誰も知らない、淡い恋の物語。
初恋、というものは、この人生で一度しか経験が出来ないものだ。
初めての恋、だから初恋。
そう言われた彼女は、首を傾げた。
「貴女たちは、初恋をしたことがある?」
初恋は大体幼少期や小学生頃に経験しますよ、と相手は笑った。
「なら私は、異質なのだろうか」
初恋などまだで、恋なんてものは理解出来なくて。
それもそのはずで、彼女は生まれてからずっと、病室の中にいた。
幼少期も、小学生頃も。ずっと、病室にいて。
好き嫌い、なんてものは分からない。
本の中の人達の考えは分からない。
何でそんなに悩むの。何がそんなに不満なの。
生きているだけで、いいじゃない。
感情というものがすこんと抜け落ちている彼女は病院内では浮いていて、看護師もあまり寄り付かなかった。
彼女は知りたかった。
自分がここにいる理由を。
生まれてからずっとここにいる自分が、生きている意味を。
好きだとか嫌いだとか、そんな複雑なことは知らない。世間がどうだとか、そんなことは知らない。
でも、彼女は知っている。
膨大なお金がかかる、可愛くもない自分のことを両親が疎んでいることも。
主治医たちが、自分に何かを隠していることも。
そして、一度で良いから外に出てみたいという彼女の小さな小さな願いが、叶うことがないことも。
――***――
空は快晴。
季節は春。
そろそろ梅雨に到来しようかという、そんな頃。
彼女の隣の病室に、患者が入ってきた。
それは、彼女にはどうでも良いことで。
でも、隣の患者にとっては、どうでも良いことではなかったらしく。
そうして、彼と彼女は出会った。
――***――
「初めまして」
いきなり病室に来た彼は言った。
彼女は驚くこともなく、彼に静かにお辞儀した。
「俺、空。君は?」
「……雪」
「雪ちゃん?へぇ、可愛い名前だね」
「…………」
初対面の会話は、それで終わり。
でも、何故か彼は彼女を気に入ったようで、事あるごとに彼女の病室を訪ねた。
彼が彼女のベッドの横で、ただ話す日々。
そんな毎日で、彼女が分かったこと。
彼は病気であること。
彼はスポーツ選手で、大会の途中に倒れてしまったこと。
彼は友達が多いこと。
彼は病気で夢を断念せざるを得なかったこと。
そんな境遇なのに、彼はまるで空のように、底無しに明るいこと。
彼が来てから一ヶ月が経ち、彼女は次第に彼に打ち解けるようになっていた。
まるで雪解けのように、ゆっくりと。
少しずつ話すようになっていた。
彼女は、自分の話をした。
両親が自分を疎んでいること。
自分が病気で、ずっとここにいること。
自分の小さな小さな願い。
今日読んだ本の感想。
彼はその話を静かに聞いてくれて。
彼女にとって、その時間はかけがえのないものになっていって。
梅雨になり、雨が降っていても、彼と彼女の関係は変わることがなく。
でも、彼女は知ってしまった。
もう、病気が治らないことも、余命が僅かであることも、金がかかる延命治療を両親が拒否したことも。
彼女は、彼にそれを言わなかった。
だって、彼が嬉しそうに言ったから。
自分はそろそろ退院するのだと。
彼女は静かに、そう、と呟いた。
自分は死んで。彼は生きて。
不公平だとは、何故か思わなかった。
ただ、彼女の願いが変わった。
彼の退院の日まで、生きていられますように。
――***――
――じゃあね。お見舞い、来るから。
彼はそう言って、退院していった。
騒がしかった隣の病室は、静かになり。
一週間後、彼女の容態が急変した。
手を尽くしても、命の火は消える一方で。
雪解けのように、ゆっくりと。
彼女の命は、消えていった。
悲しいと、思った。
もう一度、彼に会いたい。
それは、彼女が初めて抱いた感情だった。
「生、き、た、い……」
でも、それを願うのは、あまりにも遅すぎて。
彼女は死んだ。
それを知らない彼は、花束を持ってお見舞いに来て。
彼女の死を知らされて、嘆き悲しんだ。
二つの、淡い恋心は。
誰にも知られることがなく、始まり、終わり。
――好きだった。大好きだった。
もう叶わないその感情を、彼はただひたすらに吐き出した。
届ける相手は、この世にいないけど。
それでも、この想いは彼が溜めておくには大きすぎて。
彼女の分も生きようと、彼は誓った。
――***――
これは、誰も知らない物語。
誰にも知られることがなく、始まり、終わった。
二つの、淡い恋心の物語。