社交界デビューの心得
中々届かないハンドレット侯爵からの正式な書状に、時折不安に駆られていたアイネクラリスが、ほっと胸を撫で下ろせたのは、ラティアスとの手紙のやり取りを初めてから、1か月後の事だった。
ラティアスの言葉を信じていない訳ではないが、無理強いした手前書状が届くまでは安心できない複雑な心境が、初めて感じる感情で正直怖かったのだ。
その事を侍女のリリーに話すと、それは良い経験をされましたと言われ、何故かと尋ねれば、色々な感情を知ることができた事に対しての言葉だったらしい。
良い感情も悪い感情も人には等しくあるもので、それを実感しながら成長し生きていくのだとリリーは話してくれた。
思い返せばこの歳になるまで、私は特に不安に苛まれる事もなく過ごして来た。
それはひとえに両親だったりシオン殿下であったり、この屋敷に勤めてくれている使用人達が、勤めてそう過ごせるように心を砕いてくれていたからだろうし、私の感情の揺れ幅が狭いせいも在るのかもしれない。
「私って、面白味の無い人間ね」
困ったものだと漏らすと、リリーは優しい笑顔で否定してくれた。
「アイネ様はこれから変わっていかれるのですよ」
リリーから大丈夫と力強く言われれば、そんな気になってくるのは昔からだった。
「それに、ハンドレット侯爵様より正式な書状が届き、アイネ様の社交界デビューのエスコートをされることが確定いたしましたから、今までのように可愛らしく笑っているだけでは許してもらえなくなったと思ってください」
いつも優しい言葉をくれるリリーとは思えないような言葉に、困惑しかない。
「エスコートして頂く方がシオン殿下であれば今までのように可愛らしく笑っているだけでも良かったのです。ですがラティアス様となると、誹謗中傷の嵐だと理解しておいて下さい」
どこか怒りにも似た笑みを向けられ、慌てて姿勢を整えると、リリーは納得したのか再び口を開いた。
「まずは歳の差がり過ぎるのが問題です。こういっては何ですが、ラティアス様が身持ちの固い方であったら、歳の離れたアイネ様を大切に思っての純愛と取って頂けたでしょうが、現在お付き合いしている女性がいるにも関わらずとなると、アイネ様が悪く思われるのです」
怒りの矛先がラティアスに向いたのか、苦い顔を見せるリリーから目が逸らせない。
「でも、そこは私が無理を言ってお願いしたから仕方ないんじゃないかしら」
口を挟んで良いものか悩んだあげく、ラティアスばかりが悪者にされるのも申し訳なく申し出ると、解ってないとばかりに首を左右に降られて終わる。
「こういっては何ですが、アイネ様の申し出くらいラティアス様程世間慣れした方なら、子供の我が儘を嗜めるように簡単に断れた筈ですし、私からすれば断るのが優しさだったと思います。」
アイネクラリスからすれば、お月さまする女性がいるにも関わらず、我が儘を聞いてくれた優しい人と位置付けられているのだが、リリーは違うらしい。
「しかも相手のご令嬢リナリス様はご婚約をされることが視野にお付き合いされてあったとか、あちらは伯爵家こちらは公爵家、権力にものを言わせて奪い取ったと思われても仕方ないのです」
勢い余って目の前のテーブルに手を叩き付けるのは良いが、リリーの掌は大丈夫が心配だ。
「リナリス様だけではありません。年齢的に上の方なら、ラティアス様の奥方の座はどんな手段をとっても手にしたいものなのです」
漸く落ち着いたのか、大きく方で息を整えたリリーは、元の優しげな視線を向けてくれる。
「恐らく、アイネ様の社交界デビューは、初々しさとはかけ離れた、手練れの令嬢方からの洗礼を受ける事となると思いますが、アイネ様が初めてご自分で選ばれたんです。私も持てる全てで応援させて頂きます」
最後にはいつものリリーに戻っているが、多分色々と思うところはあるのだと思う。
それでも必ずアイネクラリスの味方でいてくれる彼女は、かけがえのない大切な人だ。
「となると、私は我が儘な令嬢といった振る舞いを取れば良いのかしら?」
リリーの手練れとする令嬢がどんな方なのか分からないが、自分の身分からすればどんな振る舞いも、大抵許される事は理解している。
「いいえ、我が儘な令嬢ではいけません。可憐で無邪気なご令嬢をアイネ様は勤めあげてください。私は会場にいる女性の中で一番美しく仕上げてご覧にいれますから」
にっこりと笑うリリーに、了解しましたと力強く頷いて答えたのだった。