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第四章 変化の標本と扉の向こうの声

甘く、重たい腐敗の匂いが、集積所の淀んだ空気にまとわりついていた。ノノは発生源である棚の二段目に向かい、黒く変色したバナナの皮を注意深くつまみ上げた。形は崩れかけ、表面には粘液が光り、小さな羽虫が数匹、未練がましそうに飛び交っている。完璧なコレクションに訪れた、避けられない崩壊の兆し。


しかし、ノノの反応は以前とは少し違っていた。恐怖や拒絶ではなく、むしろ静かな好奇心。ノノはその腐りかけの皮を作業台(これもどこからか流れ着いた、脚の長さが不揃いなテーブルだ)に運び、近くに転がっていた錆びたハサミを手に取った。そして、まるで精密な解剖でも行うかのように、皮を丁寧に、細かく裁断し始めた。


チョキ、チョキ、と金属の擦れる音だけが響く。ノノは裁断した皮の断片を、以前収集しておいた小さなガラス瓶――おそらく薬が入っていたのだろう、ラベルの剥がれた跡がある――に、ピンセットで一つずつ詰めていく。やがて瓶は、黒ずんだバナナの皮の断片で満たされた。ノノはそれに蓋をし、満足げに眺めた。「変化の標本」と、ノノは心の中で名付けた。腐敗すらも記録し、分類し、所有する。それがノノ流の秩序の再構築だった。


作業を終え、手を拭きながら(能面の上から)、ふと足元の段ボール箱に目が留まった。昨日、くしゃくしゃにして投げ込んだはずの、太陽の絵が描かれた紙。なぜか、その存在が妙に気にかかる。ノノは逡巡の末、箱に手を伸ばし、丸まった紙片を拾い上げた。


ゆっくりと広げる。歪んだ太陽。稚拙な線。昨日感じた「異物」としての感覚は薄れ、代わりに奇妙な親近感のようなものが湧き上がってくる。誰が描いたのか? 子供? それにしては、線に込められた意志が強すぎるような気もする。ノノは紙片を能面の目の部分に当ててみた。太陽の絵を通して世界を見る。もちろん、何も見えはしない。ただ、紙の乾いた感触と、クレヨンの微かな匂いがするだけだ。


その時、不意に姿見に映る自分の姿が目に入った。能面をつけ、太陽の絵を顔に当てている、奇妙な格好。ノノはゆっくりと鏡に近づき、自分自身を観察した。いつも見ているはずの能面。しかし今日、その滑らかな頬に、以前はなかったはずの小さな傷がついていることに気がついた。引っ掻いたような、浅い傷。いつ、どこで? 全く記憶にない。ノノはそっと指でその傷に触れた。冷たく、硬い感触。


鏡の中の自分に向かって、いつものようにピースサインを作ってみる。だが、指の動きがぎこちない。まるで、自分の身体でありながら、どこか別の生き物が動かしているような違和感。


その瞬間だった。

「……るの?」

扉の向こうから、声が聞こえた。

微かで、くぐもっていて、性別も年齢も判別できないような声。

ノノは凍りついた。鏡の中の自分も、ピースサインを中途半端に掲げたまま固まっている。

「……そこに、いるんでしょ?」

声は続く。囁くようで、それでいて妙に耳につく。

「……ねぇ……あけてよ……」

懇願するような、あるいは命令するような、奇妙な響き。


ノノは息を殺し、全身の神経を扉に集中させる。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。声はしばらくの間、扉の向こうで何かを訴え続けていたが、やがて諦めたように途切れ、再び静寂が訪れた。


ノノはゆっくりと息を吐き、強張っていた身体の力を抜いた。鏡から視線を外し、手に持っていた「変化の標本」の小瓶を棚に向かって運んだ。そして、それを一段目、王のマスクの足元に、まるで供え物のようにそっと置いた。


次に、ノノは手に持っていた太陽の絵の紙片を、捨てるのではなく、三段目、沈黙するハーモニカの隣に滑り込ませた。そこは昨日、片手袋を置いた場所のすぐ近くだ。昨日までは「異物」だったものが、今日、「収集物」の仲間入りを果たした瞬間だった。その行為が何を意味するのか、ノノ自身にもよく分かっていない。ただ、そうすべきだと感じただけだ。


ノノは、じっと鉄の扉を見つめた。能面の下の表情は、相変わらず窺い知れない。集積所の空気は、以前よりも濃密で、静かだが、何かが決定的に変わってしまったような気配に満ちていた。ノノは、次に扉の向こうから訪れるであろう何かを、ただ待っていた。それは脅威なのか、それとも新たな収集の機会なのか。もはや、ノノにとってその境界線は曖昧になりつつあった。

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