第八話
*
目が覚めてしばらくの間、ベッドでボーッとしていた。枕元に置いた目覚まし時計に目をやるとまだ六時半だ。
二度寝する気分にもなれずノロノロと洗面所に行き、蛇口をひねる。指先に冷たい水が触れたのと同時に霞みがかった意識が覚醒していき、同時に昨夜の記憶が蘇ってくる。
「あ、あわわわ――」
両手で顔を押さえうめき声を漏らす。
――やっちまった。
――迂闊すぎた。
――夜の観覧車という舞台効果を甘く見ていた。
――完全に流れに乗せられてしまった。
震える指先でそっと唇に触れる。触れただけ――いやもう少し密着していたか? あれくらいならノーカンで通せるだろうか?
時間は一瞬――いや結構長かったような気もする。たしか手をこう、指先を絡め合う形で繋いで――。
「あああああ違う! 私にその気はないからぁ――ぐはぁ!」
反射的に激しく頭を上下に揺さぶった反動で寝起きの脳みそがシェイクされ、立ちくらみを起こして仰向けにぶっ倒れる。その衝撃で洗面台に乗っていた石鹸や歯磨き粉が私の上に雪崩落ちてきた。
しばらくの間、回り続ける天井を眺めながら平衡感覚が戻るのを待った。呼吸を整え、心を静める。
「落ち着け」
言葉に出し、深呼吸をしてから額の上に乗った石鹸を掴んで立ち上がる。散らかった洗面台を片づけ、顔を洗って部屋に戻る。
大丈夫、高校生ならキスくらいする。生きている人間としたのは初めてだが、なにも初キスがイコールでゴールインとなるわけじゃあない。
制服に袖を通しながら登校してからのことをシミュレーションする。玉子と顔を合わせたらまずなんと切り出す? 昨日のことを弁明するべきか否か。そもそもこの話題は封印するべきなんだろうか?
考えれば考えるほど深みにはまっていく。気付くと制服を着終わって鞄も手にしていた。時計を見るとまだ七時半だ。
もう少し時間をつぶそうかと思ったが、今日は早く登校することにした。仮にいつも通りの時間で登校して、校門のあたりで玉子とはち合わせたら間違いなくテンパる。それだけは避けたい。
玄関を出て門扉に手をかけたとき、ポストに何かが入っていることに気付いて私は足を止めた。大きめの茶封筒の先がはみ出しているようだ。
私の家のポストは投函口が大きいので小さめの郵便物ならそのまま入る。とはいえこんなものが届けられる心当たりはなかった。私はポストから茶封筒を取り出そうとしてそれを引き抜いた。
瞬間、全身に悪寒が走る。封筒は口をガムテープで止められていて、送り主も宛先もかかれていない。それだけでも不審ではあるのだが、私を凍り付かせたのは重さだった。
――私はこの重みを知っている。
とっさに周囲に視線を走らせる。誰の人影もないことを確認し、私は再度ドアの鍵を開けて自宅に入った。鼓動が高まるのを感じながら封を破り、そっと中を覗いた。
私は茶封筒を取り落とす。ドサリという音を立てて落ちた封筒の口から、中身が半分ほど飛び出した。
なぜこんなものが――頬を冷たい汗が伝う。心臓が激しく高鳴り、私はドアにもたれ掛かった。ゆっくりと視線を落とし、もう一度足下に落ちたそれを見る。
ひと月前私が殺した男の右手が、封筒の口から指先を覗かせていた。
*
「あれはどういうつもり?」
ふた月前に玉子から告白を受けたのと同じ場所で私は彼女と向き合っている。違いがあるとすれば朝であることと、殺意に近い感情を私が抱いていることだろうか。
「あれってなんのこと――? 美沙、一体どうしたの?」
玉子は私に半ば無理矢理この場所へ連れてこられたときからずっと困惑の表情を浮かべていた。肩も小刻みに震わせている。
「昨日のことで私があんたに心を開いたとでも思った? それでもっと従順にさせようとでも? わざわざあんなものを送りつけるなんて用意がいいじゃない」
私が前に踏み出すと玉子が後ずさる。
「あんなものって? わ、私なにもしらないよぉ」
玉子の目に涙が浮かぶ。私はそのまま玉子を焼却炉横の壁にまで下がらせた。逃げ場をなくした玉子は体の震えをいっそう大きくさせる。
これも演技なのか――そんな考えがよぎる。私は玉子から確かに誠実さを感じていた。だがそれはあくまで私の主観にすぎない。人の心など本来計り知れないものなのだ。こいつは今までずっと私をだまし続けていたのかもしれない。
