第七話
*
駅前の繁華街に建つシネマシアタービルからげっそりとして出てきた私は空を見上げた。
ただ蒼い――それだけで感動できるのは素晴らしいことだ。
「映画面白かったですねー」
白河が無邪気な笑顔を向けてくる。
「マジかお前。マジで言ってんの?」
私たちが今しがた見てきたのは「シャーク・ザ・リッパー」というタイトルのSFホラー映画だ。
とある科学実験による副作用で陸上での活動が可能になった巨大サメがロンドンの霧に紛れて人々を惨殺していくというストーリーである。この時点で駄目な匂いしかしないが、内容はさらにひどい。
陸上にあがったサメは何故か人間サイズに縮んでトレンチコートとハットに身を包み、刃物を用いて人間を殺していく。既にサメであることの意味がなく、おまけに後半でFBI捜査官により放たれた特殊な弾丸によって何故かサメが巨大化して空を飛び出す。そして戦闘機の放った大型ミサイルを口内に撃ち込まれて爆散というオチである。
青春の貴重な二時間を無駄にした。それが私の感想だった。
「なんでサメがわざわざ海から離れたロンドンに行く必要あんの? いや切り裂きジャックが元になってるからってのはわかるけど。そもそもイギリスが舞台なのにMI6とかじゃなくてFBI。売りにしてる立体映像だって最初の殺人シーンで使われただけじゃん! ああいうのは最後の派手なシーンで使えよ!!」
シアター近くにあるイタリアンレストランで昼食を済ませ、私は上映中ずっと胸に溜まり続けていたものを吐き出した。こういう映画は一緒に見た人間と好き放題こき下ろすに限る。だが白河は楽しそうに私の話を聞いているだけで、特に映画に関してなんの感想もいってこない。
「白河はどうだったの? 面白いとかいってたけど」
「私はあんまり映画の内容覚えてないんです。黒乃さんと一緒に映画を見れるなんて、それだけで嬉しかったから」
「あ――そう」
何故か恥ずかしくなり目を伏せてしまった。映画の話をしている時に不意打ちすぎるだろ。
「あの、黒乃さん。一つだけお願いがあるんですけど」
少し遠慮がちに白河がいった。白河の方から私に何かを頼むのは珍しいことだ。
「お願いって?」
「今日だけでいいんです。私のこと、名前で呼んでもらっていいですか?」
そういえばいまだにお互い苗字呼びだった。ひょっとして気にしていたのかもしれない。
「なんだそんなこと? そんなの今日に限らなくていいじゃない。私のことも美沙って呼びなよ、玉子」
「は、はい。美沙――さん」
「さんもいらないって。あと玉子は言葉遣いも丁寧すぎるしさ、もっと砕けていいよ」
私がそういうと玉子は嬉しそうに頬を紅潮させ、小さく頷いた。
なにからしくない。いつもなら目に星を輝かせて喜びそうな流れのはずなのだが。
「玉子、今日どうかしたの? なんか元気ないような気がするんだけど」
「え、そんなことないですよ! じゃなくて――そんなことないよ」
玉子が首を横に振った。別段顔色が悪いとかそういうわけではない。私の気の回し過ぎかも知れない。
「じゃあそろそろ行こうか。遊園地も行かなきゃだし、時間推してるからね」
私はそういうと伝票を取って立ち上がった。
「あ、私払いますよ」
「いいって。いつもご馳走になりすぎてるし、今日くらい私に奢らせて」
玉子に有無をいわせぬよう足早にレジへと進む。そうでなければわざわざ弁当を作ってこないよういった意味がない。安い自己満足に過ぎないが、借りを作りっぱなしにするのは好きではないのだ。
レストランを出て駅へと向かう。映画の後に遊園地とはいささか詰め込みすぎな気もしたが、玉子にどうしてもと頼まれたのだ。
あの夜から今日で丁度ひと月が経っていた。
*
「美沙! 次あれ、あれに乗ろ!」
玉子が目を輝かせながら腕を引いてくる。
「ちょっと――ちょっと待って玉子! 少しだけ休ませて」
