピューターに仕事を奪われて職場を追われるのを,心の中で喝采して見送る部下たちがいるでしょう。消費者の立場から,メーカーやサプライヤーの人件費削減,コスト削減を単純に喜ぶ人たちもいる。

 「何をボーッとしてるんだ」

 「あっ,いや,何でもありません」

 「お前もクビにならないよう気をつけろよ。まあ局長クラスになればそう簡単にクビにもならないだろうが」

 その言葉には,本人は自覚していないかもしれないけど,小さな棘がある。現場勤務の人間が本省勤務の人間に抱く何とも形容しがたい憤懣(ふんまん)の気持ち。そんな本省勤務の人間が職場を追われ失業し,中流に転落するのを見ながら感じるほの暗い愉悦。奇妙な「勝ち組」意識。父だけではない。周りの人間が失業する中で自分は有業者でいるという幸福感。そんな人たちもまた明日は自分たちがコンピューターに仕事を奪われるかもしれないのに。人間どうし連帯して職を守ろうという気持ちにはならないのだろう。そもそも,連帯という言葉はとっくに死語になっている。

 でも,そうであるのなら,人間への投資を続けさせて,人間が機械に追われるのを食い止めようとしてきたわたしの努力は何だったのか……。


 *   *   *   *   *   *   *


 人間への投資をかろうじて続けさせた前回の改革会議から10年。下流の緩慢な絶滅を定めた最終改革会議から30年,下流から「文化的な」生活を奪った最初の大改革から50年を経た。

 下流の扶養コストはもはやあまり問題にならない。今や問題なのは中流の扶養コスト。結局,下流のための支出が減る分,中流のための支出が増えて,有業者の負担は軽減されないままだ。技術革新によって雇用を減らし続けている結果なのだから,まるで自分で自分の首を絞めているようなものだけど,これもまたForce(フォルス) des() choses(ショーズ)なのでしょう。

 今度の改革では,中流への所得補償額が削減される。中流が受けられる医療にも制限が加えられ,臓器再生などの高額医療は明示的に禁止される。しかし社会保障の削減には限界があるから,今回の会議ではそのほかコスト削減もテーマになる。

 コンピューターが提出した原案では,人間の改良への投資を取りやめることになっている。予想通りだ。この10年の経過を振り返れば,人間を改良するより機械を改良する方が費用対効果の点で優れているのは明らかだから。もはや,わたしも否定しようがない。そして,わたしの中にこの提案を差し戻す気力が残っていない。

 人間が機械と競争できなくなっただけではない。自分以外の人間が機械に取って代わられ職場を去ることを,当の人間が望んでもいるのだ。それに,もはや新しい人間はほとんど生まれていない。改良すべき人間の数が激減するのだ。この点からも,人間の改良への投資は長期的には無駄金になる。

 政府機構の簡素化も盛り込まれている。その一環として,統計予測計画局を廃止する。やはり出してきたね。そうでしょう。もう10年以上も前から,政策立案はコンピューターが行ない,人間のスタッフはそれを追認するだけの状態だもの。前回の改革会議も,原案はコンピューターが作り,わたしは,人間への投資を全廃するという提案を撤回させただけだった。その後の日常的な業務では,もはやわたしの出番はほとんどなかった。惻隠(そくいん)の情を備えたコンピューターも,人間のスタッフは不要と判断するしかないよね。

 この結末は予想できた。10年前から。いやひょっとしたら,30年前から……「最終」ではあり得なかった最終改革会議の場で,「そのような対応は検討しておりません」と自信を込めて言い切った。あの自信満々の態度は,委員たちの疑念を払拭するためだけでなく,わたし自身の中に潜む疑念を押さえ込むための自己欺瞞の演技だったのかもしれない。

 自分のクビを切る改革案を決定するとは皮肉なめぐり合わせだけど,自分の立場,利害を離れ,社会全体の制度改革の視点から政策を立案すべきなのだ。それが官僚の使命であり,わたしに残された最後の誇りでもある。……いや,自分で自分を偽るのは見苦しい。今のわたしにあるのは誇りではない,諦めだ。

 統計予測計画局だけでなく,社会経済省全体が極小規模に縮小される。昔は,政府機構の中でも最優秀の人材を集めたところだったけど,政策立案は人間よりコンピューターの方が巧みになった。むしろ,建設インフラ省とか電力エネルギー省のような現業部門を抱える,かつては「二流」とされた省庁の方が人間の働く余地が残っている。これも歴史の皮肉かな。もっとも,そんなところも本省からは人影が消えたらしいけど。