「私は――私はあんたを信用しかけていた。ううん、信じたいと思った。あんたならもしかして本当に、本当に私を――!」
感情がドス黒く染まっていくのを感じる。もしも今ナイフを手にしていれば、私はためらいなく振るっただろう。
玉子の両肩を掴み、指先に力を込める。
「い、痛い! 美沙、痛いよ――」
「私をみくびるな。私がその気になればお前なんか、今すぐに――」
その時背後で気配を感じ、私は振り返った。建物の影で誰かが走り去る足音が聞こえ、私は弾かれたようにその後を追った。だが建物の角を曲がったときには既に誰の姿もなく、ただ踏み荒らされた地面が何者かがいたことを物語っているのみだった。
私は玉子との会話を思い返す。感情に流されていたとはいえ致命的なことは口走らなかった。たとえ聞かれていたとして、何事かで口論していたとしか思われないはず。
「美沙――」
肩越しに背後を振り返ると、玉子が大粒の涙を流しながら立っていた。
「何があったのか教えて。私は絶対、絶対に美沙を傷つけることなんてしないから」
――まただ。やはり彼女から嘘を感じない。彼女に疑念を向ける自分自身がどうしようもなく下衆な人間である気さえする。
だが事態は既に心の容量を越えていた。もはや何が正しいのか、何を信じるべきかもわからなかった。
「友達ごっこは終わりよ。私はもう、誰も信じない」
それだけいって私はその場をあとにした。玉子の嗚咽が聞こえてくるが振り向かずに教室へと戻った。
授業など頭にはいるはずもなく、私はただ無為に時間を過ごしていった。やがて昼休みになり、由香が私の机にやってくる。
「ねぇ美沙。あんたなんかあったの? 今日はずっと変だよ」
私の異常を察したのか、由香が冗談を交えず真剣な口調で問いかけてくる。いつもなら適当に話を合わせるのだが、もはやその余裕すら私にはなかった。
「なんでもない。ちょっと体調が悪い――かもしれない」
「保健室いく? 私も付き合うよ」
「そういうのじゃないから。――ごめん、私早引けする」
私はそういって鞄を掴み、立ち上がった。
「ちょ、ちょっと美沙!? 待ちなって」
由香が慌ててあとをついてくる。私は構わず教室を出た。
下駄箱で外靴に履き替えたところで、それまで何もいわずにいた由香が口を開いた。
「ねぇ、相談したいことあったら電話しなよ? 落ち着いたらでいいし、夜中だって遠慮しなくていいから」
「――うん、ありがと」
私は由香に笑顔を向けた。最後に残った理性が、彼女を邪険に扱うことを許さなかった。由香とこうして話せるのが最後になるかもしれない――そんな想いがあったから。
*
家に戻った私は真っ先に両手首を処分した。方法は伏せる。知りたければ芹沢五郎で検索すればいい。
処理の際には常に全裸で臨むため、私はそのままシャワーで身体中を洗い流した。風呂場で多少ルミノール反応が検出されたところで問題はない。女は月に一度血を流すのだから。
バスルームを出た私は下着のままで自室の机に腰を下ろした。引き出しを開け、使い慣れたバタフライナイフを取り出す。曇り一つない刃に私の目が映り込んでいる。まるで死体の目だ――そう思った。
私はおもむろにナイフを手元で踊らせる。普通の学生がペンを回すのと似た感覚で、私はこの凶器を手に馴染ませるための訓練を続けていた。軍隊で実際に用いられているというナイフ術も独学で磨き上げた。
当然それは不慮の事態を想定したもので、実際に使わざるをえない状況に陥ったことは一度もない。だが、今回はそうもいかないかもしれない。
私はナイフを畳み、ベッドに体を投げ出した。枕の下にナイフを仕舞い、そっと目を閉じる。今は体を休めるべきだと判断した。
右手首を送りつけてきた人間は間違いなく私の殺害現場を目撃している。そして私が知る限り、それは玉子以外に考えられない。
だが本当にそうだろうか? 朝と違い、頭の冷えた私は考えを巡らす余裕が出来ていた。
