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後朝

作者: 望月喬

 女物の服ばかり着ていると困ることがある。何しろ、女と見間違われることが多い。だからといって別にスカートを履いていたり、女装趣味があったりするわけではない。


 ただ僕は店に行ったときは進んでレディースのフロアを見て回るし、そこで買った女性用のトップスやパンツを好んで着用していた。そうは言っても、男にしてはちょっと可愛らしいくらいのものだ。メンズだって十分に着られる程度の服だったし、お洒落かどうかの観点で考えれば、それは他人と異なるという意味で間違いなく効果を発揮していた。


 実際、僕が女物の服で全身のガワを固めていることに――これは僕がアパレル店員のアルバイトをしているという有識者的な側面を持っていたからというのもあるが――これといった嫌悪感を示す人は特にいなかった。むしろ個性的であるとか、異性の服を着こなすことができるなんて凄いだとか、そういうふうに褒めてもらえることのほうが多かった。みんながみんな口を揃えて、全体主義の熱波に飲み込まれてしまったように褒めそやすものだから、僕も悪い気はしないのだった。


 どうしてそこまで良い評価を貰えていたのかというと、それはきっと僕が、体格か骨格のどちらかに恵まれていたからだろう。


 僕の父親はドワーフみたいに筋肉質で屈強な体つきをしていて、僕がこの世に生を受けたとき、彼から広い肩幅と厚い胸板を譲ってもらった。対して母親はエルフみたいにすらっとした細い体つきをしていて、次に僕は彼女から高い背丈と長い手足を譲ってもらった。ついでに小さな頭部も受け継いだ。まったくもって、現代日本における美的感覚に即した世渡り上手な遺伝子の残し方である。僕の両親は現代の価値観に適応したという意味で生物的に優秀だったと言わざるを得ない。


 ドワーフとエルフの混血として生まれ落ちた僕は、幸運にも二種族の良いとこどりをして、そのまま二十歳そこらへと成長したというわけである。少しでも父親の血が濃ければ背が低くなっていただろうし、少しでも母親の血が濃ければ細い枝のような体になっていただろう。


 だが二人の遺伝子がうまく融合した結果、背が高く、手足が長く、かと言って細すぎず、割合に筋肉質で、健康的な肢体である――いわゆる「スタイルのいい」男が誕生した。そして、そんな人間が女物の服を着こなしているから、周囲の人々は似合っているねと気兼ねなく褒めることができるのである。


 だが、初めに述べた通り、女物の服ばかり着ていると困ることもあった。僕は普通の男であるはずだが、いかんせん女物を着用しているために、傍から見れば男とも女とも取れる外見になってしまっている。つまりは中性的で、もっと言えば、女と見間違いをされることが多いのである。男女どちらともつかない、不釣り合いでいてバランスの取れた見た目をしているせいで、僕を観測する人は「男女」という二者択一の思考の狭間へと追い込まれることになる。


 人々は僕と接するとき、無意識的にどちらかを選び取って話を進める。男か、女か。ある人は僕のことを「お兄さん」と呼ぶし、またある人は僕のことを「お姉さん」と呼んだ。それはきっと、僕がどこか中性的な顔立ちであるのも関係していた。


 僕が女物の服ばかり着ていることは、その選択の妨げになっているのだろう。本来であれば女性が手に取るような帽子(ニット帽だとかキャスケットだとか)を被っていたり、女性が身に付けるようなロングワンピースをアウターとして羽織っていたりするものだから、僕を目にして「選択」しなければならない相手からすれば、面倒なことこの上ない。僕は生物学的に言えば男であるから、そうして見た目から醸し出された女性性に惑わされる「お姉さん」派に出会うたび、心のなかで外れ、と呟くのだった。


 日々のコミュニケーションにおいて煩わしい訂正が増える可能性がありながら何故そんな恰好を続けているのか。それは単純に、その男とも女ともつかない姿の自分がいちばん好きだからだった。


 僕は女に限りなく近い男として育った。僕の一家は親戚との交流が多く、その親戚には女が多かった。祖母、叔母、従姉妹。幼いころから自分の休日を女の園に捧げたことが僕の心に影響を与えたのだろう。彼女たちに囲まれて育ったことで女の価値観を覚え、においが服に染みつくみたいに、その独特な思考傾向が僕の肌に浸透した。その結果、今となっては女のにおいが染みついた服を好き好んで着ているのだから、幼少期の生育環境というのは洗脳じみていて恐ろしい。


 だが同時に、それぞれのコミュニティで僕は「男」だった。つまり、学校、習い事、学習塾――僕が育った家庭環境に留まらず、僕が社会性を獲得していくことになった外側の至るコミュニティで、僕はあくまでも男として認識されていた。それはまだ、僕が子供用の服を着ているころだった。


 そのなかで、家族や親戚と過ごす間は女に囲まれた「男」だったからこそ、「この人間たちとは違う」という自意識を反対に強めていったのかもしれない。自分はあくまで男だという性自認があったからこそ、女に囲まれて女に染まりきることはなく、むしろ男女という二元論に潜む対立構造を深く意識していくことになったのだろう。


 だから僕は周囲の男より女を理解しているようで、もっとも女を理解していなかった。女という生き物は、近づけば近づくほど離れていくものだったからだ。


 そうして僕は、男になった。


「お兄さん、これってSはないの」


「すみません、それはMとLのツーサイズ展開なんです」


 僕の貼りつけたような笑顔は、意外にもお客からは好評だった。アルバイト先の服屋はショッピングモールの中にあって、同じ階には似たようなアパレルショップがずらりと並んでいる。メンズフロアで待機していた僕は、息子か孫にプレゼントでもするのだろう、クルーネックTシャツを持っていた高齢の女性客に隣の棚のものを勧めた。


