5.
*
「おはよう、美沙。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
私がダイニングに顔を出すと、キッチンに立っていた白河が笑顔で声をかけてきた。まだ朝の六時半だというのにスーツをきっちり着込んでいる。
あくび混じりにコーヒーと答えてソファに腰を落とす。間を置かず白河が目の前のテーブルにコーヒーを置いた。ご丁寧にトーストまで添えて。
朝食もそこそこに、白河は出勤のためにマンションの自室を出る。当然私もそれに続く。白河から離れることのできない事情を説明していないので、一人でいても暇だからと適当な理由を付ける。それだけで白河は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
事務所にはまだ誰も来ていなかった。白河はデスクに荷物を置くと、玄関脇にある用具箱から箒や掃除機を引っ張り出し、事務所の掃除を始めた。
「ここの掃除って、毎日こんな大げさにやってるの?」
「うーん、いつもこんな細かくやってるわけじゃないけど。でも今日くらいは特別に綺麗にしとこうかなって」
書架にハンドモップをかけながら白河が曖昧な返事をした。どうやら私に玉子と呼ばれることにも慣れたようだ。昨夜は何度繰り返して名前を呼ばされたかわからない。
「おはようございまーす」
オフィスのドアが開き、三人娘がゾロゾロと入ってくる。この事務所は八時半出勤らしい。
「みんなおはよー」
挨拶を返した白河を見て三人が揃って首を傾げる。
「先生、こんな早くから掃除ですか?」
「あらぁ、一声かけてくだされば良かったのに」
メガネとボブ子が荷物を置いて白河に駆け寄った。狐目は露骨にめんどくさそうに頭を掻いた。
「えー、そんな散らかってないしいいじゃん。朝から掃除なんて辛気くさいよ」
「ダメよトコちゃん。そんなだからアパートだってすぐ汚くするんだよ。部屋が汚れてるとご先祖様は悲しむし、運気だって落ちるんだから」
ボブ子が狐目を振り返り、窘めるように人差し指を立てて言った。こいつスピリチュアル系女子という奴だな。
そういえば白河から彼女らの本名は聞いている。メガネが本田雛実、ボブ子が神崎碧で、狐目が相馬透子といったか。
まぁめんどくさいので最初の呼称から変えはしないが。
「あたしそーいうオカルト信じないし。マジでお化けだの神様だのがいたら、私なんかとっくにバチ当てられてるよ」
狐目がケラケラと楽しそうに笑った。私はその背後に立ち、右手の人差し指で狐目の首筋から背中にかけてをすーっと撫でる。
「ひええええええ!?」
狐目が頓狂な声を上げて椅子から飛び上がった。振り返って私を――正確には誰もいない背後を振り返る。
「な、なんか今背筋がゾクゾクってしたんだけど!?」
いきなりうろたえだした狐目の様子に、メガネとボブ子は顔を見合わせて首を捻る。
「あはは、透子さんには早速バチが当たったみたいだね」
ただ一人私が見えている白河だけが楽しそうに笑った。
その後は全員で事務所の掃除を行い、一段落ついた時には正午を回っていた。来客もなく、電話が数本あった程度だ。
白河の提案で、全員が早めの昼休みについた。白河とメガネは隣のビルにあるカフェでランチの出前を頼み、狐目はボブ子と一緒に弁当を広げていた。さっき白河からこの二人が同棲していることを小声で聞かされたが、さして驚きはしなかった。ここ数日の間で慣れてしまったらしい。
「あぁ、そういえばここに初めて出社した日も白河先生がお掃除してらしたっけ。懐かしいわぁ」
ボブ子が頬に手をあてながら言った。
「碧ちゃんが面接に来てくれたときはホッとしたなぁ。あの時は事務の雛ちゃんしかいなかったし、経験もあったから即戦力だったね」
白河がメガネと顔を見合わせて頷きあう。
「私がここ来た時は碧のすぐあとだったけど、三人しかいなくて驚いたっけ。あの時は例の騒動も知らなかったしね」