私はまだ回り続けている景色に足元をふらつかせながら叫んだ。私は絶叫系マシンが苦手なのだが、玉子は目がないらしく次から次へと乗り継いでいった。今はコーヒーカップを最高速で回されたところである。本気でバターになるかと思った。
ベンチに座って息を整えていると、玉子がオレンジジュースの入った紙コップを差し出してくれた。すぐそこの移動販売車で買ってきてくれたらしい。
「ありがと。思ってたより空いてるね――」
紙コップを受け取りながら周囲を見回す。客の数は各アトラクションに並んでいるのが見て取れるが、どこも十数分程度の並びで乗ることが出来る。この規模のアミューズメントパークにしてはけして盛況とはいえないだろう。
「遊園地のお客さんって昔より少なくなったみたいだもんね。私はこういう昔ながらの遊園地が好きだからちょっと寂しいけど、そのぶんたくさん乗り物に乗れるのはラッキーなのかな」
玉子はそういいながら園内に視線を巡らせている。これからのプランを決めている感じだ。客数が少ないということは絶叫マシーンのフルコースがインターバルなしで振舞われるということで、これは確かに由々しき問題である。
もう少し休憩を引き伸ばそうと思ってジュースをチビチビ飲んでいると、順路に沿って設けられた花壇に百合の花が植えられているのに気づいた。凛として楚々として、他の花に混じっても埋もれることのないその美しさは玉子と似ている。
そういえば百合とは女性の同性愛を指す隠語でもあった気がする。ならばやはり彼女にふさわしい花だろう。
「美沙、そろそろ次行こ! パイレーツの端席ってすごい楽しいんだよ」
玉子が指差す方に顔を向けると、海賊船を模したアトラクションが丁度空中に振り上げられ、甲板を地上に向けている所だった。
「なな何あれは? あんなの死ぬって! 端席とかちょっと揺れただけで、もう地上と水平になるじゃん!」
「大丈夫だって。ちゃんと安全に作られてるから安心!」
「いや無理無理死んじゃう!」
必死の抵抗むなしく、結局私は殺人マシーンの端席へと連行される羽目になった。トラウマを植えつけられた私とは対照的に玉子は大いにはしゃいでいた。
その後はようやく絶叫マシンも一段落し、メリーゴーランドやゴンドラ式お化け屋敷といった無難なアトラクションに癒されることとなった。回転ブランコは多少キツかったが、海賊船に比べれば屁のつっぱりにもならない。
園内のレストランで夕食を済ませた時にはすっかり日も落ちていた。土日の夜に行われるパレードが終わると他の客たちも帰路に着き始めるのだろう。園内の熱が徐々に引いていくのが感じられた。
「――あぁ、なんか夢の終わりって感じだね」
大きく伸びをしながら玉子を振り向く。玉子はパレードが消え去った方をぼうっとして見つめていた。まだ夢から醒めてはいないらしい。
「そろそろ帰ろっか。もう暗いし、大体の乗り物も乗ったし」
「うん。そう、だね――」
玉子はまだ心残りがあるのか、浮かない声だった。
「どうしたの? まだなんか乗りたいものある?」
「ううん。その、もう少しだけここにいたくて――」
「また来たくなったら来ればいいじゃん。遠いわけじゃあないしさ」
私がそういっても玉子は何も答えない。やはり今日はなにか様子が変だ。私もなんとなくバツが悪くなり、辺りを見回した。すると入口近くにそびえる巨大なアトラクションが目に付いた。
高さ百二十メートル近い大型観覧車がライトアップされ、音もなくゴンドラを回している。最後の締めで乗るつもりだったのを忘れていた。
「玉子、あれ乗ろう」
玉子の手を引き、観覧者を指さした。
「あ、観覧車。忘れてたね――」
玉子が呆とした様子で呟く。これに乗りたかったわけではないのか――私は少し戸惑ったが、そのまま玉子の手を引いて観覧車乗り場に走った。近くで見るとすごい大きさだ。
既に並ぶほど客は残っていないため、スタッフにチケットを見せるとすぐにゴンドラへと案内された。一周するのに約十八分とだけ説明を受け、ゴンドラへと乗り込む。
