Epilogue.
*
「あの時は本当に驚いたよね。遺産相続の相談でお呼ばれした先で、計画殺人に巻き込まれちゃうんだもん」
「だから私は行くの反対だったんだよ。絶海の孤島に建てられた資産家の別荘とか、何か起こらないわけないもん。きなくさいからやめとけって言ったのに」
「でもそのおかげですぐに事件解決できたじゃない。私実際に殺人事件の犯人を指摘するなんてこと一生ないと思ってたよ。まるでテレビや小説の探偵みたいだったね」
「まぁ、私が被害者の爺さんからどうやって殺されたか聞けたからだけどね。目の前で次男が犯行暴かれたの見て、凄くいい顔して成仏してったし。あれは確かに殺さないと百年は生きそうだったよ」
そう言うと玉子はクスクス笑った。
「――ねぇ。美沙にとって一番心に残ってる思い出ってある?」
心に残る思い出か。私は少し考えてから言った。
「そりゃあ玉子と初めて会ったときのことでしょ。私にとって生身の人間に触れたのも、触れられたのも初めてだったし」
「そっか。嬉しいなぁ」
玉子が嬉しそうに笑う。こいつ私がそう答えるのを期待していたな。
「私もあの日のことは今でもはっきり思い出せるよ。美沙と一緒にいられるようになってから、なにかを不安に感じたりとか本当にしなくなったんだ。私にとってすごく頼もしい守護霊さまだね」
「あんまり守ってたつもりはないけどね。私は本当になにもしてないし、守護霊って言うより――」
取り憑いているだけで特になにもせず食と住を提供される。ニート霊だのヒモ霊だのという不名誉な呼び名が頭をよぎった。
「いや、まぁなんでもいいや」
さすがに口に出すのは沽券に関わる。私は話を切り上げた。
こんな他愛ない会話をどれくらい続けているだろう。
最初のうちこそなにを話してやるべきか悩んだが、いざ話し始めると話題に事欠くことはなかった。思い返してみると彼女は本当に面倒ごとを引きつける体質だったようだ。
玉子の次の言葉を待つが沈黙が続く。どうやら意識を失ったらしい。
玉子の額にかかった髪を指先でそっと払う。私はベッドから身体を起こして玉子の手元に置かれたナースコールのボタンを押した。
都内にある総合病院の一室で彼女はずっと寝たきりの状態になっていた。
玉子がこの状態になったのは一ヶ月ほど前だったか。とある弁護を終え、裁判所から退出しようとした玉子は廊下で突然倒れ込んだ。そのまま病院へ運び込まれ、今に至るという感じだ。
玉子が横たわっているベッドの脇には大がかりな機械が置かれ、そこから無数のコードが彼女の身体に伸びていた。胸が微かに上下し、口に取り付けられた呼吸用のマスクが規則的に曇る。彼女が見せる肉体的な活動はそれだけだ。
聞いた話だがどこかの動脈だかを血栓が塞ぎ、それによって意識を失ったらしい。手術は成功したが、玉子は起きあがることすら出来なくなり、覚醒と昏睡を交互に続けていた。そして最近は昏睡の割合が徐々に増えている。
玉子と初めて出会ってから長い――とても長い時間が過ぎた。白く柔らかな肌には皺が刻まれ、瑞々しかった美しい黒髪には白が混じりはじめている。点滴しか受けられない身体からは肉が落ち、腕は柳のように細く痩せ衰えていた。
だが私にとって彼女の本質は変わらない。玉子は出会った頃と何一つ変わらず――否、今こそが最も美しいと思える。
看護師の女性が数人部屋へと駆け込んでくる。慌ただしくベッドの傍に立ち、カテーテルを刺したりバイタルチェックを始める様をじっと眺めていた。やがて看護師の呼びかけに応えるように玉子の胸が小さく上下し、呼吸用マスクが曇った。
看護士たちが顔を見合わせ、何事かを話し合っている。二人の若い看護師が部屋から出ていき、年長者の看護師が一人残った。どこか沈痛な面持ちだ。
「美沙、そこにいる?」
それから一時間ほどが過ぎた頃、不意に玉子の声が頭に響く。
喋ることが出来なくなってから、何故か彼女とは声無き会話が可能になった。声を発していない私の声を玉子が聞いていたように、彼女もまた私と同じ方法で話すことが出来るようになったのだろうか。それは彼女の魂が私と同一のものへと近づいていることを意味していた。
