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宮川秋穂

作者: 小野宮木

 僕は彼女が気に入らない。


 一週間前、彼女は突然僕らのクラスにやってきた。始業式でも何でもない日に。僕は突然というものが嫌いだ。転入生の知らせは前日になって先生から伝えられ、僕は面食らった。僕にとって予想できないものは邪魔者、そして恐怖だった。何事も決められたレールに沿って進むできであり、それは僕の人生も然り。彼女の登場は計算外であり、僕のレールを捻じ曲げるようなものだった。だから僕は、彼女が登場する前から彼女のことが気に食わなかった。

 そんな転校生に対する印象は、面会してからも変わらなかった。むしろ悪化した。僕はこのクラスの学級委員長であるため、担任の意向で当日の朝、クラスメイトよりも先に彼女に会わされた。

 職員室に入ると既に彼女はいた。彼女は小さな椅子に座って担任と話している。転校初日だというのに、緊張した様子もなく彼女は笑っていた。気に食わない転校生は、僕の気持ちも知らずに呑気に笑っている。その事実にまた苛立った。しかし突っ立っていてもしょうがない。ぶつけるあてのない苛立ちを抑えながら、重い足取りで僕は担任へと近づいていった。ある程度近付くと、僕の第六感は何か異質なものをとらえた。彼女の周りの空気だけ何か違ったのだ。そこにあるのは、何か暖かくて、眩しいもの。彼女が何か言うたびに担任だけでなく周りの先生達も一緒に笑い、職員室の重い空気は、軽やかで、そして澄んだものへと変化した。彼女の薄桃色の唇が疲れを知らないように動くたびに、肩で切り揃えられた柔らかな栗色の髪がふわり踊った。僕の胸は何だか騒ついた。彼女の纏う空気は、僕をどこか知らない世界に引きずり込もうとしているように思えた。


「おっ、来たか霧野(きりの)


 担任の権田(ごんだ)が俺に気付いた。いつもしかめっ面のその男の表情は、気のせいか柔らかく見える。


「転校生の宮川(みやかわ)さんだ。よろしくな」


 権田が隣の彼女を手早く紹介している間、彼女は立って、僕に軽く頭を下げた。そして紹介が終わると、僕の目をじっと見つめた。僕はその視線から逃げるように目を逸らした。大きな薄茶色の瞳で覗き込まれると、全てを見透かされそうな気がしたのだ。


「彼は霧野くん。4組の学級委員長。とても真面目で勤勉で、学級委員長の仕事もよくやってくれてる。本当に頼りになるから分からないことがあったら彼にな」


 権田が今度は僕を紹介した。僕も彼女と同じように軽く会釈をした。目はやっぱり合わせられなかった。代わりに彼女の鼻の頭を見つめた。本で読んだことがある。相手の鼻の頭を見ると、相手は目が合っていると思ってくれるそうだ。鼻の頭を見ていると、必然的に彼女の柔らかな笑みが目に入った。それを見て僕は驚く。それは愛想笑いや作り笑いではなかったのだ。彼女は心から幸せそうに笑っていた。そんな笑顔を向けられる理由が思い浮かばないので、僕の心は一層騒ついた。


「宮川秋穂(あきほ)です。広島から来ました。よろしくお願いします」


 鈴の音のような声が僕の鼓膜を震わせた。ずっと聞いていたい、そう思えるような声だった。気に入らない奴なはずなのに、もっとその声を聞きたいと思った。そしてそう思っている自分に気付いたとき、僕の心は苛立った。やけに美しい響きを帯びた、芸名みたいな名前もなんだか気に食わなかった。


「霧野浩介(こうすけ)です。困ったことがあれば言ってください」


 僕は作り笑顔で応じた。言ってくれるな、ほんとはそう思っていた。気に入らない奴と話したい人間などいる訳がない。だけど僕は学級委員長が転校生に言いそうないかにもな一言を述べ、完璧な笑顔を作った。上の立場の人間は、頼られることを喜びとし、困った人を助けるべき存在。それが社会の常識だ。守られるべきルールである。そして僕はそれを守ったのみである。しかし、彼女の笑顔を見ていると、自然と口角が上がりそうになった。それもまた僕のペースを乱した。


「ありがとうございます」


 彼女はまた爽やかに笑った。僕の本当の気持ちになんて気が付いていないようだった。彼女も所詮周りの人間と同じなのだ。僕は安心した。知っているのだ。本当の自分は、社会が引いたレールから外れていることを。僕は真面目なんかではなく、面倒くさがり。人間愛に溢れた人格者などではなく、他人などどうでもいい冷酷人間。それを他人に見透かされてしまうことが、僕は何より怖かった。社会が作り上げた自分を崩されるのが恐ろしかった。それがたとえたった一人の人間の中であれ。どうしてこんなにも社会のレールにとらわれてしまうのか、それは自分でも分からない。僕は分からないものが嫌いだ。はっきりしないものは怖い。でもそれだけは、答えを知りたくないと思っていた。知ってしまえば、今までの自分が音を立てて崩れてしまうような気がした。今まで信じて生きてきたものが何の価値もないただの空想だと知って、正気でいられる自信が僕にはなかった。

 それから僕と彼女、権田の三人は教室へと戻った。教室に着くと、彼女はクラスメイトの前で正式に紹介された。彼女のカリスマ性はたちまち皆を虜にした。きりりとした端正な顔立ちは単純に目を引き、堂々としたその姿からは明るい性格がにじみ出ていた。澄んだ声は教室の隅までよく通ったし、唐揚げが好きだというどこかお茶目な自己紹介は空気は和ませた。

 やはり僕は彼女がどこまでも気に入らなかった。僕が苦労して築き上げた人気を、彼女は僕の目の前で一瞬にして手に入れてみせた。美しい容姿に愛くるしく大らかな性格、素直さに勇気、愛。僕が喉から手が出るほど欲しているものを、彼女は生まれながらに全て持っていた。僕は、腹立たしかった。悔しかった。羨ましかった。悲しかった。

 そして彼女のことが、大嫌いになった。

 一週間経っても、その気持ちは変わらない。彼女はいつも幸せそうだ。どんなにつまらない普段の授業でも、面倒な掃除の時だって。僕が、心のこもってない笑顔を貼り付けて学校を案内した時もそうだった。気を利かせて言ったくだらないありふれた冗談にも、彼女は楽しそうにころころ笑った。

 彼女を見ていると惨めな気分になった。人生を謳歌している彼女に対して、自分はどうなのか、嫌でも考えてしまう。そして自分が満たされていないような感覚に陥るのだ。

 どうしてだ?僕の人生は完璧なはずだ。今のところどこにも欠陥がない。彼女を除いて僕のレールを曲げようとするものはないし、僕はそのレールを外れず歩いている。学級委員長として生徒を纏める模範生。成績優秀で陸上部でも好成績を残す高校二年生。後輩から慕われ、先輩からも一目置かれる人格者。それが僕だ。これは決して過大評価ではない。僕は主観を信じない。

 ということは、彼女なのだ。僕の人生を狂わせようとする犯人は、僕の心をかき乱すのは、彼女なのだ。


 何度でも言おう。僕は彼女が気に入らない。




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