婚約破棄されたスナギツネ令嬢、実は呪いで醜くなっていただけでした
細すぎる一重の目に、小さすぎる瞳の三白眼。あまりの目つきの悪さに、リュシエルにつけられたあだ名は『スナギツネ令嬢』だった。
「はあ…………」
鏡の中の自分を覗き込んで、リュシエルは大きくため息をつく。
「なんで私だけ、こんな顔なのかしら……」
言いながら頬を触ると、必要以上に「ぷにっ」とした感触がして、リュシエルはさらにため息をついた。
「頑張ってお手入れしているのに、やっぱり下ぶくれだわ……」
毎日小顔に効くと噂の天然石のプレートを使ってせっせとマッサージをしても、これまた小顔に効くと噂の顔面体操をしても、リュシエルの下ぶくれには全く効果がない。さらにお肌も、魔法が込められているという謳い文句の高価な香油を取り寄せて磨いているにも関わらず、若い令嬢らしいハリはなく、どこかくすんでさえいた。
「おねえさま、またためいきついてるの?」
鈴を転がしたような可愛らしい声の持ち主は、リュシエルの年の離れた妹アンジェラだ。お日様の光を集めたような金髪に、緑色の瞳はこぼれそうなほど大きく、それでいて鼻や唇はこじんまりと小さく愛らしい。卵型の小さな顔はうっとりするほど綺麗なラインを描いており、その肌は輝くように艶やかで……つまり一言で表すなら、ものすごい美少女だ。六歳の今ですらこれなら、将来は間違いなく、匂い立つような美女に育つだろう。
「そうね……。ため息は幸せが逃げるって言うし、よくないわね。気をつけるわ」
対するリュシエルは、“スナギツネ”とあだ名をつけられてしまうほどの細い目と三白眼だけでなく、ギリギリ金色と言えなくもないくすんだ黄と所々灰とが混じった髪色。さらには下ぶくれの顔に、肌までお粗末という、残念極まりない容姿をしていた。努力の甲斐あって体だけは引き締まっていたが、膨らむべきところが膨らまなかったせいで、そちらもやはりなんとも残念な感じになっている。
「お嬢様方の準備はできたのかな?」
部屋に顔を覗かせたのは、兄のエドガーだ。こちらもまた、説明するがめんどくさくなるほどの美男子だった。
(というより、我が家は私以外が全員美形なのよ……)
リュシエルの生まれたベクレル侯爵家は、その家柄や財力もさることながら、恐ろしいほどの美形揃いと評判の一族だった。だがその一族の中で、唯一美形どころか、人並みの外見にすら恵まれなかったのがリュシエルというわけである。赤ん坊の頃は可愛かったらしいのだが、成長するにつれ家族との差は歴然となった。彼女は華麗なる一族の汚点と笑われ、挙げ句の果てに「スナギツネ令嬢」なんてあだ名さえつけられてしまう。
「本物のスナギツネは愛嬌があって可愛いじゃないか!」
と、兄は言ってくれたが、リュシエルにとっては何の慰めにもならなかった。そのあだ名をつけたのが、この国の王太子であり、リュシエルの婚約者でもあるハージェス王子だった事も大きい。
「わたしはじゅんびできました! おねえさまは?」
「私も大丈夫よ」
「なら、行こうか。王太子殿下もお待ちだ」
にっこりと麗しく微笑んだ兄とは対照的に、リュシエルはあから様に嫌な顔をした。今日はベクレル家主催のティーパーティーなのだが、そこにはハージェスも招待されている。婚約者なので当然と言えば当然なのだが、リュシエルにとっては、かなりありがたくない時間となるのが目に見えていた。
*
「おや、こんなところに可愛いスナギツネが紛れ込んでいるね?」
予想通り、リュシエルが姿を現した途端、ハージェスはすぐさま彼女をからかった。途端に、彼に追従する若い貴族たちがくすくすと嫌な笑みを漏らす。
「……ごきげんよう、ハージェス様」
苛立ちをグッと堪えて無理に笑顔を作れば、「おや? 目はどこに行ってしまったのかな? 細すぎて見えないね」などとさらに追い討ちをかけてくる。彼のタチの悪いところは、兄のエドガーや、リュシエルの両親が見ていないところでこういうことを言ってくる点だ。そういう狡猾さもまたリュシエルを苛立たせていた。黙っていれば見た目はいいのに、性格はほんと最低! と、心の中で毒づく。
「おねえさま、スナギツネってなあに?」
「とっても可愛い狐さんのことよ」
「そうさ。可愛すぎて図鑑で見た時は、すぐにリュシエルのことを思い出してしまったよ」
ハージェスがそう言うと、周りがどっと笑った。リュシエルは心底うんざりしつつ、アンジェラの手を握る。
「ハージェス殿下、妹のお腹が空いているようなので、何か食べさせてきます。また後でお会いしましょう」
「ああ、そうだな。私も君に話がある。また後で会おうじゃないか」
できれば二度と会いたくない。そんな本音は飲み込んで、リュシエルはアンジェラを連れてその場を離れた。幼い妹には、できるだけハージェスとその取り巻きには近寄らせたくなかった。
アンジェラを気遣いながらその場から離れると、リュシエルたちを探していたかのように、一人の人物が足速に近づいてくる。その人物の顔を見て、リュシエルはホッと息をついた。
「リュシー、大丈夫か? また兄に何か言われていただろう」
しかめ面でリュシエルのことを愛称で呼んだのは、ハージェスの弟であり、第二王子であるクロードだった。王譲りの金髪で、どこか軟派な雰囲気が漂うハージェスとは対照的に、クロードは王妃譲りの黒髪で、その目元はともすれば冷たいとも勘違いされがちな硬質な美貌を持った王子だ。
「お気遣いありがとうございます。いつものことなので、もう慣れてしまいました」
軽くため息をつきながら答えると、「全く、ハージェスのやつ……」とクロードが文句を言っているのが聞こえた。
ハージェスとクロード、そして兄のエドガーとリュシエルの四人は幼馴染だった。リュシエルたちの父、ベクレル侯爵が王の側近であるため、幼い頃より交流を持たされていたのだ。やがて大きくなり、兄のエドガーはハージェスの側近に、リュシエルはハージェスの婚約者に収まったのだが……。
「兄は昔から軽薄なところがあったが、最近は特にひどい。今日はもう、私から離れない方がいい」