だがその声も日に日に掠れ、今では蚊の鳴くような頼りないものになっていた。もう永くはないかな――私は玉子に届かぬよう心の奥底でそんなことを思った。
「いるよ。どこにも行ったりしない」
答えながら玉子の左隣に右肘を付いて寝そべり、左手を玉子の左手に重ねた。すぐ後ろには大掛かりな機材と壁があるので寝心地がいいとは言えないが、私がいられるスペースはここくらいしかない。
「ねぇ美沙。私は正しく生きてこれたのかな」
唐突な問いに私は首を傾げる。ずっと前にも同じ事を聞かれた。あれ以来こういった話題を口にすることはなくなったので吹っ切れたとばかり思っていたが。
私は少し考え、思ったままを告げた。
「そんなのわからない。だけど少なくとも私の目にあんたは気高く映った。自分を偽らずに貫き通した。それは誰にでも出来ることじゃあないと思うよ」
「――私もそう思ってた。だけど今になって違うんじゃないかって思いが沸いてくるの。私はただ美沙を失った現実を受け入れられずに、目を背けて逃げてきただけじゃないかなって」
玉子の声が震えている。死を間近にして弱気が生じ、これまでを省みてしまったのだろう――そう思った。
「大丈夫。今あんたは少し弱気になってるだけ。こんな状況になったら誰だってそんな考えを――」
「違うの。私はいつだって自分が死ぬことを受け入れてた。今だって怖いわけじゃない。それなのに、もう十年も前からずっと迷って生きてきた」
十年前――玉子の両親が亡くなった頃だ。私の脳裏に当時の情景が浮かび上がった。
玉子の両親とは私も何度も会っている。二人とも心の底から玉子のことを愛していたし、それは玉子も同じだ。私も彼らのことが好きだった。
最初に父親が逝去し、母親もまたあとを追うようにして翌年亡くなった。玉子は父親が亡くなった時も勿論深く悲しんだが、母まで立て続けに喪うことになると思わなかったのだろう。
玉子は母の亡骸の傍に縋りつき、泣きながら何度も何度も叫んでいた。こんな生き方を選んでごめんなさいと。
両親が亡くなったあの時、彼女は一度だけ己の生き方を否定した。
「二人が本当は私になにを望んでいたか私は気付いていたのに、私は自分が自分らしくある事を選んだ。だけど、お父さんとお母さんになにも報いることが出来なかった事を思い知らされた時、私の口からあの言葉が突いて出ていた。本当に無意識に叫んでたの」
玉子の声には悲しみだけでなく憤りも混じっている。
両親にとって玉子は間違いなく誇りだっただろう。だが孤独に身を置く彼女を案じていたのも事実だ。彼女に人並みの幸せを掴んでほしい――人の親ならば当然の願いを抱いていた。
それを玉子に伝えなかったのは、自分たちがまた特別な夫婦であることを理解していたからだ。玉子も自分を産んでくれた両親に深く感謝していたが、同じ事が出来ずにいることに劣等感もあったのだろう。両親の死を目の当たりにしてその思いが膨れ上がったのだ。
「私はあの時、自分のそれまでを否定したことも、二人に報いることが出来なかったこともどちらも許せない。私はどうすればよかったんだろう――そんな風に考えてしまうことも嫌なのに。こんなこと話したら美沙が困るのだってわかってるのに」
胸の奥がじくりと痛む。なぜなら玉子と同じ時期から私の中にも生まれていたからだ。後ろ暗い感情が。
美沙と私は運命の糸で結ばれてるんだね――いつだったか玉子がはにかみながら私に言った。もし運命などというものがあるとして、私と彼女の関係はそんなメルヘンで可愛らしいものではない。言うなれば茨のように絡みついた歪な絆だ。
人にとって死とは究極の別離だ。大切なものを失うことは悲しみを伴うが、それを乗り越えた時に人は新たな未来へと歩み出せる。坂を上りきった先には新たな景色が広がるように。
だが玉子は私と出会ってしまった。死者との邂逅というあり得ない出来事が起こってしまった。それによって玉子は手に入れてしまったのだ。折れることなく己の生き方を貫き通す勇気を。
もちろん仮に私との出会いが無くても、彼女は今と同じ道を辿ったかもしれない。それでもあり得たはずなのだ。妥協したり、省みたりした先にある全く別の人生が。
