第六話
*
「――黒乃さん今なんていいましたか!?」
白河が目をむいて顔を近づけてくる。私は出来るだけ笑顔を崩さないまま同じ質問を繰り返した。
「一回白河んち遊びに行っていい? って訊いたの。もちろんそっちの都合いい日に合わせるから」
いささか安直だっただろうか――そんな思いがよぎる。だがあの夜から既に二週間が経過している。進展のないこの状況にしびれを切らしているのが自分だけではないとしたらのんびりと構えているわけには行かなかった。
「ぜひ、ぜひ来てください! あ、ちょっといいですか?」
私の返事を待たずに白河は携帯をとりだし、背を向けてどこかに電話をかけだした。
「あ、ママ? 私だけど、あのね――」
ママ? なぜ母親に電話を――まさか私の態度に不審を感じたか。
「黒乃さん、今日って予定空いてますか?」
冷や汗をかいていたところで急に振り向かれ、飛び上がりそうになるほど驚いた。慌ててコクコクと頷いてみせる。
白河は嬉しそうに微笑むと再び電話で何事かを話し、携帯をしまった。
「それなら今日いらしてください。両親もぜひ挨拶したいって言ってくれましたから」
え、なんでご両親? こいつまさか私の意図を別な方向に勘違いしてないか?
「で、でもいきなりだし悪くない?」
「遠慮しないでください! 母もご馳走作るってはりきってますから」
白河は完全にその気になっているようだ。予想していなかった展開だが、当初の目的は果たせたようなのでここはよしとするべきか。
「それじゃ、お言葉に甘えて。私あんたの家知らないし、放課後一緒に帰ろうか」
白河の目に無数の星が輝く。そういえばこいつと一緒に帰るのはこれが初めてか。
「はいぃ! 楽しみにしてます」
声を裏返しながら頷く白河と別れ、私は自分のクラスへと戻った。
少しは警戒されるかと思っていたが杞憂だったか。それにしても自宅に私を招くことに危機感をおぼえないものか。犯行現場を撮影したデータは自分のパソコンにあるといっておきながら。
ひょっとして既に私に殺される危険はないと判断している? いや、それはない。あの時白河は私に口を封じられると感じたからこそ、決定的な証拠を私の手が届かない場所へ送った。そこまで用意周到な白河に限ってたやすく気を許すなど考えられない。少なくとも私はしない。
「美沙? なに怖い顔してんのよ」
顔を上げると由香が怪訝そうな顔をしていた。
「あ、別になんでもない」
首を振って笑顔を浮かべる。おそらく不謹慎な笑顔になっているだろう。
「あんたたまに凄い目してるときあるよね。ウンコでも我慢してる?」
「年頃の女子がウンコとかいうな!」
由香とそんな会話で笑い合っている間も私の心は冷めていた。今日は必ずなにかしらの収穫を得なければ――そればかりが頭にあった。
「あ、竜崎だ。相変わらず取り巻き多いねぇ」
由香が廊下を見ながら言った。顔を向けると、男女数人のグループが廊下の窓際に立って談笑しているのが見える。その中で一際顔立ちの整った男子が輝くような笑顔を浮かべていた。
竜崎圭。学校一のイケメンと名高い彼のことはもちろん知っている。顔だけでなく性格も良いと評判で、男女の別なく人気がある。成績自体は平凡なものらしいが、それを除けば白河を男にしたような人物である。
私にとって顔も性格も二の次なのだが、彼は手の造形もまた素晴らしい。同じ学校でなければ間違いなく極上の獲物であっただろう。
私は同じ学校の生徒は標的にしない。もちろん警察に犯人像を絞らせないようにするためだが、それ故に残念だ。
そう思いながらぼんやりと見ていると一瞬目が合った竜崎が笑顔を返してくれた気がした。だが気のせいかもしれない。何となく気まずくなり視線を外す。丁度その時予鈴のチャイムが鳴り響き、昼休みが終わりを告げた。
*
「黒乃さんここが私の家です。どうぞあがってください」
白河の家は私の家とは学校を挟んでちょうど反対側の位置にあった。だがそれよりも目の前にある豪邸に言葉を失う。私の両親も外資系商社に勤めているので一般家庭よりは裕福な方だが、それとはレベルが違った。
「じゃあ、お邪魔します」
制服に皺やホコリがついていないか妙に気になる。佇まいを直して白河が開けてくれたドアから玄関に入った。広い。