「ありがとうございます、クロード様」
リュシエルは嬉しくなって微笑んだ。
リュシエルにとって風当たりが強いこの社交界の中で、唯一クロード王子だけはいつも彼女の味方をしてくれていた。彼は決してリュシエルの外見をからかわなかったし、リュシエルの悪口を言うものがいれば、例えそれが実の兄でもきつく注意してくれた。そのせいで近年、ハージェスとクロードの関係がやや拗れ始めてしまっており、リュシエルは罪悪感を感じていたが、それでもありがたかった。彼以外に、ハージェスに注意できる貴族はいないからだ。
(ああ……クロード様が婚約者だったら、どんなに良かったことか)
アンジェラの遊び相手になってくれているクロードを見ながら、ついそんなことを考えてしまう。
クロードはその見た目だけでなく、中身まで清廉潔白だった。以前、ハージェスにひどくからかわれて落ち込んだリュシエルが「でもクロード様もやはり美しい女性がいいんでしょう」とひねくれて聞いた時にも、こう答えていた。
「外見の美しさはもちろん美点だと思うが、それが全てではない。私は外見が美しいだけの女性より、心が美しい女性の方がいいと思っている」
と。
その言葉は、たとえ慰めるための嘘だったとしても、リュシエルの心の支えになった。彼女が今こうして折れずに立っていられるのは、全てクロードのおかげと言っても過言ではない。時間が経つにつれ、彼に対する気持ちが恋へと変わっても、何も不思議なことではなかった。
けれど残念なことにリュシエルはハージェスと婚約済みであり、クロードもまた他の令嬢と婚約しているため、二人の結婚は不可能だった。それでも、彼への溢れる思いは止められなかった。
(せめて、クロード様に誇ってもらえるよう、心は美しくありたい)
腐ってもリュシエルは侯爵家の長女であり、王太子の婚約者であり、将来の王妃なのだ。夫となる予定のハージェスとの仲は期待できそうにないし期待したくもないが、王国民に対して心根で恥じない王妃であるために、リュシエルは猛勉強した。一般的な貴族女性の教養はもちろん、帝王学から始まって、経済、歴史、地理、算術に加え、近隣諸国の言語も一通りたたき込んである。さらに慈善活動にも精を出し、国のあちこちの孤児院に寄付や慰問訪問をしていた。そのため、国民人気は悪くないどころか良い方なのだ。ハージェスはそれを「ご機嫌取りご苦労様」と笑っていたが、クロードが褒めてくれたので、リュシエルは気にしないことにしている。
「ああ、いたいた! リュシー、大変なの。ハージェス様が……」
リュシエルがうっとりとクロードを眺めていると、リュシエルを外見で判断しない数少ない友達の伯爵令嬢が駆け寄ってくる。ハージェスという名前に反応したクロードも、伯爵令嬢の方を見た。
「どうしたの?」
「兄が何か?」
「それが……」
伯爵令嬢は言いづらそうに口をモゴモゴとさせながら、そっとある方向を指さした。その方向を見て、リュシエルだけでなく、クロードまでがハッと息を呑む。
そこにいたのは、ハージェスと、鮮やかな赤髪を結い上げた美しい女性だった。二人は親密そうに寄り添っており、女性の手はハージェスの腕に、ハージェスの手は女性の腰に回されている。
「モルガナ……?」
クロードが呆然としたように呟いた。
(まさか……モルガナ嬢なの?)
信じられない思いで、リュシエルも仲睦まじげに寄り添う二人を見た。
モルガナ・フラヴィニー嬢。彼女は、リュシエルの生家であるベクレル侯爵家に匹敵する侯爵家の一人娘で、何を隠そう、クロードの婚約者だった。
モルガナは艶やかな雰囲気を持つ美貌の女性で、そんな彼女に、クロードはまめまめしく尽くしていた。いつも贈り物を欠かさず、夜会ではリュシエルを放置するハージェスと違ってきっちりとエスコートし、側から見てもモルガナを愛し、大事にしているのがよく伝わってきていた。
モルガナ本人はと言えば、クロードの態度にいつも満足そうにし、リュシエルを見るとあからさまに見下した目をしてきていたが、そもそもフラヴィニー侯爵家が一方的にベクレル侯爵家を敵視しているのを知っているため、リュシエルはなるべく気にしないようにしてきた。だが……。
(そのモルガナ嬢が、なぜハージェス様と……?)
困惑するリュシエルの前に来ると、二人は立ち止まった。周りにいる人たちも、何事かとこちらに注目している。
「やあリュシエル、クロード。我が麗しの君が到着したから、紹介しようと思ってね。それに、君たちに話があるんだ」
「我が麗しの君……?」
ハージェスはこの上なく上機嫌だった。その隣で腕を絡めて立っているモルガナも。
「そう。私たちは、真実の愛に目覚めたんだ。だからすまないが、私とは婚約破棄をしてもらおう。……それから、我が愚弟、クロードともね」
リュシエルは絶句した。
(この人は……何を言っているの?)
「……国王陛下には、許可をとっているのか?」
リュシエルが何も言えなくなっている隣で、クロードが様子を窺うように聞く。
「いや、これからさ。真っ向から行くと聞いてもらえないだろうからね。だがこうして既成事実を作ってしまえば、父も認めざるを得なくなろうだろう。……何せ彼女のお腹の中には子供がいる。そう、次代の国王となる子供が」
子供という単語に、その場は騒然とした。少し離れたところで、兄のエドガーが憤怒の表情をしているのが見える。リュシエルの隣から、はあ、と盛大なため息が聞こえた。おそらくクロードだろう。リュシエルは何も言えず、ただ口をパクパクとさせていた。
(この人……この人達って……!)
そんなリュシエルの反応に、モルガナが満足そうにお腹を撫でている。
(本当に頭がおかしいんじゃないのかしら!?)
心の声が出てしまわないよう、リュシエルは慌てて手で口を押さえた。
(婚約者であるベクレル侯爵家主催のパーティーで! 主催者の顔に泥を塗るようなことをして! その上国王様の許可もなく! 挙げ句の果てには不実まで自ら露呈して……! 信じられない!)
