4.
*
「先生、今朝はずいぶん機嫌良さそうですね」
白河がまとめた書類を受け取りながら、メガネが窺うような口調で言った。
「そう? そんなことないよぉ」
言葉では否定しているが、白河の口調は明らかに浮かれていた。よく見ると口元も緩んでいる。はぁ、と曖昧に答えてメガネが席に戻る。
丁度その時にちらりと視線を向けた白河と目が合った。白河が小さく手を振ってくるが、私は帽子を深く被って視線を外した。
昨夜は色々と悩んだ末に、結局ここに戻ることを選んだ。私は普段古着屋の軒下やカフェテラスに設置されているベンチで夜を明かすことが多いのだが、馴染みのそれらはこの事務所からは離れた場所にあって辿り着けない。幽霊に睡眠など不要なものだが、私には自分で決めた生活の律動というものがある。不測の事態があった程度で崩したくはない。
事務所に戻ったときは、白河が目を覚ましていた場合の言い訳をどうしようなどと心配したが、不安をよそに彼女はすやすやと安らかな寝息をたてており、私は反対側のソファに身を横たえて眠ることにした。
朝になり、目を覚ました白河が私を見たときの、安堵と感激が入り交じった笑顔は忘れられない。おかげでまた一張羅を汚す羽目になってしまった。
私は溜め息をついて窓から外を眺めた。昨日まではどこまでも広がって見えたはずの空がまるで切り取られたように感じる。どうしてこんな事になってしまったのだろう。
無意識に目の前にかざした左手を見て、ふと給湯室にあった果物ナイフが頭に浮かんだ。いっそあれで斬り落としてやろうか――そんな考えが頭をよぎり、ぶるぶると首を振った。手首を斬り落とすなど、我ながらなんという猟奇的な発想を。どうやら自分で思っているより大分参ってしまっているようだ。
「よし、と。雛ちゃん、今日はこのあとずっと事務所にいる?」
白河がパソコンからプリントアウトした書類をまとめながらメガネを振り向いた。
「はい。担当してる土地問題の案件、今日中に資料揃えておきたいので」
「じゃあ事務所の戸締まりお願いしていいかな。私ちょっと今から大事な用事で出かけなきゃいけなくて。依頼があれば後日改めるから」
「わかりました。――でも珍しいですね、先生が仕事以外の所用で出かけられるなんて」
「勝手なこと言ってごめんね。なにかあったら電話して」
白河は言いながら手早く身支度を整え、私を振り向いてそっと入り口を指さした。一緒に行こうという合図だろうがあまり気は進まない。とはいえメガネ一人が残ってしまうと事務所の結界が閉鎖的になり、最悪はじき出されてしまうかもしれない。私は渋々壁から背を離した。
「ねぇ美沙。これから行きたいところがあるんだけど、もしよかったら一緒に来てくれる?」
事務所前の廊下に出たところで白河が声を抑えながら尋ねてきた。
「行きたいところ? それってさっき言ってた大事な用事?」
白河が頷く。仕事に関するものではなく、私をどこかへ連れて行くことが目的だったのか。私は少し考えたが特にやることも、行くあてがあるわけでもない。別にいいよと短く答えた。
「やったぁ。ありがとう」
満面の笑みを浮かべ、白河はその場で小さく跳ねた。さっきメガネも言っていたが、白河が仕事中に私用を挟むことなどほとんどないのだろう。にもかかわらずこんな行動に出たという事はそれなりの理由があるはずだ。そう考えると断りづらかったというのが本音である。
エレベーターで一階に降り、白河についてビルの裏手にある駐車場に移動した。停めてあった赤いミニバンが彼女の車らしく、白河が運転席に乗り込むのに続いて助手席に身を滑らせる。その様子を見ていた白河が目を丸くした。
「わぁ。すごいね美沙、マジシャンみたい。私ドアをすり抜ける人見たの初めてだよ」
「――まぁ、普通は一生見ないよね」
車にある結界は当然のごとく私には作用しておらず、ついいつもの癖ですり抜けをしてしまった。今までは意識せずしていたことだが、改めて考えると凄いことをしているような気がする。
「ごめん美沙、ちょっとだけ待っててね」
白河はそう言って鞄の中から携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「――あ、由香おはよう。昨日はごめんね、心配かけて」