玉子に生き方を選ばせたのは私ではないか――そんなふうに沸いた考えを、私は押し殺した。向き合うことを否定した。
私はどのような言葉をかけてやればいいのだろう。なにを言っても自分自身を取り繕うだけのような気がしてしまう。
言葉が出ない。それでも伝えてやりたい。玉子は後悔を抱いて死ぬ必要など無いことを。恥じることなく胸を張っていればいいということを。
その時、廊下から慌ただしく駆けてくる足音が聞こえた。病室の扉が開かれ、見慣れた顔が飛び込んでくる。
「玉子!」
桐原が血相を変えて玉子のベッドに駆け寄り、シーツの上に出ていた玉子の右手を握りしめる。
どうやら部屋から出ていった看護士は縁者に連絡を取りに行っていたようだ。でなければこんないいタイミングで来てはくれまい。
桐原は若い頃と変わらずスタイルが良く、見た目も歳の割には若々しい。さすがに現場からは退いているが、警察学校の指導教官として新人をビシビシ鍛えているらしい。
彼女はかつて玉子に同棲を申し込んだことがある。夫婦とはいかないが、パートナーとして一緒にならないかと。だが玉子は柔らかく申し出を断った。
もちろん私に対して義理を通したのもあるだろう。だが玉子の本心は、これ以上自分の道行きに桐原を巻き込みたくなかったからだ。断られてからも桐原はしばらく吹っ切れずにいたようだが、結局三十台の半ばで同僚の男性と結婚した。今では成人前の息子もいる。
「先生!」
「白河さん!!」
やがて病室には次々と人が集まり、それなりの広さがある個室が一杯になった。見慣れた顔、あまり知らぬ顔と様々だが、誰もが一様に悲しみを顔に張り付けていた。
なんだか肩の荷が降りたように気が抜けた。
「玉子。目は見える? 今病室がどんな風になってるかわかる?」
私が呼びかけると、玉子の顔がぴくりと動いた。閉じられていた瞼が薄く開かれ、視線が病室をさまよった。
「皆あんたに会いたくて集まったんだ。この時間だと仕事中だっただろうに、きっと無理して抜け出してきたんだろうね」
桐原の後ろにはメガネがいた。今は玉子の事務所の所長代理を務めている。あの事務所は玉子がいなくなったあとは彼女が運営を引き継ぐことになっている。涙でレンズが曇っているのに眼鏡を外そうとしないのは、玉子の姿をはっきり目に焼き付けるためだろう。
「狐目もボブ子もいるよ。みんな老けたねぇ」
狐目とボブ子は自分の事務所を立ち上げて独立した。だが狐目の方はすぐ事業に失敗して一文無しになり、それからはボブ子のヒモとして生きていくと潔いのかどうなのかわからない宣言をした。
ボブ子はそれに関して嫌な顔ひとつせず、どうせこうなることはわかってたからとあっさり許してしまった。お手本のようなダメ彼女だが、まぁ二人とも幸せそうだしいいのだろう。
「お嬢も来てる。綺麗な顔真っ赤にして泣いてるよ」
枕元のすぐ傍に膝をついて泣く女性を見ながら言った。彼女はかつて玉子が襲われた夜に、逃げ出した橘を轢いてしまったトラック運転手の娘だ。
玉子はほとんど無償で彼女の父親の弁護を引き受け、無罪に近い判決を勝ち取った。当時小学生だった彼女はそんな玉子に憧れて弁護士を目指し、独力で司法試験に合格して白河法律探偵事務所の一員となった。今では一人前の弁護士として働いている。
ちなみに本名は岩倉紗織で、入社当時ストレートの黒髪にヘアバンドという髪型をしていたことと、名前がお嬢様っぽいという理由でお譲と付けた。
「他にも沢山いる。弁護士協会に警察関係者、玉子が弁護してきた人たちも。あとは――ハハ、多すぎてわかんない」
私は笑って玉子の肩に右手で触れた。かつて灼けるように感じた熱はもはや無く、手のひらから伝わる温もりは頼りなく消えかかっていた。
「男も女もない。皆が玉子のことを愛してる。玉子は子供を――血を繋ぐことは出来なかったかもしれないけど、たくさんの人の心にあんたの魂が遺ってる。玉子が遺したものを胸にこれからも生き続ける」
私は玉子の左手に指を絡めて握った。肩に置いた右手に伝わる感覚は希薄だが、今は少しでも玉子に触れていてやりたい。玉子が弱々しいながらも左手を握り返してくるのを感じる。
