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かつて恋人だった私たち  作者: 橘霧子
7/11

7.(過去という名の棘)

「俺は、それは好きじゃない」

「なんで、そんなことを言うの?常識を疑うよ」


その二つがヘンリーの口癖だった。

どんなに楽しい時を過ごそうと、ふとしたことでこの言葉が出ると、二人の間の空気がす、と冷えるのをいつもマリアは感じていた。


「ごめんなさい。気をつけるわ」

「いいんだよ。誰だって間違えるんだから。反省できるのはいいことさ」


楽しい時間を守るため。マリアが折れるのが、自然の流れ。

そうすれば、ヘンリーの機嫌はすぐによくなって、笑顔になった。


些細な言葉遣い。

マリアの振る舞いから、身だしなみ。

マリアの選ぶ話題。

様々なことを、ヘンリーの好みに変えていった。そうしなければ、ヘンリーが不機嫌になるから。


自発的に。

まるで師に教えを乞う生徒のように。何が正解であるかを、ヘンリーの顔色をうかがいながら手探りで見つけていった。


ヘンリーは楽しい人。人生の喜びを教えてくれる人。

その楽しい時間を壊してしまうのは、自分が無粋な人間だから。


彼が長々と自分に不満を言うのは、自分が世間知らずで、頭でっかちで、社会に必要な常識に欠けるからだ。

自分が悪い。

努力と反省が必要。


もっと、彼にふさわしい女性になるために。





若い頃の話だ。

マリアにとって、ヘンリーは初めてできた恋人だった。

いつも流行の装いで仲間を侍らせ、男女入り乱れながら酒を片手に、からからと笑う一団の中心にいたのがヘンリーだった。


社交界でも異性に性的な隙を見せぬ装いで、社会情勢や今後の展望などといった堅苦しいことばかり話題にして煙たがられているマリアとは、まさにこの世の春と冬。正反対の人種のようで、ひたすら眩しかった。


若い頃のマリアは、自他共に認める野暮ったい娘で、自分は決して明るい場所に出ることはないだろうと、壁際からそっと彼らを眺めるだけだった。


憧れはある。あんな風に自由に着飾ったら。振る舞えたら。何かが変わりそうな気がした。


部屋にこもり、化粧を真似たことがある。

いつもより濃い口紅と、くっきりと引いたアイライン。初めてマスカラを試してみて、がっかりした。


なんという不恰好。鏡に移った姿は、けばけばしいだけで、全く似合っていない。慌てて化粧落としを顔中に塗りたくり、ゴシゴシとこすり落とした。

テラテラと光る顔をティッシュペーパーで乱暴にぬぐい、次々にゴミ箱に捨てていく。

ヒリつく顔でもう一度鏡を覗けば、いつもの色気も飾りっ気もない自分の姿があった。


ほんのりと期待していただけに、余計にみじめだった。

なぜ、化粧ひとつで変われるなどと、夢をみてしまったのだろう。


――馬鹿なことをした。二度と、こんな恥ずかしいことはしない。


このことは心の奥底にそっと封印した。


そんな自分に、ヘンリーが声をかけてくれた。それだけでマリアが舞い上がってしまうのには充分だった。




恋愛慣れしているのか、ヘンリーはマリアにとても優しかった。マリアのつまらない話にも耳を傾け、時間をかけて向き合ってくれた。普段付き合いのある女性たちは単なる友人と言いきり、他に恋人を作ることもなかった。


学生のマリアと、すでに社会に出て働いているヘンリーとでは、二人で過ごす時間を作るのも一苦労だったが、そうしたお互いの歩み寄りにマリアは幸せを感じた。

忙しいのに、私のためにわざわざ時間を作ってくれるんだわ――まさかほとんど仕事をしていないなどとは思いもせず――特別な人の特別になれたことに胸を熱くした。


ヘンリーはマリアの知らない世界をたくさん教えてくれた。

今まで行ったことのない場所に行き、会ったこともない人と会う。

デートではお姫様のような扱いをされ、夢見心地で初めてのキスをした。


恋する気持ちは、まるでパフェのよう。

とろけるほど甘く、柔らかく、色とりどりのフルーツは絶妙な酸味があり、ふわふわのクリームと冷たいアイスが混じり合う複雑な味わいが、舞い上がりながらも常に試行錯誤に悩むマリアにぴったりだ。




大学の友人たちも、気づかなかったわけではない。

エルネストもキーラも、マリアのプライベートに踏み込みはしないものの、心配する言葉を何度とかけていた。

ヘンリーの派手な交遊関係と、その割に知られていない職業と、どことなくマリアを都合よく操作しているような態度は、友人には不安要素でしかなかった。

本人が「大丈夫」と言うのだから、それ以上の干渉は謹んでいたが。


もしマリアの素行が著しく悪化したり、ヘンリーにたかられるようなことになっていたら、いつでもヘンリーに直接物申す覚悟はしていたのだ。

意外にも、ヘンリーが表向き紳士的だったため、一度もそんなことにならなかった。それにはエルネストもキーラも、いまだに悔しい思いをしている。





あの頃のマリアは、恋人に尽くし、恋人の要求に応えることが幸せだった。

見返りなど求めない。

それは恥ずかしいこと。

そう、ヘンリーが言ったのだから。


本当に、これでいいの?――そんな心の声を、マリアは必死に打ち消した。


ヘンリーが与えたものは、なんだろう?

「楽しい時間」と、恋に夢見るマリアは言うけれど。

そのために押し曲げられたマリアの言葉は、気持ちは、どうすればいいの?


心がざわつく度、マリアは必死に打ち消し続けた。


短いですが、4月26日投稿予定分です。


次回は二週間後の水曜日を目指しますので、よろしくお願いします。


このお話は、現在と過去の二重構造になります。

現在のシーンは15枚程度、過去のシーンは10枚程度で考えています。

(短いなら、期限内に書けよって話なんですが…)


体験談を使用した時は、活動報告に書きますので、気になった方はそちらをご覧ください。

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