近づく日 03
開かれた木製の扉をくぐり、暗い室内へと足を踏み入れる。
薄暗さに慣れた目ではあるが、部屋の中を見渡せど何も見えず、どうしたものかと思っていると、背後で明るい光が灯るのに気づく。
振り返ってみれば、そこではシャルマが室内に設置したガス灯を点けていた。
近年では比較的手が届きやすくなったとはいえ、ガス灯はまだまだ高価な代物だ。
店舗などであればともかく、特に一般の家庭に使用をと思えばかなりの額を支払う必要が。
このアパートそのものにそういった設備があるとは思えない。つまり特別に金銭を払い、この部屋だけ工事をしてもらったということになる。
「意外に豪勢な部屋だ。大丈夫なのか?」
見回してみれば、その部屋はさほど広いわけではない。
ただ置かれた家具は簡素ながら作りが良さそうで、壁には意味の分からない抽象画が掛けられていた。
シャルマはさきほど、ここが自身の隠れ家だと言っていた。
口調からして誰かと共用の部屋ではなく、彼女が個人的に有している物件といった様子。
ということはこの良さ気な家具の数々やガス灯は、シャルマ自身で購入したということになる。
俺は彼女がこのような部屋を持っていたことより、かかった費用の方を気にし口を開いた。
「コーデリアからとは別に、ミセスからもお給金を頂いているもの。ちょっとくらいは贅沢をしてもいいでしょ」
「なら安心だ。……ということはもしかして、俺よりもかなり貰ってるのか」
「たぶんね。大きな屋敷をとまではいかないけれど、郊外に小さな一軒家を買えるくらいには」
もしやと思いながら問うてみると、シャルマはアッサリと意外なほどの貯えがあることを示唆する。
どうやら本来の主であるミセスKからは、ブラックストン家が払っている以上の給金を頂戴しているらしい。
それであれば、彼女が言うところのちょっとの贅沢をするには不足ないはずだ。
「まったく羨ましい限りだ。俺なんてワインのボトル一本を何日も考えて選ぶってのに」
「気が向いたなら紹介してあげるわよ? あの方は常に協力者を求めているもの」
「ご当主様が機嫌を損ねそうだから、そいつは遠慮しておくよ。……で、結局あの人は何者なんだ?」
決して本気ではないと思うが、誘いを口にするシャルマ。
俺はそれに対しやはり冗談交じりで断るのだが、そこで前々から抱えていた疑問、彼女の主である"ミセスK"の正体を単刀直入に問うた。
すると彼女は一瞬の思案を経て、簡潔に答えを告げる。
「あの方はそうね……。この国の中心、とだけ言っておくわ」
「なるほどね。それだけ聞ければ十分だ」
「なによ、たったこれだけの説明でいいの?」
逡巡しながら発した答えに対し、俺の反応がアッサリとしたものであるのが気に食わないようだ。
シャルマはジトリとした視線を向けつつ、壁際のソファに荒々しく腰を下ろす。
彼女の気持ちもわからないでもないが、実際あの言葉でおおよそ理解したのは確か。
疑念に思っていたあの人物の正体ではあるが、想像していた正体の候補のうち、一つが真っ先に浮かんだのだ。
「今の言葉で、なんとなく正体を察したからね。君だってその一言で察してもらえると思っていたんだろう?」
「……まあ、そうだけど。こうも簡単に理解されると、それはそれで面白くない」
そのことを伝えるも、やはりつまらないのか口を尖らせた。
思い返してみれば、色々とヒントめいたものは転がっていた。
グライアム市において、有数の財を誇るブラックストン家の当主である、コーデリアのやけに丁寧な対応。
それに他国人であるシャルマを、わざわざ遠いこの国まで呼び寄せてまで仕えさせる相手だ。それ相応の地位があるのは察しが付く。
彼女のミセスKへの言葉遣いなどから察するに、あの人物はそれこそこの国の中心に位置する人物に違いない。
「けれど肖像画や写真で見たのとは、かなり印象が違っている気がするんだが」
「公に表へ出ている方は偽物、囮役ね。頻繁に狙われるのが明らかだから、小さい頃に入れ替わったそうよ」
この国で生きている以上、肖像画や写真を何度となく見る機会はあるが、あの人物はそれとは人相が異なっていた。
これまで見てきた人物はもっと細面であり、ミセスKのように穏やかさを前面に感じる、ふくよかな印象ではなかった。
ということはどちらかが本物ということになるが、シャルマによると表立って出ている方が偽物であると言う。
