「黑瀬さんの事」
〈空梅雨が或る意味正しい夏運ぶ 涙次〉
【ⅰ】
「なあじろさん、これつて黑瀬巨文だよねー?」‐「え、なになに?」新聞をカンテラ、手渡す。じろさん、老眼鏡を掛けた。文藝欄。筆名、くろせ・ひろふみ、と「開いて」はゐるものゝ、その一文、「その後のラノベ論」と題されてゐる。中身は‐「私は飽くまでラノベ擁護の立ち場に立つが、それらラノベ作品に對する批判も尤もだ、と思つてゐる。剣と魔法の主人公、異世界、妖精... だうして彼らラノベ作家たちが、陳腐なゲームの用語に拘るのか、理解出來ない、と云ふ讀み手もゐる。これは充分検討を重ねるべき事だ」剣と魔法、陳腐、と云ふところで、カンテラ思はず苦笑したが、問題は其処にあるのではない。
【ⅱ】
「* 黑瀬つて成佛したんぢやなかつたつけ」とじろさん。「名聲慾のせゐで、また魔道に墜ちた、つて事も、珍しいけどあり得るよ」カンテラ、黑瀬が野心家だと云ふ事は重々承知してゐた。「まさか、** 涙坐ちやんに探らせるつて譯には、ねえ」‐「流石のカンテラもそこ迄冷酷にはなり切れないか」
* 当該シリーズ第13話參照。
** 前シリーズ第197話參照。
【ⅲ】
「俺、取り敢へずこの新聞社に当たつてみるよ」‐「じろさん、濟まんねえ。ついでに生前預かつた原稿ぢやないかも、訊いて來て慾しい」‐「ラジャー。まあ、この儘ぢや氣持ち惡過ぎるからね」
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈老醜の迫れる朝の鏡なり叩き割つたらさぞかし爽快 平手みき〉
【ⅳ】
ところが‐「けんもほろゝ」の扱ひを、じろさん受けてしまつた。會見そのものが拒否されたのである。担当者に依つて、一味に對する態度がかうも違ふのか。いつもの愛想のいゝ記者は、確か社會欄の担当であつた...「と云ふ譯で、話はぷつつりだよ。もしや記者迄が【魔】に憑かれてるんぢやないか、とか」‐「それ案外ビンゴかも。ロボテオ2號にその記者の事、探らせやう」
以下、2號がwebで調べ得た事‐
その文藝欄記者、上総情と云ふのだが、生前の黑瀬の大ファンで、『ラノベ論』を是非に、と新聞社付きの出版局から上梓させた、そんな經歴の持ち主。
【ⅴ】
「なる程ね。尊敬の余り自身も魔道に墜ちたか」‐「さう見て良さゝうだねえ」‐「ちよつとテオ呼んで來るわ」
「斬るしかないんスかそれつて」‐「黑瀬が聞く耳持つて、また冥府に帰るつて云ふなら、或ひは」‐「OKです。行きませう」實はテオ、作家・谷澤景六として、黑瀬の才能を深く惜しむ者の一人だつた...
【ⅵ】
上総、勤め人の割には珍畸な格好をしてゐた。カウボーイハットにウエスタン・ブーツ。まるで名画『タクシードライバー』のやうだ。不敵に脚をデスクの上に投げ出してゐる。
テオ、その上総にテオ・ブレイドを突き付けた。「お、俺は言論の自由の為なら、死ねる」と上総。テオ「生きてりやいゝ事もあらうに」‐「...」上総はその言葉に絆され、ぽつり、語つた。「黑さんは冥府にゐる。其処から文章を送つて貰つてゐる」‐カンテラ「なる程。テオ、これなら斬る迄もなさゝうだ」
【ⅶ】
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〈画廊にて避暑の繪を云ふ大盡や 涙次〉
この一件、依頼者は上総情個人と云ふ事になつた。大新聞の記者だから髙給取りなのだ。それよりも何よりも、テオの説得、文士・谷澤景六を感じさせ、上総、改めて彼に原稿依頼した、と云ふ。‐で、「黑瀬さんの事」、と書き始めた谷澤であつた。お仕舞ひ。