ゆっくりと昇っていくゴンドラに揺られながら私は向かい合って座る玉子に目をやる。景色を見るでもなく俯くその姿はどこか痛々しい。声を掛けようとした時、玉子の体が小刻みに震えているのに気がついた。
「玉子――」
「今日は――ううん、この一ヶ月は本当に楽しかったです」
唐突なその言葉に私は面食らった。口調も丁寧なものに戻っている。
「二人でお話して、私が作ったお弁当も食べてもらえて、映画や遊園地にも行けて。無理だと思ってたのに家まで遊びに来てもらえて――嬉しかった」
声が震えている。どうしていきなりこんな話をするのかわからない。
「私もだよ。楽しかった」
「ううん、わかってるんです。これは私がそうさせてるんだって。今の関係はただ単に、私が黒乃さんに強いているだけのものに過ぎないって」
それは、確かにその通りだった。少なくとも最初のうちは否定のしようもなく。
私には白と黒、その二つの世界があった。普通に学校に通い友達と笑い合う白の世界と、殺人者としての黒の世界。それ以外は存在しなかった。
だが玉子はただ一人、そのどちらでもない領域にいた。私は最初間違いなく黒として彼女に接していたが、徐々にその色は薄れていった。私の黒の世界を知る人間に対し、白の世界で接することなど今までにないことだったから。
私にとって玉子は灰色の世界の存在だった。それは今も変わりは無い。私の中には彼女への友愛と殺意――その二つの感情が危ういバランスで保たれている。
「玉子、あんたは私の正体を知っている。それなのにどうして私を好きでいられるの? 怖いとは思わないの?」
「怖かったです。すごくショックで、信じられなくて。でも私、あの時遺体を見下ろす黒乃さんの横顔を見てこう思ったんです。これが、黒乃さんのサガなんだって」
白河の目から涙が溢れ、すんすんと泣き出した。
「私も人にいえないサガを持ってます。だから少しだけ嬉しかった。この人は私と似てるのかもしれないって。だから、今夜のことを契機に出来るかもしれないと――そう考えてしまったんです」
玉子の体の震えが大きくなる。私はなぜか胸騒ぎを覚えた。彼女の口調に悲壮な決意が込められている気がしたからだ。
「玉子、あのね――」
「でも結局それは私の自己満足でした。ただ黒乃さんの弱みにつけ込んだだけの脅しであることにすぐ気づかされたんです。だから私、今夜あなたにどうしてもいわなきゃって――」
「玉子、聞いて。聞きなさい!」
私は我知らずのうちに立ち上がり、玉子の両肩を掴んでいた。
「私は玉子のことが好き。これは玉子が私に抱いてくれてる好きとは違うかもしれないけど、それでも私はあんたと友達になれてよかったと思ってる。私にとってあんたは凄く大事な友達なの」
なんの脈絡もないカミングアウトだが、どうにかして玉子の言葉を止めることが出来ればなんでもよかった。
「あんた今凄く震えてる。私はそこまで話すのが辛いことを聞きたくなんかない。辛いなら話さなくてもいい」
「でも――」
「隠し事なら由香にだってされてるよ! あいつバカでさ、隠してるつもりなんだろうけどバレバレってことよくあるんだ。笑えるでしょ?」
私は必死になっていた。そんな私を黒い世界にいる私が冷ややかな目で見ているのがわかる。それでも構わない。
「だから――ずっと胸に閉まっておいて。じゃないと私、きっと――」
どん、と玉子の体が私にぶつかる。直後に抱きしめられたのだと理解した。服を通して玉子の温もりと柔らかな感触が伝わってくる。
間近で見る玉子の瞳は星のない夜空を思わせる。一瞬吸い込まれるような感覚と同時に、唇に柔らさを感じた。奇妙な陶酔感に包まれる。
私はひと月前の夜を思い返した。あの時、私は突きつけられたのではなく既に刺されていたのかもしれない。
花自身ですら覚せぬ毒を含んだ、白百合の棘を。