昨日の女刑事か。そういえばあとで電話をすると言っていたが、昨日は結局そのまま眠ってしまったのでそれきりのはずだ。律儀なものだと思った。
「うん、大丈夫だよ。それでね、いきなりなのはわかってるけどこれから時間とれない?」
なにやら妙な話になってきた。時間はまだ正午にもなっていない。刑事の勤務体系に関して詳しくなど知らないが、今はまだ勤務時間バリバリの最中ではないだろうか。
どうやらそうだったらしく、トーンを上げた桐原の声が電話のマイクから漏れ聞こえてきた。
「うん、それはわかってるよ。でも今日だけ、今日だけだから。――お願い、由香。お弁当作るから――ね?」
意識してか知らずか、白河の声に甘い響きがこもり、それまで聞こえていた桐原の声が急に聞こえなくなる。
「本当? ありがとう。それじゃ一時にね」
白河が会心の笑みを浮かべて電話を切った。どうやら陥落したらしい。
「お待たせ。それじゃまずは私のマンション行こっか。色々用意しないと」
車が軽く振動し、軽やかなエンジン音と共に動き出す。白河を横目に見ると鼻歌混じりにハンドルを回していた。
「ごめんね美沙。相談せずに由香も呼んじゃった。良かったかな?」
「――別に気にしないし」
特に文句があるわけではない。むしろ白河と二人きりだと一方的にペースを掴まれそうなのでありがたいくらいだ。ただ、昨夜に聞かされた生前の私に対する白河の好意を思うと意外な気もした。形はどうあれ死に別れた思い人と再会したのだ。二人きりになりたいものではないのか。
「ねぇ美沙。やっぱり由香のことも覚えてない?」
念願であった左手に顎を乗せ、窓の外を眺めていた私に白河が問いかける。私は窓の方を向いたまま、振り返らずに答えた。
「桐原さんだっけ? 昨日会ったのが初めて。彼女も私の知り合いだったの?」
「知り合いなんて――大の親友だったんだよ、美沙と。端から見てても本当に仲が良かった。羨ましかったなぁ」
過ぎ去った時に思いを馳せるように、白河が懐かしそうな口調で言った。あの女と私が親友――あまり想像できない。第一印象では苦手なタイプにしか見えなかった。どちらかといえば白河の方がまだ気が合いそうだ。
そこまで考えて首を振る。昨夜に生前の私と今の私は別人だと、自分でそう言ったばかりだ。今の価値観で推し量る意味はない。
「そう言われても私はほんとに――あっ!」
気のない返事をしようとして飛び上がりそうになる。今し方通り過ぎた交差点を見て昨夜の出来事が脳裏に蘇った。そこは間違いなく私の左手が見えない壁に阻まれた場所だった。
「どうしたの美沙、忘れ物?」
白河が目を丸くして首を傾げる。私は無意識のうちに左手を押さえていた右手を離し、目の前で左右に振ってみた。なんの抵抗もないし、引っ張られるような感覚もない。
「な、なんでもない。気にしないでいいから」
私は平静を装いながらバックミラーで背後を確認した。先程の交差点は既にはるか後方だ。なぜ昨夜に限ってあの場所に縛り付けられたのだろう。
私が考えを巡らしていると、左手の薬指にはめられた金の指輪が微かに輝いた。そういえば見落としていたが、この指輪も私の指に吸いつくようにはまっている。外そうとしてみるがびくともしない。手袋をはめたときには一切つっかえるようなことはなかったというのに。
諦めて顔を上げた時、視界の端で何かがきらめいた。振り向いた先にあったのは白河の右手。正確には右手の薬指にはめられた銀の指輪だ。よく見るとデザインが酷似している。
「ねぇ、あなたがしてるその指輪。ひょっとしてこれのペアリング?」
左手をかざして見せると、白河は目を輝かせた。
「あ、そうだよ。私にとって大切なおまじないみたいなものだったんだけど、まさか美沙につけてもらえるなんて思わなかったなぁ。お揃いだね、えへへ」
「あ、そう。お揃いなのね。ハハ――」
私は自分を縛り付けていたものの正体をなんとなく察した。所有物にも当然結界は存在する。それが対となっているような物であるならばなおさらに。