怒りよりも、呆れて物が言えなかった。いくらリュシエルが不器量だからと言って、仮にもハージェスはこの国を背負っていく王太子であり、モルガナも立派な侯爵家の娘なのだ。あまりにも責任と義務を無視した二人の行いに、リュシエルは心底引いていた。
(こんな……こんな男に国を任せたら、ヴァランタン王国が潰れる……)
将来のことを考えると、気が遠くなる。実際に足元がふらついてしまい、そばにいたクロードが慌てて支えてくれなかったら、この場で倒れていたかもしれない。
「……アンジェラを、アンジェラをお兄さまに……」
天使のようなあの子にこんな汚いものは見せられない。リュシエルが息も絶え絶えに言うと、いつの間にか近くに来ていたエドガーが即座にアンジェラを連れて行った。その顔は憤怒で真っ赤に染まっていた。
「君たちの反対は承知の上だよ。だが残念だね、クロード。モルガナは君より私の方がいいと言うんだ。潔く、彼女と私の幸せを願ってくれ」
「……そんなにうまく行くとは思わない方がいい」
凍った場の空気には気づかず、嬉々として続けるハージェスに、クロードが低い声で答えた。
「おや? 実は相当堪えているのか? すまない、弟の最愛の人を奪ってしまう形になって……」
「いや、そうではない。そんな女は好きにくれてやる。それよりも父があっさり許すとは思わない方がいいと言っているんだ。今まで兄上の婚約破棄を誰よりも拒否していたのは、国王陛下だということを忘れていないか?」
クロードが冷静に、“国王陛下”という単語に力をこめて答えれば、ハージェスがグッと喉を詰まらせた。
(……そういえば、国王陛下はずっと反対していらしたわ……)
実は、リュシエルとハージェスの婚約破棄の話が出たのはこれが初めてではない。過去には一度、ベクレル侯爵家から、そしてハージェスからは何度も国王に婚約破棄の希望が伝えられているのだが、普段ハージェスに甘い国王も、なぜかこの件に関してはがんとして首を縦に振らなかったのだ。そのためハージェスとモルガナも、強引に妊娠という手段をとることにしたのだろう。
「それ、は……。いや、しかし、彼女のお腹には子供がいるんだぞ? 他ならぬ私の子だ! 聞けば、お前とは手すら繋いだことのない、清い仲だったのだろう!?」
「そうだ」
クロードが答える声は、どこか自慢げに聞こえた。不安そうに見上げれば、優しげな瞳がリュシエルを見つめる。
「これ以上話しても無駄だ。……行こう」
クロードにそっと肩を押され、リュシエルはハージェスが何やらわめく声を聞きながらその場を後にした。ティーパーティーは急遽解散となり、両親が怒りながらもその対応に追われてバタバタとしていたが、リュシエルがその手伝いに駆り出されることはなかった。傷心だと思われたのだろう。実際呆然としていたから、その配慮はありがたかった。
*
「全く……! 今までもそうだったが、今度の今度だけは本当に許せない。俺はもう、ハージェスの側近などやめてやる」
「お兄さま、落ち着いてください。私は案外平気です」
客間で、怒りすぎて、一人称が“俺”になっているエドガーをなだめようとする。
「すまないリュシー。頼りない兄を殴ってくれ。今まで私が我慢すればいつかはうまくいくのではないかと思っていたが、こんな事ならもっと早くにあのバカを殴っておくべきだった……」
「お兄さま、それ不敬罪にあたりますからお口には気をつけて。心の中で思う分には自由ですわ」
注意すると、エドガーは無言で近くに置いてあったクッションを殴り始めた。兄がそんな行いをするのは初めてで、目を丸くして見ていると、クロードが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……リュシーは大丈夫なのか?」
「私?」
キョトンとして見返してから、リュシエルは言った。
「最初はあまりのバ……いえ、型破りっぷりにびっくりしてしまったけれど、大丈夫どころかむしろ天にも昇る心地ですわ。私がハージェス様を好きになる要素、微塵もありませんもの」
それは嘘ではなかった。ハージェスとの結婚は義務感から耐えているだけで、あの男を一生の伴侶にしないで済むのなら、修道院へ行ってもいいと真剣に考えたことすらあるくらいだ。
「王妃という身分に、未練は?」
「ないですわ。どちらかというと、ハージェス様が国王に就いて我が国は大丈夫なのか心配する気持ちが強いです。……今のは内緒にしてくださいね」
しまったというように口を隠せば、クロードが笑った。途端に、胸が温かくなる。リュシエルは、彼の笑った顔が大好きなのだ。
「ならよかった」
「……クロード殿下は、大丈夫ですか?」
リュシエルは恐る恐る訊ねた。モルガナ嬢を愛し、大事にしていたのは他でもない、クロードなのだ。
「私は大丈夫だ。……なんとなくそんな予感がしていたからな」
「え?」
「そもそもあの二人、本気で愛し合っていないだろう」
「それは私も思った」
いつの間にか立ち直ったらしいエドガーまでもが話に混じってきたので、リュシエルは驚いて目を見開いた。
「……なんとなくそうじゃないかとは思ってましたけれど……まさかみんなそう思っていたなんて」
というのも、ハージェスとモルガナの間には、もちろん愛情もあるだろうが、それよりも手を取る利点の方が多かったのだ。ハージェスにとっては不満のある婚約者リュシエルを切れる上に、何かとたてついてくる弟の最愛の人を奪ったという優越感も満たせる最高の人選がモルガナであり、モルガナもまた、憎きベクレル侯爵家のリュシエルから婚約者を奪え、かつ第二王子の妃より、将来の王妃という立場の方が魅力的だ。
「だからって、あんまりなやり方ですけれど……」
「私も兄がそこまで馬鹿だとは思わなかった」
はあ、と誰からともなくため息が漏れる。
「……けれど、考えようによってはリュシー。君は自由になったということだ」
「自由?」
クロードの言葉にリュシエルがキョトンとすると、エドガーも力強く同意した。
「そうだよリュシー。もうお前はあんな男に煩わされる必要はないんだ。これからは好きな催しにだけ参加すればいいし、結婚だって、好きな男とできるようになる。どう見ても非があるのは向こうだし、誰もお前を責めたりはしないよ」
労るような兄の言葉を聞いて、リュシエルの胸が高鳴る。
「好きな人と結婚……?」
つい、知らず目がクロードの方を見てしまう。リュシエルにとっては大変喜ばしいことに、彼もまた、婚約者がいない状態に戻ったということに今さらながら気がついたのだ。
(もしかしたら、もしかしてだけれど、私とクロード殿下が結婚できる未来もあるんじゃ……?)