「似たもので、こっちはSサイズもありますよ。少し形状は変わっちゃいますけど」


「じゃあ、それにするわ。ありがとう。お世話さま」


 グレーのTシャツを持ってレジへ向かった女性客に向けて、僕はありがとうございましたと頭を下げた。それから身に付けていた腕時計で退勤時刻を過ぎていることを確認して、裏のスタッフルームに戻ろうとすると、レディースフロアの手前にあった試着室から若い女性が出てきた。シャっとカーテンが勢いよく開いて、僕と目が合うと、花が咲いたように笑顔を見せる。まるで渡りに船とでも言いたげな様子だった。


「あっ、あの。これ、私の胸だときついですか。着てみたんですけど、どうも微妙で」


「え、ああ……」


 こういうのはよくあると言えばあるし、滅多にないと言えばない。というのも、僕がその日にしている恰好によって、今のような、見るからにすべき相手を間違えている質問を投げかけられる頻度は変わるからだ。つまり、僕が男性的なファッションをしていれば、若い女性がサイズについて尋ねてくることなどまずないのだが、今日のように女性的なファッションをしていると、人によっては僕のことを同性だと思って話しかけてしまう。


 僕はこういう特殊な応対にまだ慣れていないのもあって、えー、とか、あー、とか、文字にして表すのも億劫になるような言葉になりきらない音を発しながら、れっきとした男に向かって胸がどうこうとか言ってしまった女性にどう答えるべきか悩んでいた。相手を傷つけず、恥ずかしい思いをさせないことを喫緊の課題としながら、ひとつひとつ脳内で言葉を紡いでいく。しかし、そんなことを呑気にやっているうちに、次第に痺れを切らしたらしい女性がとんでもないことを言い出して、


「ええっと、私、スリーサイズが……」


「少し、お待ちいただけますか。今、他のスタッフを呼んでまいりますので」


 ああ、はい、と両手に抱えたエサを知らない間に落としてしまったリスみたいなポカンとした顔をして、女性客は頷いた。それを見て、僕はそそくさと逃げ出すようにその場をあとにする。


 すぐ近くのスタッフルームに入ると、中では女性のスタッフが棚に積まれた商品の整理をしていた。ほっと安堵の溜め息を吐くのもそこそこにして、僕はそのアパレル店員らしい鮮やかな金色をした髪の女性に引き継ぎをお願いした。


 仕事を一通り終えて、僕はアルバイト先の服屋を出た。今日は早上がりだったから、空はまだまだ明るい。先ほど若い女性に対応して焦ったからだろうか、安心して一息ついた途端に腹の虫がわずかに蠢きだしたので、少し遅い昼食を取ることに決めた。


 向かったのは以前から通っているお気に入りの店だった。大手町駅直結、皇居周辺に繋がる出口の手前で横に逸れると、オーガニックの専門店がある。入ろうとするなり暖かみのある木目調の店内が出迎えて、それと同時に僕はいつもと同じ奇妙な感覚を味わった。


 開きっぱなしの入口に立った途端、僕の体を生ぬるい輪郭が包み込む。それは先客の視線だった。ちら、と僕を盗み見るような、遠慮がちな目。提供する食事の内容も相まって、中にいたのは女性客がほとんどだった。僕は彼女たちの短い、舐るような確認を受けてもなお怯むことはなく、堂々と席についた。


 こういう場所に身を置いているときの彼女たちは、特に警戒心が強い。きっとそれは、この店には自分たちと同じような女性しか訪れないと頭のどこかで考えているからだろう。彼女たちはこの場所を仲間意識や共同体意識に裏付けされた秘密の花園だと思っている。つまりは自分たちの縄張り――だから、そこに立ち入ってくる者が誰で、どういうカテゴリーに属する人間なのか、入国審査をするように、わざわざ視線を向けて確認しているというわけだ。


「お姉さん、後ろ失礼」


 ところが、セルフサービスの白湯を容器に注いでいると、僕の背後をサラリーマン風の中年男性が通っていった。この意識の高い女性客ばかり集っていそうな店にスーツを着た男性客とは珍しい。きっと数多の女性の目を乗り越えてきたのだ。周りに人はいなかったし、おそらく僕が失礼されたのだろうと思った。


 再び自分の定位置に座り直して、運ばれてきた料理を楽しむことにした。鶏モモ肉の唐揚げと野菜の煮物。玄米ご飯に豚汁。小鉢に入った小松菜とヤーコンの白和え、レンコンとわかめのナムル、南瓜とほうれん草のグラタン……。


 清流若鶏を使用した唐揚げには塩麹ネギだれが乗っていて、噛むと一気にジューシーな肉汁が溢れ出る。旨味が口の中でじゅわりと広がって、あとから塩味と酸味がやってくる。ちゃんと食べ応えがありながら、消化器官に負担を強いるような重たい感じはない。全体を見ればしっかり量があるのに健康的な献立になっているのだから驚きだ。


 しかし、付け合わせの野菜サラダを咀嚼しながら、僕は思った。どうやら、今の僕は女と見なされているらしい。その証拠に、先ほどのサラリーマンにはお姉さんと呼ばれたし、周囲のテーブルで歓談する休憩中のOLたちも、店に入ってきた僕をすんなりと受け入れた様子だった。縄張りの主たちにあっさりと認められたのだ。つまり僕は彼女らから女性であると思われている。今この時間、僕は女として社会から居場所を担保されていたのだ。


 僕は二者択一のあわいにいる存在だった。オーガニック、ヘルシー、化学調味料無添加――こうして女性性の強い場所に足を踏み入れるたび僕は、僕のそとにある性別の揺らぎを感じる。男性女性のあわいから、目に見えない何らかの力によって女性のほうへ引っ張られる。周囲の認識する僕が、一定の偏向した思考回路をもって都合よく解釈されるのだ。


 その原因は、僕が半端な姿をしているからに他ならないのだろう。店に入った僕が何者であるのかわからない。服屋で働いている僕がどちらなのか見て取れない。人々は一見して男女を判断できないとき、次にその場所が孕んでいる属性を用いる。健康的な食事を出す店だから女性。紳士服を扱っているフロアだから男性。婦人服を扱っているフロアだから女性。彼らはそうやって、いくつもの判断材料を持ち出して彼らを安心させている。