騒動とはなんのことだ――私は首を傾げる。たしかにスタッフと机の数が合わないとは思っていたが、以前はそうではなかったのだろうか。
「あの時は人がいっぺんに減っちゃって大変だったよ。雛ちゃんもあの時は迷惑かけちゃったよね」
「先生が謝ることなんてなにもないです。むしろ先生が大変だったときにこの事務所を離れた人たちを、私は絶対許しません」
メガネが憤然として言い放つ。物静かな人間が怒ると、ギャップのせいかめちゃくちゃ怖い。ボブ子と狐目に唖然とした目を向けられているのに気づいたメガネは、感情を露わにしてしまったことを恥いるように顔を伏せた。
「と、とにかく私は先生が尊敬すべき方であると確信してます。あの時だって先生は全てに対して毅然としておられました。これからもそうしていただけばいいんです」
メガネは口早にそう締めくくった。狐目が感心したように頷く。
「おー、本田ちゃんも熱いとこあるんだね。あたしってば惚れちゃいそうだよ」
「わ、私にそっちの気はありません!」
メガネが顔を真っ赤にして机をたたく。白河はメガネにこの上なく魅力的な笑顔を向けて言った。
「雛ちゃんありがとう。私も雛ちゃんがこの事務所に来てくれて本当に良かったって思うよ。これからもよろしくね」
メガネは顔を赤くしたまま、はいと大きな声で答えた。
私が事情を飲み込めずにいることに気づいたのか、白河が私にちらりと視線を向けて小さく微笑んだ。あとで説明するね――言葉にはしていないが、白河の思いはたやすく伝わった。
*
静かなオフィス内には白河がキーボードを叩く音だけが響いていた。既に勤務時間は過ぎているため、メガネ達は全員帰宅している。白河は一番早くに出勤し、一番遅くに帰るというのが常なのだろう。
「美沙、コーヒー淹れよっか?」
白河が大きく伸びをしてから私に声をかける。応接用のソファに腰掛けていた私はおねがいと答え、読んでいた絵本を閉じた。
「まだかかりそうなの?」
コーヒーを淹れて戻ってきた白河に声をかける。白河は円卓にカップを二つ置き、向かいのソファに腰を下ろした。
「もう少しでキリのいいところまで終わりそう。お腹空いた?」
「いや、大丈夫。そもそも私、幽霊だし」
もう何度繰り返したかわからないやり取りを交わし、私たちはお互いに小さく吹き出した。白河は持っていたコーヒーカップを置き、小さく咳払いをして座り直した。
「昼間のことだけど、美沙にはまだ話してなかったね。うちの事務所だけど、前はもっと人がいたんだ」
「あぁ、言ってたねそんなこと」
私は特に興味なさげに答えた。これまで話さなかったということは、白河にとって好ましい内容ではないからだろう。それなら無理に聴き出す必要はない。
「美沙はパートナーシップ条例って知ってる? 去年渋谷区が全国で初めて施工したやつ」
「あぁ、新聞で読んだ程度だけど。同性のカップルも夫婦に近い扱い受けれる――とかだっけ?」
「そうそう。私ね、その条例の支援活動してたんだ。署名集めたり、説明会を開いたり。結構大きな反響があったんだよ」
それを聞き、私はなんとなく事の顛末を察した。反響が大きかったという事は、多くの人間が白河のことを知ったのだろう。彼女にとっては自らの性癖をカミングアウトしたに等しい行為だったはずだ。
その後に白河が語った内容は、大体私の予想に沿ったものだった。事務所にいたずら電話が増えたり、週刊誌に面白可笑しく脚色された記事を載せられたり。それによってスタッフが次々と辞職していったり。
「ずいぶんと思い切ったことしたんだね。玉子らしいというかなんというか」
私が呆れた口調で言うと、白河は薄く笑った。自嘲を含んだその笑顔はまったく彼女らしくないものだった。
「私らしい、か。そうだね――私らしくて、自分勝手な行動だよね」
「自分勝手? いや、別にそういう意味で言ったんじゃないよ。玉子は自分と同じ境遇にいる人たちのために行動したんでしょ? だから私は玉子らしいなって、そう思っただけさ」
「そうだね。それがきっかけになったのは間違いないよ。だけど考えてみて? 私は個人じゃなくて、社員を抱える事業主なの。私一人の行動が事務所と社員全てに影響を与える。そうでしょ?」