乾いた笑いと共にシートに深く身を沈め、帽子を目のあたりまでずり下げた。どうやら当分の間白河と離れることはできないらしい。
*
駅の改札には桐原が昨日と似た格好で立っており、白河が声をかけるなり渋い顔をして髪を掻きむしった。
「あんたねぇ――いくらなんでもこんな時間に誘ってくる? 仕事中にきまってんでしょうが普通に考えてさぁ」
「ごめんね由香。でも来てくれてありがとう」
「早退の理由で親父は病に倒れたし、明日の非番も返上になったけどね。軽いもんよこんなん。アハハハ」
桐原がヤケクソ気味な笑い声をあげる。どうやらかなり無理をしてきたらしい。さすがに同情を禁じ得ない。
「まぁまぁ、元気出して。その分今日は楽しんじゃおう」
白河がそう言って桐原の腕を引く。元気がないのは誰のせいだ誰の。
とはいえ桐原も本心から気を悪くしているような様子はない。意外とこういうことは頻繁にあるのかもしれない。
いくつか電車を乗り換え、郊外にある駅で降りる。そこから少し歩いた先に動物園のゲートがあった。
「ねぇ玉子、まさか行きたかったところってここ?」
桐原が動物園のゲートを指さして怪訝そうな表情を浮かべた。
「うん。――懐かしいなぁここ。昔とちっとも変わってないよ。由香は動物園好き?」
「んー、まぁ嫌いじゃないけど好きでもないってところ。ていうか脈絡なさ過ぎでしょ、いくらなんでも。なんで急に動物園なのよ」
「いいからいいから。ほら、空いてて動物も見やすいよきっと。ラッキー」
「ラッキーじゃなくて平日の昼間なんだし当然でしょうが!」
切れのいい突っ込みを返す桐原だったが、結局白河に腕を引かれてゲート前まで連行されてしまった。
「私チケット買ってくるから待ってて。無理を聞いてくれたお返し」
「遠慮なく甘えるよ。ていうか甘えまくるよ」
ぱたぱたと手を振って答える桐原を残し、白河がチケット販売機の前に立つ。機械に一万円札を入れ、大人入場券を三枚購入した。
「はい。これで美沙も入れるでしょ」
チケットを一枚私に差し出して白河が微笑む。こういう不特定多数が入場しているような場所、要するに係員が客数を把握して管理しているわけではない場所は結界が薄いので許可は不要なのだ。だが説明もめんどくさいので黙って受け取った。
「由香、あれ見て! ゾウだよゾウ」
「そうだね」
「あははは、由香ったらナイスジョーク」
「いや、ジョークじゃないから」
園内に入ってからの白河はやたら上機嫌で、桐原がそれに対して冷静に対応するというやりとりが続いた。私が言いたいことは大体桐原が突っ込んでくれるの気が楽だ。白河に生前は一番の友人だったと聞かされたときは懐疑的だったが、今ならなんとなくわかる気がする。
「由香、マレーバクだよマレーバク。かわいい」
「そう? なんか中途半端にデカくてキモくない? 逸話も怖いし」
私が同意して頷いていると、白河がクスクスと笑い出す。
「どうしたの?」
「――ううん、なんでもない。それより遅くなっちゃったけどお昼にしようよ。この先のショップにフードコートあるから」
白河が順路の先にある大きな建物を指さして言った。土産物やグッズが販売されているブースの隣にフードコートがあり、いくつものテーブルやベンチが屋外に並べられている。
客数自体が少ないので席には困らない。一番日当たりのいいテーブルに座り、白河が持ってきていたバスケットを開いた。
「おー、豪勢じゃん。昼飯抜いといて良かったよ」
桐原がバスケットをのぞき込んで目を輝かせる。中には様々な具材の挟まったバケットサンドがぎっしり詰まっている。白河が自宅に帰ってから手際よく作ったものだ。
「本当は付け合わせも作りたかったんだけど時間がなくて。その分たくさん作ったから」
「十分だって、サンキュ。私コーヒー買ってくるよ」
「あ、それなら私が――」
「いいって。座ってて」
立ち上がろうとした白河を手で制し、桐原はさっさと自販機まで歩いていった。白河がバスケットを私の方に寄せて囁くように言った。
「美沙もどうぞ。三人分になるよう作ったから」
「ありがと。でも私は気持ちだけで足りるから」
「あ、そうか。あんまりはっきり見えるから時々忘れちゃうんだ」
