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かつて恋人だった私たち  作者: 橘霧子


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11/11

11.

 マリアはチャールズとメアリアンを連れ、ヘンリーが待っている彼の自室に向かった。メアリアンを呼んだのは、大人の話し合いの間、アレックスの子守りが必要だからだ。


 マリアの結婚に伴い、メアリアンはフォーブス家からグロスター家にやってきた。フォーブス家ではマリアと姉の世話係も勤め、さらに家政婦長にまでのぼりつめたベテランの上級メイドだ。マリアの二人の息子も、当然彼女が世話係と教育係を兼任していた。アレックスの子守りに、これ以上の適材はいない。


「そういえば、チャールズ。あなたに頼んだ結界は、アレックスも排除してしまうのよね?」

「左様でございます」

「それだとこの家にいる間、あの子は退屈でしょうね」

「それにつきましては、すでに客間の一室を子供部屋として開放しております」

「そう……では、メアリアン。納戸にある息子達が読んでいた本やおもちゃを届けるよう、ジャニスに伝えて」

「僭越ながら奥様、それは……」


 マリアの子供たちはすでに大学と寄宿学校に通う年齢となり、今は寮で生活をしている。

 息子達が幼い頃に使っていた物のほとんどは、貧民院や乳児院に寄付してしまった。今手元に残してあるものは、特別に思い入れがあり、手放しがたかった物だけだ。

 それは息子達の世話係をしていたメアリアンにとっても同じで、主に対して反論こそしないものの、その表情は曇っていた。


「いいのよ。本も玩具も、大事にしまっておくより、子どもが使って楽しむものだから。あの子の年齢に見合った物があればいいのだけど」

「かしこまりました……」


 チャールズがヘンリーの部屋をノックし、開け放たれたドアから三人が続いて入室した。思った通り、ヘンリーとオパール、アレックスがそこにいた。


 ムッとする酒とタバコの臭いに、思わず顔をしかめてしまう。ベッドのサイドテーブルには、ヘンリーが収集していた各地の銘酒が、すでに2本、空になっていた。飲むペースがいつもより早いのは、朝から自分の思い通りにならないことが起き、外で恥をかいたからだろう。


 マリアはメアリアンに目配せした。


 手筈通りに、メアリアンがアレックスを連れ出して、残されたヘンリーとオパールは、そのままベッドから上半身だけを起こしている。

 部屋には話し合いにうってつけのテーブルセットもあるが、二人は移動する様子はない。チャールズが椅子を運び、マリアはそこに腰をかけて対峙した。


 チャールズはマリアの左隣に立ち、会話を記録するための魔導手帳を操作し始める。

 誰も言葉を発しない沈黙の中、僅かな衣擦れの音にチャールズが目をやると、オパールがヘンリーの腕に腕を、脚に脚を絡ませ、しなだれかかっているのが目に入った。

 次に、マリアに視線を移す。マリアの黒い瞳は、真っ直ぐに身を絡めている男と女の姿を見捉えていた。そこには驚きも蔑みも、嫌悪さえ感じられない。目の前の2人の姿を撮影している機械のように、背筋を伸ばしてじっと見つめていた。


「奥様」


 記録装置の起動が済んだことを告げると、マリアはチャールズに小さく頷いた。


「準備も整ったようです。それでは今後について話し合いましょうか。チャールズは記録係としてこの場にいてもらいます」

「勝手にしろ」

「では、単刀直入に。お二人は長年、不倫関係にあったのですね? いつごろからでしょうか?」


 みっともなく声が震えたりしていない。思ったより冷静に会話している自分に、マリアは内心驚いた。


「15年くらいか?」

「そこまで長くはないわ。 せいぜい、12、3年くらいよ。付き合ってしばらくは子供もいなくて、二人であちこち旅行したじゃない。覚えていない? 冬のカツォール、夏のダータン……」

「ああ。そうだったな。思えば、随分とあちこちに行った……」

「15年も12年も、大して違いはありません。二人旅の思い出も、今は全く関係ありません。」


 マリアは記憶を辿る。

 長男は現在18才、次男は15才。子供たちはまだ幼く、何につけても手がかかったころだ。そして仕事では、大学卒業後に入社した商会での修行を終え、自ら商会を立ち上げる準備をしていたり、立ち上げたあたりとちょうど重なる。

