第四話
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「ねぇ、黒乃さんってなにか嫌いな食べ物ありますか?」
三人掛けのベンチで右隣に座った白河が顔を近づけてくる。頬が引き攣りそうになるのを必死でこらえ、無理に笑顔を浮かべた。
「いや、別に、ないけど」
「じゃあ私明日からお弁当作ってきていいですか? 黒乃さんいつもパンだし、足りないでしょ?」
目を輝かせながら白河が更に寄ってくる。ええいその乳袋を押し付けるなおぞましい。
「え、そんな悪いし――めんどくさいじゃない」
「いいんです! 私お料理作るの大好きですから」
救いを求めるように視線を左隣に向けるが、由香は死んだ魚のような目で弁当をつついている。関わりあいになるのはゴメンだといわんばかりだ。薄情者め。
「あ、そろそろ生徒会室行かないと! それじゃ黒乃さんまた後でね。桐原さんもさようなら」
白河は由香にも丁寧にお辞儀して校舎に歩き去った。由香は顔を上げずにパタパタと手を振ってそれに応え、そのまま私の肩に回した。
「あんた、シラタマとあんな仲良かった?」
「え? えーっと、最近、意外と気が合うことがわかった――みたいな?」
目を高速で泳がせながらパンの袋を無意味に破りまくる。
「そりゃまたずいぶんと気が合ったみたいね。次から席外そうか?」
由佳がアンダーリムのメガネを中指で上げながら不謹慎な笑顔を浮かべる。
くそぅ、なぜ私がこんな目に――頭を抱えながら数日前の夜を思い出す。
「――まいったな。変なところで会うね」
私はゆっくりと立ち上がり、白河に向き直る。さり気なく右手は腰の後ろに回し、ナイフの動きを悟られぬよう努める。
頭の芯は既に冷えていた。白河はあの日と同じようにすんすんと泣いている。
「変わったカッコしてるね。学校では人気者の優等生が夜は怪盗だったとか? あはは」
私は極力押し殺した声で喋りかけながら周囲の気配を探る。少なくとも物音が聴こえる距離には誰もいない。
「ううん。黒乃さんのね、後をつけてたの。家からずっと」
白河がしゃくり上げながら答えた。
「家から? 嘘でしょ、全然気付かなかったよ」
本心からの言葉だった。私は事を起こす際は常に周囲に気を配る。家を出てから狩場で機を待ち続け、帰宅するまでの間に一度たりとも気を抜いたことはない。
ほんの小さな油断が自らの破滅につながることは理解しているつもりだった。
「聞いておきたいんだけど、後をつけてたって今日が初めて? それとも前からやってたの?」
「この間黒乃さんに告白した日からやってました。気づかれないように頑張って、いろいろ勉強もしたの」
本気で言っているのか? このひと月の間にそんな気配を感じたことは一度もない。それとも私は自分で思っているよりずっと抜けているのか、いずれにせよ自信をなくしそうだ。
イカレた格好もそのためにしつらえたものだろうか。大した才能だと心の底から思う。
「そうなんだ。白河って探偵とか向いてるかもね。でもそれってストーカーだよ? 良くないなぁ」
「ごめんね。自分でもダメだって何度も思ったの。でも、やっぱり私、黒乃さんのこと――」
「うん、嬉しいよ。ごめんね変なもの見せちゃって。ほんとに、ごめんね」
これも本心。私は気付かなければならなかった。以後、戒めとしよう。
白河に向かいそっと一歩を踏み出す。後ろ手にして隠していたナイフを持ち直し、意識を研ぎ澄ます。
テロン。
その時、殺意の行使に至らんとした私の機先を制するかのようなタイミングで、間の抜けた電子音が鳴り響いた。機を削がれ、私は踏み込んだ一歩目の姿勢で足を止めざるを得なかった。
カメラ? なぜ今? 電子音が三回。その全てが違う音――。
引き伸ばされた一秒の間に私の脳細胞がフル稼働し、答えを探る。だが脳が結論に至るより早く、私の眼球が白河の右手に向けられた。
白河もまた、いつの間にか私と同じように携帯を後ろ手に隠していた。
「今何をした?」
「グス、ごめんね。本当はこんなことしたくない、したくないんです」
私は背筋が凍った。最初に聞こえた電子音は間違いなくシャッター音。では二度目の音はまさか――カメラではなく、ムービーカメラの停止音?
――『黒乃美沙』さん。あなただったのね、『連続殺人犯』って。
白河の言葉が脳裏に蘇る。カメラではこの暗闇で正確に撮影できるか疑わしい。だからこそわざわざフルネームを用い、状況を言葉で記録したのか。
ならば三度目に聞こえた音は? まさか、まさか――。
「私の家のパソコンに転送しちゃった。ロックもなにもかけてないから、きっと私が殺されちゃったら両親も警察も調べちゃうよね、きっと。グスッ、ふえぇん――」
「くっ」
鼓動が速まり、吐き気がこみ上げる。
「どうしろっていうの。自首でも勧める気? それとも――」
「お友達からでいいんです」
「は?」
「この間はいきなり飛躍しちゃったから――。私本当に舞い上がっちゃってて」
こいつは何を言い出す気だ。今まさに私の正体を目の当たりにしたこの状況で。
「だからお願いします。もう一度私に、一から始めるチャンスをもらえませんか? そしたら私今日見たことは絶対に誰にも言いません。約束しますから」
理解できない。だが落ち着け、呑まれるな。
「それを信じる根拠は? 私はあんたのこと何も知らないのに」
「大丈夫です! 私って好きな人に尽くすタイプですから!」
白河が力強く言い放つのを見て気が遠くなりかける。なんの根拠にもなっていないが、少なくとも今はこの女の要求を飲むしかない。
私は力なく頷いた。
「――友達だからね」
「はいぃ! ありがとうございます。やったぁ!!」
白河は声を裏返し、小躍りして喜んだ。ちなみに私のすぐ後ろには死体が転がっている。
「それじゃ黒乃さん明日学校で! 一緒に帰りたいけど、やっぱりまずいですよね。もう遅いし帰り道気をつけてください」
「あ、ちょっと――!?」
呼び止めようとした私のすぐ目の前で、白河の姿が闇に溶けるように消えた。人目につかれるのはマズイが、どうやら無用の心配のようだ。
「ちょっと美沙、聞いてる?」
耳元で由香の声が聞こえ、私は我に返った。
「へ? あぁ、うん大丈夫、聞いてる聞いてる」
「ならもう行くよ。次の情報社会のノート忘れたんでしょ? 貸してやるから昼休み終わるまでに写しな」
「あー、悪いねほんと」
由香にペコペコと頭を下げながら私は白河のことを考えていた。
あいつの本質が掴めない。白河は私が人を殺すことなど想定していなかったはず。仮にしていたとして、目の前で実際に人が殺されたのだ。平静でいられるはずがない。にもかかわらず、あいつはそんな状況を即座に利用した。
私よりも速く喉元に刃を突きつけたのだ。けして否定を許さぬ、無言の刃を。