自分に責任を持つ事
立川談志の「文句を言うにも資格ってものがあらぁね」という動画を見ていて、考えさせられた。
談志の言わんとしている事は次のようなものだ。ある時、僕が自分の子供を事故か何かで亡くしたとする。子供がいるという設定にする。
この時、僕は自分の不注意で子供を亡くしてしまう、子供を失った悲しみに浸っていると、周りの人が「この件は、国に訴えたら賠償金五千万円取れますよ。国にも問題があるんですから」と言う。この際、何らかの公的施設に問題があったという事にしよう。
それに対して僕が「いえ、これは自分の不注意ですから、子供を失った悲しみは自分のものですから訴えたりしません」と言ったら、回りの人間は不審に思う。「五千万円取れるから取った方が良い」 しまいには、次のような言葉も聞こえてくる。「あの人は、国に訴えたら金取れるのにそれをやらないなんて、亡くなった子供への愛情がないのかしら」 やがて、僕は変人扱いされてしまう。
談志はそういうたとえ話をしていた。この倫理が様々な所に広がっている。談志の言葉で言えばこれは「甘ったれ」だという事になる。「甘ったれ」というのは、自分が生きる事の悲しさ、辛さを全てシステムに置換してしまうような状況を指す。それに対して、テレビ・企業は加勢していて、「こうすれば、様々なものは手に入る」と宣伝する。
談志の言葉をどう受け取るのか、という点は難しい所であるが、現在というのは談志の言う通り、自分が生きている事から誰もが逃げている状況であると思う。
わかりやすく言えば、「子供を失った悲しみ」というのを五千万円という「金」で代替できるのかという事だ。そう言うと、人は「それは無理だ」と言うかもしれない。が、彼らはその後すぐに「でも、そうはいっても、取れるものは取るべきだ」というような話に繋げる。その時の彼らは悲しんではいない。彼らは、自分の悲しさ、生きる事の悲しさを全てシステムに置換しようとしている。
談志の言う通り、現在はあらゆる事がそうなってきている。自分の話をすると、「小説を書いている」と言うと、「じゃあ、芥川賞狙っているんだね」という話になる。僕が「賞がどうとかではなく、自分の中の文学というものを追っている」と言うと、人は変な顔をするだろう。そして、人には僕が理解不能になるだろう。小説を書くとは、新人賞を取り、作家になるための手段という意外には大抵の人は考えられないのだから。
文学というのは極めて個人的なものであると思っている。また、それは生きる悲しみを描くものであると感じている。しかし、人にとってはそうではない。生きる悲しみを描こうとなんであろうと、それは何らかの形で、賞とか金とかの、システムによって計測される限りにおいて見えるものとなる。人と話していると、ほとんどその人と話していないように感じる事がある。個人と話しているというより、共同幻想の一端と話しているような気になる。
子供を失った悲しみは金に変えられるか、と言うと人は「否」と言うかもしれないが、彼らは、すぐに「子供を失わないようにするにはこれからどうすればいいか」、「もっと県は注意すべきだった」「責任は〇〇にある」と話し、自分の存在を忘れる。誰かが死んでも、それはニュースの中の一事件である。子供が誘拐されて殺されたとすれば、彼らは憤る。自分ないし自分の子供に対してそれは絶対にあってはならないと思うからだ。では、「あってはならない」とはどのような事なのか。この世から犯罪者を一人残らず消して、子供が誘拐される事が一つもなくなったとする。彼らは今度は、病や老いに怒りの矛先を向けるだろう。「こんな事はあってはならない」
談志の言いたいのは、「生きるというのは自分に責任を持つ」という事だろう。これはきちんと税金を払う、社会人としてキチンとするという事ではない。むしろ、それらによって、生きるという事が忘れられているのが実情で、今の社会は「有能バカ」「利口バカ」が繁盛する時代であるが、彼らはここで言う責任というものがなんであるのか理解する事はないだろう。彼らは責任を、生きる事の意味を社会に預けて行動する。彼らの嬉しそうな表情はそこから来る。彼らの前向きな姿勢はそこから来る。談志的に考えると、責任とは、自分が破滅するとしてもその破滅に責任を持つ事だろう。どのような生き方も可能だが、自分から逃れる事はできない。この当たり前の定理を、人は社会的価値観に置き換える。自分の内心の不安を、社会から承認されているとか、沢山のフォロワーがいるとか、多くの金を儲けているという他人事に置き換える。そこで彼らは安堵する。いや、安堵しようとする。そしてこの安堵をかき乱すものに対しては、大声で怒鳴り声を上げる。まるで自分自身が傷つけられたかのように感じるから。
人は何か問題があれば、解決できると考える。解決しさえすれば、問題はなくなると考える。また、それとは別に、「普通の生き方」があると思う。「普通の生き方」をしていれば問題ないとする。で、ここに「普通でない問題」が入っていくると、彼らは憤る。「普通に生きている人」が、交通事故で足を切断する。子供が失踪する。若くして不治の病にかかる。彼らは憤り、それらは「あってはならない」と言う。
「あってはならない」と正論を吐いていると、自分の存在が忘れられる。…例えば、僕のこのエッセイを読んだ人の中にこう書き込みたい人はいるだろう。
「言っている事は正しいかも知れない。しかし、正論も大事であり、それを蔑ろにするのは良くない。お前は間違っている」
僕はその手の言葉に反対はしない。どっちにしろ、ネットに溢れているのはこんな言葉ばかりだ。だが、こうした言葉によって何が逃されているのか、何が消えていっているのか、それを決して人が見ないという点が重要である。そしてまた、こう言った時、僕の言葉に「そうだ! そうだ!」と言ってもらったとしても、またそこに見落としがある。言葉というのは、あるタイプの人には直感的に届くが、あるタイプの人には決して届かない。言葉は言葉ではないものと繋がっているが、言葉ではないものを「言葉でないもの」とそのままにしか読めない人には、言葉は伝わらない。
立川談志が言わんとしているのは、生きる事は理不尽であり、その理不尽さを引き受けなければならないという事だが、これを定義と捉え、「さすが談志!」なんて言っていると、もう自分の人生は忘れられている。現代の欺瞞はここにあるが、この欺瞞は永遠に続くので、何を言っても無駄だろう。しかし、ある種の人は自分の孤独を感じながら生きるだろう。多くの人は自分の人生を余所に預けて、価値観を他人に預けて、集団でお互いに承認しあい、問題はない事、自分達が正しい事を確証しようとするだろうが、彼らの論理を越えて生の無慈悲さ、ないし豊かさはやってくるだろう。その事を彼らに伝える術はない。しかし自分は談志を通じてーーむしろ、自分が自分に責任を負いきれていなかった事、やはりどこかで、常識に頼って自分を正当化していたのを思い知ったのだった。この意味が、他人に了解されるかどうかはよくわからない。