 関係が始まった時期が15年前であろうと、12年だろうと、マリアが子育てと仕事に全力をそそぎ、頭も体もフル稼働している隙に、マリアとヘンリーは出会い、不倫関係になったのだ。


 深い、深い溜め息が出た。


 思い返せば。ちょうどその頃、ヘンリーは頻繁に地方出張に出かけていた。子供が生まれ、叔父の商会での仕事に、本腰を入れて取り組んでくれていたのかと思っていた。

 よく観察すれば、どこか気もそぞろで地に足がつかない様子に、怪しさを感じたかもしれない。忙しさに流されて、ちっとも夫のことなど見ていなかった。


 と、しおらしく考えてみたものの。


 結婚した以上、妻がいる身でよそに女を囲うのは、別問題であろう。それは個人の倫理観の欠如によるものだ。


「あなた方は、自分たちの行いが許されぬことと、理解できているのですか」


 少し剣のある言い方になってしまった。


「不倫は許されぬ事ですよ」


 オリーブはうふふ、と笑った。


「あら、出会った頃は既婚者だなんて知りませんもの。仕方ないでしょ?」

「解った時点で別れるのが、普通です」

「恋はね、頭が普通じゃないから落ちるものなのよ、奥様?」


 いちいち、小首を傾げるのが癪に障る。


「離婚しましょう」


 思いのほか、滑らかに言葉が口をついて出た。


「ヘンリー、あなたの行いは私への裏切りよ。私はあなたがどれほど人生に迷っても、支えてきたつもりだった。私は家庭を守るために必死だった。なのに」

「それだよ! それ!」


 ヘンリーは勢いよく腕を振り上げると、マリアを指さした。


「お前はいつもそうなんだ! 『私は!』『家族を支えている!』いつも『頑張っているでしょ?』って顔。誰も頼んでないだろ! 商会を作ってくれと、俺が頼んだか? 子供を産んでくれと、俺が頼んだか? 全部、お前が好きで、望んだことだろ!? 勝手に仕事をして、勝手に子供を産んだくせに、おれを蔑ろにした反省もない!」

「反省って……」


 息巻いて怒りをぶつけるヘンリーを、マリアは信じ難い思いで見つめた。黒い瞳は見開かれ、強い意志を持って引き結ばれていた唇は、ポカーンと開いていた。


 今さら、この人は何を言っているのだろう。

 マリアがいずれ商会を立ち上げるつもりでいたことは、学生の頃から話していなはずなのに。それを承知で結婚したくせに。

 大学を出て、叔父の商会での仕事に行き詰まったヘンリーを、心身ともに支えていたマリアに、「結婚してくれ」と膝を着いたのはヘンリーの方。その際、はっきり伝えたはずだ。「商会を立ち上げる準備期間だ」と。

 それでも、「結婚してくれなければ死ぬ」と、すがったのは、もちろんヘンリーだ。


 あの時、結婚を承諾しなければ、と、何度も思い、それでも何度もそれを打ち消して、家庭を維持してきた。いつか、一人の大人として、誠意と責任を持って、家族に向き合ってくれるだろうと。


 ヘンリーは結婚前に思ったような王子様ではなく、甘ったれで世間知らずで、打たれ弱かった。彼がこぼす愚痴のほとんどは、理不尽ではなく彼自身の未熟さが招いた失敗で、マリアは呆れながらも優しく受け止めた。それが良き妻の務めであると信じていたし、何しろマリア自身も若く未熟で、決してヘンリーだけを責められる立場ではないと、思っていたからだ。