 だが僕には、彼らのその舐るような目つきが奇妙に思えてならなかった。奇妙。そう、奇妙ではないか。その場所にある属性が僕を勝手に定義するというのは、冷静になって考えてみれば、おかしなことではないのだろうか。


 僕は今朝出勤したときには男で、そこから男として服を売っていたはずが、退勤するころには女のふりをして店を出ることになって、そしてついに今この場では、完全に女になっていた。女として女の園に紛れ込み、異端者である背広の男性に気まずい思いをさせ、社会の隅に座っていた。自由意志はどこへ行ってしまったのだろう。これは神話世界の両性具有のような高尚なものではない。何故なら性の所有権、もとい決定権は僕ではなく他者にあり、ともすればそれは両性無有とでも呼ぶべき有様であるからだ。


 僕は何だか素直に食事を楽しめなくなって、仄暗い気分を背負いながら会計を済ませた。横目で捉えた客のなかに、僕の知らない人はほとんどいなかった。縄張りの主たちはずっと同じテーブル、同じ席に座っている。日々のストレスを発散するような彼女たちの談笑に置いてけぼりにされた食事たちが、どこか寂しそうな目をこちらに向けている気がした。


 僕はその縋るような視線を振り切って、来た道を引き返した。仄暗い気分を背負ったとは言っても、こんなことは茶飯事だったし、いつまでも気にしてはいられない。それに、文字通り腹を拵えたこともあって、僕の精神は少しずつ良いほうへ上昇していけるはずだった。


 改札を抜けてホームに向かっていると、駅構内のトイレが目に入って、手洗い場に立っていた僕を見て一目散に踵を返していった男が過去にいたことを思い出した。そんなようなのがあと何人かいた。


 こういう強制的に性を分別してしまう場所も難しい。僕を観測する人に、僕という一人の人間を定義づける義務が生じてしまうからだ。トイレなんてその最たるものだった。男たちが男子トイレの青色へ振り返って自身の正しさを確認する様は、憐憫を通り越して滑稽とすら感じられた。


 丁度よく電車が来ていたので、駆け込むようにして乗った。背後で白色のドアが閉まると、間髪入れずに車両全体が揺れ動き始めて、僕は落ち着ける位置を吟味する暇もないまま近くの空いていた席に腰を下ろした。何故か端がぽっかりと空いていたので座ったのだが、僕の右側にいるキャップ帽を被った男は舟をこいでいたので気が付かなかったのだろう。


 電車が走り出して少しすると、窓に映る色彩が黒一色から灰色や白を混ぜ合わせたものに変化した。そこで僕はようやく雲行きが怪しいことを知った。しばらく地下鉄の駅の中にいたから外の天気がわからなかったのだ。窓が切り取った空は分厚い雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうな気配を漂わせていた。僕は思わずといった様子で眉を寄せた。折り畳み傘を持ってきていなかったのだ。できれば、その微妙な塩梅を保ったまま、帰宅するまで耐えていてくれると有難いのだが。


 することがなかったから本でも読もうと考えて、僕は膝の上に寝かせていたリュックを起こした。そしてチャックに手を伸ばして、それを上へ引っ張ろうとした瞬間、僕の右から、ぬめっとした速度で見知らぬ腕が近づいてきた。


 え、と声を漏らすより先に僕以外の他人の手が僕の胸を触って、え、という僕が先んじて漏らすはずだった戸惑いの含まれる声は、喉の奥で引っかかって出てこなくなってしまった。僕は右の男をちらと――まるでオーガニックレストランに入る僕を女性客が警戒した表情で見やるように――注意深く確認した。


 男は眠っているように思えたが、男の左手はしっかりと僕の胸に触れていた。すぐに周囲を見渡すも、膝の上に起こしたリュックが仇となって、他の乗客からは見えていないようだった。僕は恐る恐る目線を下げる。


 ゆったりしたシルエットのブラウスが、男の手によって皺だらけにされていた。胸に当たる確かな感触、それも気味の悪い、心の底から嫌悪感を覚える強引な介入。それはパーソナルスペースを砕氷艦のように破壊して、僕と男の間にあったはずの社会的な境界線を亡き者にした。


 すると僕が反応を示したことに気が付いたのだろう、男は手のひらをすっと下のほうに移動させて、今度は僕が履いていたハイウエストパンツの腿のあたりを執拗に撫でた。波が引いてまた押し寄せるみたいに、男の手がカルゼ生地の畝をなぞっていく。そのごつごつした薬指には指輪が嵌められていて、焼けた焦げ茶と白金のアンバランスさに、鳥肌が立つような思いがした。


 僕はこれが痴漢であるとすぐに理解した。そして、どうして端の座席だけが空いていたのか、どうしてキャップ帽の男は前に座っていた者が降りたあとに横へ詰めなかったのか、その疑念にも合点がいった。わざとだったのだ。


 男はずっと、隣接する人間が自分以外にいない左側に「獲物」が腰掛けてくるのを待っていた。そうして虎視眈々と、けれど居眠りしているふうを装いながら、帽子の奥に潜ませた眼光を一枚の紙みたいに細めて、女が来るのを待ち構えていたのだ。僕は誘い込まれていた。逃げられない。咄嗟に助けを呼ぼうと思っても、外敵の反対側には無機質な壁しかない。


 それは突然だった。いや、入念に準備された実行だったし、予備動作も丸見えだったのだから正しくは突然などではなかったのだが、僕にとってそれは突然としか言い表すことのできないものだった。雷が落ちたように僕の世界は一変した。青天の霹靂といえば聞こえはいいが、電車の窓には表現の種にもならないほどの微妙な小雨が打ち付けているだけだった。ガラスにへばりついた水滴が重力に負けて、だらりと垂れる。それは僕の額から流れる脂汗に見えなくもなかった。