「お父さんもお母さんも玉子のことを心から誇りに思ってた。みんなのためにも玉子は胸を張っていればいい。正しいとか正しくないじゃない。あんたは間違いなくあんたにしかできない人生を――白河玉子として生きたんだから」
玉子の目から涙が糸を引く。同時に玉子の中から何かが失われていくのを感じ、私は無意識に掴み止めようと左手に力を込めていた。ざるで水をすくうのに似た無意味な行為だ。
「私、美沙を好きになって良かった」
玉子の声が遠ざかる。幾度となく聞かされたはずの言葉が耳に心地いい。
「私も玉子に会えて良かった。楽しかったよ」
偽りのない本心。玉子にはきっと伝わるだろう。
「美沙、今まで一緒にいてくれてありがとう。本当に――本当にありがとう」
玉子の声が遠ざかる。私は両手を強く握りしめて小さく笑った。
「最期まで傍にいるよ。ずっと昔に約束したでしょ」
玉子が微笑んだ――ように見えた。彼女は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「おやすみ――玉子」
機械が心音の停止を告げる電子音を鳴らすのと、部屋にいた人間が泣き崩れたのはほとんど同時だった。
涙雨――そう形容するのがふさわしい光景を横目に私はゆっくりと体を起こした。玉子の左手に絡めていた指をそっとほどき、人だかりに触れないようにベッドの上から降りる。
部屋の隅にある窓の前に立ち、左手を目の高さにかかげる。それまであった肌に吸い付くような質感は失われ、ただの革手袋と化していた。薬指にはまった指輪を縫いつけていた黒い糸もほつれ、私が見ている前で溶けるように消えていく。
私は戒めが解かれたことを実感した。だが嬉しさはない。これからどうするべきかを考える気も起こらない。だが無気力なのかというとそれも違う。
足下になにかが落ちたことに気付き、私は床を見下ろした。インクを垂らしたように真っ黒い、小さな染みが広がっている。
「え?」
下を向いたまま両手を顔の前で広げると、黒い滴が次々と手のひらに垂れていく。コールタールのように真っ黒でどろりとしているが、手や床に落ちたそばから煙のように消えていく。
私は窓へと顔を向けた。日が沈みかけ、薄い闇を背にしたガラスがスクリーンとなって私の顔を映し出す。私の目から涙が溢れ、頬に黒い線が幾筋も引かれていた。
「涙? なにこれ、どうして私が?」
私は両手で目から溢れ出る涙を拭い、再び顔を上げた。ガラスには吊り上がり気味な目をした少女の顔が映し出されている。それが両目を縁取っていた黒い隈が消え去った自分の顔であると気付いた瞬間、稲妻に打たれたようなショックに襲われた。
「うあ!!」
頭を抱えて膝をつく。洪水のように頭の中へと流れ込むおびただしい景色。それは私が失ったはずの――生前の黒乃美沙の記憶だった。
「嘘――どうして今――」
頭を抱えたまま呆然と呟く。怒り、悲しみ、後悔、怨み――ありとあらゆる感情が堰を切ったように溢れ出す。
「玉子ォ!!」
体を翻し、ベッドに駆け戻る。人だかりを無理矢理通り抜け、横たわる玉子の遺体に取り縋った。
「玉子――こんなに近くにいたのに――ずっと傍にいたのになんで、どうして今まで忘れてたのよ――」
玉子の胸に額を埋めて叫ぶ。喉が焼けるほどに声を上げているのに涙は流れない。ただこみ上げてくる感情で胸が張り裂けぬよう、声を上げるのが精一杯だった。
そうしている内に、胸の奥で渦を巻く激情が私に思い出させてくれた。記憶を失う前に交わしたやりとりの断片を。
玉子の傍にいて見守りたいと望んだ私に、奴らは幽体として現世に戻ることを許してくれた。だがそれは寛大なる措置などではない。記憶を奪い、ただ漠然と現世を彷徨わせ、玉子の死と同時に私の記憶を戻す。そうして絶望に暮れる私の姿を見ようとしたのだろう。サディストどもめ。
私は口から漏れかけた呪詛の言葉をかろうじて飲み下す。ここは神聖な場所だ。玉子の眠りを妨げてはならない。
「私は絶望なんかしない。私は満ち足りている。玉子を最後まで見届けてあげられた。あんた達の思惑は外れたんだ――ざまぁみろ」