 良き妻。


 誰かにそうあれと命令されたことは無い。

 しかし、挫けたヘンリーは仕事に行ったり行かなかったりで、その分をマリアが稼がなければならなかった。

 夫が満足に働けないなら、その分妻が働くもの。そう自分を奮い立たせて働いた。

 そうしなければ、だれが養ってくれるというのか。マリアは自分の務めとして、夫の分まで家計を背負ったに過ぎない。


 その全ては、ヘンリーにとってはマリアが好きでしたことになるのか……。子供のことも含めて、最初から価値観という歯車が噛み合っていなかったのだ。


「私が働かなかったら、暮らしていけなかったわ。子供だって、話し合って決めたはずよ」

「なんだよ!結局、俺が悪者かよ!」

「いいえ、人生で上手くいかない時は、お互いに支えていけばいい。でも、あなたは自立することを諦めた。それはダメだったと思うわ。ましてや、浮気なんて……」

「ほら、そうやってすぐ正論を言う!」


 ヒュン、と空気を切る音がした。

 ヘンリーが手にしていたグラスを、マリアめがけて投げつけた。酒が入ったままのグラスは、避けようとしたマリアの腕のする抜けて、腹に当たって足元に転がった。酔っ払いのくせに、コントロールはそこそこ良い。痛みはないが、グラスの中に入っていた酒は、隣にいたチャールズにかかってしまった。


「奥様」

「大丈夫よ。あなたこそ、大丈夫?」

「問題ありません」


 マリアは心配するチャールズに、なんでもないと答えた。むしろ大変なのは、酒を被ってしまったチャールズの方だ。問題ないことはないだろう。着替えの指示をチャールズが断ったので、話し合いは続行された。


 ヘンリーとマリアのやり取りを見ていたオパールが、口元に人差し指を当てて、わざとらしく微笑んだ。


「奥様、この人はね、とても傷つきやすいの。それに、男の人のプライドを傷つけるような発言は、女として良くないわ。男の人は、褒めて、おだてて、持ち上げて、気分良くならなきゃ力を発揮できないのよ?」


 小首を傾げるオパールが続ける。


「それに奥様、鏡をご覧になってる?なんて冴えない姿。なんの魅力も感じないわ。ヘンリーが浮気をしたのは、奥様がそんな野暮ったい女だからよ。男を繋ぎ止める努力をしなければダメよ。私みたいに」

「そうだ!お前が悪い!」


 オパールに同調し、ヘンリーがさけぶ。

 マリアはこれみよがしに、大きなため息をついた。

 話しが通じない。妻がどんな容姿だろうと、浮気した夫が悪いに決まっている。


 マリアは心が冷静になっていくのを感じている。心底失望すると、感情は激昂するエネルギーさえ失うのだ。


「でしたら、離婚でよろしいですね」

「は?」

「容姿がお粗末な私が悪い。オットの関心をひけない私が悪い。それでいいので、離婚しましょう。ここは私の家ですから、出ていってくださいね」

「あ、いや、それは……」


 さんざん話したのに、ヘンリーはこの家がマリアのものだと、忘れたのだろうか。今さらその事実に気づいたかのように、狼狽えはじめる。


「あなたの私物をまとめるのに、何日かかりますか? 一週間? 二週間?」

「いや、そうじゃなくて……反省だ! 俺は反省してもらいたいんだ!」

「は? 意味が解りません。二十年、あなたを支え続けた私の、なにを反省しろと?家庭を顧みず、あまつさえ愛人に子供まで産ませていた夫の行動の、どこに私の責任があると?」

「だから……それは……」

「離婚でいいですね。では、次。アレックスの話をしましょう。まずはヘンリー、あなたとの親子鑑定をしていただきます。その後、もし本当にあの子があなたの子供だったら、離婚の慰謝料に上乗せさせていただきます」

「お前…! 俺から慰謝料をとる気か!?」


 ヘンリーはベッドから身を乗り出し、わなわなと震え始めた。


「当たり前です。二十年分の私の献身を、しっかり清算させてもらいます」


 マリアは自分でも気づいている。こういうきっちりした気質が、男性には可愛くない。

 浮気され、その上隠し子までいるかもしれないというのに、夫にすがることもなく、涙一つ流すことなく、女々しく恨み言を言うことさえなく、淡々と身辺整理をしてしまう。愛人に容姿を貶されても、眉ひとつ変えることない。頑なで、岩のような固い精神を貫く女。疎まれる理由に、自分でも納得だ。