そんな将来を想像して一瞬ソワソワしたが、すぐにその気持ちは萎んだ。鏡に映った自分の姿を見てしまったせいだ。
どんなに浮かれても、彼女が“スナギツネ令嬢”と呼ばれる残念な容姿は変わらない。
クロードがいくらリュシエルに優しいと言っても、それはあくまで彼が幼なじみだからであって、恋愛感情からではない。先ほどは動揺からか、珍しく「そんな女」などという汚い言葉を使っていたが、それまではリュシエルが羨むほどモルガナを大事にしていたのだ。今リュシエルが結婚をお願いすれば、兄であるハージェスがやらかした負い目もあり、もしかしたら優しいクロードはうなずいてくれるかもしれない。だが……。
(そんなのって、あんまりだと思うわ……)
婚約者を兄に寝取られ、代わりに不器量な幼なじみを押し付けられたら、たまったものではないだろう。
リュシエルは「はあ」と諦めのため息をついた。
「私には、できないと思います……」
せっかく励まそうとしてくれている二人には申し訳ないが、それがリュシエルの正直な気持ちだった。
*
ハージェス王太子の醜聞は、すぐに国中に広まった。元々、ヴァランタン王国は小さな国なのだ。その上、人々は平和で退屈しきっており、王家の醜聞は格好の娯楽だった。
だが、そんな事態をよそに、三日経っても、一週間経っても、国王からは婚約破棄について何の連絡もなかった。国王の側近である父なら何か知っているはずなのだが、聞いても難しい顔をして首を横に振るばかり。
(……まさかこのまま婚約継続ということはないでしょうけれど、それにしても遅い……)
普段は苛烈とも言えるほど即決即断の王であるというのに、珍しいことだった。
(まあ、婚約破棄できるなら、私はなんだっていいけれど)
ーーそうのんびり考えていたリュシエルの元に、驚きの知らせがもたらされたのは、それからさらに半月後だった。
「ナーバ帝国の皇女が、クロード様とお見合いのためにヴァランタンに来る!?」
「ああ」
本当にハージェスの側近をやめて、クロードの側近になってしまったエドガーが言った。
「なんでも、クロード様の婚約破棄の噂を聞きつけたナーバ帝国の第一皇女、ヤーラ皇女が、婿としてクロード様を迎えたいらしいんだ」
「ナーバ帝国って、そんな……」
ナーバ帝国は巨万の富を持つ南方の大国だ。ヴァランタンからはそう遠いわけではないが、肌の色も違えば、文化も風習もまるで違う国である。
「なぜそんな話に?」
「それが……どうもヤーラ皇女の婿取りで色々と揉めていたらしくてね」
兄の話によれば、ナーバ帝国は今複雑な状況にあり、唯一の皇族であるにも関わらず、ヤーラ皇女は女帝にはなれないのだという。代わりに、ヤーラ皇女の婿となるものが、次期ナーバ帝国の君主になるらしい。
「君主って……つまりナーバの皇帝ってこと?」
「そう。だからヤーラ皇女には求婚が殺到してね。とは言え、選ぶ方もかなり慎重になる。吟味に吟味を重ねている最中に、どこからか、クロード様の婚約解消の話を聞いたらしい」
「だからって何故クロード様を? ヴァランタンは小さな国だし、ナーバにとってのメリットがよくわからないわ」
「クロード様は以前、大使としてナーバ帝国に行ったことがあるんだ。その時に、どうやらヤーラ皇女の父である皇帝にとても気に入られたらしい。おまけに、ヴァランタンが小国なのも都合が良かったようだ」
リュシエルはわかったようなわからないような、複雑な表情をした。
(クロード様が、ナーバ帝国の皇帝に……?)
「それでね、リュシー。お前にこの話をしたのは、クロード様から直々に指名があったからなんだ」
「指名?」
「リュシーはナバル語を話せただろう? 当日、クロード様一人じゃカバーしきれない賓客の接待を、お前に手伝って欲しいらしいんだ」
「私が!?」
「ああ。ナバル語を話せて、かつ要人の接待もできる人となるとなかなかいなくてね……」
リュシエルは考えた。確かに、ヴァランタン王国はナーバ帝国とはあまり接点を持ってこなかったため、ナバル語を話せる貴族階級のものはほとんどいないのだろう。だからこそリュシエルにその役目が回ってきたのだ。
(私の勉強の結果を試すいい場になるかも……。それに気になるわ。クロード殿下と結婚するかもしれないヤーラ皇女がどんな方なのか……)
そこまで考えて、リュシエルは顔を上げた。
「……わかりました。私が行きます」
こうして、リュシエルは通訳として、クロード王子の見合いの場に同席することとなったのだ。
*
遠路はるばるやってきたナーバ帝国のヤーラ皇女は、褐色の肌に、黒曜石のような大きな瞳を持つ、異国情緒を感じさせる愛らしい美姫だった。滑らかなシルクのドレスには飾りとしていくつもの薄いベールが重ねられ、またヤーラ皇女の艶やかな黒髪と顔も、奥ゆかしく繊細なベールで覆っている。
出迎えたクロードと並ぶ姿はまるで最初から一対の絵のようで、周りの人々からは自然とため息がもれた。リュシエルの心がじくりと傷む。
(この期に及んで、嫉妬なんかしている場合じゃないわ。私は私の役目を果たさないと。クロード様のためにも)
ヴァランタン王国に、そしてクロードの顔に泥を塗らないためにも、リュシエルは精一杯のもてなしをした。クロードがヤーラと歓談している間はお付きの人たちが不自由しないよう手配したり、またクロードが違う要人と話している間はヤーラの話し相手になったりもした。ヤーラはナーバ帝国の歴史や文化についても勉強したリュシエルのことをとても気に入ってくれ、しまいにはクロードよりもリュシエルと過ごす時間が長くなったほどだ。
『貴女は本当に素敵な女性だわ、リュシー』
上機嫌で愛称を呼ぶヤーラに、リュシエルは恥ずかしげに首を振ってみせた。
『そんな、私みたいな者に素敵だなんて。身に余る光栄ですわ』
『貴方の唯一の欠点は、その卑屈な態度ね。褒められたら、素直にありがとうとにっこり笑えばいいのに。貴女にはそれだけの価値があるわ』
ヤーラは、事あるごとにリュシエルを褒めてくれた。その度にリュシエルはむず痒く、なんとなく困ってしまう。家族以外でこんなに褒められたのは、初めてだった。
『けれど、しょうがないわね。貴女にはそうなるよう、***がかけられているんですもの』
『ごめんなさい、今なんとおっしゃったのですか? 聞き取れなかったですわ』
ヤーラはその質問に答える代わりに、リュシエルに向かって悲しげに微笑んでみせた。
『クロードを呼んできてくださる? 私、彼とお話がしたいわ』
『すぐに呼んで参ります』
リュシエルは慌ててクロードの元に行った。ヤーラが呼んでいることを話すと、クロードはすぐさま彼女の元に向かう。そうして二人で何か秘密ごとを囁き合うように、お互いの黒髪を寄せて話す姿を、リュシエルはじっと見つめていた。
(本当に、いつ見ても絵になる二人だな……)
ヤーラ皇女は文句なしに素敵な姫だった。そのヤーラの夫となり、ナーバの皇帝となれるのなら、これほど輝かしい未来もない。クロードにとっては間違いなくいい話だ。そう思うのに、リュシエルはどうしても応援することはできなかった。
(私が、クロード様と釣り合うような女性だったら……)
自分が、クロードの妻になりたいと立候補できるような女性だったらどんなに良かったことだろう。だが現実には、リュシエルはスナギツネ令嬢と笑われるような容姿をしているのだ。ヤーラ皇女と比べると、地位も美貌も差がありすぎて、何一つ勝てない。リュシエルは諦めたように小さくため息をついた。
*
ヤーラ皇女が帰ってから、クロードは物思いにふけることが多くなり、部屋にこもることが多くなった。王宮の人々はそれを「恋わずらい」と隠す事なく噂し、国中が、自国の若く凛々しい王子が、大国の皇帝となる姿を想像して浮かれていた。
それを面白く思っていないのは、今やクロードと完全に敵対してしまったハージェスと、クロードに想いを寄せるリュシエルぐらいだろう。先日ようやく王から婚約破棄の知らせが届き、無理に外出しなくて良くなったこともあり、クロードと会える時間はグッと減ってしまっていた。
(笑顔で送り出さなきゃいけないのはわかってる。でも、そんなのは嫌……)
彼がいなくなることを考えただけでも落ち込んでしまう。それでいて、彼本人には何も言えない。そんな自分が、リュシエルはたまらなく嫌だった。
「……リュシー。今いいかい?」
珍しく控えめな兄の声がして、リュシエルは慌てて背を正した。エドガーはリュシエルの部屋に入ってくると、辺りに人がいないのを確認してから部屋に鍵をかける。
「どうしたの? お兄様」
「リュシー。お前に話すべきか迷ったんだが、知っておいた方がいいと思って」
兄が何を言おうとしているのか分からず、リュシエルは困惑した。それから兄の口から出た言葉は、彼女をさらに戸惑わせた。
「クロード様が内密にナーバ帝国に行った」
「ナーバに……?」
(どういうことなの? なぜナーバ帝国に?)