「お母さんただいまー」
白河が声をあげると廊下の奥からパタパタと足音を立てながら一人の女性が姿を見せた。
「玉子、お帰りなさい。あら、あらあら!」
女性は私を見て目を輝かせた。うわ、すっげぇ美人――。
「あなたが黒乃さん? 娘からいつもお話は聞いてるわ。今日は本当にきてくれてありがとう」
娘ということはやはり母親か。いまだ少女の面影を残していて、高校生の娘がいる歳には見えない。
「黒乃美沙です。今日はいきなりお邪魔しちゃって、その――」
「とんでもない、来てくださって嬉しいわぁ。お夕飯出来るのもう少しかかるから少し待っててね。玉子、お茶淹れるから後で取りに来なさいね」
「はぁい。黒乃さん、こちらにどうぞ」
白河に誘われるまま螺旋状に作られた階段を上がる。デザイナーハウスというやつだろうか。内装も調度品もいちいちが凝っている。
二階にある白河の部屋へと通されたが、そこもまた期待を裏切らないものだった。白を基調として整理整頓が行き届き、洋服ダンスの上に置かれたぬいぐるみや人形が女の子らしさを醸し出している。
こいつはマジでどっかの男が妄想したイメージの産物じゃないだろうな――そんなバカな考えが浮かぶほど白河のイメージそのままの部屋だった。
「ちょっと散らかっててごめんね。鞄は好きなところに置いてくれていいですから」
散らかってねえよ。この部屋が散らかってたら私の部屋とか腐海だよ。
私は勝手に劣等感を抱きながらも部屋を見渡す。すると部屋の隅にある机の横にラックがあり、その一番下の段にデスクトップPC置かれているのに気付いた。
「お母さんがお茶淹れてくれてるはずだから私取ってきます。適当にくつろいでてくださいね」
机に鞄を置いてテーブルに座布団を敷くと、白河はさっさと部屋を出ていった。
あまりにも無警戒すぎるその様子にかえって疑心がわく。部屋のどこかにカメラやボイスレコーダーでも仕掛けているのでは――そんな考えがよぎるが、少なくとも白河はこの部屋に入ってから不自然な動きを見せていない。今日私が訪れるのは突然のことだったはずだし、事前に何かしらの罠を張るのは無理なはずだ。
もちろん常にカメラを回しているという可能性もなくはないが、いくらなんでもそこまでするだろうか。いや、そもそも白河はそんなことをする人間ではない。短い付き合いだが彼女から嘘の匂いを感じたことは末だにない。
結局私は何をするでもなく座り直し、白河が帰ってくるのを待った。どうせわずかな時間にパソコンを立ち上げ、目的のデータを探し出して消去するなど出来るはずもない。
案の定、白河は五分も経たずに紅茶と菓子を乗せたトレーを持って戻ってきた。
しばらく白河と他愛ない会話を交わす。白河は部屋で待っていた私に対し疑いを向けるような素振りはいっさい見せず、ただただ楽しそうにしていた。どんな話題にもついてきてくれる白河に、私はいつの間にか時間を忘れて話し込んでいた。由香といるときとはまた違う心地よさがあった。
そうしているとドアがノックされ、白河母が顔を覗かせた。
「盛り上がってるのにごめんね。お食事が出来たから呼びに来たんだけど」
「ありがとうママ。黒乃さん、行こ」
白河に促され、部屋を出て一階へと降りる。リビングに入ると素晴らしくいい香りが鼻をくすぐった。テーブルの上にはビーフシチューをはじめとして様々な料理が並んでいて、まるで一流レストランのフルコースかそれ以上の豪華さだ。
ソファを見ると男が座っていることに気付く。向こうも私に気付いたらしく立ち上がって私に柔らかい笑顔を向けてくる。
「やぁ、初めまして。黒乃美沙さん――だね? 玉子がお世話になっているそうでぜひ一度お会いしたかったんだ。なるほど、可愛らしいお嬢さんだね」
ド直球な誉め言葉に思わず顔が熱くなる。色黒で背が高く、精悍な顔立ちをしていてまるで俳優だ。手の造形も――素晴らしい。
「もうパパ、いきなりなにいってるの」
白河が自分のことのように顔を赤くした。幸せそうに笑いあっているその様子は誰が見ても理想の家族そのものだ。この両親からどうしてこの娘が産まれたのか理解できない。いや外見はもちろん受け継いでいるのだが。
「改めて紹介するね。こちら黒乃美沙さん。私の初恋の人です」
馬ッ鹿野郎ォ!!