「急に家を出ろと言われても困るでしょうから、次の家が決まるまで、当家に滞在するのは構いません。ただし、あなた方の生活は、掃除洗濯炊事、全てご自分たちでなさってね。当家の使用人を使うことは禁じます。

 厨房はご自由に。使った食材の費用は請求させていただきます。その他、光熱費については…分割精算が難しいので、当家の負担とします。風呂とトイレは、アレックスのために客間を解放しましたから、そちらを使ってくださいね。

 離婚の条件については、おいおい話し合うとして…双方、離婚で合意ということで」

「ま、待て! お前、自分がなにを言っているのか、わかっているのか!? 今さら、女が一人になって、生きていけるのか? お前はもう、おばさんなんだぞ!」


 必死に妻においすがろうと、ヘンリーがベッドを転がり出る。いや、オパールを避け損ね、足を取られて転がり落ちた、と言うべきか。床に四つん這いになり、偶然にも土下座をしているような姿を晒すヘンリーを見ても、マリアは何とも思わない。

 ただの酒臭い酔っ払いが、床から起き上がることもできず、呻いている姿は滑稽だ。ただ、その笑うという感情さえ、今のマリアには失われていた。


 性感に訴えかけるような美貌も、みずみずしい若さも、それだけでは生きるために何の役にも立たない。それに、それ以上に大切な、ひとりで生きるために必要な能力や土台を、マリアは既に持っていた。


「私がおばさんだろうが、若かろうが関係ないわ。私はひとりで生きていけるもの。あなた、勘違いしていない? 女は男を気分よくさせるために存在してはいないし、別に男が居なくても生きていけるのよ?」

「だから…それはおまえが恵まれた環境で育ったから…」


 それも、今まで散々言われてきたことだ。

 高位官僚の娘だから、社会から忖度され、うまい汁を吸ってきたのだろう。でなければ、娘ひとりが商会を立ち上げることも、その後軌道に載せることも不可能だっただろう、と。


 実際、父親の社会的地位が高かったからこそ、何不自由なく育ち、多くの教養も得られた。それは間違いない。しかし、実際には与えられた環境以上に男女差別の壁に阻まれ、軽んじられてきた。今、マリアが成功したと言うのなら、なんでもかんでも環境と幸運のせいにする他者には想像もつかない、マリア自身の死にものぐるいの努力があって、なしえたものだ。

 その、マリアが差別や既得権益と戦い、着実に成果を積み上げてきた長い時間を、一番近くで見ることのできた夫が、まるっきり赤の他人と同じ物言いをするとは。


「環境に恵まれてきたくらいで、商会なんて維持できるはずないでしょ? なにを言っているのよ。あなたこそ、現実をちゃんと見られないんじゃないの? 今のあなた、ただの浮気した無職の夫よ? なのに、どうして私より立場が上だと思っているの?」

「お前……お前……ッ!」


 ヘンリーはようやく立ち上がり、右に左に、体をフラフラと揺らしながら、数歩歩いた。その姿は、愚鈍な牛のようだった。のっそりと重く足を引きずり、肥え太るだけしか能のない雄牛。実際に、食肉になる牛の方が、ずっと立派だ。


 元来、マリアは気が強い性格なのだ。

 そのマリアが二十年も、牛にさえ劣る夫に文句一つ言えなかった状態は、まさに洗脳だった。今では、友人たちの言葉の意味がわかる。はやく別れろと言われた意味が。

 これまでのマリアだったら、ヘンリーのどんな理不尽な要求も、「かしこまりました」と了承しただろうが。


 気づいたマリアは、もう間違えない。


「私たち夫婦に愛はない。それを取り繕う必要もない。あなたには他に家庭もある。だったら、潔くここを出て、あなた一人で養ってみたら? 気に入らない私に頼ろうとせずに。あなたが私より立派なのだとしたら、できるはずでしょう?」


 そう言い放つと、マリアは静かに立ち上がった。眼前に迫るヘンリーの顔は、思わぬ反撃に筋肉がおち、だらしなく口を開けていた。







久々の投稿になります。

ご縁があったら、またいつかの水曜に。

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