リュシエルの頭の中で、ぐるぐると言葉が回る。
「まさか……ヤーラ皇女に会いに……?」
信じられないという気持ちで聞けば、兄が口を閉ざした。
「……それは言えないんだ。しばらくすれば戻ってくると思う。その時クロード殿下に聞いてみてくれ」
そう言うとエドガーは去っていったが、リュシエルは返事をすることができなかった。リュシエルの頭の中では、クロードが遠路はるばるヤーラを追いかけ、抱きしめる姿が映し出されていたのだ。
(クロード様は、正式な婚約すら待っていられないほど、ヤーラ皇女を愛していたの……?)
立っていられず、リュシエルはへなへなとその場に座り込んだ。
本来、クロードが内密にナーバ帝国を訪れないといけない理由は何もない。準備や調整に時間こそかかるものの、彼は婚約者候補として堂々とヤーラに会いに行く権利を持っているのだ。それをせず会いに行くということは、クロードが片時もヤーラと離れていたくないという証のように思えた。
(クロード様が、本当に手の届かない人になってしまう)
悲しさから、リュシエルは一人ひっそりと涙を流すしかなかった。
*
クロードがナーバ帝国に向かってから一ヶ月、王宮の方でもクロードの行方をごまかすのに限界がき始めているようで、人々の間ではヒソヒソと第二王子の行方が色々な噂と共に取り沙汰されていた。けれどリュシエルはどんな噂話にも興味が持てず、ただ沈んだ日々を過ごしていた。
そんなある日、妹であり一番の癒しの存在であるアンジェラが母と茶会に出かけてしまい、一人自室で手持ち無沙汰に過ごしているところに、控えめなノックが聞こえてくる。
「……リュシー、今から少しだけ出られるかい?」
やってきたのはエドガーだ。
「ええ、構いませんけれど、どこに行くのですか?」
「いや、すぐそこだ。裏口にね、お前に会いたいという人物が来ている」
「私に……?」
リュシエルはいぶかしみながらエドガーについていった。兄が呼ぶということは怪しい人物ではないのだろうが、なぜわざわざ裏口に? と頭の中は疑問でいっぱいになる。
そして連れて行かれた裏口にいた人物を見て、リュシエルは口を押さえてハラハラと涙を流した。
「クロード様……!」
クロードはフードがついた黒のマントに旅装束という、普段の彼からは考えられない格好をしていた。その顔は少しやつれ、無精髭まで生えている。クロードはリュシエルが泣いていることに気づくと、慌てて駆け寄り、涙をぐいと親指で拭った。
「どうしたんだリュシー。一体何があったんだ?」
「いえ……ごめんなさい、久々にクロード様に会えたのが嬉しくて」
正直に言うと、クロードは笑った。まさかそんなことで泣いているとは思わなかったのだろう。
「何やら心配させてしまったね。悪かった。どうしても秘密裏に行わねばならないことだったから、君には何も言えなかったんだ」
「クロード様、それはどういう……?」
話についていけず、リュシエルが尋ねようとするのを、クロードがさえぎる。
「その前に、言わせてほしい」
かしこまったように咳払いをして、クロードが緊張した面持ちでその場にひざまずき、リュシエルの両手を取る。何が起きるのかわからなくて戸惑うリュシエルの瞳を、クロードの濃紺の瞳が真っ直ぐ見つめた。
「リュシエル・ベクレル嬢。……私と、結婚してくれないか」
「えっ……!?」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「本当は、もっと綺麗な格好で、もっとロマンチックな場所で言えたら良かったんだが……久しぶりに見た君があまりに可愛くてつい」
一方のクロードは、何やらはにかみながら言っている。その顔は照れと嬉しさで紅潮しており、嘘を言っているようには見えない。
「なっ……どっ……、へ、変ですわ! 私が可愛いなんて、そんなこと!」
動揺のあまりトンチンカンな部分に突っ込めば、クロードが真顔で返す。
「ずっと言おうと思ってたけど、君は可愛いよ。笑うと目が細くなるところも可愛いし、アンジェラの面倒をせっせと見てる君も可愛い。何より、いつも自分にできる精いっぱいをしようと努力している健気な姿は、とても可愛いと思う」
「な……!? な……!?」
「だから好きになった。好きになったら君はもっと可愛くなった」
臆面もなく言ってのけるクロードとは逆に、リュシエルは顔を真っ赤にして何も言えなくなってしまった。まさかそんな風にクロードが思っていたなんて、夢にも思わなかったのだ。
「……だから、返事を聞かせてほしい。リュシエル、私と結婚してくれないか?」
リュシエルは言葉の代わりにコクコクと頷いた。これは夢だろうか? もし夢なら、一生覚めないで欲しいと願う。
「ああ、良かった! ずっとこの日を夢見ていたんだ。あとは父に報告するだけだ」
(あれ、でもヤーラ皇女のことは……?)
