「なるほど、これは難しい」と思った言葉
私は、金田一耕助シリーズの『獄門島』の再放送を、散々何度も視聴させられながら育った世代です。
最近視聴した推理ものの映像作品で、どうやら原作から改変されたらしい箇所がある事に気付きました。
いわゆる“Why done it?(動機)”が、原作と違っていたんですね。
尺の問題とか他にも理由があるかもしれませんが、おそらくはコンプライアンス上の問題だろうかと推測いたしました。
字義通りなら、コンプライアンスとは「法令遵守」ですが、もうちょっと緩くて公序良俗に反しない、もっと言えば倫理上の問題で変えざるを得なかったのではないかな…と?
正直に言ってしまえば、推理ものっていうのは少なからず殺人事件とか殺人未遂事件とかを扱いますので、「人を殺そう!」などという行為が軽々な理由によるものであって良いはずがなく、その部分を改変するというのは、逆にちょっと怖く感じてしまいました。
模倣とか集団ヒステリー的な連鎖反応を防ぎたいとか、ちゃんと理由はあると思いますが、トリックや結果だけ同じで、理由の部分が軽くなる推理を聞かされ、そして知らなければ納得してしまう人達が現れる訳です。
うがった言い方をするならば、原作を知っている読者からしてみれば「本当の真実は闇の中」、真実を隠蔽した上で事を収めてしまったというオチでもあった訳です。
そういう作品もあるから、喜ぶ人もいるのかな?
自分的にはなんともモヤッとした改変でしたが、昨今の放送事情を鑑みますに、致し方ない事だとも理解しております。
こんな事があって、ふと思い出したのが、「発狂」とか「気狂い」という言葉にまつわる偏見と誤解です。
小説やコミックの中で使うのならいざ知らず、どちらも放送出来ない、禁止用語で間違いないと認識しております。
色々あるのですが、ネット上のソースでWeblio古語辞典にある、万葉集の引用で「狂れたる醜つ翁」というのがあります。
Weblioの解説の通りなら「気が狂った醜い老人」と、現代語訳が行われている。
おそらく、こういう物がソースになっているのでしょう、痴呆の歴史について調べていると「古くは万葉集の中にも記載があり…」という旨が述べられている論文が見付かります。
論文名を挙げるのは差し控えてしまいますが、どうやらこの種の誤解は昔からあったらしい事が分かってまいります。
該当する万葉集の歌というのは、大伴家持という人が、気に入っていた鷹狩りに使う大黒という鷹が逃げてしまって悔しい・悲しいという気持ちについて詠んだ歌で、該当する部分はつまり、鷹を逃がした年寄りの悪口が書いてあっただけなのです(「放逸せし鷹を思ひ、夢に見て感悦して作る歌一首 并せて短歌」)。
意味するところは、「間抜けなろくでなし」(高岡市万葉歴史館ブログより)。
えらい違いです。
この人物が、貴族に仕える身分の低い鷹匠に当たる人なのか、それとも実は身分のそれなりにある貴族だったのか、そういう事は分かりません。
ところが、私が見た論文では痴呆症が疑われる鷹師(鷹匠達をまとめる責任者)という事になって紹介されている。
おそらく、身分の低い人だとは思うのですが?
