#005 恋する乙女 #02
「暑いとか寒いとか、眩しいとか。そういうのは遠慮なく言ってね。快適な状態で課題に集中できるようにするから」
青木先生の言葉を聞いてちょっとがっかりしてしまう。
あたしだけ特別扱いなんてのが、無理なのはわかってるけどさぁ。
黒板に向かう背中に熱い視線を投げながら、こっそりため息をついた。おかしいなぁ……もう暑くないのに、やっぱり集中できないよ。
* * *
今日はひとりで昼食。三波ちゃんが受けていた普通の講習は、お盆前で終わりなんだよね。
カルボナーラが食べたかったから、お弁当は持って来てない。フルーツヨーグルトとパスタをトレイに乗せて、窓際の席をキープする。
青木先生、今日は声を掛けてくれなかったなぁ。用事があるのかな。駄目元で職員室に行ってみようかなぁ。
「おしのちゃん、今日はひとり?」
振り向くと、小林さんと『トモちゃん』って呼ばれてる人があたしを見ていた。
「うん、まぁ」って適当にこたえながら、心の中で「どっかに行ってくれないかなぁ」って考えていた。
この人たち苦手なんだよね。ナミちゃんがいない時は急に態度でかくなるしさ。
「ひょっとして、まだ青木先生に期待してんのぉ?」そう言うトモちゃんの目が笑ってる。
「期待って何? あたしは別に、なんにも」
――ちょっと嘘だけど。
「そう? ならいいけどさぁ。ちょっと聞いてくれるぅ?」
小林さんは、あたしが何も言ってないのに隣に座る。当然のようにトモちゃんはその向かいに。
こういうの、いやだなぁ……親しくない人に勝手に近寄られるのは好きじゃないんだよね。せめて「いいよ」って言われてからにしない?
「お盆前の講習ん時さぁ、青木先生が、講習終わってから特別に教えてくれるって言ったんだけどさぁ」
それ、結局来なかったじゃん。みんな帰っちゃって、あたしひとりだったし。他の人が来る予定だったっての、後から聞いたし。
結果的になんか得したからいいけどさぁ。
「あたしら、超浮かれて『やったー』とか言ってたらさ、青木先生、なんて言ったと思う?」
小林さんは、サラダのフォークを突き出してあたしを見る。危ないし、それ。
「……なんて言ったの?」
小林さんたちは顔を見合わせる。
「それがさぁ……」と、少し意地悪そうに顔を歪ませて、小林さんが言う。
「もう少しできるようになれば、やる気も出るんじゃないかな? だってさ。はぁ? って感じじゃない? 笑えるよねぇ」
「あたしら、数学やりに来てるんじゃないっつーのねぇ」
トモちゃんは肘をついて大袈裟にため息をつく。
「青木先生を見に来てるだけだっての」
「やる気出せとか、余計なお世話だしねぇ」
小林さんたちは口々に文句を言う。
あたしも人のこと言えないけど……小林さんたちって、なんか、酷い。だって好きな人に対して、そんな風に言える?
「だからぁ、『あたしら別に、数学の点数上げたいわけじゃないです~』って言ったのよ」
そう言って、トモちゃんはきゃらきゃらと笑った。
「なぁんかね、あんな奴だと思わなかったからぁ。ちょっと冷めた? みたいなぁ」
――あたし、この人たちと同類だと思われたくないなぁ……青木先生、一所懸命教えてくれてるのに、こんな風に言われてすごくかわいそう。だってあたしが聞いているだけでもすごく嫌な感じだもん。
「でさ、青木先生呆れてるから、あたしらだけじゃなくてそういう子、他にもいるし、って言ってやったの」
トモちゃんの言葉であたしは慌てる。
「え? まさか、あたしの名前出したりしてないよね?」
「え~? おしのちゃん、まさかマジで数学やってるのぉ?」
トモちゃんは莫迦にしたような声をあげた。
――うわぁ……だから先生、『ごめん』って言ったんだ。もう最悪だぁ。
「あれ? あたし、なんか余計なこと言っちゃったぁ? ごめんね~」
トモちゃんは、全然ごめんって感じじゃなく謝って、小林さんと一緒に笑った。そして、勝手に喋って食べ終わると、二人してさっさと帰って行く。
「もう、どうしよう……こんなんじゃ、余計に質問に行きづらいじゃんよぉ」
ヨーグルトをスプーンでかき混ぜながら、あたしは愚痴る。
「絶対、勘違いされてる……や、勘違いって言い切れないけど……でも、どうしよ。小林さんたち、ほんと酷いよ」
いつも美味しく食べていたはずのヨーグルトが全然美味しくない。ロウを食べているような気分になりながら、でも残すのは嫌だから必死で飲み込む。
何度もため息をついて、あたしは学食を後にした。
* * *
職員室の前で、あたしはノートを抱えたまましばらく悩んでいた。
ドアの向こう側からは数人の話し声が聞こえる。青木先生もいるけど――声ですぐわかっちゃった――質問したい問題もあるんだけど。
掲示板に貼ってあるポスターを隅から隅まで七回読み終わった頃に、ふいに声を掛けられた。
「何やってんだ? 東雲」
職員玄関から入って来たたなっちが、あたしから職員室のドアに視線を向ける。
「青木先生、いないのか?」
「え、えっと……あの……」
青木先生目当てって、たなっちにもばれてるのかな。いや、そうじゃないよね……あたしが数学の講習受けてたから、だよね?
ためらってるあたしを見て、たなっちは少し笑った。
「――素直なのが、東雲のいいところだと思うけどな」
「はい?」
たなっち、何言ってんだろ?
あたしが悩んでる間に、たなっちは職員室のドアを開けてあたしの背中を叩くように押し込んだ。
「ほら、しっかり教えてもらって来い」
「え、ちょっとたなっ……」
あぁ、たなっちが大きな声出すから、青木先生と目が合っちゃったよ……
「あぁ、じゃあ東雲、教室に行こうか」爽やかな笑顔で青木先生が立ち上がった。
「その辺の、空いてる机借りたらどうだぁ?」と、たなっちが横から口を挟む。
「でもここ、人の出入りが意外とあるし、煙草の臭いもしますから……やっぱり教室の方がいいんじゃないですかね」
そう言う青木先生もほんのり煙草の臭いがする。こういうとこ、やっぱり先生は大人だなぁって感じ。
「しっかり教わって来いよ」とたなっち。
あたしと青木先生は、他の先生たちの笑い声に見送られて職員室を出た。
「先生、用事があったんじゃないですか?」
階段を上りながら訊くと、意外そうな声が返って来る。
「なんで? いつも講習の後は職員室にいるけど」
「あ、そういえばそっか……そうですね」
どうしよう、話題がない。そのまま教室の前まで来ちゃったし。
「俺、用事があるから、とか言ったことないよね?」
青木先生に、つぶやくような声で問い掛けられて、なんて答えればいいのかわからなくなる。
「あ、あの……もう駄目かな、って思ってたから……」
あぁぁ、あたしって、話すの下手だなぁ。
「駄目って?」
先生は教室のドアを開けた。途端に風が吹き抜けて、カーテンが一斉に舞う。
「あぁ……窓閉めてなかったんだな」
目を細めて眩しそうに窓を見る先生に、見とれてしまう。こんなに近くにいるなんて……幸せだよぉ。
ちょっとだけでも独り占めできるなんて、少し前には考えられなかったもん。