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白百合ノ棘  作者: 内藤はると
茨の絆
14/18

3.




 しばらくの間、目の前に左手をかざしてぼうっとしていた。そのうち握ったり開いたり、右手と組んでみたり色々な事を試した。右腕を左肘の支えにし、左手で顎を支える。やはりしっくりくる。直後に私はガッツポーズを取っていた。


「うっははぁ!! マジ? マジでこんなことがあるの!? 信じられない! かなうはずないって思っていた目標だったのに!」


 声に出してから一抹の不安が胸をよぎる。かなうはずがないと思っていたからこそ一番の目標にしていたのだ。いわばお馬鹿なロバを走らせるため、釣り竿でロバの前に垂らされたニンジンのようなものだ。


 ――たとえが悪い。まるで私がお馬鹿なロバみたいだ。


 とにかく一番の目標が唐突に達成されてしまい、これから先も続くこの生活でなにを目標にすればいいのか――そういう不安だった。


「まぁいっか。世界は広いんだし、そんなのいくらでも見つかるよね」


 不安は数秒も持たずに霧散した。それよりも左手を手に入れたことの方がなにより喜ばしい。私は思わず両手を広げてその場でターンした。


 その拍子に左手がデスクに積まれていたファイルに触れ、バサリと音を立てて床に散らばった。私がその現象の違和感に気付いたのは三回目のターンに入ろうとしたときだった。


「――え?」


 つま先立ちの姿勢のまま振り向き、散らばったファイルを見下ろす。このファイルはなぜ散らばった? 私が触れたから? 幽霊の私が?


 私は右手を伸ばしてデスクの書類に触れる。当然のように指先はすり抜けた。次に左手で触れると、指先が紙の表面でぴたりと止まった。間違いなく私の指先は物体に触れていた。


 手近な棚を開け、並べられていた法律書を掴み出す。鈍器にもなりうるほど分厚い本をデスクに置き、パラパラとページをめくった。別の本を取りだして同じ事を何度か繰り返す。


「やった――これならもう他人が読んでる本を覗かなくていい! レコードショップの試聴コーナーや家電コーナーのマッサージ椅子も使い放題だ」


 私は潤いに満ちたこれからの生活を想像して小躍りした。しかし今し方手に入れたこの左手は元々物質だった手袋だ。色々と気になる部分もある。


 私は左手を壁に押しつけた。建材の感触を掌に感じながら更に力を込めると、やがてズブズブと壁の中に左手が沈んでいく。右手も同様に試すが、こちらは一切の抵抗もなく壁をすり抜けた。どうやら今まで通り物質を透過することはできるようで安心した。水のような抵抗は受けるが、物質に触れる事の代償と思えば妥当なものだ。


 さっそく先ほど気になった絵本でも――応接セットの机に手を伸ばそうとした時、応接室の扉が音を立てて開かれた。


「――ちょっと、なにこれ」


 先に立っていた桐原が緊張した声を上げる。


 しまった、棚のガラス戸は開けっ放しだし、本も散らかし放題のままだ。部屋を見渡す桐原の鋭い視線から逃れるように反射的に部屋の壁に張り付いた。


「玉子、そこにいて。部屋が荒らされてる。物盗りかも」


 さすがに刑事か、判断が鋭い。今までであれば私の姿が見えるはずはないが、新たに手に入れた左手が気になった。左手――この場合は手袋だが、それが見える可能性は十分ある。その場合は手袋だけが宙に浮いているように見えるのだろうか?


 どちらにせよ見つかったら厄介だ。こんなメスゴリラに勝てる気がしない。


 だが私の心配をよそに、桐原は部屋の死角であるデスクの下や戸棚の陰を探し始めた。試しに視界に入る位置で左手をパタパタと振ってみるが反応はない。どうやらこの左手も――原理はまったく理解できないが――透明になっているらしい。


 胸を撫で下ろしながら振り向き、私はギョッとした。応接室の前に立っていた白河の大きな目が見開かれ、私のいる方をじっと見つめていた。驚いたのは目が合ったからではなく、白河が浮かべていた表情があまりにも印象と違っていたからだ。開ききった瞳孔には光がなく、照明が照らす肌は血の気が引いたかのように青ざめている。なぜか奇妙な既視感すら覚えた。


