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かつて恋人だった私たち  作者: 橘霧子


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13/13

13.(過去という名の棘2)

「君はトロいから、僕が管理してあげるよ」


 そんな微妙な言葉で求婚されても、その意味さえ疑わず、幸せに舞い上がっていた20代。


 花も指輪もなく、いつもどおりのデートのあと、先に自宅に送られたヘンリーが、馬車を降りるなり振り向きざまに放ったそれが、求婚の言葉と分からなかったことを、

「だから君はダメなんだ」

 と叱られ、反省とともに頷いた。


「ご覧のとおり、今は君に指輪も買ってやれないが、そんなものはただの形式美だ。結婚に必要なのは精神の繋がり。物ではない。わかるかい?」


 本当は、指輪も花も欲しかった。


 求婚されるなら、それなりの場所を用意し、落ち着いた雰囲気で、そっと指輪を出されるとか。

 驚かせるにしても、突然ひざまずいて、真摯に愛を乞うとか。


 結婚という一大イベントには、それなりの演出や覚悟が、あって然るべきでは。


「婚約指輪など、用意したところで、それが何を生み出すと言うんだ。大金はたいて買ったと言う事実だけ。つまりは物欲の塊であり、完全な自己満足だ。

 君は新時代を生きる、自立した女性を目指すのだろう? ならば、古い価値観など捨ててしまえ。物にこだわるな。必要なのは精神性さ。

 君は僕が側にいるだけでは、幸せになれないのかい?」


 そこまで言われてしまうと、たとえどんなに安い銀の指輪でもいいから、ヘンリーの愛の証が欲しいなどと、主張することはマリアにはできなかった。


 結婚に必要なのは、指輪ではなく互いの愛。


 それだけ切り取れば、ヘンリーの言葉は詭弁ではなく、むしろ崇高な思想で。


 結婚にまつわる虚飾を最大限に削ぎ落とし、最も重要な本質の部分だけを、神妙にマリアの前に差し出しているようにも見えた。


 ヘンリーの言葉を否定することは、彼の示す愛を否定する――そんなふうに思い込んでしまうほど、彼の言葉はマリアにとって重たいものだった。


 だから、マリアは婚約指輪が欲しいという言葉を、即座に飲み込んだ。飲み込んでもすぐには消化できず、いつまでも腹の中でじくじくと痛みを伴って、その存在を主張し続けたけど。

 その度にマリアは何度も何度も、ヘンリーの語る『精神性』を思い出し、痛みを中和した。







「バカ言ってんじゃないよ!」


 そう、マリアを怒鳴りつけたのは、セイラだった。

 セイラは大抵、ヘンリーのこととなると不機嫌になったが、この時ばかりはリンゴのように顔を真っ赤にし、興奮して何度も拳をテーブルに叩きつけて叫んだ。


「結婚ってのはね、儀式なんだよ! 形式美? 当たり前だろ!! しっかり手順を踏んで生涯の愛を誓う。それが形式美でなかったら、何だって言うんだ!! はなっから儀式を否定して、能書き垂れて物欲にすり替えて。

 そんなの、カッコつけて誤魔化しているだけで、ただ金を出したくない、ケチなだけじゃないかッ!!」


 当日、旧知の警備隊員と既に結婚していたセイラは、結婚の重みをマリアが理解していないように思えて、もどかしさと、怒りを拳に乗せることしかできなかった。


「あんたのその寝ぼけた頭を覚まさせてやるよ!」


 そう吐き捨てたセイラは、襟元に手を突っ込み、乱暴な仕草で、服の下に隠れていた銀色のチェーンを引っ張り出した。

 チェーンにかけられていた婚約指輪が、怒気を表すようにセイラの鼻先で激しく揺れていた。


「ご覧。あたしでさえ、ちゃんと手順を踏んで、貰うものは貰ってんだよ。

 うちのダンナは決して金持ちじゃない。警備隊なんて、給料は安いし危険な仕事だ。だからこそ、きちんと結婚しようと、精一杯奮発して買ってくれたんだよ。安物だけどさ。あたしにとっては世界でひとつの宝物さ。

 婚約指輪は単なる景気づけじゃない。生涯の愛を捧げるという、覚悟の証なんだ。

 婚約指輪で覚悟を示し、結婚指輪で生涯の愛を誓う。きちんと段階を踏むことで自覚する。

結婚するって、そういうことさ」


 セイラはチェーンを首から外すと、マリアの前にそっと差し出した。


「指輪としての価値は大したことないけど、ここにはダンナの思いが込められているのさ。ダンナが、全人生をかけてあたしを守るってね。

 その大きすぎる愛があるから、あたしはあいつを選んだんだよ。

 正直ヘンリーに、その覚悟があるとは、到底思えないね」


 セイラの毅然とした物言いに、マリアは返す言葉がなかった。


 その様子に呆れ果てたのか、セイラの眼差しから熱が消えた。

 泥の中に足を踏み入れ、身動きのできなくなった親友をただ憐れむように見つめていた。


 長い時間、かかってようやく。


「私も、本当は欲しいの。ヘンリーの愛の証が」


 絞り出すようにマリアは本音を吐き出した。


 プラチナやダイヤが欲しいのではない。

 欲しいのは、ヘンリーがマリアを生涯愛すという覚悟の証だ。

 たとえそれが錫の台座にガラスをはめた安物でも。

 ヘンリーの決意を形にしたものが欲しい。


「当たり前だ。誰だってそうさ。……本当に、あんたは賢いくせに、恋愛のこととなるとポンコツだね」







 セイラに勇気づけられて、マリアはヘンリーに思いをぶつけた。


 ならばと、ヘンリーは宝飾店にマリアを連れていき、好きなものを選べ、と、婚約指輪を選ばせた。


 そのあっさりとした様子に拍子抜けしたものの、自分の思いが通じたことが嬉しくて、マリアは喜んで指輪を選んだ。

 と言っても、ヘンリーの懐事情を考慮して、銀の台座に小さな赤いトルマリンがはめられた、手頃な品だった。


 さて会計という段になり、店員が伝票をヘンリーに差し出すと、それをそのままマリアに手渡して、こう言った。


「僕は婚約指輪は不要だと思う。だが君は必要だと考えている。だから君が買うことは許そう。

 なあに、君が払おうと、僕が払おうと、結婚したら同じ財布だ。気にすることではない」


 その突飛な論理に、店員はあんぐりと空いた口が塞がらなかった。

 だがマリアは――「確かにそうね」と、自分に贈られる婚約指輪を自分で買うことに、納得していたのだった。


 婚約指輪は愛の証。決意の現れ。


 最終的に結婚という形に収まるのであれば、用意するのはどちらでも構わないのだ、と。




過去編は短め。

さ来週も投稿できるかな?と思ったり、打ち消したりしております。

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