 体が底冷えするような錯覚に襲われた。芯から熱が失せて、感覚という感覚が麻痺して、機能しなくなる。声を上げることも、男の手を掴み返すことも、その場から立ち去ることも、一切の動きを封じ込められたみたいに、何もできなかった。


 僕は現実から目を背けるように視界を閉ざして、意識を朦朧とさせた。自他の境界が曖昧になって、思考が暗く深い海に落ちていく。水、ばかばかしいほど小さな川、歯車が回って、レエン・コオトのイエローに……スズメバチが重なって……ブンブン蜂が飛び回り……狂ったように羽音がブウウ――――ンンン……チャカポコ鳴って……南ドイツのあの川で溺れ死んだリヒャルトを想う……そのとき僕の体を好き勝手にまさぐる獣の手が逃避を中断させ僕は思わず目を見開いて現実を意識し途端に止めどない思考の奔流が脳内に溢れ出してもうどう足掻いても止めることはできずにただひたすらその地獄が終わることを祈るしか


 僕は、怖かった。


 雷が落ちたあと、僕の世界は焼け野原になって、上空では黒い霧が立ち込めていた。僕の生活は様変わりした。何もかも甘かったことを知った。これまでの僕はときおり心に落ちてくる影のことを、水面にぽたぽたと垂らされた絵具のように捉えていた。その黒色はじんわりと波紋を広げるように拡大して、心を柔らかく絞めつける甘美な憂鬱となってくれた。ときにそれは悪友のようだった。


 でも、今はそうではなかった。唐突にもたらされた黒は僕の心の水面を好き放題にかき乱して、バケツの外へ水が跳ねて、筆先もぱっくりと割れて、これまでの憂鬱なんて気のせいだったのではないかと思えてしまうくらい、経験したことのない闇が僕の大脳辺縁系を支配していた。


 あの日、僕を女だと勘違いした痴漢に遭ったあと、僕はそのことを誰かに話すわけにもいかず、必死になって体を洗った。毒が全身に回るのを防ぐみたいに、服についた穢れが肌に染み渡る前にすべてを洗浄した。


 それから自分でも驚くくらい僕はむきになって、いつも以上に栄養のあるものを食べて、いつも以上に長い時間をかけて眠るように心掛けた。それはまるで、あくまでも健康で文化的な人の生活を保つことで、獣の悪意に対抗できる自己を肯定する心を忘れないようにしているかのようだった。


 しかしそれらは、僕にとって何の意味も為さなかった。初めてそのことを悟ったのは、痴漢された次の日に電車に乗ったときだった。地下鉄のホームに電車が滑り込んできて、転落防止のホームドアの前でぼうっと突っ立っていた僕の体を、車両の中で暖められた空気が包み込んだ。


 ――まず、何となく、その感触が気持ち悪いと思った。それは、小学校の歴史の授業で、豊臣秀吉が草履を懐に入れて温めていたというエピソードを初めて聞いたときに感じた気持ち悪さに似ていた。要は車内から溢れ出した生暖かい空気に、他者に迎合して気に入られようとする人の俗っぽさと同じ肌触りを覚えたのである。


 開いた電車のドアから漏れ出る内部の空気に体温を感じて、僕にはそれが乗客の鼻の穴や口から排出された二酸化炭素の塊のようにも思えて、だから僕は空気にさえ人間味を感じてしまって――それを理解した途端、電車に乗ることが怖くなった。


 しかし、そうも言っていられない僕は、自分の体を無理やり引っ張るようにして電車に乗り込んだ。これがないと行きたいところにも行けないのだから。だが僕の勇気はすぐさま後悔へと変わり、車両の奥へ進もうとした瞬間ぬるくなった空気に全身を抱かれたような気がして、うまく呼吸が出来なくなる錯覚に襲われた。


 そこにはいくつもの視線があった。前に立った僕をじっと見上げる男の目。ガラス越しに映る隣で吊革を握った男の目。後ろにいた男が背負っているバッグの質感までもが、視覚を伴った監視の目であるように感じられた。


 僕は結局、居ても立っても居られなくなって、乗ろうとしていた電車から降りてしまった。これがないと行きたいところにも行けないのに。自分のしてしまった行動が信じられなくて、僕は驚きを含んだ目で閉まるホームドアを見つめていた。


 耳をつんざくような地下鉄の走行音が消え去ったあと、僕は急いでホームの中を歩いた。そうこうしているうちに次の電車が来て、僕は何とか人の少ない先頭車両に乗ることができた。ここはまだ空気が比較的綺麗で、どんよりとした質感もなくて、安全であるような気がした。それでも、端にぽっかりと空いた座席には、座ることができなかった。


 あの日に起きたことを少しでも早く忘れられるようにと、自らに発破をかけて外出する機会を増やした。でもそれは失敗だったのかもしれないと思った。心理学か何かで、トラウマとなった原因から逃避し続けると、人はそのトラウマへの恐怖を増大させてしまうという研究があった気がする。


 たとえば犬に吠えられた子供が犬を怖がったとして、いつまでも犬と関わらないように避けていると、その子供の犬に対する恐怖心はむしろ大きくなっていく。だからトラウマが定着するより前に、その恐怖を取り除くために犬と積極的に関わらせるわけだが――僕の場合、外出することでさらなるトラウマを負うリスクもあった。そして残念なことに、僕はその賭けに負けた。


 公衆トイレに入ったとき、キャップ帽を被った男が用を足していた。彼は僕のことをじっと見て、少し驚いたように固まったあと、僕の全身を舐めまわすように観察してから、にへらと笑みを浮かべた。


 それは僕からすれば変態的な笑みにしか見えなかったが、おそらく他の一般的な男が見れば、彼の笑いは間違えて男子トイレに入ってしまった女性に対する驚きと、照れ隠しと、少しの好奇心で構成されたおじさん的な気遣いのように映ったのだろう。しかし今の僕にそんな余裕はなく、自分が今から襲われるのかもしれないという恐ろしさで一杯になって、そこから慌てて逃げ出すことしかできなかった。