白河が苦笑を浮かべる。丁度そこへ桐原がカップを両手に持って戻ってきた。
「はいよ。――今なんか一人でしゃべってなかった?」
「気のせい気のせい。ありがとう」
白河がカップを受け取り、屈託のない笑顔で答える。桐原は特に追求するわけでもなく椅子に座った。
「んー、んまっ! 玉子って本当に料理上手いよね」
桐原が大きなサンドイッチをあっという間に一つたいらげて言った。その後も白河が一つ食べている間に桐原は三つ食べるというペースで食事は進み、バスケット一杯に詰められていたバケットサンドはみる間になくなっていった。
「そんでさ、なんかあったの? ここへ来たがった理由」
コーヒーでサンドイッチを流し込み、ひと心地ついた様子の桐原がおもむろに話を切りだした。白河はカップの底に残っていたコーヒーに視線を落としなが、少し間を置いてから口を開いた。
「ここってね、初めて美沙とデートした場所だったんだ」
白河の言葉にそれまでテーブルに肘をついていた桐原が、表情を引き締めて姿勢をただした。
「さっき由香と一緒に動物見て回ったときね、あの時の美沙とあんまりにも同じ反応だったからつい笑っちゃったんだ。美沙は私に気を使って言葉にはしなかったけど、きっと同じこと思ってたんだろうなって」
「――あいつのこと思い出しちゃったの?」
笑顔をまじえて話す白河とは対照的に、桐原は声の調子を落として言った。窺うというより、むしろ心配げな口調だった。
「忘れたことなんて一秒だってないよ。でも今日のはちょっと違うんだ。上手く説明できないけど、この場所に由香と一緒に来たくなった。深い意味なんてなくて、本当にただそれだけが理由なの」
桐原は真剣な顔で白河を見つめていたが、やがてため息と共に椅子の背もたれに上体を預けた。
「――そっか。少しは気が晴れた?」
引き締めていた口元を緩め、桐原が口調を柔らかくして尋ねる。
「うん。――ごめんね、わがままに付き合ってもらって」
「いいよ。約束したじゃん、お互い支え合おうって。あんたが潰れそうな時は私が、私の場合にはあんたがそれをしてくれる。今までだってそうしてきたでしょ」
あっけらかんと言い放ち、桐原は頼もしげな笑みを浮かべた。なんという男らしい女だ――字面的に矛盾はあれど、私は素直にそう思った。
「――うん。ありがとね、由香」
白河が嬉しそうに頷いた。桐原は少し照れたように頬を掻き、体を横に向けた。
「私もさ、たまに考えるんだ。あいつと――美沙とつるんでた頃のこと」
少し離れた先にある動物園の順路――そのずっと先に視線を向けながら桐原が言った。
「私は美沙のことを実際どう思ってたんだろう。美沙のことは好きだったけど、それは友達としてだとあの頃は疑わなかった。でもやっぱり――違ったのかな、今思うと」
桐原の横顔に物憂げな色がよぎる。ここに来て初めて見せた、女性らしい表情だった。
「でもやっぱり私は玉子とは違うんだよね。性を感じるのはやっぱり男に対してだし、女に対してそれと同じ感情を抱くなんてことはないから。だから私は女を好きになったんじゃなくて、美沙だから好きになったってことなのかな。――あぁ、もちろん玉子は例外ね」
桐原が慌てて首を振る。白河はクスリと笑った。
「わかってるよ。後輩の刑事君だっけ? 告白されて困ってたもんね」
白河が言うと、桐原は大きなため息をついて頭を掻いた。
「あー、その話はやめて。あんなヒヨッコ全然興味ないから。せめていっぱしの刑事になってから言えって叱り飛ばしてやったし」
「いいじゃない、付き合ってみれば。きっと由香には年下の子の方が合ってると思うよ」
「もー、他人事だと思って気軽に言わないでよ」
桐原が両肘をついて頭を抱える。この二人の関係は私が思っていたよりもずっと複雑なようだ。おそらくは双方にしかわかりあえない事情があるのだろう。
それにしても、先程からこの二人が話しているのは紛れもなく生前の私自身に関することだ。にもかかわらず、当の本人である私はまるで他人事のように、一切の情動なく聞いている。なんだかひどく間抜けで、滑稽でさえある気がした。