「そりゃまぁ――そうだね」
「私はすべてを理解した上で行動を起こした。それによって起こり得る問題の全てを理解して、なお私は自分のやりたいことを貫いた。自分勝手な行動じゃない?」
白河が私を見据えたまま子供のように首を傾げる。答えることができず、私はテーブルに置かれたカップを手に取り、コーヒーの香りを胸一杯に吸い込んだ。当然の事ながら飲むことは出来ない。
以前に一度試してみたことがあるのだが、水などを口から流し込んでもその場にこぼれ落ちてしまう。だから私が楽しむことが出来るのは香りと、残り火のような熱だけだ。
「玉子は後悔してるの?」
「したりしなかったりかな。私ね、こういう事をするのは初めてじゃないの。昔から私はこういう事を度々やっていた。自分の中で生まれた意志に突き動かされる事がたまにあるの。それは押さえ込もうとすると段々暗いものへと変わってしまう。自分でも抑えられない、黒い衝動に」
白河が胸元に手を当てた。視線は私へと向けたままだ。今更ながらなぜこんな事を話す気になったのだろうか。私はぼんやりとそう思った。
「私はかつてその衝動を美沙にぶつけた。私の生涯で一番大きく育った真っ黒な衝動を。それがもとで私はあなたを永遠に失った。三日前の夜に美沙ともう一度会えた時、本当におかしくなりそうなくらい嬉しかった。そして、私もようやく裁かれるんだって思ったの」
白河の眼差しから光が消えた。昨夜見せたものと同じ、死人の目に変わっている。
私はなんとなく察した。どうやらこれは罪の告白であるらしい。白河から私へ――否、生前の私に対しての。
「だから私は今度こそ美沙に本当のことを話そうって決めたの。美沙を今も縛り付けているのは、きっと私に対する憎しみだから。それさえ晴れたらきっと――」
「ちょっと待った。今なんか聞き捨てならないこと言ったね」
白河の言葉を遮るように言葉を被せる。ソファから尻を軽く上げ、上体を目一杯前に倒し、白河の眼前に顔を突きだした。白河は息を呑み、ビクリと体を震わせた。
「あんた、ひょっとして私を悪霊かなにかだと思ってる? 得体の知れない怨念を抱えてストレスこねくり回しながら生きてるように見えるの? この私が」
幽霊である私に生きてるという表現は奇妙だが、今はどうでもいい。
「あ、悪霊だなんて。私はただ――」
「私をそんなせせこましい理由で現世をうろついてる奴らと同じにするのはやめてもらえる? 私の中には誰かに対する恨みだの憎しみだのってもんはこれっぱかしもありゃしない。もちろん玉子から今の話を聞かされたところで、毛ほども私の心は動かない」
間近で見開かれていた白河の瞳に光が戻る。ぱちくりと瞬きがされ、長い睫毛が揺れた。
「美沙は――私を恨んでないの?」
「少なくとも生前の私は恨みを抱えて死んではいない。確かに私は玉子のことを覚えていないけど、私の中にそう言ったドス黒い感情は欠片もない」
「本当に?」
「私は自分を偽るのが嫌いなの。だから誓って本当」
叩きつけるようにそう言ってからソファに座り直した。まだポカントしている白河を追い打つように言葉を投げる。
「だからあんたの罪の告白とやらを聞いてやるつもりはない。私は十分この生活を楽しんでるし、今更生きてた頃の事なんて知りたくもないの。だから二度とそういう話はやめなよ」
オーバーなモーションで足を組み、肘掛けに置いた左腕に体重をかけて大きく上体を捻る。話は終わりという意思表示のつもりだったが、白河がなにも言ってこない。
私は体の向きはそのままに、視線だけをチラリと白河の方へと向けた。
白河は呆けたように虚空を見つめていた。口は半開きになっていて、まるで魂が抜けたような有様だ。
「――玉子?」
不安になり、目の前で手をパタパタ振った。そこでようやく白河はハッとして顔を上げた。
「あ――ごめん。なんだか気が抜けちゃって。ふふ、あはは――」
我に返ったと思ったら急に笑い出した。訝しげな目を向けていると、白河は目元を拭いながら首を振った。