リュシエルははたとヤーラ皇女のことを思い出した。
「あの、クロード殿下は、ヤーラ皇女様のことが好きなのではなかったのですか……?」
「ヤーラ皇女? なぜ? 彼女はいい友達になれるとは思うが、私が好きなのは今も昔も君だけだよ」
「でも、ナーバ皇国に行ったのはてっきりヤーラ皇女を追いかけて行ったのかと……」
リュシエルが正直に言えば、クロードは「ああ」と納得したように言った。
「話すと長くなるんだけれどね……ナーバに行ったのは人探しをするためだ。その人がナーバにいると言うのを教えてくれたのが、ヤーラ皇女なんだよ」
「人探し……?」
「ちょうどいい。これ以上あの方達を待たせておくのも良くないし、エドガー、呼んできてくれないか」
「かしこまりました」
ずっとそばでニコニコと見ていたエドガーが、足早にどこかへ消える。そしてすぐに、フードとマントにすっぽりと身を包んだ、二人の人物を連れてきた。
前を歩いていた人がフードを下ろすと、リュシエルはハッと息を呑んだ。
フードの中からは、黄金のように輝く豊かな長い金髪がこぼれ、目の下からは黒いベールで隠されていて見えないものの、純度の高い宝石を思わせる水色の瞳はハッとするほど美しい。後ろにいるもう一人はフードを深く被っていて顔は見えないが、背の高さや肩幅の広さから判断すると男性だろうか?
リュシエルがまじまじと観察していると、クロードが要人に接するように恭しく頭を下げて、それからリュシエルに説明した。
「訳あって名前は名乗らないが、その身元は保証する。この方達はリュシーの呪いを解くために来てもらったんだ」
「呪い?」
突如出てきた物騒な単語に、リュシエルはまた混乱した。
「初めまして。貴女が噂のお嬢さんね?」
大人の色気を含んだ甘い声が、彼女の口から発せられる。リュシエルが慌てて挨拶を返そうとした所で、細く華奢な美しい指が、ついとリュシエルの頬に伸びてくる。
「きゃっ……」
「びっくりさせてごめんなさい。よく見せて頂戴ね」
それから彼女は、一通りリュシエルの顔を撫で回したあと、悲しげに言った。
「……これは、ひどいですわね。魔法の質自体は大したことはないけれど、こんな魔法を女の子にかけるなんて……。かわいそうに。ずっと苦しめられてきたのでしょう。今解いてあげますわ」
彼女が何を言っているのかよく理解できなかったが、彼女の手から伝わってくる温かさは不思議なほど心地よく、本能的にリュシエルを傷つけることはないとわかった。そのため、リュシエルはされるがまま、身を任せていた。
「この国には、魔法を使える人間はほとんどいないんです。だから誰も彼女の呪いに気が付けなかった」
説明するクロードの言葉が聞こえる。
確かに、ヴァランタン王国は魔法とはほぼ無縁の生活をしている国だった。海を隔てた大陸の向こうでは魔法が当然のものとして存在しているらしいのだが、ここで魔法といえば、王家直属の魔法使いが二人いるのと、王宮で使っている魔法で灯されたランタンぐらいのものだろう。市民どころかリュシエルたち貴族の家ですら、魔法の品は置いていない。小さな半島に存在するヴァランタンは、魔法なしの至って原始的な生活を送っていた。
「王宮に魔法使いはいらっしゃらないの?」
「二人います」
「それでこの有様なら、耄碌したか、質が低いかのどちらかですわね。いずれにせよ、首にすることをお勧めしますわ」
苦々しく言いながら、彼女はリュシエルの顔を一通り撫でるように手を動かした。触れた箇所からくすぐったいような、暖かくなっていくような、不思議な感覚が広がっていく。
「……はい、これで大丈夫ですわ。しばらくは元に戻ろうとする反動で、寝込むことになると思うわ。わたくしの見立てだと、三日かしら」
切れ長の美しい目元が、優しげに微笑んでいる。
「あの、さっきから言っている呪いって……」
そこまで言いかけて、リュシエルの体がぐらりとかしいだ。クロードが慌てて抱き寄せる。
「詳しくは後で話す。今は無理せず、しばらく眠るんだ」
「クロード……様……私は一体……」
突然猛烈な眠気がリュシエルを襲っていた。それ以上何か言うこともできないまま、意識が暗闇にズブズブと沈んでいく。完全に眠りに落ちる前に「もう大丈夫だよ、リュシー」という優しい声を聞いた気がした。
*
どのくらいの時が経ったのだろう。次にリュシエルが目を覚ました時、辺りは昼だった。いつも目覚めの後は体がだるく、どんよりとした気分なのに、今は驚くほど体が軽く気分もいい。まるでずっとくくりつけられていた重しが取れたようだ。
「おねえさま、おきた!」
突進する勢いでまとわり付いてきたのは、妹のアンジェラだ。
「おねえさま、みて! かがみ、みて!」
アンジェラは興奮したようにリュシエルの手をぐいぐいと引っ張り、無理矢理鏡台の前まで連れて行こうとした。
「待ってアンジェラ、一体どうしたの……えっ!?」
鏡に映った自分の姿を見て、リュシエルは仰天した。幻かと思い、慌ててぺたぺたと顔中を触ってみると、鏡の中の人物も全く同じ動きをして顔を触った。
「うそ……これ……もしかして私なの!?」
鏡に映っていたのは、透明感を感じさせる眩いばかりの美女だった。大きなアーモンド型の眼は長いまつ毛に彩られてぱっちりとしており、先がつんと尖った鼻はちょうどいい高さと大きさで、ぽってりした唇は愛らしい。そして今までどんなに努力しても治らなかった下ぶくれは綺麗に消え去り、アンジェラと同じ卵型の綺麗な形をしていた。おまけに肌までしっとりと艶があり、化粧すらしなくても良さそうなレベルである。相変わらず目はやや三白眼気味ではあったが、それすらもどこか色気を感じさせるくらいだ。
「一体何が起きたの……!?」
「おにいさま、くろーどさま、おねえさまがおきたよ!」
呆然とするリュシエルを置いて、アンジェラが叫んだかと思うと、間髪入れずにクロードとエドガーが部屋の中に飛び込んでくる。
「リュシー!」
次の瞬間、リュシエルはクロードの腕の中に抱きしめられていた。
