しばしの安息 02
束の間の休暇を終え、俺は再びブラックストン家へと戻ってきた。
そしていつまで続くとも知れぬ代理執事として、その日以降は屋敷内の雑務に明け暮れていた。
窓越しに空を見上げてみれば、日に日に日差しは強くなり、徐々に夏の気配すら感じられるかのよう。
当然これだけの陽気であれば、基本的に昼間は暖を取る必要などはない。
しかし現在邸内は暖気で満たされており、むしろ若干暑いとすら言える温度となっていた。
「フィルさん、ご当主様の様子はどうですか?」
汗ばむ室温に、胸元のタイを緩めたい衝動に駆られる。
ただ危うくそれをしそうになったところで、廊下の向こうから歩いてきたリジーの声へ反応し立ち止まる。
「ようやく熱が下がってきたよ。今は退屈して書庫に行きたがっている」
「なら良かった。でもちゃんとお止めしてくださいね」
「それはもちろん。今は無理をさせるわけにはいかないから」
そう言って後ろにある扉を背中越しに指さす。
そこはコーデリアの私室。普段であれば今頃、彼女はこの中で執務に明け暮れている。
しかしこの日はそれもお休み。というのも現在コーデリアは熱を出し、療養に努めているからであった。
暖かくなったとはいえ、だからこそしてしまう油断。
そのせいで一昨日あたりから調子を崩しており、今は執務や趣味のすべてを取り上げ、体調の回復に専念させているのだ。
「ではこれをお願いします。今エイリーンさんが、喉を通りやすい食事を用意してくれていますので」
「了解した。……って、こいつも俺がやるのか?」
自身も看病のため動いているリジーは、持ってきた木桶を俺に押し付けてくる。
なのだけれどそれに満たされていたのはお湯、それと布。
……これでコーデリアの身体でも拭けと言うのだろうか。男である俺に。
ただ俺たちが幼馴染であると知っているが故か、それとも主従なのだからそこは割り切ると考えているのか、まるで気にした様子が無い。
「後でお食事を取りに来てくださいね。エイリーンさんによると、病人に接する人数は少ない方が良いらしいので」
彼女はコーデリアの看病意外にも、屋敷内の仕事が山積み。
シャルマとエイリーンが来て、メイドが三人となってもそれは相変わらずだった。
そのため一つ所に掛かりきりとなっていられないのだろう。
さてこいつをどうしたものかと思うも、俺がやるしかなさそうだ。
老齢のドラウ爺さんに頼むという案もあるが、現在彼は春になって勢いを増した芝生と格闘中。
まだ幼いリジーの弟はうってつけに思えるが、今はエイリーンの出した宿題に向かっているはずで、そこを邪魔するのは気が引ける。
そこで観念して、俺は木桶を手に部屋へ入ることに。
コーデリアも暇つぶしを求めてくる程度には回復しつつある、自分で拭くこともたぶん可能だろう。
案の定彼女は俺が部屋へ入るなり、待ってましたと言わんばかりの反応を示した。
「フィル、頼みがあるのだけれど」
「お断りします。本でしたら持ってきませんよ」
「……ケチね。もう文字を読んでもフラついたりしないというのに」
ベッドの上には居るが、上体を起こしていたコーデリア。
ようやくクシャミや咳も収まり、普段通りのまともな思考を取り戻した彼女は、案の定暇つぶし用の本を欲していた。
普段は忙しい日々であるため、折角休めるこの機を好機とばかりに、趣味であるオカルト方面の雑誌を読み漁りたいと考えたらしい。
「ならせめて話し相手になって頂戴。そのくらいならいいでしょう?」
「承知しました。ですがその間に身体を拭きましょう、もう二日もご入浴をされていません」
渋々ではあるが本を諦めたコーデリアへと、俺は木桶をテーブルに置いて告げる。
この調子なら自分で身体を拭くのも、十分可能だろうと考えたのだが、彼女は少しだけ逡巡して首を横へ振った。
「まだ身体がダルくて仕方ないの。フィル、お願いするわ」
「淑女のされる選択とは思えませんが?」
「たまにはいいでしょ。こんな時でもないと、フィルを困らせるチャンスはないんだもの」
彼女は寄宿学校へ行く前、俺と一緒に育っていた頃のような悪戯っぽい笑みを向ける。
こういった病気の時だからこそ、出来る甘えというものもある。そこで彼女はこれ幸いと堪能することにしたようだった。
とはいえ平気で男の前で肌を晒すのはどうかと思うも、そいつは平然と跳ねのけられる。
本人曰く、「兄は妹の肌に劣情を抱いたりはしないでしょう?」と。
確かに兄妹同然に育った身としては、そこを言われると不埒な思考をするのすら憚られる。
「それで、いったいどのようなお話をしましょうか。"お嬢様"」
「そうね……、なら昔話でも。フィルも聞きたいだろうし」
本を与えられないのであれば、せめて話をするくらいならいいか。
肌着だけとなったコーデリアの背に回り、絞った布を肌着の下へ滑り込ませて拭いていく。
若干気恥ずかしく思い、そいつを誤魔化すようにあえて昔のように呼ぶと、促されたコーデリアは、昔語りをと口にした。
会話というよりも、淡々と説明するかのように話し始めた内容。
それは自身に関するもの。そしてここブラックストン家が行う、"暗殺稼業の先代"に関する内容であった。
「フィルの前に暗殺を行っていたのは、正確に言えばお爺様ではないの。お爺様の次の代として、私の父が担っていた」