「俺たちの関係者で、他にこれを知っているのは?」
「屋敷に居る人間だと、コーデリアとドラウくらいね。あとはどこかに居る前の当主と執事長くらいかしら」
「ということは暗殺の現場に居る人間で、今までずっと俺だけが蚊帳の外だったってことか」
「拗ねないでよ。話さない方が無難だってのはわかるでしょう」
彼女の言う通り、俺に話さなかったのは確かに無難な選択なのだと思う。
知る者が少ない方がリスクは低い。それにこんな物騒な稼業だ、何かの拍子で俺が捕らえられ、我が身可愛さに保身のネタとして漏らす可能性もあった。
もちろん自ら話したりする気はないが、俺が逆の立場であればやはり話さなかったかもしれない。例えどう思われようとも。
俺はそう考え、自身を納得させる。
そして話題を変えるべく、ここに来た本来の目的を問うた。
「ところでわざわざこんな隠れ家まで連れて来たのは、いったいどんな内容を語ってくれるつもりだったんだ? まさか色っぽい話なんてことはないだろうし」
「当たり前。半分は今の話、もう半分は……」
どうやら要件の内半分は、あのミセスKの素性についてのものであったようだ。
ブラックストン家にとっての復讐が、実を結ぶ時が近づきつつある今、少しでも俺の疑念を晴らそうとしてくれていたらしい。
もちろん信用に足らぬと判断されていれば、この話も無かったに違いない。
そしてもう半分。これまで誰にも告げて来なかった隠れ家の存在を明かしてまで、彼女が話したかった内容。
俺がシャルマの言葉に耳を傾けるのだが、彼女はフッと息を吐くと肩を竦めた。
「やっぱり、止めておく」
「今更それはないだろう……」
「気が変わったのよ。それにちょっとくらい秘密の多い方が、男も女も魅力的に見えるってものでしょう?」
「……自分で言うかね、そういうことを」
どういうわけか、もう半分とやらに関し口を噤むシャルマ。
いったいどんな心境の変化があったのかは知らないが、ここへ案内した理由であるはずのそれを、話す気はなくなったようだ。
俺は自らを魅力的と断じる彼女に、呆れ交じりな視線を向ける。
「そうむくれないでよ。お酒の一杯くらい奢るから」
シャルマはそう言うと立ち上がり、棚から一本の瓶を取りだす。
グラス二つと共にそいつをテーブルに置くと、それぞれにシングル分の量を注いでいった。
「秘密にされ続けた対価が酒の一杯じゃ、到底割に合わない気がする」
「不足分は酒そのものの価値で相殺、ってことで。よく見てみなさいよ、十分あなたを満足させられるだけの品と自負しているんだから」
「言われてみれば確かに。こんな物、いったいどこで手に入れたんだか。けれどこれを飲ませてもらえるってのなら悪くない」
とはいえまだ納得しきれていない俺へと、彼女は瓶のラベルを見せる。
そこに書かれていた品名は、かなり名が知られた蒸留所のもので、普通に買えば俺の財布が何度も空になってしまうのは避けられない高価な逸品。
そんな買うのにかなり躊躇してしまう物を、振舞ってくれようとしているようだ。
俺は受け取ったグラスへと、これ一杯でいくらになるのだろうかと、愉しむに余計な思考をしながら口をつける。
すると値段相応と言えるかはどうかはわからないが、豊潤な香りが鼻へと抜けていった。
ここまで上等な酒はそうそう飲めるものではなく、自身でもちょっとだけ機嫌が良くなるのに気づく。
俺がその酒で機嫌を良くしたのに気づいたか、小さく微笑んだシャルマもグラスに手を伸ばす。
ただシャルマはあまり酒が強い方ではないのに加え、かなり度数の高い酒を一気に煽ったのもあって、大きく咳き込んでいた。
案の定、喉を焼く感覚には抗えなかったらしい。
「まったく、弱いんだから無理しなけりゃいいのに」
「これは決意表明よ。……最後の仕事に向けてのね」
慣れぬ強い酒にやられ、ガス灯の明かりに照らされ渋い表情をするシャルマ。
そんな咳き込む彼女の背を軽く摩ると、一瞬だけ気まずそうな様子となった彼女だが、すぐに一転して真剣な声色で呟いた。
シャルマもまた理解している。
次の暗殺対象となるであろう、ハーヴィー卿を討った時。それがこの暗殺稼業の最後となると。
「なら前祝いも兼ねて、だな」
俺はそう言って、置かれていた水差しを手に取る。
そして酒が入ったシャルマのグラスに注ぎ足すのだった。