それだけ呟いて立ち上がった時、身体の異変に気付く。両手を目の前に翳すと向こう側が透けて見える。
「――そっか。未練のない幽霊なんて、この世にいる理由がないもんね」
なんだかおかしくなり、私はククッと笑いを漏らした。先程人混みを通り抜けたときに落としたのだろう。自分の帽子がベッドの傍に落ちているのを見つけて拾い上げる。
次に目が覚めたとき私はどうなっているだろう。きっとろくなものではないだろうが恐怖はない。私もまた黒乃美沙としての生を全うできたのだから。
ふと見ると、ベッドの傍では由香がいまだに玉子の右手を握りしめて泣いていた。時間はあまりない。大事な用事だけ済ませてしまおう。
「まったく、由香ってばあたしを置いて歳食っちゃってさ」
前屈みになり、由香の耳元で呼びかける。もちろん由香には聞こえていないだろう。それでもなんだか懐かしかった。
「あんたには世話になったね。達者でやりなよ――親友」
消えかけている左手で由香の頭を撫でる。由香が顔を上げ、泣きはらした目で周囲をキョロキョロと見回した。
私は再びベッドに上がり、看護士によってマスクの外された玉子の顔をそっと両手で包んだ。
「ごめんね。伝えたいことや話したいことがたくさんあったのに、結局なにもしてあげられなかった。ごめんね、玉子――」
軽く額を合わせ、帽子を被り直してから玉子の左隣に体を滑り込ませる。玉子の左手は計器と壁が遮っているため他の人間には触れられない。私は手袋にはめられていた金の指輪を外して玉子の薬指にはめた。痩せ細っていた彼女の指に指輪はすんなり通る。
私の片思いだったよ――玉子がかつてそう言っていたのを思い出す。
「本当はあの時に伝えたかった。片思いじゃないからね、玉子」
腰を屈め、指輪に唇が触れる程度のキスをする。
私が玉子と再会できたのはどうしてだろう。私はあてもなく各地を回りながら、気が付くといつもあの街に戻っていた。玉子のいるあの街から引力のようなものを感じていた。自分の帰る場所だと決めていた。
だから、きっと玉子と出会ったことも必然だったのだろう――自分勝手な気もするが、そう考えると少しだけ気が楽になった。
玉子の隣に体を横たえて目を閉じた。優しく透き通るような感覚で満たされていくのを感じる。
ああ、なんていい気分なんだろう――
*
看護士が遺体保護処置を行うため、見舞いに来ていた人間を退出させる。最後まで白河の手を握り続けていた桐原も憔悴しきった顔で立ち上がる。
「あ、桐原さん。ちょっとよろしいですか?」
頼りない足取りで部屋を出ようとした桐原を年長の看護士が呼び止める。
「あの、今白河さんのシーツをはがしたらこんな物があって。どなたかお忘れになったのかしらと」
看護士がそう言ってなにかを差し出した。どうやら使い古された手袋のようだ。
「あ、それ確か先生が昔大切にしておられた手袋じゃないですか。いつも持ち歩いてたから私覚えてます。たしか持ち主に返したって仰ってましたけど」
桐原の背後から本田が眼鏡をかけ直しながら言った。
「そう言えば。――あの、これはどこにあったんですか?」
「ええ、それが白河さんの左手に重ねるようにしてありました。それと左手に指輪がありまして、これも今朝までは無かった物なんですが」
看護士が体をずらしながら背後を振り向く。ベッドには白河の遺体が横にされたままだ。
桐原はベッドの傍に歩み寄り、横たわる白河を見下ろす。確かに左手の薬指に金の指輪がはめられていた。
桐原はポケットを探り、銀の指輪を取り出した。白河が右手の薬指にはめていたものだが、入院してからは桐原が預かっていた。
すっかり細くなってしまった白河の左手をとり、桐原は持っていた指輪を薬指にはめた。金と銀の指輪が触れあい、小さな音を奏でる。
「このまま――このままで清めてやってもらえますか。銀の方は指のサイズに合ってますし、もう離れたりはしないと思いますから」
桐原の脳裏で二人の親友が寄り添う。涙が一筋糸を引いた。
「来てたんだね――美沙」
震える声で桐原が呟き、涙の粒が指輪に落ちる。
指輪が雫を弾き、答えるかのようにキラリと輝いた。