──昔から、日本に限らず外国の文献の中でも、古くからある有名な文献を引き合いに出してきて、微妙な解釈を被せる人達というのはいる。単純な勘違い、勉強不足、当時の解釈、悪意あるイタズラ、私は鷹関係の書物でこういう物が結構な数ある事を知っている。正直、「どうしてこうなった!」と叫びたくなるくらい。
さて、「発狂」という言葉なのです。
コトバンクで調べると、「きちがい」と同義であると説明されています。
つまり、この2つの言葉は、混同される事があってもいい言葉らしいのです。
子供の頃、「発狂」という言葉は、ショープロレスの実況や子供同士のケンカ(プロレスの影響だわな?)で、よく耳にしました。
意味するところは、「怒った!」「切れた!」です。
そんなに難しい内容は含まれていません。
悪役レスラーが凶器攻撃を開始する際に、「発狂」と実況されました。
50も過ぎた年寄りの幼年時代は、そんな感じだったのです。
小学校に上がる前から、そんな言葉がテレビのスイッチを入れると垂れ流されておりました。
次に、「発狂」という言葉を耳にしたのは、私が高校生の頃で、現代文の授業の中でした。
おそらく、Wikipediaあたりを調べてもらえば見付かると思いますが、有名な小説家の芥川龍之介という人は、お母さんが「発狂」という状態に成り、龍之介は自分もそう成るのではないかと生涯恐れた(そういう事もあって、数々の文学作品を残した?)という内容で授業があったのです。
ただし、当時はインターネットも無い時代で、この「発狂」の内容がどういう物であったか、当の現国教師にも分かっておらず、教科書にも書いてない。
今なら、何らかの精神疾患について「発狂」という言葉が当てられていたらしい事が、簡単にインターネットで調べる事が出来てしまう訳ですが、当時の高校生には荷が重いどころではありませんでした。
よ~く見渡せば、他の文豪達の作品の中にもそれらしい言葉は見付かるものの、しかし子供の頃にテレビのプロレスで見聞きした「発狂」とは違うんじゃないかとフワッと臭う…そんな感じの謎ワードが「発狂」でした。
ここまで、いったんまとめると、「発狂」というのは痴呆症の事であったり精神疾患の事であったり、ただの感情的な激高(おそらく暴力的な行為を伴う)でした。
ここにさらに、「きちがい」という言葉の解釈を加えます。
こちらのイメージも、実はフワッとしており、内容がまとまりづらい。
今どきなら、「頭のおかしい人」と言い換えたりする様ですが,逆にその所為でより一層誤解が付きまといます。
「きちがい」というのは「言葉狩り」の対象になった言葉で、私にとっては有名作品である『獄門島』がテレビで放送されなくなった理由だと理解しております。
つまり、作中で「きちがい」と呼ばれる人が登場しているというんですね。
「これこそが誤解と偏見を助長する」という物だと思ったその人物の登場するパート、(私がよく視聴したのは市川崑監督作品です。まあ、鉄板ですね!)それっぽい行動や言動を女優さんが演じております。
当たり前なのですが、その女優さんが心を病んでいるはずもなく、ぶっちゃけ、それらしく台詞を吐いて演技指導の通りに振る舞っているだけですから、隠しきれない健常者の臭いしかしない。
個人の感想ですが、せいぜいがとこ、多動の人とか(これだって偏見かも)、宗教に入れあげている人というか、それくらいの印象しか受けません。
作中の紹介の仕方だと、生まれつき、つまり先天的にそんな感じだったという事になっている。
──こういうのも、「偏見や差別を助長する」とされた原因なのだと思う。
「普通の人」がそう呼ばれる事があっても、区別が出来ないのです。
さらに加えて、「きちがい」という言葉には、マニアとか愛好家、好事家という意味で使われる場合があります。
有名なマンガで、『釣りキチ三平』『野球狂の詩』なんかが例に挙げられると思います。
今どきなら、「好きすぎて頭がおかしい」とでも表現するんでしょうが、昔は病みつきな趣味の人たちに「きちがい」が使われたのです。
もちろん、精神疾患でもなければ、痴呆症の患者のことでもありません。
生まれつきなんて論外ですね。
マニアという言葉には、偏見と誤解しか生まない妙な使い方があります。
「色情狂」というのがあります。
これ、精神医学の分野で「マニア」と付いているのは、通常では考えられない独特な異常行動を伴う方達に適応される病名で、歴とした脳の病気です。
ところが、R18的なワードとして、性行為が好きな人たちやハードであったりアブノーマルなプレイを好む人たちに対して、「色情狂」が当てられる事がある。
本当に病気で心療内科に通っている人たちにしてみれば、たまったものではありません。
結論、今どき「狂」の使われている言葉というのは、含意が広すぎて「偏見や差別を助長してしまう」として、迂闊に使う事の出来なくなってしまった言葉なのです。
そらあ、消えて無くなる訳です。
しかし….
あの改変は、何が理由だったんでしょう?
参考文献の出典は、本文中に書いてるから分かるかな?
いえ、ある医学論文の間違いについては、指摘しないよ。
本当は、論文は論文によって否定されるべきです。
っていうか、昔は保健所とか県庁とかのHPで、こういう事書いてあった時代がありましたが、今では探しても見付かりません。
ネットで探すと、過去の論文だけが見付かったりしますが、たぶん、もうこの話も時代の向こうに過ぎ去った話題なのかなと思っております。