#004 恋する乙女 #01
『目にはさやかに見えねども』の、おしのちゃんが主人公のスピンオフストーリー。
時系列としては、第十一章の頃から始まるお話になります。
お盆になると、夏の暑さに終わりの気配が近づいて来る。
じりじりとした日差しも、スコールのような夕立が通り過ぎると空気がすぅっと冷えるので心地いい。夜には長袖がいることもあるし。
お寺の本堂のひんやりとした畳に足を投げ出して、あたしは天井を見上げた。
涼しげな色合いの灯篭がくるくると回り、湖の底にいるような気分になる。お線香の匂いも結構好きだし、帰りはおじいちゃんたちと外食できるし、短い夏休みの楽しみのひとつ。
「あれまぁ、お行儀悪い」
おばあちゃんが呆れた声を出した。
「えへへ……ごめんなさい。でも、こうすると気持ちいいんだもん」
あたしは謝りながら膝を折った。
「あれ? おじいちゃんはぁ?」
おばあちゃんと一緒に位牌堂へ向かったはずなのになぁ。
「昔近所にいた人が偶然見えててね、今立ち話してるのよ……本堂に来たら? って言ったんだけどねぇ」
「おじいちゃんは脚が丈夫だから、立ち話が苦にならないのよきっと」
そう言ってママが笑う。おばあちゃんは膝が悪いから、本堂に用意されている椅子に座った方が楽なんだよね。
ベージュ色の低めの椅子は、座布団なんかと一緒に本堂の隅に積まれている。おじいちゃんおばあちゃんと一緒にお参りしに来た子どもたちが、座布団や椅子をいくつも出して来て並べて遊んで――あたしも小さい頃よくやってたっけなぁ――叱られている。
あたしは今、毎年の恒例行事でおじいちゃんの家に来ている。
お盆期間は講習もお休み。青木先生に会えないのは、ちょっとつまんないけど、おじいちゃん家で過ごす夏は濃縮果汁三〇〇%って感じ。すっごく楽しい。
毎年、おじいちゃん家から徒歩三分の海水浴場で泳いだり、パパがバーベキューをしてくれたり、家の前の道路で思いっきり花火をしたり……近所の人が同時に花火をしてたら、なんとなく一緒にやったりして。
花火だけならあたしん家の前でもできなくはないけど、やっぱり開放感が違うよね。うちじゃ、さすがに打上げ系の花火はできないしさ。
「灯篭流しまでいれば良かったしょ……本当に明日帰っちゃうのかい?」
扇子で扇ぎながら、おばあちゃんが残念そうな顔をする。
「今年はねぇ、翠も高校生になったし――そうそう、この子、数学の講習なんて受けてるのよ。びっくりでしょ」
ママは大袈裟に目を丸くしながらおばあちゃんに話す。
「あれまぁ、あんな算数嫌いでどもなんなかったのに……大人になったねぇ」
おばあちゃんの嬉しそうな顔を見てると、今でも本当は苦手なんだけど、とは言えない。
「明後日から、また講習があるんだぁ。一回でも休んじゃうとついて行けなくなっちゃうからさぁ」
あたしが説明すると、おばあちゃんは目を細めて何度もうなずいてた。
明後日は青木先生がメインの講師。講習自体残りは二回しかなくて、明後日は前期でやったことの復習、そして最後はまとめのテスト。だから絶対休めないんだよね。
でも、先生に会えるのは嬉しいけど、同時に少し切ないんだよね……
あの時は先生が声掛けてくれたけど、あたしの気持ちなんとなく知って、断られたのかなぁって考えちゃう。あの後も普通に勉強教えてくれたし、次の講習の時も、全然、普通に話してくれてたけど……
パワーストーンの効き目って、実はあんまりないのかも。
「今年は海に行けなくてごめんね……」と、おばあちゃんは外を眺めながらつぶやいた。
お寺の前庭は白い光に満ちていて、お参りに来る人や車が行き交っている。顔見知り同士が会うと、ぺこぺこお互いにお辞儀をくり返して挨拶してから、そのままその場で楽しげな立ち話が始まる。
ミンミンゼミはまだうるさいくらい鳴いてるけど、夜になれば虫の音も聞こえて来る……そういえば、昼間っから鳴いている虫もいるよね。
もう、夏も終わりに近い。短い夏休みもあと少しで終わる。
* * * * * *
今日も早起きする。ようやく、ママに起こされなくても六時半に起きられるようになったし。
まだ諦め切れなくて、ハート型のペンダントをつけて青木先生が通る時間に合わせて登校して……
ところがうっかり、宿題のプリントを忘れてしまった。ふぇぇ……なんでこんな大事な物を忘れたのかなぁ、あたしのばかぁ。
うちと、いつもの交差点との丁度半分の距離で思い出して、泣く泣く引き返す。
走っても結局十分くらいはロスしちゃうし、もう諦めようっと――そう思いながら、あたしはとぼとぼと歩いていた。
「さすがにもう、学校着いちゃってるんだろうなぁ……」
それでもあたしは交差点に差し掛かる辺りで周りを確認してしまう。
あたしの家から来ると、交差点の左側の少し奥まった場所にコンビニがある。
青木先生はいつもそっちから来るんだよね。
ま、ツイてない時もあるよねぇ。ため息をつきながら交差点を渡った時、後ろから声を掛けられた。
「おはよう――って、今日は遅いなぁ? 東雲も寝坊か? 早くしないと遅刻だぞ」
まさか、と顔を上げると、青木先生が照れ笑いしながらあたしの横にいた。
「あれっ? おはようございます、先生」
「できればカバンだけでも乗せてってやりたいけどなぁ、噂にでもなったら東雲が困るだろうし。頑張って急いでくれ。教室で待ってるぞ」
「あ……はいっ」
嬉しくて力一杯返事をしてしまう。
青木先生は手を軽く振ると、マウンテンバイクのスピードを上げて走り去る。
「……やったぁ。効き目ないかもなんて思ってごめんねぇ」あたしはペンダントを触って小声で謝った。
……って、後十五分で講習が始まっちゃうじゃない。ほんとに急がないと遅刻しちゃう。
ペンダントをぎゅって握り締めながら、あたしは学校へ急いだ。
講習の時は席が自由だから、いい席は早い者勝ち。
今日はあたしが一番遅かったらしく、窓際の一番後ろしか空いていない。あそこって、一番暑い席なんだよねぇ。
「今日は遅かったんだねぇ? 来ないかと思った」
通りすがりに小林さんが声を掛けて来た。この子も、青木先生目当てで特進講習に来ている。でも講習自体はやる気があまりないみたいで、いつも一番後ろの席を取っていた。
「プリント忘れちゃって、途中から取りに戻ってたの」
あたしが答えると、「ふぅん、よくやるよね……」と興味なさそうな返事が返って来た。その様子じゃ、小林さんはプリントやって来なかったのかなぁ。
いつものように説明を聞いて、いつものように問題を解いて――でも、この席は暑くてなかなか集中できない。家でやった時は、さくさく解けたんだけどなぁ。
見回りに来た青木先生が、あたしのプリントを覗き込んで首を傾げた。
「……難しいかな?」
小林さんがくすりと笑ったのが聞こえた。あんただって、ここに座ればこうなるのよ。
「いえ……ちょっと、この席暑くて……集中できないんです」
あたしが言い訳すると、青木先生は納得したようにうなずいて、窓際に寄りカーテンを引く。
「これでだいぶ違う?」
「あ、はい……すみません。ありがとうございます」
先生はちょっとだけ手を上げてからあたしの席を離れ、カーテンをすべて引いて行った。