「由香――大丈夫。きっと事務所の子が忘れ物取りに来たんだよ。たまにあるんだ」


 白河が桐原を振り向いて言った。表情は既に元の穏やかなものへと戻っている。まるで私が見たものは幻であったかのようだ。


「えぇ? でもそんな気配しなかったよ。それにこんな散らかしっぱなしにするなんて――」

「いいの、いつものことだから」


 口調は穏やかだが、声には硬質な響きがこもっている。桐原も雰囲気の違いに気付いたようで、困惑した表情を浮かべた。こちらも先ほどまでとは似つかわしくない顔だった。


「そういえば私、これから片付けないといけない仕事があるの忘れてた。ご飯は今度にするね、ごめん」

「え、でも玉子――」

「由香。お願い」


 白河が桐原の言葉を断ち切る。まるで駄々をこねる子供をたしなめる母親のようだ。桐原を見るとまさに親とはぐれた子供のような顔をしていた。


「――わかった。でも仕事が終わったら電話してよ。声だけでいいから聞かせて」

「約束する。大丈夫だよ」


 桐原が彼氏との別れを渋る彼女のようなことを言い出し、白河が優しい声音でフォローを入れながら玄関から送り出す。なんなんだこの二人は。


 玄関のドアを見つめて立ち尽くしていた白河の背中をしばらく見つめていたが、なにやら不穏な空気が立ちこめている事に気がついた。私の目的は果たしたし、もはや長居は無用だ。私は抜き足差し足で白河の傍らを通り過ぎようとした。


 ぐい、と左腕を引かれる。物理的な力の作用を忘れていた私の体は大きく後ろに仰け反った。


「ぐえ!?」


 思わず声を上げ、上半身だけ真横に捻った姿勢で振り向く。白河はうつむいているために、前髪が垂れ下がり表情が見えない。だがどうやら私は左腕を捕まれているらしい。一体なにがどうなっているのかわからない。


「――私、頭がどうにかなったのかな?」


 白河が喉の奥から絞り出したような声で呟いた。体の震えが掴まれている左手を通して伝わって来る。感情の昂ぶりを必死で抑え込んでいるようだ。

 

 「夢でも幻でもどっちでもいい。だからお願い、消えたりしないで――」


 白河はゆっくりと顔を上げた。大きな瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れだし、紅潮した頬を伝って流れ落ちた。


「会いたかったぁ! 美沙、美沙ぁ――!!」


 弾かれたように白河が抱きついてくる。重さを受ける感覚を忘れていた私には彼女を抱き留めることもままならず、その勢いのまま後ろに倒れ込んだ。オフィスの床に尻餅をつき、呆然と腕の中で泣き声をあげる白河を見つめた。


彼女に比べればあまりにも貧相な私の胸に顔を埋め、白河は小さな子供のように泣いていた。理解の追いつかぬ状況の中、私はこの部屋の結界が作用しない理由――可能性の一つに気がついた。


 生前の私を知っている結界の主が、今でも私に入室の許可を与えているという可能性に。





 部屋に静寂が戻ったのは窓から見える景色が完全に闇へと没した頃合だった。白河は声にならぬ声を上げて私に、あるいは自分に言い聞かせるように何事かを叫びながら泣き続けていたが、ここに来てそれらすべてを出し尽くしたか、私の胸に顔を押しつけてすんすんと泣いていた。


「――あの、そろそろ落ち着いた?」


 白河の両手にそっと手を重ねる。私の方から彼女に触れたのはこれが初めてだ。確かな感触が掌に伝わった。


 顔を上げた白河の顔面はそれはもうひどい有様だった。泣き腫らした目は真っ赤に染まり、涙と鼻水と涎の混じった液体で顔中ベトベトになっている。白河が美人である分余計キツい。当然の事ながらその液体は私の胸のあたりを濡らし、細い糸が幾筋も引かれていた。うう、私の一張羅が――。


 白河をはねのけたい衝動を何とか抑え込み、私は側の棚に手を伸ばす。ピンクのカバーが掛けられたティッシュ箱からティッシュを十枚ほど引き抜き、白河に差し出した。


「あ、ありがど――びざぁ――」


 ティッシュを受け取った白河が思い切りよく鼻をかみ、顔を濡らしていた液体を拭き取っていく。化粧は元々薄かったのか、崩れたような跡はない。


 白河は大きく深呼吸をしてから私を再び見つめてくる。せっかく拭いた涙がまたこぼれ落ちた。


「嘘じゃない――本当に、本当にいるんだね。こんな――こんなことが起こるなんて」


 白河はそういって再び私の胸に顔を埋める。おいおい、そこに顔をつけるとまた濡れてしまうぞ――。


 これでは話が進まない。私は白河の肩を掴んでそっと引き離した。上体を起こしてきょとんとした顔を向けてくる白河の額にはまたも糸が引いている。


「あの、落ち着いたならちょっとお話しようか。私もちょっと混乱してるから、一回整理しよう。ね?」


 私がそういうと、いまだ夢の中にいるような表情だった白河がはっとしたように目を剥き、弾かれたように立ち上がった。


「お話。そうだ、お話ししよう! こちらへどうぞ!!」


 ぐい、と白河に手を引かれ、私は半ば強制的に応接室へ連れ込まれた。先ほどのソファに私を座らせ、白河も腰を下ろす。向かいにではなく、私の隣――ほとんど密着する位置に座って肩に頭をすり寄せてくる。