 反対側にあったピンク色のマークが目に入った。それは女性トイレであることを示すアイコンだった。僕は手洗い場に立つ自分を見て一目散に踵を返していった男のことを思い出した。あのときは慌てふためく男性たちにおかしみを感じていたはずなのに、今や彼らのことが滑稽だとはどうしても思えなかった。


 恐怖は尿意を加速させた。だが後ろを振り返れば青色のマークがある。その奥に立ち入ることは僕にはできなかった。じゃあ、と次に僕は狂ったようなことを考えた。目の前にあったピンク色のマークを凝視して、しばらく地蔵のように固まったのち、その奥からワンピース姿の若い女性が出てきたことで、我を取り戻した。ピンクの縄張りに一歩だけ侵入していたことで女性から怪訝な目を向けられて、僕は震えだした手足を押さえつけようとするように、無我夢中で踵を返していった。


 どこにも居場所がないように感じた。生理的欲求を満たすことさえ躊躇われる現状に、耐えがたい惨めさまで感じた。自分の力で排泄できなくなった老人はこんな思いをしているのだろうか、とまで考えて、僕はそうではない、物理的に排泄することのできない彼らとは違って、僕は意志だ、排泄するという意志の力を奪われているのだと、むしろ老人たちより残酷に惨めな感じがして、さらに気分が重くなった。


 痴漢されたばかりの頃の、むきになって健康的な生活を続けていた僕はどこへ行ってしまったのか、不断の努力もむなしく日常は変わっていった。食事も喉を通らなくなって、僕の行動は日を追うごとに変化していった。賭けには負け続けた。少しずつ、見えない力で引っ張られて、やがて僕は女になっていった。外見だけではなく、中身までが女のようになっていったのだ。


 今までに見えていた景色と違うような感じがあった。こんなところに店があったのかと新たな発見をするかのように、よく観察するとあの看板の裏には人ひとりぶん隠れられるスペースがあっただとか、そこから急に暴漢が飛び出してきて襲われたらまず逃げられないだとか、そういったことばかり考えながら歩いていて、気が付いたときにはもう、僕は地雷原のなかに放り込まれたように周囲を警戒する癖がついていた。


 暗い道が恐ろしくなった。混み合う車両は避けるようになった。優先席に腰掛ける必要のない自身を優先する人間から距離を置くために、色の異なるその座席には近寄らなくなった。容姿どころか、行動までもが女のようになっていった。


 世の女性たちはただ生きるというだけで、こんなにも多くのことを考慮しているのか。男の僕には知ることができなかった苦労を知った。これは特権だ。そう思った。男という特権集団に属しているからこそ得られた特権。これまでの僕は、自分の身を守るために日常的に何かをやっていることなんてなかった。


 戸締りや施錠は一度でも確認できれば十分だったし、帰り道にイヤホンを着けて好きな音楽を聴くのが楽しくて仕方なかった。僕は知らず知らずのうちに「自衛を考えない」という恩恵を享受し、労せずして他の集団に対する優位性を獲得していた。皮肉にも僕は、他者による勝手な定義づけが生み出した痴漢というおぞましい行為によって、それを知ったのだった。


 確立していたはずの僕が他人の介入により混濁していって、僕は僕が何なのかわからなくなった。だが、それでも、僕は男であるはずだった。女のように夜道を回避し、周囲に注意を払い、危機意識を強めていたとしても、僕は男であるはずだった。この二十年でこびりついた性自認は、簡単には拭い去れない。だから、だからこそ、僕が女性専用車両に乗ることができないのは、当たり前のことだった。僕が女子トイレで用を足すことができないのは、当たり前のことだったのだ。


 そして僕はついに綱渡りのような心理状態に限界を感じて、その決断をした。美容院へ行って、髪を切ってもらったのだ。逃げ出してしまえば、諦めてしまえば、折れてしまえば、居場所を生み出すこと自体は可能だった。男子トイレにも、女子トイレにも、男湯にも、女湯にも、どこにも入ることのできない現状を打破するには、これしかなかった。


 僕の髪は特別に長いというわけではなかったが、男にしては伸ばしているほうだった。それが女に見間違われる原因のひとつになっているのなら、切ってしまうより他になかった。何よりもう、他者から女であると認識されることに疲れていた。


「いいんですか?」


 美容師は言った。僕の行きつけの美容院の店長で、腕は確かだった。僕が人生で初めてパーマをかけたときからお世話になっている、頼りになる人だった。僕は綺麗に磨かれた鏡を直視しながら、僕の後ろでハサミを握っている彼女に向けて、頷いた。


「本当に?」


 美容師はまだ納得していないらしかった。鏡に映るアーモンドみたいな瞳に、困惑の色が浮かんでいる。予約もせずにふらっと来店したかと思えば、げっそりと痩せ細った常連客がいつもと違うオーダーをしてきたのだ。彼女の戸惑いも当然だろう。だが僕はししおどしのように頷き続けた。


「長めも似合ってたと思うけど。女の子みたいで可愛かったじゃない」


 確かな地雷を踏み抜かれた感覚があって、僕の鼻呼吸のリズムが乱れた。鼻孔に栓をされたような苦しさだった。しかし、それでも、僕は頷いた。


 僕の髪は短くなった。でも、あまり狙い通りにはいかなかった。理由は主に二つあって、まず僕の顔が中性的だったから、髪を切ってもそれはそれでショートカットの女性のように見えてしまうというのと、あとは美容師の腕が良かったので、思っていた以上に様になってしまっていたのだった。


 アルバイトをしているアパレルショップの同僚たちも、僕の変化に驚いていたようだった。というのも、僕が女物の服を着て出勤しなくなったのだった。男物のブルゾン、男物の白Tシャツ、男物のジーンズ、いくら顔面の造形が中性的だからといって、これだけメンズファッションで自身を飾ってしまえば女だと見間違う人はいない。自然と僕にサイズのことを質問してくる女性客はいなくなった。