仮に玉子が犯人だった場合、なぜ彼女はそんなリスクを冒す必要があるのだろう。彼女には殺害現場の動画という決定的な切り札がある。わざわざ私があの場を離れるのを見計らい、死体から右手を切り落とすなどという手間をかける必要性がない。ましてそれを一ヶ月以上も手元に置いておくなど狂気の沙汰だ。
そこまで考えたところで、私は大きく息を吐いて眠ることに専念した。どのみち考えたところで答えは出まい。私が動くまでもなく、犯人はすぐに次の行動を取るだろう。
わざわざ手首を自宅に届ける――しかも自分の足で――などという手の込んだ真似をしてきた相手だ。警察に通報するというまともな思考に至るとは考えづらい。
意識が闇に沈み、そして覚醒した時窓の外は完全に陽が落ちていた。時刻は十九時を回っている。どうやら自分が思っていた以上に疲弊していたらしい。
部屋着を着込んでから一階に降り、玄関から外に出る。静かなベッドタウンであるため普段から人通りが多いわけではない。家の前の通りを歩くものはいなかった。私は念のためと思いポストを開けた。
中には小さな封筒が一通だけ入っていた。見ると朝のものと同じく宛名も差出人も書かれていない。いずれ来るとは予想していたのでさして驚くこともない。むしろさっさと決着が付きそうだ。
私は家の中に戻り、リビングで封筒を開けた。中には大学ノートの切れ端にチラシや新聞紙から切り取ったであろう文字が貼り付けられ、短い文章を成していた。
『今夜二十二時 両手首をナくした男の場所でマつ』
手紙に書かれた内容はこれだけだ。文面も脅迫文も古くさい。
私は鼻を鳴らして手紙を封筒に戻し、台所のシンクタンクでそれに火を点けた。ある程度燃え上がったところで手を離し、落ちた灰を水で洗い流す。
部屋に戻って部屋着を脱ぎ捨て、上下ブラウンのジャージに着替える。私が人を殺すときにいつも着ている服だ。返り血が目立たず、道ですれ違ったとしても目立つことがない。女性に人気のメーカーであるため夜のコンビニに行けば一人か二人は似た格好をしているだろう。
枕の下からナイフを取り出し、ポケットに入れる。上着の内側に自作した内ポケットにはアイスピックを刺した。頭には黒のニット帽を気持ち深めに被る。
家を出て駅に向かって歩く途中、私は携帯を取り出してリダイアルを押した。二回目のコール音が鳴るより早く通話が繋がる。
『もしもし、美沙?』
スピーカーから聞こえた由香の声にはいつもの勢いがない。対応の速さから考えて、いつでも電話に出られるよう気をつけていてくれたのかもしれない。本当にいい友達を持てたと思う。
「一応電話しとこうと思って。学校では心配かけて悪いね」
『あぁ、なんだ。そんなん気にしなくていいのに。もう大丈夫?』
「――うん。由香、ありがとう」
「なに水臭いこといってんの。明日はちゃんと元気なツラ見せんのよ」
「わかってる。それじゃあね」
由香との通話を終えた私は電車で目的地へ向かった。目指すオフィス街はこの時間だと当然のごとく人気が少ない。相手もそれが分かっているからこそ、この場所を指定したのだろう。
指定された路地は前に来た時と何も変わっていない。ひと月もすれば警察の捜査陣はいないし、殺人の起こった場所に好んで近付こうとする者もいないのだろう。むしろ以前より閑散とすらしていた。
周囲に気を配りつつポケットに入れたナイフを握り締める。川澄省吾を殺した場所に立って見る景色はひと月前と何も変わらない。思えばここが玉子との馴れ初めだったか。
「こんばんわ。黒乃さん」
あまりにも場違いな透き通った声が暗い路地に響く。振り向くと少し離れた暗闇に人影が立っている。黒いパーカーのフードを被っているらしく顔は見えない。
私はナイフを掌に隠し持ち、人影へと向き直った。
「こんばんは。贈り物をくれたのはあなたよね?」
「うん。驚かせたかな。わざわざ来てくれてありがとう」
人影はそういうと私に向かって無警戒に歩を進めてくる。身構えた私の間合いから一歩離れた場所で足を止めた人影はフードを脱ぎ、顔を上げた。
「あ――?」
「お話するのは初めてだよね。僕のことは知ってる?」
未だ血の匂いが漂う路地で天使の笑顔をした悪魔が微笑む。私は口内に湧き出した唾液を飲み込み、呆然と名前を呟いた。
「竜崎――圭」