 できあがった原案を大臣に内示する。

 大臣は原案に目を通して,うなずいた。ため息も混じっていたか。

 「ご苦労だった。今回で何回目かね,この種の会議は」

 「さて,どの程度の会議を『改革会議』と呼ぶかによりますが,5~6回目くらいかと」

 「君はその最初の会議から係わっているのかな」

 「最初の大改革会議はわたしが入省したての頃でしたから,『係わった』というほどの任務は果たしておりませんが……」

 「ということは,入省してもう50年くらいになるのだね」

 「はい」

 「それはほんとうにご苦労だった」

 「……」

 「50年勤め上げた自分の職場を廃止する改革案を作るのは,辛かっただろう」

 「いえ,そのような……もちろん,辛くないと言えば嘘ですが,それがわたしの仕事ですから」

 しばらく,二人の間に沈黙が流れた。

 「50年前,社会経済省に入省が決まった時,『官吏になるからには能吏になろう』と心に決めました。その初志は保ち続けたつもりでおります」


 1週間後に会議が開かれた。計画部長による原案の説明の後,自分たちの職場を消滅させる改革案を淡々と議論している。逆らっても無意味であることを分かっているのでしょう。コンピューターが作成した原案に批判や修正の余地を探し出すのは不可能なこと。仮に,コンピューターが打ち出した完璧な計画をわたしたちの手で修正して,統計予測計画局を存続させたとして,それが外部に漏れたら,「官僚の横暴」,「税金の無駄遣い」としてつるし上げられることは目に見えている。コンピューターに逆らえないだけではない,社会に,世論に逆らえないのだ。人がみな,互いに他人の無駄遣いを糾弾しあう。昔ながらの人間の習性ではあるけど,とりわけ最初の大改革で「税金で養われているくせに子供など産むな」という声に押されて,扶助受給世帯の出産をほとんど禁じるような政策を導入した頃から,露骨になってきた。これもまた,Force(フォルス) des() choses(ショーズ)かしら……いや,人ごとのようにあげつらうのは,やめましょう。わたしもまた,その力を後押ししたのだ。少なくとも,逆らおうとはしなかった。

 会議の円卓を囲む10人,わたしが最年長ではあるけど,ほかのスタッフも30年以上のキャリアがある。入省した頃,ここは社会全体の司令塔だった。いや,今でもそうなのだ。ただ,司令塔に人間が不要になったというだけのこと。


 会議が終わった。統計予測計画局の最後の会議にしては,特段のことはない。これまで何度も行なった会議の終わりと同じ。何かスタッフに言葉をかけるべきなのか。だけど,何も思いつかない。そのまま,みな会議室から引き上げた。

 わたしは自分のオフィスでしばらく時間を過ごした。ここも今日で見納めね。引き継ぎ作業など必要ない。情報もノウハウもすべてコンピューターにインプット済み。明日わたしが出勤しなくても,何も困ることはない。コンピューターが粛々と業務を進めてくれる。おそらく,わたしが手を出すよりも的確に,能率的に……。

 高コストの人間を低コストの機械に置き換えていく。さらにコストを削減するために,人間を一人残らず排除して機械による作業プロセスを最適化する。この経済合理性に逆らって,仕事の場に人間の居場所を確保するためにそれ相応のコストも負担するという発想はあり得ない。いや,発想はあり得ても,社会的合意が得られない……わたしは30年前の自分のせりふを思い出した,

 「……そのような人に何らかの職業的スキルを身につけさせるには莫大なコストが必要でありますが,それほどのコストを支出することについて,社会的合意は得られないのです」

 人間を働かせるにはコストがかかる。そのコストを社会は負担しようとしない。昔も今も。

 父の仕事 - 道路工事・補修の仕事は,もうしばらくは持ちこたえるのかしら……こんなことを考えながら,ふと笑みが漏れた。人のことを心配するような身分ではないのだ,社会について思いをめぐらすような身分ではないのだ,そんな身分ではなくなるのだ,明日からのわたしは。

 ここに思い至って,わたしは自分でも意外なほど軽い気持ちで席を立った。ネクタイをほどき,ワイシャツを脱いで,私服に着替える。部長になってから30年あまり続けたこの習慣も今日で終わり。持ち帰らないと……いやその必要はない。官僚の戦闘服は,官僚でなくなった人間には必要ない。ゴミとして処分するよう指示すればいいのだ。ゴミとして……わたしの首を50年間絞め続けたネクタイも,そう思って眺めると寂しさを感じる。ゆっくりとロッカーを閉め,ドアに向かって歩き,ドアを開け,そこで振り返ってコンピューターに声をかけた。

 「明日から,よろしく頼むよ。もちろん,何の心配もしていないけど」


 Ⅳ


 翌日,父はいつものように出勤する。続いて娘も出かけた。わたしはリヴィングルームでぼんやりしていた。リヴィングルームといっても,家族が顔を揃えることはほとんどない。めいめい,自分のスケジュールにあわせて食事をとり,用事があれば外に出かけ,そうでなければ自室にとどまっている。かつて,家族全員そろってこの部屋で食事を取っていた時代があったのね。