俺がこの屋敷に来た時点で、既に彼女の両親は他界している。
一応不慮の事故でということになっているが、なんとなくそれを聞いた当時、幼い俺にしてもなにか説明の出来ぬ事情があると肌で感じていた。
「その辺りについて、俺は詳しく聞かされていません。おそらくアーネスト様は、聞いても答えてはくださらなかったでしょうから」
「お爺様もあまり話したくないだろうから、その予想は正解ね」
それにしても、コーデリアの父親が先代の暗殺者であったとは初耳だ。
屋敷に残った数少ない使用人である、庭師のドラウ爺さんあたりは知っていたのだろうけれど、彼もまたそういったことを口にはしなかった。
おそらくそこには何か、重大な部分があるに違いない。
けれどなにかを話そうとしたコーデリアは、一瞬口を噤む。そしてそれを呑み込み、話の軌道を修正に掛かった。
「ともあれそういう訳で、昔は私がその後を継ごうと考えたわ」
「ですがお嬢様には、そういった"才能"が……」
「残念ながらないわね。むしろ適正という面ではまるでダメ、もっともお父様も暗殺者としての才能は持っていなかったけれど」
自身が後継になりたいと考えるも、コーデリアにはそれが叶わなかった。
コーデリアが持つ才能については知っているが、暗殺などという血生臭いものとは、まるで畑違いの内容。
運動神経などは特別悪いとは言わないが、それでも暗殺稼業をこなすには、かなり不足であると言わざるを得ない。
「だから早々に諦めて、貴方を動かす側になった」
寄宿学校に行っていた数年、彼女はこの件で悩み続けていたに違いない。
その結論として、卒業と共にすぐこの屋敷へと戻り、アーネストから家督を相続した。
あんなにすぐとは思っていなかったようだが、今にして思えばだからこそ簡単に承諾したのだろう。
「でも個人的には嫌いじゃないのよね、私自身の才能は」
「昔はよく見せて頂きました。今はもう、絵を描かれないのですか」
コーデリアの宣告された才能。それは"描く"というものだ。
油絵や水彩、鉛筆画に果ては彫刻までも器用にこなすため、美術の分野を幅広くこなす才能を与えられているようだった。
子供の頃は俺が庭を走り回り、コーデリアが画材を持ちついて走っていた。
面白い物を見つけてはスケッチをしていたが、当時から齢のわりにかなり上手かったように思える。
「時々ね。見たければ見ていいわよ、クローゼットの奥に放り込んでいるから」
「あれを自分が開けるのはどうなんでしょうかね」
「今更気にはしないわよ。気恥ずかしさだけで言うなら、今の状況の方がよほど上でしょう」
言われてみればそうだ。なにせ今の俺は、限りなく薄着となった彼女の身体を拭いているのだ。
これと比べれば、自分が描いた絵を見せるくらいなんでもないか。
俺はコーデリアの身体を拭き終えると、着替えのシャツを渡して立ち上がる。
そして彼女が示すクローゼットを開くと、奥の方を探って三つばかりのカンバスを取り出した。
見ればそいつは風景画が二つと、それとは別の物が一つ。
風景画の片方はブラックストン邸の敷地内。もう一つはよく知らないが、おそらく寄宿学校の風景だろう。
三つ目の方は比較的新しく、まだ描きかけではあるが人物画のようだ。
「暇を見つけては進めているのよ。主にフィルが屋敷を離れている時に」
「なんだか除け者にされているようで寂しいですが、良い絵です」
「嘘ばっかり。フィルは興味ないでしょうに」
簡潔にではあるが、目にした絵に賛辞を贈る。
とはいえ知識だけは多少あっても、俺がそこまで芸術の類に興味がないのを知っているコーデリアは、小さく微笑んでいた。
幼馴染である彼女には、このようなことお見通しか。
「ところでその肖像画、誰だと思う?」
「はて……。これだけでは判別がつきませんね。ですがおそらくアーネスト様でしょうか」
もう一度肖像画の方を見てみると、まだ描いている途中なそれは、かなり大雑把な下書きをしているだけで、具体的に誰であるかまではさっぱり。
ただなんとなくではあるが、雰囲気からして男だろうか。
誰を描くのかを決めかね、とりあえずここまで描いたという印象だ。
近しい人となると祖父であるアーネストか、あるいはドラウ爺さんか。
もっともコーデリアの口振りからすると、ここに俺が描かれる可能性はまだ残っているようだ。
そこで僅かな期待を込め、要求めいた言葉を発してみることに。
「もし俺を描いてくれるのであれば、この上なく喜ばしいですが」
「次も上手くやってくれたら、その可能性も増してくるかもしれないわね」
「なるほど、それは頑張らなくてはいけません」
若干ではあるが、俺が描かれる芽は増してくれたらしい。
それにしても、次か……。穏やかな日々はもう終わりを告げ、また血生臭い場に身を投じなくてはならないようだ。
俺はコーデリアの言葉に身を引き締めるのだが、その次とやらについて口にした彼女が、若干表情を曇らせたのに気づく。
「フィル、次の標的についてだけれど……」
「どうかされましたか?」
「……いいえ、なんでもない。期待しているわ」
どことなく気まずい空気で、コーデリアは視線を背けて励ましを口にする。
しかし俺には彼女の口振りから、まるで罪悪感にも近い感情が漏れ出しているように思えてならなかった。