 だが、僕の中に残っていた心のしこりのようなものだけは、どうしても拭えなかった。自分のそととなかに乖離を感じていたのは以前からだったが、それは他者の視線と自分自身の間にある距離だった。しかし今は、自身の外見と自身の行動の間にある乖離が気になって仕方ない。男物の服を身に纏っているのに、未だに女のような行動を続けてしまうのだ。そして何より、いくら賭けに出てみても、痴漢されたことに対するトラウマを消し去ることができなかった。


 フェミニンな恰好をしている自分がいちばん好きだったのに、自分を守るために、自分の居場所を社会から担保してもらうために、それを捨ててしまった。他者からの無遠慮な介入のせいで自身を歪めざるを得なかったという事実が、僕のプライドを深く傷つけた。そればかりか、そうやって自己を破壊してまで掴み取った世界の中でも苦しまなくてはならない現実に、暗澹たる思いがした。


「ねえ、大丈夫?」


「えっ」


「だから、ぼうっと突っ立って大丈夫って。最近、元気ないよね。何かあったの?」


 そんなとき、僕に声をかけてくれた人がいた。僕にはまだ微かな希望が残されていて、それが今まさに僕の目の前に立っている鎌形さんだった。僕にはもうひとつ掛け持ちでやっているアルバイトがあって、衣料品の着荷や仕分けなどを行う倉庫で働いていた。鎌形さんは僕の先輩にあたる人だ。


 彼女は僕より歳が上で、もう少しで三十に差し掛かる女性が放つ独特な色香を持っていた。でも背が低いのと童顔であるのが影響して、大人びているというよりは可愛らしいという言葉が似合う人だった。目はくっきりとしていて大きいのに、笑うと猫みたいに細くなるのが不思議で、僕は彼女のことをとても魅力的な女性だと思っていた。


 いや、何でもないです、と目を逸らす僕を見て、鎌形さんは優しげに、そっか、休憩までもうちょっとだからがんばろうね、と僕の肩をぽんと叩きながら言ってくれた。その柔らかい感触と、この倉庫で労働に勤しんでいることが、僕の最後の希望だった。


 ここでは僕は男でしかなかった。取り扱う仕事の内容上ダンボールに直接触れることが多く、すぐに服が汚れてしまうので簡素なものしか着られなかったのだ。だからこの場所では、初めから誰もが僕のことを男として認識していた。周囲の人間との間に乖離が存在しない、まさに砂漠の中のオアシスだった。それに、着荷作業には力を要する仕事が多い。そんなとき、パートの女性が多いこの職場において、僕のような若い男は重宝される。男性職員が少ないから、男子トイレにも気楽に入ることができる。自分のそととなかが繋がっている、まさに僕の望んだ過ごしやすい居場所だった。


 でも、その安息の場において、もうひとつある僕の望みが叶うことはないようだった。鎌形さんは既婚者だった。それどころか保育園に通わせている子供がいるという話だった。彼女の薬指に指輪はなかったが、同僚の中年女性と子育てについて語っている鎌形さんは、僕からすれば十分に母親然としていた。


 好き嫌いが出始めて大変なんです、私の息子も昔はそうだったわよ、どうやって克服させたんですか、それはね鎌ちゃん、なんて、母親歴十数年のベテランから教えを授けられている彼女の目は、きらきらと輝いていた。僕はその光を目にするたび、嫉妬心にあてられたみたいにその場から立ち去るのだった。


 ただ今は、その彼女に対するもどかしい、やりきれない気持ちが、僕を救ってくれていた。なぜなら彼女に恋心を燃やしているとき、僕は確かに男だったからだ。その華奢な肢体を抱きしめたい、仮に人妻であったとしても構わない、すべてを押し倒し、あるいは組み伏せられたい、そんな僕の留まるところを知らない性欲は、失われつつあった僕に他ならなかった。


 僕は鎌形さんの車のリアウインドウに貼られていた赤ちゃんのステッカーを目にしたことで、ウェルテル的な絶望を味わった。その黒のミニバンは、小柄で可憐な彼女にはあまり似合っていなかった。服に着られるというか、車のハンドルが冬虫夏草のように彼女を操って、自身をまだ見ぬ旅先へ運ばせているような気さえする。普段はそこに夫が乗って然るべき家族を為しているのだろうと思うたび、僕のなかにある僕はひりついた。


 僕が鎌形さんのことを慕っていたのは、最初に仕事を教えてくれた先輩だったからというのもあった。そもそも彼女のことを意識し始めたのは、いつ何を聞いても優しく答えてくれる、意外と頼りがいのある部分に気付いたことがきっかけだったかもしれない。でもそれは残酷なことだった。僕が鎌形さん、鎌形さんと熱のこもった声で呼ぶとき、僕は鎌形さんという一人の女性を呼ぶのと同時に、鎌形さんの奥にいる顔も知らない男の影のこともまた呼んでいるのだ。夫婦別姓であれば起き得ない不幸だった。


 僕は来る日も来る日も鎌形さんに心を焦がして、その感情に潜む僕のなかの男を意識した――ところが、その苦しい状況は意外にも早く終わりを迎えることになった。ある日、鎌形さんがひどく落ち込んだ表情をしていたのだ。彼女がいつもと比べて元気がないことに、僕だけが気が付いたようだった。


 きっとそれは僕がいちばん彼女のことをよく見ていたからで、以前、同じように鎌形さんから声を掛けてきてくれたこともあったと思い出しながら、僕は何かあったのかと問いかけた。鎌形さんは悩んだ素振りを見せたあと、小声で答えた。誰にも相談できないことだから他の人には秘密、と念押ししながら。


