4.
ヘンリーたちが馬車を使わなかったので、トマスはマリアのために、馬車の座席にフカフカのクッションを敷き詰めて待っていた。ところが、支度を終えたマリアが乗ろうとしたのは、御者台だった。
「空の馬車を二人で運ぶなんて、ちょっと間抜けじゃありませんかね?」
「だってお天気もいいのに、もったいないじゃない?」
「そういう問題じゃあないんですが……」
近頃何かと物騒だとか、名家の奥様のすることではないとか、なんとか言いくるめて、トマスはマリアを馬車に押し込んだ。
インドア派で本の虫。そのくせ好奇心旺盛で行動力もある。
本人が言うところの『性格が悪そうに見えて第一印象は最悪のつり目』は、端から見れば『美猫のような不思議な魅力』で初対面では誰もが思わず息を飲むし、普段は落ち着いた色の服装ときっちりまとめた髪形で『古風なよき妻であり厳格な女主人』に見えるが、実際は『親しみやすい無邪気な女性』。
そんなちぐはぐな性格と見た目をした主人のことを、トマスは好ましく思う。
子供の頃、内乱で家族を失ったトマスは、成人してそれが当然のように傭兵に志願した。正規兵になるために必要な、士官学校に通えなかったためだ。
傭兵はそれぞれの軍隊が臨時で雇う兵にすぎない。正規兵であれば、戦いのない時でも職を失うことはないが、傭兵は違う。
内乱とて、いつまでも続かず。やがて国全体が、緩やかでも新体制を受け入れるようになり、内乱は終結した。
必要に応じてあちこちを転々とする、トマスのような傭兵は、真っ先に職を失った。
家族の元に戻れた者はいい。しかし大半は、元から帰る場所がないから、傭兵などになるのだ。
傭兵は最低限の教養しかない者が多かった。
世の中の平穏は、傭兵にとって生きる術を失うことだった。
多くの元傭兵は、日雇いの肉体労働の職に群がって互いに奪いあった。その争いから溢れた者たちはスラムに流れ、消えていった。
死線を越えて戦場を生き抜いた実績も、平穏の世の中では無意味。そう思い知らされた。
除隊で渡された金貨もいよいよ底をつき、同時に命運も尽きた――そう己の身の上を悲観し、呆然と広場の噴水を眺めていた時だった。
トマスの目の前で、堂々とスリが行われたのだった。
考えるより早く、トマスの体はスリにタックルしていた。
被害者の令嬢は、その日お披露目されたという新しい噴水を見にきた群衆の一人で、自分がスリの被害にあっていることにも気づいていなかった。
「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ! ありがとうございます!」
文字通り飛び上がって喜ぶ人を初めて見た――と、後に仕事仲間に語ることになる、マリア・フォーブス――現、マリア・グロスターとの出会いだった。
あの日、トマスの身の上を知ったマリアは、人目も憚らずにぼろぼろと涙を流した。そして、真っ赤に泣き腫らした目を晒し、鼻をぐずぐずさせながら、トマスを雇い入れることを独断で決めた。
なんという、世間知らずな行動か。
身元調べもしていない男を家に連れ帰り、フォーブス家は騒然となったが、どう言いくるめたのか、トマスは追い出されること無く、従者の職を得ることになった。
マリアの父であるフォーブス氏が国家警察の高官で、軍とは違えどルートを持っていたのかもしれないが、実際はどうだったのか、トマスは知らない。
軍を除隊した時に、軍歴を記した証書や褒章を受け取ったが、それがどの程度の信用に値するのか、トマスには解らなかった。
少なくとも、市井の職業斡旋所では役に立たないものであったのは、確かだった。
それから20年以上。
マリアがフォーブス家の令嬢から、グロスター家の女主人となった今でも、トマスは密かに忠誠を誓っている。
「あら、あら、随分とふかふかにしてくれたのねぇ!」
トマスの用意したクッションの座り心地を確かめて、マリアは喜びの声を上げた。