「こんな風に美沙を困らせるのは二度目だね。あの時も美沙は私が話そうとするのを止めたっけ」
なんのことか思い出せないが、恐らくは昔の話だろう。私がこうなる以前の。
「あぁ、私ってほんとダメだなぁ。自分で勝手に思い詰めて、それだけじゃなくて美沙を変な風に誤解してたなんて」
白河が顔を伏せると涙の滴がカーペットにこぼれ落ちた。私は溜息混じりに左手をティッシュの箱へと伸ばした。
「少しの間玉子と一緒にいて思ったけど、あんたって自分のことをなにか――ろくでもない人間だとでも思ってるんじゃない? 楽しそうにしててもいつだって影があるし、なんだか色々なことをあえて背負い込もうとしてる。それが自分にとっての務めだと言わんばかりだわ」
白河の前にティッシュを置き、ソファに座り直す。初めて会った時にはこんな隙だらけの姿など想像もしなかった。
「あんまり馬鹿にしてんじゃあないわよ。本当にろくでもない人間が、罰を負うべき人間がどんなかはあんたがよく知ってるはずでしょ。私がそうだったはずだし、なによりあんたは弁護士なんだ」
帽子を少しだけ持ち上げ、額に手を当てて溜息をつく。自分が誰かにこんな台詞を吐くことになるなんて、それこそ想像もしなかったことだ。
「――昼間にメガネが言ってたように、あんたはシャキッとしてりゃあいいの。少なくともここにいる連中はあんたを誇りに思ってる。私に対して罪の意識があるのもわかったけど、そんなもん感じる必要なんかないのよ。当の本人である私が言ってるんだから疑問の余地はないはずでしょ?」
それだけ言うと再びコーヒーを鼻先まで運ぶ。すっかり冷めてしまい、香りも散ってしまっている。これ以上言葉は出てこないし、出すつもりもない。
「私は――自分のしてきたことに何一つ自信を持てなかった。美沙がいなくなって、私の中にはぽっかり大きな隙間が空いてしまった。その隙間を埋めるためだって思うと、全てが利己的に感じられたから。でも――」
涙を拭ってから白河がゆっくりと言葉を紡いでいく。
「美沙を好きになって良かった。それだけは本当に、心の底から自信を持って言えるの」
白河が泣き腫らした顔を上げ、童女のように無邪気な笑顔を見せた。あまりにもストレートな感情表現に気恥ずかしさを覚え、帽子の鍔を目元深くまでずり下げる。
「――もういいから、早く仕事終わらせなよ。さっさと帰ろ」
「うん」
白河は勢いよくソファから立ち上がり、自分のデスクへと戻った。再びオフィスには規則正しいキーボードの音だけが響く。
それから一時間と経たずに仕事を終え、私は白河と共にビルを出た。真冬でもないのにひやりとした風を感じ、気持ち背筋を丸めて歩く。
裏手にある月極駐車場はさして広くはない長方形の立地で、十台ほどの駐車スペースがあるだけだ。今は白河の軽自動車が一台停まっているきりである。
車に乗り込むために車体をすり抜けようとしたところで、白河がじっと立ち尽くしているのに気付いた。視線は私の頭上を通り越し、駐車場の出口に向けている。
「美沙。一つだけお願いしてもいい?」
私にだけ届く声で白河が囁いた。
「これからなにがあっても、最後まで傍にいてもらえる?」
最後とはいつまでだろう――この間までの私ならばそんなことを考えただろうか。私が逡巡せず頷くと、白河は満足げに微笑んだ。
「なにか御用ですか」
車から離れ、白河が落ち着いた声で呼びかける。私が白河の視線を追って振り向くと、駐車場から道路に続く道でゆらりと影が動いた。
「白河先生――ですよね。そこにある法律事務所の所長で、探偵でもいらっしゃるとか」
声の感じからして男だろう。よく通るが張りのない、疲れたような声だった。
「初めまして、と言った方がいいんでしょうか。あなたは僕のことを知っているはずですから。橘樹です」
駐車場内を照らす蛍光灯が、薄暗がりの中に立つ男の輪郭を微かに浮き上がらせる。見覚えがあると思ったが当然だ。私が白河と初めて出会った日に写真で見た顔なのだから。