#001 恋せよ乙女 #01
『目にはさやかに見えねども』の、おしのちゃんが主人公のスピンオフストーリー。
時系列としては、第九章と第十章の間のから始まるお話になります。
「――りぃ?」
ママが遠くで呼んでる気がする……
でもあたしはまだ半分夢の中にいて、それを聞き流していた。
夢の中でも夢を見ているという自覚はあるんだね。
だって『S‐φ‐S』のヴォーカルRyoくんがあたしのクラスメイトになってて、担任のたなっちがお休みして、その代わりに氷神トーキが副担で――Ryoくんもトーキも今やってる学園ドラマに出ているもん、それが現実じゃないことくらいはわかる。
「……もう、ちゃんと起きられないんなら、夜更かししてまで勉強する意味がないでしょっ」
今度は耳元で聞こえた。ちょっと不機嫌そうな声。あぁ、夢が消えちゃうよぉ……どうにかして夢のしっぽをもう一度追い掛けようと、夢の中のあたしがもがいている。
だって今は夏休みだもん。少しくらい寝坊したっていいじゃないよぉ。しかも、ものすごぉっくいい夢見てるんだからさぁ。
ママだって、あの俳優――なんだっけ、アメリカとギリシャのハーフだとか言ってた――あのイケメンが夢に出て来たらきっと……
「今日は講習の日じゃないの? シャワー浴びる時間なくなっちゃうわよ?」
――講習?
途端にあたしは慌てて飛び起きた。目の前に、たたんだ洗濯物を抱えたママが立っている。
「まったくもう、うちの眠り姫は」
「うそっ、寝坊? 今何時?」
あたしは目覚まし時計を手に取る。でも……
「あれぇ? まだ六時半じゃない」
ひょっとして止まってる? 電池なくなっちゃったのかなぁ? そう思ってベッドの向かいに置いてあるテレビボードのHDDレコーダーを見る。青白いデジタルな数字は『6:31』と点滅していた。
「……ママぁ~?」
あたしのふてくされた声に、ママは笑いながら返事する。
「目が覚めたでしょ? あんた、一度お風呂入ると長いんだから……パパが洗面所使いづらいってボヤいてたわよ。あんただってパパの寝癖の頑固さはよく知ってるはずじゃない?」
「もう……あたしは構わないんですけどぉ? 気になるなら、パパが早起きすればいいだけじゃん」
文句を言いながらバスタオルを掴んで、お風呂場へ向かう。朝ゆっくりお風呂に入れるのは、お休みの日の特権なのにさぁ。
「りぃ~? 着替えは持って行ったの?」
――うるさいなぁ、ママはぁ。
「面倒だからぁ、部屋に戻ってから着るしぃ」
あたしは大声で返事をしながらパジャマを脱いだ。
髪を洗った後は、きっちり伸ばしながらドライヤーで乾かさないと、天パがきつくてくるくるになってしまう。あたしの天パはパパ譲りで、パパも毎朝寝直しと髪のセット――それを同時にできないのがあたしたちのつらいとこなのよね――にかなりの時間を割いていることは、あたしだって知ってる。
あたしの髪は、ママにやってもらってた頃は洗面所を使ってたけど、今は自分の部屋でドライヤーを使う。だからどうせ、部屋には戻らなきゃいけないの。
あと、今日のテレビ番組のチェックもしなきゃだし……
夏休みや年末は、特番やドラマの集中再放送があったりするから、番組表が載っている雑誌を三冊買わないといけない。
普段は二週間ごとに出てる雑誌の一冊だけなんだけどね。
お風呂場の扉を押す。キィ――と、扉の小さくきしむ音。去年まではそんなに音がしなかったんだけどなぁ。うちってあたしと同い年だから、今年で築十六年になるのよね。
「もういい加減、恥じらいってものを覚えて欲しいんだけど……」
キッチンに戻ったママがまだ文句を言ってる。恥じらいって言ったって……赤ちゃんの頃から裸を見られているのに、今更恥ずかしがったってねぇ。
シャワーを浴びるのに三十分。髪を乾かして、制服を着るまでにまた三十分。でも早く起こされた分、いつもよりずっと早く準備が済んでしまった。
あたしは朝のニュース番組をぼんやり眺めながら、チェストの一番上の引き出しを開ける。若い女子アナが、流行のファッションやアクセサリーを紹介するコーナー。ここだけはいつもチェックするから、録画もしてる。
でもやっぱりリアルタイムで観られるのが一番だよね。早速その日に話題にできるもん。
「――で、今日はデザイナーのハマグチさんに……」
あぁ、これ、こないだ天文のみんなと出掛けた時に見たやつだ。カワイイのが二種類あって、これとどっちを買おうかすごく悩んで、結局違うのにしたけど。
そっかぁ、できたてほやほやの商品だったのね。
「涙型のペンダントヘッドには誕生石やパワーストーンを組み合わせて、アナタだけどオリジナルのアクセサリーを……」
女子アナの説明を聞きながら、あたしは引き出しから小さな包みを取り出した。
美晴ちゃんに呆れられながらも何店舗もハシゴして、ようやく見つけたアクセサリー。ハート型のペンダントで、香水を染み込ませられるようになっている。
パワーストーンは、恋愛成就の組み合わせ。
緊張でどきどきしながら、真新しい香水の瓶を開ける。どうか気付いてもらえますように……どうか、あたしのこと気にしてくれるようになりますように。
今はそれだけで充分。だって高望みし過ぎて、嫌われるのが怖いし……
ペンダントの説明書には、おまじないはいくつか書かれていたけど、あたしは『好きな人の名前を呼び掛ける』という極シンプルなものが気に入った。
ペンダントヘッドに香水を垂らして胸に抱く。そしてその人の顔を思い浮かべながら三回呼び掛ける。それを、朝とお昼と寝る前の三回。
「――青木先生、青木先生、青木先生……」
まだ香水を沁み込ませていないペンダントをぎゅっと握って、先生の顔を思い浮かべてつぶやく練習。
やぁん、どうしよ。それだけでドキドキして来る。
青木先生……今日は会える。苦手な数学の講習で、だけど。はぁ、でも先生に会うのって久しぶりだし、ほんとに待ち遠しいよぉ。
キッチンからはトーストが焼ける匂い。ママが呼ぶ声が聞こえる。
あたしはちょっと悩んで、ペンダントをまた引き出しにしまってからキッチンに向かった。
パパやママに何か言われたらちょっと照れくさいし、学校に行く時につければいいよね。
「あらぁ? りぃ、あなた何かつけた?」
ママは鼻がいい。
「まだつけてないけど、さっき部屋で新しい香水の瓶を開けたから、それかなぁ?」あたしはトーストにジャムを塗りながら答えた。
今日は杏のジャム。果実がごろっと大きめで、ちょっと贅沢なジャム。近所のパン屋さんにしか売ってない、特別なジャムなんだよね。
「また買ったのぉ? あんた、ほんとに飽きるの早いわねぇ」
ママは呆れ顔でそう言うと、目玉焼きをターナーで切り分けてお皿に乗せる。
ママは香水を二種類しか持ってない。普段ちょっとした時につけるのと、何か特別な時につけるの。どっちも有名なブランドのもので、普段つけてるのはパパが選んでプレゼントしてくれた香水らしい。
有名ブランドだってことを教えてもらったのは中学の頃だけど、その割には同じ匂いの人とすれ違ったことがないんだよね。
でも、あたしがコスメを色々買うのは、飽きるのが早いからじゃなんじゃないんだけどなぁ。ママにはイマイチ理解できないみたい。