その時、テーブルに突っ伏していた桐原が顔を上げ、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「――うわ、ヤバ。源さんからだわ、ちょっと出てくる」
桐原は椅子から立ち上がり、バツの悪そうな顔で電話機を耳に当てた。
「あ、源さん? ――いやマジマジ。親父が持病のヘルニアに胃潰瘍、おまけに結石までトリプっちゃってさぁ。明日をもしれぬ命でやむを得ず――」
嘘八百を並べ立てながら桐原が建物の外へと出て行った。後ろ姿が見えなくなってから白河が苦笑を浮かべながら私を振り向いた。
「今の電話、きっと早見警部だよ。由香の上司の超ベテランで、刑事事件の弁護で何度か会ったことあるんだ。すっごく怖いの」
であるならばサボリがばれ、大目玉を食らっているというところだろうか。桐原にとってはとんでもない厄日になったものだ。
「――由香にはやっぱり見えてないんだね。美沙のこと」
白河が突然話題を変えた。というより見えている白河の方が異質なのだ。
「まぁそうだね。もし見えてたとしたらとっくに私は牢屋の中だよ」
そう言うと白河はクスリと笑った。だがすぐに表情を消して続ける。
「由香も美沙のことが大好きだった。だからなんだかズルいような気がしてさ、無理言って一緒に来てもらったの」
「ズルい?」
「私だけが美沙に会えてることが。きっと由香だって美沙に会いたくてたまらないはずなのに、私だけが美沙とお話しできて、触れることもできる。そんなの不公平だもん」
そのために今朝から慌ただしく動いていたのか。しかし一緒に来てもらうことになんの意味があるというのだろう。結局彼女に私の姿を見ることはできない。それならただの――
「自己満足だよね。わかってるんだけど、それでもなにかしてあげたかった。美沙がいなくなってから、由香は私をずっと支えててくれたのに、私は由香になにもしてあげれてない気がして。由香が刑事になったのだって、いざという時に私を守るためだって。弁護士ってやっぱり犯罪に触れる機会が多いから」
白河が肩を竦めてうつむく。先程のやりとりを聞いていた感じでは、桐原もまた白河を支えにしているように思えた。とはいえ、こういう悩みは当人にしかわからないものなのだ。
「そういえば白河さんはなんで弁護士に?」
私が尋ねると、白河は少し考えてから答えた。
「――できるだけ触れたかったからかな。色々な罪に。それが近しいものなんだって、そう感じたかったんだと思う」
要領を得ず、私は首を傾げる。だが白河はそれ以上何もいわず、気まずい沈黙が流れた。
「玉子、ちょっとまずいことになったみたい。あたしこれから署に戻るよ」
顔を上げると桐原が緊張した面持ちで立っていた。まずいことって、まさかクビにでもなったのだろうか。
「だ、大丈夫だよ由香。私の事務所で雇うから心配しないで」
白河が顔を青くして言った。どうやら同じことを思ったようだ。
「バッカ、違うって。ちょっとした事件で召集かかっただけ。この分じゃ玉子に呼ばれてなくても明日の非番潰れてただろうし、かえっていい気分転換なったよ」
桐原が苦笑しつつ答える。もちろん白河を気遣っての言葉だろうが、刑事というのは中々に大変なものらしい。
「――わかった。あ、ちょっと待ってね」
白河はバスケットの蓋裏に挟んでいたクッキングシートを広げ、残っていたサンドイッチを手早く包む。残ることを最初から想定していたのだろう。
「お仕事の合間に食べて。行ってらっしゃい」
桐原は包みを受け取り、力強く頷いた。まるで長年連れ添った夫婦のようだ。
「サンキュ。そんじゃ行ってきます!」
右手を軽く上げ、振り返らずに走り去っていく。白河は手を振ってその後ろ姿を見送ってから私の方へと振り向いた。
「本当はもっと色々回りたかったんだけど仕方ないね。このあとどうしようか、美沙」
急に振られても困る。この辺りには美術館や図書館もあるので普段の私ならその辺りをふらふらしていただろう。だが今は白河から離れて行動することはできない。一緒に行くのも、なんだか鎖につながれているようで気が進まない。
しばらく考えてから、私は外を指さして言った。
「もう少し動物見て回ろうか。まだ見てないとこも結構あるし」