「そうですよ。奥様のために用意したんですから、ちゃんと使ってくださいよ。じゃないと、俺の働き甲斐がないじゃないですか」
「ふふ。ありがとうね。じゃあ、店までお願いね」
馬車は軽やかに走り出した。
一等地にあるグロスター邸から、マリアの商会まで、数分の距離しかない。
歩いて行くこともできる距離に、細やかな気遣いをしてくれることが、マリアには嬉しかった。
トマスは大通りに面した正面玄関に馬車を停め、マリアが建物に入るのを見届けると、馬車を裏口に回して自分は通用口から入った。
マリアは気楽に『店』と呼ぶが、マリアの所有するマリア・グロスター商会の本社であるここは、個人客を相手にするいわゆる商店とは違う。
マリアが売り物にしているのは、地方と都市をつなぐ物流であり、商売人にとって必要な未知なる販路であり、いつでもどこでも提供できる多種多様な取り扱い商品であり、生産者の開拓による新たな商品の提供である。
だから、相手にしているのは商売人や商会、公共事業といった大口客だった。
通用口を守る守衛に挨拶をすると、三階に行くように言われた。
一階は主に商談スペースと従業員が詰める事務所、二階は資料や書類を置く保管庫や休憩室、三階が会議室や役員室だ。
首都に拠点を置く商会の中でも、決して規模は大きくはない。だが貴族のお墨付きがなければ許されなかった商いの世界に風穴を開けた、その功績は高く評価された。今では地方と首都の経済を繋ぐかすがいとして、無視できないほどの存在感を放っている。
トマスは商会の従業員ではないが、マリアの護衛として顔は知られている。おそらく強盗対策の話し合いで、傭兵の知識が必要なのだろうと推測した。
トマスが会議室に到着すると、役員の三人が揃い、三人三様の表情で話し合いを始めていた。
マリアを中心に、その右に外渉を担当するエルネスト・クック、左に財務管理を担当するキーラ・ブレナン、左右の役員に続いて各責任者数人が座っている。
トマスは出入り口の側に姿勢よく立った。
「あらやだ、あなたの席はこっちよ」
トマスに気づいたマリアが、自分の斜め後方に置かれた椅子を指した。
え、そこ? と、いつもの軽い調子で答えそうになるのを堪え、社会人の皮を慌ててかぶる。
「いえ、私は部外者ですので」
「何言ってるのよ、あなたはこの会社の特別警備顧問よ」
「は? 聞いておりませんが……」
「そうよね。今、決めたんですもの。いいから、こっちにいらっしゃい。時間がもったいないわ」
その場の皆の目が注がれる中、言われた通りに席に着くと、早速マリアが仕切り始めた。
「先ほどもお話した通り、彼は傭兵として長く従軍し、かつ、上位褒章を賜ったいわば軍事のプロ。昨今の治安の悪化に対して、適切なアドバイスができるのは彼以外にはいないでしょう。この店は強盗が欲しがるような商品は置いていないけど、手形や小切手の保管はしているでしょう? 警備を強化しておくべきだと思うの。しかも、彼なら仕事を任せるにしても、身辺調査は要らないわ」
「長年、社長に支える使用人ですからね。入って数年の若手従業員より、何倍も信頼できますね」
エルネストの口添えに、トマスは居心地の悪い思いになる。
自分はあくまでマリアの家の使用人で、たいした学もない。対して商会の従業員は皆大学を卒業したり、それ以上の能力を認められた選ばれた人材ばかりなのだ。
自分に好意的で、時々は飲み歩く間柄のエルネストやキーラも、マリアとは大学の同期である。
同年代だからこそ、どうしてもその差が壁に感じてしまうのだった。
「そんなに難しいことは要求しないわ。時々、必要な警備のアドバイスをして欲しいの。この店で狙われるとしたら、おそらくは小切手や手形。現金が無いわけではないけど、うちの現金を狙うくらいなら、他の店を襲った方が強盗も利益になるんじゃない?率直な意見を教えて」
