第二話
*
「ただいまー。あぁもう最悪!」
帰るなり鞄をリビングのソファに投げ出し、冷蔵庫から愛する人を取り出した。
「聞いてよコージ、今日マジでありえないことがあったんだけどさー」
キンキンに冷えたコージの左手を頬に押し当てながらつらつらと愚痴をこぼす。
「――とりあえずこの手紙くれたのが白河だったのはわかったけど、なんで私なの?」
たっぷりと間を空けてから私は切り出した。あまりに予想外の出来事に思考の回復に時間を要したのだ。
「私中学から黒乃さんと一緒だったんだけど、そのことは知っていますか?」
「まぁ一応。ずっとクラス違いだから話したこともなかったでしょ」
「はい。でも黒乃さん二年になったあたりから、段々他の娘と違ってきたっていうか――うまく言えないんですけど雰囲気が変わったんです。それからあなたに惹かれていきました」
混乱していた頭が急速に冷める。
中学二年――私が初めて人を殺した時期だ。
確かに私はその頃から特別な意味で人目を考えるようになった。できる限り一般的な価値観から理想に近い女子として振舞うよう努力を始めた。
だが周囲にそのことを気にかけた者は一人もいない。親友の由香にすら違和感をおぼえさせぬよう、少しずつ少しずつ変えていくよう努めたはずだ。
――こいつは私の変化に気づいていたというのか?
「中学生ぐらいって誰でも変わる時期じゃない。私に限った事じゃないでしょ」
「黒乃さんは特別だったんです。他の女の子と違って浮かれた感じの変化じゃなくて、凄みって言うんでしょうか? 重厚さを感じました」
褒められているのかわからない。いずれにせよこの女は私が抱いていた頭お花畑なイメージとは少し違うのかもしれない。
深入りされてはまずい――そう感じた。
「そうなんだ。でもごめんね。私そういう趣味否定する気はないけど興味ないし、白河の気持ちには応えらんないよ」
あっさりと言い放ち、どうでもよさげに手をピラピラと振った。こういうのは最初にはっきりと拒絶するに限る。
別に特別嫌悪感を抱いたわけでも特殊性癖をどうこう言うつもりもない。ただ私にその感性は理解できないし、白河が私に向ける感情に対して現実味が感じられなかっただけだ。
私はしばらく反応を待っていたが何も返事がない。チラリと視線を向けると、白河は呆然として人形のように大きな目から大粒の涙を流していた。
「ちょ、ちょっと――」
「ごめん、なさい」
あまりに悲壮的な姿に思わず声をかけると、白河は消え入りそうな声で言った。
「突然すぎました。驚きますよね――気持ちわるいですよね、こんなの――」
白河が両手を目にあてがい、すんすんと泣き出す。
こういう場合の最適解はなんだ。想定の埒外で対処の仕方がわからない。
「ちょっと泣かないでよ。あんたの気持ちは嬉しいけど――」
「え?」
白河はバッと顔を上げた。涙だけではなく鼻水と涎で顔中濡れている。
「嬉しかったって――私のこと拒絶しないでくれるんですか?」
「え――まぁその、拒絶するってことはないけど」
そう答えた瞬間白河はほっとしたような笑顔を浮かべた。
「よかったぁ。黒乃さん、優しいんですね」
私の背筋を冷たいものが流れる。顔から流せる液体全てを流しながら微笑む白河から軽い狂気を感じた。
声などかけずに突き放すべきだったか――?
「ま、まぁそういうわけだからごめんね。じゃ私、約束あるから――」
そう言って振り返ると、ダッシュでその場を後にした。バスに乗り込んでから恐る恐る後ろを振り返るが白河の姿はない。そこで初めて胸をなでおろした。
*
「――ってことがあったの。怖かったよぉ」
私はコージに頬ずりしながら学校での顛末を話した。
「いきなりそんなこと言われても困るよね? それに私にはコージもいるし」
それから私の体温で温められたコージの手に軽く口づけした。
「ん――」
かすかに鼻についた異臭。私は立ち上がって戸棚を開けると、そこに入れてあるローズの香水をコージに振りかけた。
――臭ってきたか。
私は数日前のことを思い出し眉をひそめる。いつもなら登校時は常に手首は保冷するよう気をつけている。だがその日は寝過ごしたせいもあり、手首を部屋の机に置きっぱなしで出てしまったのだ。おまけに部屋のヒーターを付けたままで。
あれのせいで腐敗が進んでしまったらしい。きちんとしていれば四、五ヶ月は持つというのに――迂闊だった。
「自分の不注意とはいえ潮時――かな。ごめんねコージ」
私は両手で優しくコージの手を目線の高さまで持ち上げ、コツンと額をあてた。