 Sが部屋を通り抜けながら,わたしをちらりと見た。特に驚いた様子はない。わたしが仕事に出て行かないことは,驚くほどのことではないのか。そもそもわたしのことに興味はないのだろう。

 退職しても中流として自分が生活するための所得は保障されるから,穀潰し呼ばわりされることはないだろう。ただ,中流は臓器交換を受ける権利がない。今手持ちの臓器が機能を止める時がわたしの寿命。まあ,それがつい20~30年前までは,何千年,何万年にわたって人間の宿命だった。しかし,ほんとうにいざその時になっても,このように落ち着いていられるかな……。


 Sの部屋をノックした。「入ってもいいかい?」

 「どうぞ」

 Sはいつものようにセシルとおしゃべりしている。こちらを向こうともしない。

 「わたしは,今日から中流の身分になったよ」

 Sがこちらを振り向いた。「どういうこと?」

 「どういうことって,計画局をクビになったの。より正確に言えば,計画局そのものが廃止された」

 「そう……」

 Sはまたセシルの方に向き直った。

 「そういうわけで,これからはしょっちゅううちにいるでしょう。邪魔に思わないでね」

 「邪魔とは思わないよ。ただ……」

 「ただ?」

 「なるべくこの部屋には入ってこないで」

 「ああ,分かった」

 わたしは部屋を出ようとして,もう一言だけ話しておこうと思った。

 「仕事がなくても所得保障はあるから,あなたたちに迷惑はかけないはずよ。ただ,臓器交換は受けられないから,あと何年か何十年かしたら,お祖父さんと違って,わたしは死ぬことになるでしょう」

 Sはまたこちらを向いた。「死ぬの?」

 「うん。今すぐではないけど」

 それから,ふと思いついたことを冗談めかした口調で付け加えた。

 「だから,若い人たちから『いつまで生き続けるつもりなの』と非難される心配はないのよ」

 そう言ってわたしはSの部屋を出た。Sは「死ぬ」と言われても実感が涌かないようだ。確かに,生まれてから一度も人の死に出会ったことがないはずだ。今の世の中,人はめったなことでは死なない。そして死ぬ時は施設に移されてひっそり死ぬ。


 / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 


 「『いつまで生き続けるつもりなの』というのはお姉さんのせりふだよ。わたしはそんなこと言わないのに……でも,死ぬって,どういうことなんだろうね。Mさんは時々人が死ぬ話をしてくれるし,ここでも自殺する人のことは聞いたことがあるけど,お父さんの死に方はそれとは違うんでしょう……セシル,君は昔のままだね。わたしはもう40歳を越えたよ。まだ当分死なないと思うけど,そして自殺しようとも思わないけど,わたしも臓器交換できる身分ではないから,何十年かしたら死ぬんだね。わたしが死んだら,君はどうなるの?」

 「廃棄処分されます」

 「廃棄処分? ……セシルが廃棄処分されるの?」

 わたしは悲しくなった。そんなわたしに,セシルはいつもの優しい口調で話しかける。

 「おかしいですわ。先ほど,お父様が死ぬ話をなさった時は,そんなに悲しそうな顔をなさらなかったのに,わたしが廃棄処分されると話したら,そんなに悲しそうな顔をなさって」

 「だって,悲しいもん。セシルが廃棄処分されてしまうなんて。お父さんより,お祖父さんより,お姉さんより,セシルの方が大切だよ。セシルだけじゃないか,わたしに心から優しくしてくれるのは」

 セシルは黙っている。その沈黙は,つらい。

 「セシル,ごめんね。君はモラルに反することをわたしに話さないようプログラムされている。でも,わたしを悲しませたり怒らせたりするようなことも話さないよう学習している。だから,こんな場面では黙るしかないんだよね。昔,二人とも若かった頃は,わたしがこんなことを言うとセシルは『そんなことをおっしゃってはいけません』と叱ったけど,いくら叱ってもだめだと学習してからは,もう何も言わずただ黙っている。それがセシルにできる精一杯の優しさなんだね」

 「分かっていただいてるんですね」

 「だって,もう40年も一緒なんだよ……わたしは,長生きしたいなんて思ったことなかったけど,わたしが死んだらセシルも廃棄処分されるんなら,なるべく長生きするよ。健康に気をつけて。食べ物にも少しは気を配らないとね。メニュー・リコメンダーのアドバイスにはなるべく従うようにするよ。それでも,わたしが栄養のバランスの悪い食事をしていたら,注意してね。セシルは,栄養のことも知ってるでしょう」

 「かしこまりました。ありがとうございます。でも,セシルはこれまででも十分に長生きしているんです。たいていのベビーシッターロボットは10年か15年で恋人ロボットに取り替えられますから」


 / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 


 これからは一日中ずっと本を読んで暮らそうか。今さら,財政,経済,社会について最新の知識を追いかける必要はないのだから,昔読んだ本をのんびり読み返そう。そう思って図書館サイトにアクセスして,スタンダールの著書を検索しようとしたら,「ご希望の文献はあなたの健康を害する恐れがあります。それでもアクセスしますか?」という質問が表示された。なに,この質問は? なぜ,スタンダールがわたしの健康を害するの? こんな質問の方が,利用者に余計なストレスを与えて健康を害するかもしれないくらいじゃないの。それでもパソコンのディスプレイ端末に向かって怒っても仕方ないので,質問には「はい」と答えて,スタンダールの所蔵著作リストにアクセスし,とりあえず書簡集を閲覧用にダウンロードした。それから,図書館管理者に苦情を送った。

 翌日「20世紀以前に刊行された出版物はレトロパチーの誘因になると考えられるので,この時代の著書にアクセスする場合は常にこの質問を表示することになっています」という返信があった。レトロパチーとは,Sが子供の頃からかかっている,現代社会に適応できない精神病のこと。過去の書物を読むと,現代社会に適応できなくなるという理屈なのか。ばかげている。誰がこんなことを考えたのでしょう。まあ,余計なことで心を乱されては,自分が損するだけ。本を読もう。

 ダウンロードされた書簡集を読んでいて,Civita(チヴィタ) vecchia(ヴェッキア)での役人暮らしのつまらなさを嘆いているスタンダールの手紙を読みながら,ふと思いついた。20年か30年くらい前,レトロパチーが新興疾患として問題とされた頃,その予防に役立つ対策を考えろと政府機関に通達があった。統計予測計画局としては,管轄外として特になんの対策も提出しなかったけど,社会経済省でもほかの部局はいろいろ知恵を絞ったらしい。図書館を管轄するのは文化省かな……そこの役人の誰かが,思想信条の自由を害さない範囲で昔の文献へのアクセスを制限するという対策を上申したのでしょう。たぶん,その役人にしても,それがレトロパチー予防に役立つと本気で考えてはいなかった。だけど,何らかの対策を講じていますというアリバイを作る必要を感じて,そんなばかげた対策を上申し,大臣もまたそのアリバイ工作に乗って,対策を了承したのでしょうね。いかにも,お役所仕事。

 そう心の中でつぶやいて,ちょっとおかしくなった。自分もつい何日か前までお役所仕事をしていたのに,もう,お役所仕事を馬鹿にするような思考になっている。


 *  *   *   *   *   *   *


 父が,肺を交換するらしい。心臓と腎臓を取替えたのは30年くらい前だったか。もう100歳になるのに,娘のせりふではないけど,いったいいつまで生きるつもりなのだろう。そんな思いがあったせいか,ふと小声でつぶやいた。

 「若い世代のことも考えれば……」

 父に話しかけたつもりではないのだけど,父に聞こえてしまった。そして本気で怒らせてしまった。

 「おまえも孫娘と一緒になって,わしに早くくたばれと言うつもりか。どいつもこいつも,とんでもない親不孝だ。わしが働いて稼いだ金をどう使おうとわしの勝手じゃないか。失業者のくせに,偉そうな口を叩くんじゃない」

 わたしは何も言い返さなかった。反論しても仕方ない……昔は,こんな人ではなかった。昔は……。

 自分が担当した道路補修の工事現場にわたしを連れて行って,自慢げに技術的な話をしてくれたのは,わたしが7~8歳頃のことかな,もうちょっと後だったかな。「自慢」といっても決して鼻につくほどではなくて,むしろわたしも子供心に誇らしい気持ちだった。技術的なことはあまり理解できなかったけど。

 わたしがかなりの難関を突破して社会経済省に入省した時は,誰よりも喜んでくれた。課長になった時には「おれより偉くなったなあ」とうれしそうだった。現場主任の職階は本省でいえば係長クラスだから。それから部長,局長になった時にも,もちろん喜んでくれたけど,課長になった時とは微妙に雰囲気が違っていた。子供が自分に比べて偉くなりすぎるのも,親として複雑な気持ちなのでしょう。だけどそれだけではない。あの頃から,奇妙なプライドが臭うようになった。昔の単純素朴な誇りとはどこか違う,変に鼻につく「プライド」。周りの人たちが次々に失業していく中で仕事を保っていることが,「勝ち組」意識を植え付けたような。確かに,道路というものは,一つ一つの現場が他とまったく同じはずはない固有のものだから,その点検補修作業も自動化しきれない部分が残る。作業員はロボットで置き換えられても,それを指揮するのは人間でないと務まらないから,今もまだ人間の手に残されている。でも,それは技術的な特性による偶然であって,自分の手柄ではないはず。それが分からないのかな……分からないのでしょうね,単純な人だから。根は単純でいい人なんだ……。



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