「小切手や手形も、部外者が簡単に換金できる代物ではないわ」
「キーラの言う通りね。だからこそ、うちは今まで安全だったのではないかしら。その安全がいつまで続くかは解らないけど。どう? 」
話を向けられて、トマスは仕方なく自分の意見を述べることにした。
「そうですね……強盗はまず、ここに現金があまり置かれていないということを知りません。なので、いずれは襲撃に合う可能性がないとは言えません。今狙われている高級店も、どんどん警備を強化していますし、自分が強盗のリーダーなら、難易度の高い店より、油断している別の繁盛店を狙います。この建物を狙うなら、方法は二つです。小綺麗な格好で正面から入り、人質をとって現金を要求するのが一つ。逆に従業員のふりをして怪しまれないように裏口から入って制圧するのが、もう一つの方法です。私はこちらに伺うときはいつも通用口から入りますが、今の守衛がいざというときの盾になるかは疑問です。彼は人当たりはいいが、人を疑わない。私だけでなく、誰もが簡単に出入りできます。断言しますが、彼は守衛にはには向いていない。早急に対策が必要です。例えば、最近省官庁で採用された魔道探知ゲートのように、通行証を持たない者を排除するゲートを設置すれば万全ですね。まだ一般に普及していませんから、それに近い魔法を扱える者を探すのも有効です。それも無理なら、まずは守衛を腕の立つ頑丈な男に変更すべきでしょう。それなら、表と裏をすぐにでも防衛強化できます」
しん、と静まり返った会議室の様子に、話終えたトマスは慌てて「ですが、これは元傭兵の浅知恵です」と付け加えたが、時既に遅し。
明らかにただの従者に向けるのとは違う、キラキラと輝く羨望の眼差しであちこちから見つめられ、先ほどまでの堂々とした講説が嘘のように、身を小さくした。
「ね? 彼はすごいでしょ?」
マリアが皆に問うと、一様に頷いた。
「ちなみにだけど、ゲートの代わりに結界を張れる術者には心当たりがあるわ。といっても、それができるのは裏口だけね。表は不特定多数が出入りをするから、結界を張ることは難しいと思うの。だから、あなたのツテで、いい人を紹介してくれないかしら?」
「かしこまりました」
トマスはその願いに、快く頷いた。
元傭兵仲間には、用心棒の斡旋を生業にしている者も多い。気心知れた仲である以上に、信用が出来る相手だ。これ以上の斡旋元はないだろう。
「ところで社長」
トマスはあえて、社長とマリアに呼びかけた。
「社長の仰る結界の術者とは、チャールズさんのことですね?」
「あら、よく解ったわね。うちのチャールズは結界魔法の特級術者よ。彼ならこの店の手伝いによく来てもらっているし、皆も知っているから安心でしょ?」
ざわつく中に、あのチャールズさんが、と驚く言葉が聞こえた。トマス同様に、チャールズもマリアの補佐のために商会に出入りしていおり、従業員で彼を知らない者はいない。
チャールズは元々はフォーブス家に支える血筋なので、トマス以上のお墨付きを得ている。信用度は抜群だ。
「こちらも満場一致で、採用でいいかしら?」
もちろん、異を唱える者はいなかった。
「では、明日にでもこちらに来てもらいましょう」
「あの……これからでは駄目なのでしょうか?」
一人の女性責任者からの質問に、マリアは困ったように苦笑いした。
「そうしたいところなのだけど……彼には今日、特別な仕事を頼んでしまったの。ごめんなさいね」
「いえ、申し訳ありません……」
「今日の安全はトマスに任せましょ。この筋肉マッチョなら、大抵の悪者はやっつけられるわ!」
いたずらっ子のような表情でトマスの腕を高々と掲げるマリアに、場の雰囲気があっという間に和んだのは、言うまでもなかった。
隔週水曜に更新。次回は3月15日の予定です。
こちらはゆっくりペースです。
それでもお付き合いいただける方、よろしくお願いします。
※このお話の世界にも魔法は存在します。