「夫が、警察から事情聴取を受けているの。……電車で、女子高生に痴漢したって」


 その恐ろしい偶然に、僕は天と地がひっくり返ったような眩暈に襲われた。鎌形さんは顔面を蒼白にした僕を放って、彼女自身もまた美麗な面立ちを青白くさせながら、次々と起きたことを話した。それはまるでダムが決壊したような勢いで、今まで誰にも打ち明けられなかった彼女の不安が一気に雪崩れ込んでくるのを感じた。


 突然、警察から電話が掛かってきたこと。夫の焦った様子を見て、受話器の向こうにいる役人が正義であると悟ったこと。それを皮切りに夫との間で口論が絶えなくなったこと。幼い子供が両親の不和を察知して泣き止まなくなってしまったこと。このままでは子供の教育にも影響が出るから、離婚も視野に入れていること。


 すべて、第三者である僕が知っていい量では到底ないほどにすべてを知り得て、鎌形さんの個人的な事情に足を踏み入れてしまった僕にできたのは、ただひとつ、僕と同じように拠り所を失って、そして唯一残った僕の拠り所でもある彼女を支えることだった。


「何でも言ってください」


 僕は言った。


「何でもやります」


 それから僕と鎌形さんの秘密の関係が始まった。これまでより二人きりで過ごすことが格段に増えた。少しでも彼女の不安を取り除いてあげたいと思ったから、仕事中はできるだけ近くにいられるよう努めた。


 話を聞いて、ときには電話もして、彼女の心を独りにさせるようなことは、絶対にしなかった。それが効いたのか、数週間も経つころには鎌形さんの精神的なパニックは寛解していて、徐々に落ち着きを取り戻していた。


「ありがとう」


 彼女は言った。


「君がいてくれて本当に良かった」


 電話越しの声は涙ぐんでいて、それが形式的な謝辞でないことが伝わってきた。僕は思った。僕の最後の希望が鎌形さんだったように、鎌形さんにとっての最後の希望も、きっとそうだったのだろう。自分の胸が高鳴るのがわかった。彼女に想いを伝えたい、すべて告白して楽になってしまいたい、その暴徒的な欲求が僕の自制心をかき乱した。


 でも――僕は踏みとどまった。まだ言えない。彼女の問題に片が付いてからでなくては、僕が他の社会的な何かに流されていくのを堰き止めてくれた鎌形さんに申し訳が立たない。男女など関係なしに、僕は誇れる人でありたかった。あのような獣ではなく、立派な雄に。


 そして、その日は来た。鎌形さんがお礼をしたいと言って、休日に二人で出掛けることになったのだ。僕は痴漢に遭う前のようにお洒落をして行った。男物の服はひとつもなかった。自分が想いを寄せている人に嘘で固められた姿を見せることだけはどうしてもできなくて、今日だけは、と思ったのだ。鎌形さんにこういう恰好をしている僕を見せるのは初めてだった。やはり見る人が見れば「お姉さん」と声を掛けてしまうような姿をしている。僕は怯えながら駅まで歩いて、怯えながら電車に乗って、怯えながらまた歩いた。


 約束していた場所にあとから車に乗ってやって来た鎌形さんは、僕を一目見て、元から大きい瞳をさらに大きくさせた。そして、固く縛られていた紐が緩んだような表情で、


「すごく、似合ってる」


 そう言った。そのとき、僕はほんの少しだけ、背負っていたものから解放されたような気がした。多分、嬉しかったのだと思う。女物の服を身に纏った自分を開示して、つまりは居場所を確保するために自分を曲げて社会に迎合した姿ではなく、本当の自分をあらわにして、それで鎌形さんの肯定を得られたことが、僕も胸をなでおろすみたいに嬉しかったのだ。それから二人で映画を観たり、ショッピングをしたりして、ともにディナーを食べたあと、鎌形さんは憑き物が落ちたような顔で、言った。


「調停、終わったよ」


「そうですか、良かった……長かったですね」


「本当に。私一人じゃ耐えられなかった。君のおかげ」


「僕は別に、何も」


「そんなことない。支えてもらえて、すごく助かったの。だから今日はたくさん食べて」


「お子さんは、どうされるんですか」


「私が育てる。そこまで心配してくれるんだ。もう、どこまで優しいの、君は」


 これじゃお礼し足りないね、鎌形さんはそう言って、その次に、どうしてそこまでしてくれるの、と僕が辛うじて聞き取れるくらいの小さな声で、囁いた。彼女は、大人だった。ここまでお膳立てされたらもう、素直な気持ちを伝えないわけにはいかなかった。


「嬉しい」


 鎌形さんはにっこりと微笑んで、今日、子供は実家に預けていると言った。


 僕たちはガレージ型のホテルに移動した。でも僕にはまだ、やるべきことがあった。自分の秘密を打ち明けなくてはならなかった。彼女に見せた自分は、見た目だけは本当だったのかもしれないが、それでも今の僕は、男という存在や認識の乖離という不純物に怯えながら日々を暮らしている歪んだ存在だ。そのために僕の中身は、およそ本当であるとは言えないはずだった。だから僕は鎌形さんに真実を伝える必要があった。今の僕は偽物であるのかもしれないと、真摯に告白しなければならないと思ったのだ。


 僕は以前に痴漢に遭ったことを話した。それから毎日の行動が変化して、しまいには思考傾向まで飲み込まれて、まるで女のような意識の使い方をするようになってしまったということまで話した。ゆっくりと話す僕の声は震えていたと思う。ところが僕の勝手な心配をよそに、鎌形さんは驚きながらも、僕の体をぎゅっと抱きしめてくれた。


 つらかったね、がんばったね、と頭を撫でる彼女の胸からは、心臓のとくとくという音が聞こえてきた。それから僕は想いの昂るままに、ベッドの上で彼女を抱きしめ返した。鎌形さんはそんな僕を受け入れてくれて、僕は自身を武装する一切をかなぐり捨てた。