絶叫しそうになるのを危うくとどめる。いきなり切り出す奴があるか! 自分の両親をショック死させたいのかこいつは!?
「嬉しいよ。一番の胸のつかえが下りた気分だ。黒乃さん、本当にありがとう」
――へ?
唖然として口を半開きにしていると白河母が私の手を取った。その目には涙を溜めている。
「玉子のことよろしくね。少し変わっているけど、本当にいい娘だから」
いやおかしいだろ。なんですんなり受け入れてるの?
「あの、驚かれないんでしょうか――?」
私がそういうと、白河父と母は顔を見合わせてクスクスと笑った。
「私たちね、実は偽装結婚なの」
*
白河の部屋に戻った私は他人の部屋であることも忘れてぐったりとしていた。今し方口にしたはずの料理の味も覚えていない。
「黒乃さん大丈夫? ビックリしたでしょ」
白河がコーヒーカップを乗せた盆を手にして部屋に入ってきた。テーブルの座布団に頭を乗せていた私はよろよろと上体を起こす。
白河の両親がいうには二人とも同性愛者であり、あくまで戸籍上の夫婦という形を取っているらしい。おまけに二人が付き合っている同性の恋人同士も同じく夫婦だそうだ。そんな複雑な家庭が現実に存在していたとは。
つまり白河は理想の夫婦から産まれた変わり種などではなく、純血のサラブレッドだったという事になる。
「まぁさすがにね。白河のご両親って誰が見ても理想の夫婦だし。そんな夫婦なのにあんたよく産まれて――」
いいかけて口を塞ぐ。自分があまりにも最低なことを口走ったと気付いたからだ。
だが白河は気にした様子もなく微笑んだ。
「お父さんとお母さんね、お互いの大切さがわかってるの。だからせめて子供を作ろうと思ったんだって。愛し合えなくてもせめてパートナーとしての絆を作りたいからって。だから私を産んでくれたんだよ」
白河はとてつもなく重い事実をさらりといってのける。私はなんと答えるべきかわからなかった。
「――そうだ、卒業アルバム見ますか? 私黒乃さんと小学生の時一緒に写ってる写真見つけて、一緒に見たいなって思ってたんです」
空気が重くなったことを感じたのか、白河が手を叩いていった。
「うん。じゃあ見せてもらおうかな」
「はい。書庫にあるから取ってきますね」
そういうと白河は勢いよく部屋を出ていった。私は白河の机に目をやる。正確にはラックに置かれたデスクトップPCを。
今ならたやすい。パソコンにコーヒーを流し込むだけで本体は破壊可能だ。水濡れで電源がつかなくなったパソコンからのデータを復元するのは難しいはず。
――だが外付けのメモリに保管されていたとしたら? なにより白河の携帯に元となるデータは入ったままのはずだ。ならばリスクを犯してまでパソコンを破壊するメリットはあるのだろうか?
思考が空回る中、ドアをノックする音が聞こえた。振り返ると白河母がドアを開け顔を覗かせた。私は急いで笑顔を繕う。
「あ、今白河さん書庫に行くって出て行きましたけど――」
「いいの。今のうちにあなたと少し話がしたくて」
そういって白河母は部屋に入ると、私の隣に腰を下ろした。ふわりといい香りが立つ。
「さっきは驚かせてごめんね。でも早いうちに話しておいた方がいいと思ったの」
「いえ。私は別に――」
「私心配だったの。少し前にあの子からあなたと友達になれたって聞いたけど、その時はどこか悲しそうにしてて。ひょっとしてなにかあったのかなって」
私に取引を持ちかけた次の日のことだろう。やはり本意のことではなかったらしい。
「だけど最近のあの子本当に毎日が楽しそうで、いつも帰ってくる度にあなたのこと話してくれたわ。だからあなたが今日うちに来てくれるって聞いたときは私たちも嬉しかった」
「その――聞きたかったんですけど。白河さんがその、お二人の関係を知ったのはいつ頃なんですか?」
「中学生になってしばらく経ったくらいかな。あの子がある日ね、泣きながら帰ってきたの。自分はどこかおかしいかもしれないって、男の子じゃなくて女の子を好きになったかもしれないって。今思うと、きっとあなたのことだったのね」
中学生――白河も私と同じ時期に己のサガに目覚めたのか。