「うん、じゃあそうしよう。たしか向こうにワオキツネザルの檻が――」
「いや、そんなマイナーなやつよりライオンとか見よう。百獣の王だし」
私が言うと白河はなぜか嬉しそうに笑った。
「なにがおかしい」
「ごめんごめん、やっぱり変わってないなって思ったの。行こ」
白河はバスケットをたたみ、テーブルの上を綺麗に片付けて立ち上がった。建物から出る途中、土産物コーナーの一角で白河が私の袖を引く。
「ねぇ美沙、見て見て。懐かしいなぁこれ」
振り向いた先にはどぎつい化粧をした豚の顔と『メス豚 the Ⅲrd』の文字がプリントされたTシャツがあった。
「――なにこれ」
「これ私が美沙と来たときに買ったやつだよ。シリーズ化されてたんだね」
白河が一枚を広げて嬉しそうに見せる。私は頭が痛くなってくるのを感じた。薄っぺらな生地に触れながら値札を見ると、一万の数字が書かれている。舐めてんのか。
「すいませーん、これ二枚お願いします」
「やめろおぉ!」
*
白河のマンションに帰ってきたのは午後八時を回った頃だった。
へとへとになっていた私は部屋に入るなりソファに身を沈めた。肉体的な疲れはなくとも消耗はするのだ。
「私シャワー浴びてくるね。美沙はゆっくりしてて」
白河は私の前に紅茶を置いてバスルームに入っていった。横顔には疲れの色すら見えない。
私はのそりと立ち上がってオーディオ機器の前に立ち、整然と並んだCDからクラシックを一枚適当に選んで流す。この部屋にある物はなんでも好きに使っていいという許可は得ている。
スピーカーから流れるバイオリンの音色に耳を傾けつつ紅茶の香りを楽しんでいると、バスルームの扉が開いて白河が顔を出した。
「んふふ。美沙、これ見て。さっそく着てみました」
白河が嬉しそうに両手を広げた。着ているのは昼に買ったメス豚Tシャツだ。視覚の暴力によって先程までの優雅な空気が一瞬でぶち壊される。
シャツの中央に描かれた豚の顔が白河の大きな胸に挟み込まれ、迷惑そうに眉をひそめているように見える。かすかに濡れて上気した白河の肌が薄い生地に透け、メス豚という文字も相まってネタアイテムであるはずのTシャツがひどくいかがわしい物に感じる。
「うーん、コメントに困るんだけど」
「由香に聞いたんだけど、昔これをプレゼントしたその日に着ててくれたんだよね。あの時は嬉しかったなぁ」
「嘘。嘘ォ――」
耳を塞いで頭をぶんぶんと振った。その時、テーブルの上に置かれていた白河の携帯が振動し、着信を知らせる。
「あ、由香からだ。お仕事終わったのかな。もしもし由香? 今日は本当にありがとね」
白河は悶える私を置いて通話を始めた。だがすぐに表情から笑顔が消え、声も張りつめた調子になった。なにかあったのだろうか。
白河の手がテレビのリモコンに伸び、リビングにあるモニタに電源が入る。いくつかチャンネルが変えられた末にニュース番組で画面が止まった。
どうやら殺人事件の報道らしく、ニュースキャスターが張りつめた表情で手元にあるニュースを読み上げている。詳細はわからないが若い女性が刺殺されたらしい。桐原が言っていたのはこの事件のことだろうか。
「わかった。わざわざ知らせてくれてありがとね」
白河の声に硬質な響きがこもる。振り向いた私は思わず目を見開いた。テレビを見つめる白河の目には深い影が差し、表情からはすべての感情が消え去っている。
左手を手に入れた日、私は一度だけこの目を見ている。あの時の既視感の正体にようやく気付いた。
見覚えがあるのは当たり前だ。毎日鏡を見る度に写るもの――死者である私の目と全く同じなのだから。
「美沙。一つだけお願いしてもいい?」
死者が口を開く。私は帽子のつばを少しだけ持ち上げて頷いた。
「私のこと名前で呼んでほしいな。玉子って」
断る理由もない些細な願いだ。もっとも、そうでなくとも私に断ることができたかはわからない。
「わかった。これからそう呼ぶよ、玉子」
死者の顔は消え去り、白河が無邪気に、少女のような笑顔を浮かべた。
今朝から抱いていた私の焦りは消え去っていた。彼女から解放されるのにそう時間はかからない――そんな予感が沸いたからだ。