「目が覚めたんだな。よかった……。疑っていたわけではないが、本当に起きるか正直不安だった」
「おほん。クロード様、いいですか? 婚約するとはいえ、妹はまだ独身の身。適切な距離を保ってください」
感極まった様子のクロードを、エドガーが静かに押しやる。
「ああ、すまない。……それにしてもリュシー、本当に綺麗になったな」
「そうだよリュシー! ああ、呪いが解けてよかった。こうしてみると、アンジェラや母上と良く似ている!」
「待って……待ってください。いい加減説明してくれますか? 呪いって、一体どういうことなんです?」
散々置いてけぼりを食らったリュシエルが焦ったように言うと、クロードが微笑みながら言った。
「リュシー、これはヤーラ皇女が教えてくれたんだが、君にはずっと呪いがかけられていたんだ。そのせいで本来の容姿が歪められ、ずっと偽りの姿で暮らすよう強要されていたんだよ」
「呪い……!?」
そういえば、ヤーラは以前会った時、リュシエルに何かかかっていると言っていた。単語が聞き取れずリュシエルには何のことか分からなかったが、あの時言っていたのはこのことだったのだろう。ヤーラはそれをクロードに伝えていたのだ。
「この前君に会わせたのはとある高名な魔法使い様でね。彼女がナーバ帝国に滞在していると教えてくれたのもヤーラ皇女だ。ただ事情があっておおっぴらに探すわけにはいかなかったから、秘密裏に探さざるを得なかったんだ」
「そんな……。そもそも、なぜそんな呪いが私に……!?」
「それはこれからわかるだろう。さあ、急いで支度をしてくれるかい? 王宮に、父上に会いに行かねば」
まだ状況もしっかり飲み込めていない中、リュシエルは言われるまま急いで湯浴みをし、身支度を整えた。終わるとすぐさまクロードやエドガーたちと同じ馬車に詰め込まれ、王宮へと運ばれる。駆け足気味のクロードに引きずられるようにしてたどり着いた謁見室には、王だけではなく、側近である父や宰相、各大臣など、そうそうたるメンツが揃っていた。中には、久しぶりに見るハージェスとモルガナもいる。皆はリュシエルの姿を見ると、ハッとしたように息を呑んだ。
「お待たせしました。リュシエルが目覚めたので、連れてまいりました」
クロードの言葉に、周りがざわめきたつ。
「リュシエル? あれが、リュシエル・ベクレル侯爵令嬢だと言うのか?」
「一体何があったんだ、以前の彼女とは全然違うぞ」
「リュシエルなのか……!? 本当に……!?」
最後に言ったのはハージェスだ。その顔には赤みが差し、ぽうっと、まるで見惚れるようにしてリュシエルを見ている。そばにいるモルガナが苛立ったように袖を引いていた。
「来たか」
玉座に座っていたヴァランタン王が重々しく口を開くと、途端に辺りはぴたりと静かになった。
「ーー皆、突然呼び立ててすまないな。いくつか重要な知らせがある故、許せ」
それから王は、ゆっくりとクロードとリュシエルの方を見た。
「まずはいい知らせから行こうか。我が二番目の息子クロードだが、そこにいるリュシエル・ベクレル侯爵令嬢との婚約を許可する」
「ありがたき幸せ」
クロードが頭を下げれば、パラパラと拍手が上がる。
「それから、リュシエル嬢に関してだが……」
「父上! あれは本当にリュシエルなのですか?」
王の言葉を遮ったのは、どこか気色ばんだ様子で叫んだハージェスだ。
「そうとも。あれがリュシエル嬢だ。……そうだろう? フラヴィニー侯爵」
突如名指しされたフラヴィニー侯爵、つまりモルガナの父親は、顔を真っ青にして震えていた。
(なぜフラヴィニー侯爵に……?)
状況が飲み込めなかったのはリュシエルだけではなかったようで、モルガナも驚きの顔で父を見ている。
「お父様……どういうことですの……?」
「娘に聞かせてやるといいフラヴィニー侯爵。お前がベクレル侯爵家の長女、リュシエルに何をしたのかを」
「ご、誤解です。私は何も……」
震える声で否定しようとするフラヴィニー侯爵に、クロードが声を荒げた。
「言い逃れができるとは思わない方がいい。こちらは既に証人を押さえてある。呪いをかけた魔法使い本人と、長年フラヴィニー侯爵家の家令をしていた男が証言している。『フラヴィニー侯爵は、娘のライバルとなりうるベクレル侯爵家の長女、リュシエルの姿が醜くなるよう呪いをかけた』とな。それだけではない。魔法使いを密かに雇って、今までもずっと悪事を働いてきたそうだな?」
それを聞いて、フラヴィニー侯爵が哀れなほどガタガタと震え出した。もはや言葉も出ないようで、顔色は既に死人のようになっている。王が玉座を指でトントンと叩きながら、低い声で言った。
「知っての通り、ヴァランタンでは王家以外の者が魔法使いを雇うことは大罪に値する。加えて呪いとなる暗黒魔法自体、ヴァランタンに限らず世界条約で禁止されている。さらに、リュシエルは王太子の婚約者、つまりは将来の王妃となる女性だった。その彼女に害をなすということは、王家へ対する反逆罪にもあたる。それとも何か申し開きすることがあるか? フラヴィニー侯爵よ」
フラヴィニー侯爵は、もはや言葉もないようだった。その場にガックリと膝をつき、魂が抜けたように呆然と虚空を見つめている。
「ないならば、フラヴィニー侯爵家は爵位剥奪の上、フラヴィニー元侯爵は斬首刑に処す。連れて行け」
王が顎をしゃくると、そばに控えていた騎士たちがフラヴィニー侯爵を連行しようとした。それに気づいた娘のモルガナが、慌てて王の前に身を投げ出す。弱々しいながら、ハージェスもそれに加勢した。
「陛下! どうか、私に免じて情けを……! あんまりですわ!」
「そ、そうです父上。何かの誤解もあるかもしれません。私の妻になる人の親がまさかそんな……」
「それからそなたたち二人にも言いたいことがある」
王はそんな二人の言葉を無視し、ぎろりと冷たく見下ろした。
「モルガナ・フラヴィニー嬢よ。そなたがクロードからハージェスに乗り換えた件も遺憾ではあるが、まずはなぜハージェスの子を妊娠したなどと嘘をついたのか教えて欲しい」
(えっ……!?)