「私たちの関係を話したのはその夜よ。あの子も驚いたけど、少し落ち着けたみたい。二人と一緒なら平気――そういってくれた」
白河母は目に涙を浮かべていた。
「だけどやっぱり不安だったのね。その頃からあの子、なんにでも積極的に取り組むようになった。成績でも学校行事でも出来るだけ一番を取れるようにって。好きになった人に少しでも嫌がられないようにって」
白河母の言葉に衝撃が走る。白河もまた私と似た思いを――いや、違う。 私は私自身のために、白河は私のために自分を磨いたのだ。目的は同じでも、その動機は大きく異なる。
「私はね、黒乃さん。あなたにあの子と添い遂げてくれなんていわないの。あなたが玉子とは違うことはわかってる。だけどせめて、理解者としてあの子の側にいてやってほしい。それだけをいいたくて」
白河母が真剣な眼差しを向けてくる。やはり母子なんだと思った。この母親がいたからこそ白河もまっすぐに育つことが出来たのだろう。
感動がこみ上げてきた時、右手を柔らかな感触が包む。見るといつの間にか白河母の左手が重ねられていた。なにかさっきより距離も近い。
「あの――」
「玉子が好きになった理由がわかるわ。とても素敵な目をしてるのね」
瞳を潤ませながら白河母がにじり寄ってきた。甘い吐息が鼻にかかる。
「あ、あの。ちょっとおばさん――?」
「美弥子って呼んで」
呼んで、じゃあねえ! なんかとてつもなくマズい状況だ。さっきまでの空気は一体どこにいったんだ。
「ママ! なにやってるの」
戸口に目をやるとアルバムを手にした白河が立っていた。白河母は特にあわてた様子もなく元の位置に戻る。
「玉子お帰り。あのね、黒乃さんが少し退屈してたみたいだから私がお相手を――」
「もう! いいから出てって。黒乃さん困ってるじゃない」
「ママもいちゃダメ?」
「ダメ!!」
子供のように渋る母親の手を引いて部屋の外に連れ出し、白河は音を立ててドアを閉める。どうやら助かったようだ。
「ごめんね。お母さん少しだらしないところあって」
少しどころじゃない。娘の友達に手を出す母親がいてたまるか。
「い、いいよ。気にしてないし」
追求してもややこしくなりそうだったのでそう答えるしかなかった。
アルバムをネタにして白河と話をしている内に時間は過ぎていき、気がつくと二十一時を回っていた。さすがに潮時だろう。
収穫があったとは言い難いが、白河の本質を垣間見ることができただけでも良しとするべきか。実際、白河に対して抱いていたある種の底知れなさは薄らいでいた。
「そろそろ帰るよ。遅くまでごめんね」
私がそう切り出すと白河は驚いていった。
「ええ!? 泊まっていったらいいじゃないですか。ちゃんと枕も二つありますから」
いや布団も用意してくれ。
「明日も学校あるしさ。また今度寄らせてもらうから、ね?」
「――わかりました。じゃあバス停まで送ります」
わざわざ送ってもらう距離でもないが、断っても無駄だろう。鞄を持って階段を下りるとリビングから白河父と母が出てきて名残惜しそうな顔をした。
「帰るのかい? 今日は来てくれてありがとう。楽しかったよ」
「たいしたおもてなしも出来ずにごめんなさい。またいつでも遊びに来てね」
二人に深々とお辞儀をして家を出た。バス停は白河邸から二十メートルほどの距離しか無く、バスもすぐにきた。
「それじゃあ黒乃さんまた明日。気をつけて帰ってくださいね」
白河がそういって手を振ってくる。私もまた明日、と答えバスに乗り込んだ。バスが発車してから振り返ると、白河はまだバス停で手を振っている。
白河が持ってきたアルバムには昔の私が写っていた。卒業アルバムなど一度も見返したことがない。ただ単に昔の自分を見たくなかったからだ。
私は呪われ人だ。それは疑いようのない事実だが、私はその事実を否定も悲観もしない。初めて人を殺すことを決意したその時から、己の内にあるサガと向き合う覚悟をした。
そのことを悔いることも恥じることもしない。白河の生い立ちを聞いた今でも私の心の底にある想いは変わらなかった。
もし彼女がこのことを知ったらどれだけ悲しむだろう。
私が彼女を殺したあと、どれだけ凄惨な方法で死体を処理しようと考えているかなど、きっと想像すらしていないのだから。