「鎌形さん、僕は、どうすればいいのでしょうか」


「ううん、そうだな、ちょっと難しいけど」


 鎌形さんは、とろんとした目で言った。


「私は君と初めて会ったとき、君のことを男の子だと思ったけど、今日みたいにお洒落をした君は女の子みたいに可愛くて、でもこうして裸になると、結構筋肉があって、意外と男らしいよね。えっと、やっぱり難しいけど、あくまで君は君、じゃだめなのかな」


「あくまで君は君、というのは……」


「男の子みたいなところも女の子みたいなところも私は好きだし、何よりそうやって悩んでいる優しい君が、人として好き。男とか、女とか、何だかもう、うんざりじゃない」


 ああ、鎌形さんも同じだったのだと、僕は理解した。だが彼女がそう思うのも当然で、鎌形さんは女子高生に欲情した夫に振り回されたあげく、今やひとりで小さな子供を育てていかなければならないシングルマザーになってしまったのだ。男とか、女とか、そういう社会的な観念に鎌形さんが辟易してしまうのは、何もおかしなことではなかった。


 それに、彼女の言葉を聞いた途端、僕のこれまでの憂鬱は見る見るうちに晴れていくような感じがしていた。それこそ、跡形もないくらいに。僕の瞳孔が開いて、そこから光が入って、僕のなかで太陽が生まれたようだった。そこには、抜けるような青空があった。


 僕は鎌形さんのことを抱いていた。その体に、その仕草に、その表情に、女性としての魅力を感じていないといえば嘘になる。でも彼女は、僕のことが人として好きだと言った。そこに周囲の自己解釈に満ちたレッテルは介在し得なかった。他者の視点から第三者の思考が混入した偽物の自分ではなく、本当の、純然たる存在としての僕。


 そして今この瞬間、僕は鎌形さんを抱く雄になっていた。社会に決められた近代的な男でも、勝手に定義づけされた女でもなかった。きわめて生物的な、雄である人としての生まれたままの僕が、鎌形さんの唇を塞ぎ、乳房を愛撫し、肌に触れていたのだ。


 男女の概念とはなんて無力なものだろう。身に付ける服や、その日その日に取る行動、選ぶ店で、容易に移り変わる。判断の基準がぶれてしまう。あまりに儚い。確かに信用できるのは、鎌形さんの言う通り人として実際にある僕だけで、もっと言えば、僕が僕たる根源である意識そのものだった。


 僕という意識があって、僕という人間が、今ここにある。誰かに決められたわけでもない。そして、その僕が鎌形さんに触れている。鎌形さんはそんな僕を好きだと言ってくれる。この原始的なやり取りは、冷え込んでいた心に火が灯ったみたいに、暖かい。


 私は私である。その言説が、きちんとトートロジーになっていく。それが心地いい。


 仮に次また痴漢に遭ったとしても、僕はもう動揺することはないだろう。何故なら僕は既に雄という側面を持っただけの人であり、男や女などという世界よりもさらに具体的で絶対的な次元に立っているからだ。僕のことを女としてしか見ることのできない哀れな人の手を、きっと僕は強く掴み、握り締め、駅員に突き出すのだろう。


 たとえ痴漢されようが、女と思われようが、男と思われようが、僕は人でしかない。つまりはそう、僕が痴漢に遭ったことは、法的には間違いではあるが、男女という区分の消えた世界の文脈においては間違いではない。僕が、人に、触れられ、人が、人を、辱めたのである。


 僕は鎌形さんという女性を愛している。そこは認めるしかなかった。二千年以上もの長い間、男女という概念は使われ続けてきた。きっとそれは、我々の内なる性欲を説明するのに、あまりにも便利だったからだろう。ある程度のことは仕方ない、そんな諦念が、どこかにあった。


 だが僕は鎌形さんという人をも、確かに愛していたのだ。僕という人が、鎌形さんという人を。我思う故に我あり、デカルトは言った。この世すべてが偽物だったとして、今この瞬間に思考を紡いでいる自分自身だけは本物でなくてはならない。だから、ここにいる私は真実なのである。ここにいる僕、人々を飾り付けカテゴライズする衣服を脱ぎ去って、社会的な男性性や女性性から解き放たれた僕だけは、真実なのだ。今の僕にはもう、それでいいような気がした――服を脱いで、裸になって、ホテルの室内に散乱した衣たちの上にいる今の僕には、もう。


 それから何時間か、僕たちはお互いのことを知り合ったあと、一緒になってシャワーを浴びて、服を着て、帰り支度を整えた。部屋を出て階段を下りた先には、来たときと変わらない黒々としたミニバンが静かに佇んでいた。行きは酒が飲めない鎌形さんが運転したから、帰りは僕がすることになっていた。


「お酒、まだ抜けてないんじゃない」


「大丈夫です」


 その家族向けの車は、確かに鎌形さんが運転していたものだった。小柄な彼女は、いつも少しだけ腕を伸ばし気味に、無理をして遠くにあるハンドルを握っていた。小動物が戦車を操作するような光景は印象的で、その可愛らしい姿に潜む男の影に心を焼いていたのも相まって、よく覚えている。


 しかし今は、その顔も知らない男が座っていた運転席に、僕が腰掛けていた。隣では、いつの間にかシートベルトをきちっと締めた鎌形さんがこちらを見ていた。


「僕、ミニバンは初めてなんですが」


「大丈夫だよ」


 意趣返しとでも言うように、鎌形さんはいたずらっぽい表情をする。僕はもう言い返せなくて、仕方なく前へ向き直った。


 慣れない手つきでシフトレバーをドライブに変え、サイドブレーキを下ろし、恐々とフットブレーキから足を離すと、クリープ現象が二人を前に押し出して、ゆっくり、ゆっくりと、ガレージから車が這い出るようにして、一種の聖域から俗世間へと戻っていく。


 フロントガラスに光が差し込んで、ウインカーとハンドルの経験したことのない感触にちょっとした眩暈を覚えながら車道に乗り出すと、視界の端で鎌形さんが薄く微笑んだのがわかって、僕は口元を緩めて笑い返すのと同時に、その後朝にとりとめのない希望を垣間見た。

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