隣のストーカー
俺は犯罪一歩手前の行為の片棒を担いでいる。
「なあ、須賀」
隣を歩く男が双眼鏡をいじりながら徐に俺の名前を呼んだ。
「なんだよ」
「今日も須賀の部屋行ってもいい?」
「いいけど」
それはいつから始まったのかわからないが、俺と陽のお決まりの会話だった。
俺の住むアパートは3階建てで、俺はその3階の角部屋だった。
寝食をする部屋にある大きな窓からは、道路を挟んだ向かい側にたつ3階建てのアパートが見える。
そして、その向かいのアパートの2階、左から2番目の部屋を見るためにこの変態はほぼ毎日俺の部屋に通っている。
俺の部屋に着いてから1時間ほど経った頃、カーテンの隙間から双眼鏡で例の部屋を覗いていた陽の肩が揺れた。
「あ、エミさん帰ってきたみたい」
ぱっと咲いた花のような声が陽の口から思わず漏れた。
2人分のコップを手に陽の陣取るソファの隅を座った俺の口からはため息が漏れた。
「今日もストーカーは絶好調のようで」
「お前には見せないからな」
「別に見たくないし」
「よかった、エミさん、今日はそんなに疲れてなさそう」
「そこまでわかるのかよ」
「うん。ずっと見てきたから」
双眼鏡から目を離さずに陽が言った。
顔は見えないけれど、おそらく今このストーカーはアイドルの愛想笑いなんて比でもない笑顔でエミを見ているだろう。
「ずっと見ていたらわかるもん?動物園のベテラン飼育員みたいな?」
「ほらさ、須賀が俺の気分をすぐに察知できるような感じ?俺達、なんだかんだでずっと一緒じゃん?」
「ああ、だから俺、お前の気分とか手に取るようにわかるのか」
「そう。俺もエミさんをずっと見ていたから顔見れば気分がわかるようになったんだよ。愛の力だ。あ、ちなみにエミさんの好物とかもだいたいわかるよ」
犯罪行為一歩手前、というよりはすでに片足を突っ込んでいるストーカー男は誇らしげにそう言った。
「そんな毎日見ていて楽しい?」
俺が呆れながら尋ねると、陽は双眼鏡から目を離してこっちを向いた。
その顔はやっぱり最高級の笑顔だった。
「俺は幸せだよ。好きな人をじっと見れるのって楽しくない?」
同意を求められて俺はしばらく考えた。
「あ、でも、確かに、俺、陽をずっと見ていても飽きないわ」
「だろ?そんな感じだよ。ああ、やっぱりもっと近くでみたいな」
「頼むからつかまらないでくれよ」
「俺、きっとエミさんのこと誰よりも知ってる」
俺が「はいはい」と適当に返事をすると、「ひとまず休憩」と言って陽は俺が入れたカフェオレを口に運んだ。
「あれ、今日の牛乳いつもと違う?」
「わかる?管理人のおじさんからもらったんだ、田畑牧場の牛乳」
「やっぱり?俺、好きなんだよね、ここの牛乳」
「知っている」と言いかけて、俺はその声を喉の奥にしまい残りのカフェオレを飲みほした。
―あれ?俺、陽のこと、知り過ぎなんじゃないのか?
どこの誰よりもこの変態のことを俺は知っているんじゃないか?
「陽さ、遠くで見て我慢するとかはできないの?」
ほとんど無意識のうちに俺はそう言っていた。そんな俺を見て陽は不思議そうに首をかしげた。
「はあ?何言ってんの?出来れば近づきたいに決まってんじゃん」
「お前はさ、物陰からこっそりストーカーする程度に留まっておいたほうがいいんじゃない?」
「なんだよ、急に」
「いや、なんとなく」
どうしてそんなことを言い始めたのか、俺自身、全くわからなかった。
ただ、このストーカー行為が距離のあるものであり続けてほしいと、急に思ったのだ。
「俺が一番エミさんのこと知っているんだから、エミさんがどこぞの馬の骨に引っ掛かる前に俺がなんとかして近づかなきゃ」
「本気で近づくつもり?」
「当たり前だろ、好きなんだから」
何かが、この変態をとめさせろと俺の中で警告している。
もちろんそれは道徳的な意味で止めろという警告かもしれない。
でもそれとは違う何かが俺に止めろと言ってくる。
どうしてだろう。
胸が、痛い。