リュシエルは思わず口を押さえた。そうしなければ声が漏れてしまいそうだった。
「妊娠が嘘……? モルガナ、どういうことなんだい……?」
ハージェスが、信じられないと言う顔でモルガナを見る。モルガナは、父親の助けを乞うた時よりもさらに青ざめていた。
「う、嘘ではありませんわ……。私、確かに月のものが止まって……。ちょ、ちょっとした勘違いだったんです……」
「ならなぜ、そのことを今まで黙っていたのだ?」
「それは……」
そこまで言って、モルガナはわっと泣き出した。王はため息をつくと、今度はハージェスを見た。
「それから、我が息子、ハージェスよ」
「は、はい……」
「お前は昔から、不出来な子だった。弟のクロードの優秀さに勝てないとわかるや否や、努力することを放棄して、放蕩の限りを尽くして……。それでもいつかは成長するのではないかと思い辛抱強く見守ってきたが……結局お前は、最後の砦すらも、自ら壊してしまったな」
「最後の砦……?」
「リュシエル・ベクレル侯爵令嬢との婚約だ。放蕩者なお前を、それでも支えてくれるであろう真面目なあの子との婚約は、お前に与えられた最後の砦であり、救いの手だったのだ。……考えたことはなかったのか? 私が、なぜお前たち二人の婚約にそれほどまでこだわっていたのか」
「そ、それは……」
「見た目でとやかく言う者もいるようだが、リュシエル嬢の勤勉さ、真面目さ、謙虚さ、全てにおいてこれほど国母となるにふさわしい女性はいない。それなのにお前ときたら何をした? リュシエル嬢を大事にしないどころか、ひどいあだ名をつけて嘲笑い、さらには不貞まで働きおって。おまけに選んだ女も女だ。クロードがどれだけ彼女を大切にしていたのか、私が知らないとでも思ったのか? それを地位に目が眩んであっさりと乗り換えたと思えば、妊娠したという嘘までついて……。全く、本当に救いようがない」
王の顔には、深い失望が刻まれていた。流石にまずいと察したハージェスが慌てて身を乗り出す。
「ち、父上! 心を入れ替えます。これからは精一杯次期国王として勤勉にーー」
「もう遅い」
王は冷たい瞳でハージェスを見ながら、切り捨てるように言った。
「ハージェス。お前の王位継承権を剥奪する。そして王太子として、新たにクロードを指名する」
「父上!」
その場が一斉にざわめきたった。固唾を飲んで見守っていたリュシエルも、反射的にクロードを見上げると、彼はまるで最初から全て分かっていたかのように頷いてみせる。
「ハージェス、お前は今後、ただの王子として、国の外れにある離宮へと住まいを移せ。それから、今後はその宮のある領地から離れることは許さない。結婚はしても良いが、お前の子にもまた、王位継承権はないものとする」
それは、事実上の幽閉宣言だった。
(まさか陛下が、こんなにお怒りだったなんて……)
事件が起きてから婚約破棄に至るまで随分と時間がかかったとは思っていたが、どうやらリュシエルだけではなく、国王も裏で激怒していたらしい。あの空白の期間に、王はハージェスに対して完全に見切りをつけてしまったようだ。
「父上、どうか、父上!」
「ーー連れていけ。それから、モルガナ嬢も」
王の命令で騎士が動き出したのを見て焦ったのだろう。ハージェスはぐるりと向きを変えると、血走った目でリュシエルを捉え、それからーー
「リュシエル! いやリュシー! 頼むお前からも父上に言ってくれ! ちょっとした行き違いじゃないか? お前は俺に相応しい美人になったし、やり直そうじゃないか! なあ、頼むよ!」
到底正気とは思えない言葉を叫びながら近寄ってくるハージェスの前に、クロードが素早く立ち塞がった。
「やめろハージェス! 馴れ馴れしくリュシエルに近寄るな!」
「邪魔をするなクロード! リュシーと話をさせろ! そうすればきっと彼女はーー」
「……私は」
庇ってくれたクロードの腕をそっと押しやり、目で大丈夫だと合図をすると、リュシエルはハージェスを真っ直ぐ見据えた。その態度にハージェスが狼狽える。
「もし、ハージェス様が私のことをスナギツネと言ってくれなかったら、私は真実の愛に気づくことができませんでした。だから私は、スナギツネの私を愛してくれた、クロード様と幸せになりたいと思います。ハージェス様、今までありがとうございました。どうぞお幸せに」
そう言ってにっこりと笑ってみせた。それはリュシエルにできる、精一杯の仕返しだった。
「だ、そうだ。お引き取り願おうか兄上」
「な……! こ、この俺がせっかく……! リュシエル! スナギツネの癖に!」
なおも喚き続けるハージェスは、やってきた騎士達に半ば引きずられるようにして連れて行かれた。呆然としていたモルガナもいつの間にか退出しており、騒ぎの元凶が消えると、王はまた大きなため息をついた。
「……クロードよ」
「はっ」
「此度の働きに感謝する。それから、今後は王太子として、次期国王としてよく務めるのだ」
「かしこまりました」
「それから、リュシエル・ベクレル侯爵令嬢よ」
「は、はい!」
緊張で、思わず声がうわずってしまったが、王は優しく微笑んでくれた。その目元がクロードにそっくりで、不躾にもかかわらずついじっと見つめてしまう。
「長い間、そなたにも迷惑をかけた。親心ゆえに、そなたを無理にハージェスと添い遂げさせようとしたこと、ハージェスの暴走を止められなかったこと、悪かったと思っている。……許してくれるか」
「もちろんでございます。私は陛下にお仕えする身ですから」
「そうか。……ならば、これからはクロードのことを支えてやってくれ。未来の王妃として」
「はい、喜んで」
リュシエルは恭しく頭を下げた。その姿に周りから、自然と拍手が溢れる。ーーこうしてリュシエルは、再び『王太子の婚約者』として、ヴァランタン王国に返り咲いたのだった。
*
「父の意思が固いことを知っていたから、どうにか兄が自滅してくれないかと思って色々していたが、思った以上に上手く行きすぎて最初は信じられなかったよ」
「色々していたんですか?」
帰りの馬車の中、送るために乗っていたクロードがリュシエルに教えてくれる。
「ああ。モルガナを必要以上に大事にしていたのもそのうちの一つだ。彼女を過剰に褒めれば、兄のことだ。きっと私から奪いたくなるだろうと思って」
「そんな……歪んでいます。弟から恋人を奪おうなんて」
「事実、歪んでいたんだ。……ある意味可哀想な人だよ。偉大な父と、自分より優秀な弟の圧力で、おかしくなってしまったんだろうな……。けれど、リュシーという宝を手にしておきながら、大事にしようとしないなんて自業自得としか言えない。でもおかげで、私が君と結婚するチャンスをつかめた。もう君のことは離さないつもりだから、覚悟していてくれ」
大真面目に言うクロードに、リュシエルは赤面した。
「それはきっと……どちらかというとクロード様の方が変わっているのです。私はその、以前は自分でもスナギツネに似ていると思いましたし」
「なんでだ? そもそも、スナギツネは可愛いだろう」
クロードは一向に意見を曲げる気はないようだった。
「それにしても残念だ……。リュシーはとても綺麗になったが、もうあの頃の君には会えないのは寂しいな。笑うと目が細くなって、とても可愛かったのに」
放っておけば延々と語り続けそうなクロードに、リュシエルは恥ずかしくなって話を変えることにした。
「そういえば、結局あの魔法使いの方達はどなただったんですか? 結局、最後までお名前もお顔も拝見することができませんでした」
「ああ、それはね……長くなるから、君の家に着いてから話そうか」
送ってもまだ離れないつもりのクロードに、リュシエルはまた笑みをこぼした。
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