 まずい、なんかしらんがペースを掴まれている。とにかく現状の把握と情報の整理を急がなければ。私は咳払いをして話を切りだした。


「あの、私のことが見えてるんだよね。白河――さん」


 猫のように喉を鳴らしていた白河が顔を上げた。現実と虚構、それらの線引きをどこでつけるか決めかねているような、そんな目をしていた。


「見えてるよ」


 すべてを飲み込むように頷いてから、白河は言った。どうやら私が普通の人間でないことも理解しているようだ。


「えーっと、私はいわゆる幽霊ってやつなんだ。信じられないかもしれないけど、大体は理解してるよね?」

「信じるよ。美沙の言うことならなんでも信じる」


 曇りのない目を私に向けたまま白河は言い切った。こんな得体の知れない現象を前にして困惑するどころか陶酔しているようにすら見える。


「私のことが見えるようになったのはいつ? 見ていた限りだとついさっきって感じだけど」

「本当についさっきだよ。でもいつからってことは、ひょっとして私の近くに前からいてくれたの?」

「――昼前にホテルの待合室であなたを見つけた。ちょっと興味を惹かれてついてきて今に至るって感じ」

「わぁ、やっぱり! 私ね、なんだか今日は美沙のことをいつもより近くに感じてたんだ! 気のせいじゃなかったんだね」


 白河は表情を輝かせて私の腕を力の限りに抱きしめてくる。気のせいだと言ってやりたかったが、いちいち調子を外されてしまう。


「あれ、この手袋――」


 白河が私の左手に掌を重ねてくる。そういえば拝借していたのをすっかり忘れていた。


「あ、えっと、これはその勝手に持って行こうとしたわけじゃなくて――ちょっと借りただけって言うか――」


 慌てて身振り手振りを交えて弁解しようとするが、うまく言葉にならない。そもそもこの手袋をはめたことも成り行きのようなものだったのだ。


「いいの、それはもともと美沙の手袋だもん。私の宝物だったけど、美沙に返すね」


 白河に言われて私は自分の両手に目を落とした。最初に見たときは似ているという程度だった手袋が、今では両手とも揃いの物であったかのように馴染んでいる。色合いやくたびれかたも同じであるかのようだ。白河が言うように本当に私の持ち物であったのか?


「あなたは――白河さんは知ってるの? 生きていた頃の私を」


 自分のことを知りたいなどと思ったことは一度もない。知ることは今の自分という存在に揺らぎを与えるだけでしかないからだ。完全に失われた記憶に囚われる必要性などなにもない。黒乃美沙という人物と私はすでに別の存在である。


 ならばなぜこんなことを聞いたのか。正直自分でもよくわからないが、白河にはそのことを伝えなければならない気がした。私があなたの知る黒乃美沙と同一ではないことだけは。


「美沙――ひょっとして覚えていないの? 昔のことを」


 白河が私を見上げ、怪訝そうに眉をひそめる。わたしはうん、と短く答えてから続けた。


「私にはこの姿になってからの記憶しかない。もしあなたが生前の黒乃美沙という女の子を知っていたとしても、私にその時の記憶はない。だから正確には私とその子は同じではないの」


 白河の瞳が潤むのを見て私は体を強張らせる。またさっきのように取り乱されてはたまらない。


 だが白河は少し目を伏せたあと、ゆっくりと首を横に振った。


「――ううん、思い出せないならいいんだ。きっとそれでいいの」


 意外な反応だった。もしかしたら聞いてもいないことをあれこれと聞かされる羽目になるのではと警戒したが、どうやら杞憂であったようだ。


「でも驚いちゃった。美沙がその格好して目の前に立ってるんだもん。さっきは本当に気絶しちゃうかと思った」

「あぁ、この格好は最初からしてたってだけ。特に私の趣味とかじゃあ――」

「美沙ならこんな服が似合うんじゃないかなって、ずぅっと前に私が描いた絵とそっくり。すごく素敵だよ」

「そ、そう? でも昔描いた絵って――なに?」

「ちょっと待っててね」


 白河はソファから跳ね起きて隣のオフィスに行き、すぐに私の隣に戻ってきた。私は白河が持ってきたものを左手で受け取る。それは古ぼけたリングノートのようだった。


「これ私が中学生の頃に描いたものなんだ。あの時は勇気がなくて、美沙に話しかけたくても話しかけられなくて。だから私の中で美沙が好きそうなものとか、似合いそうな服とか色々考えて書きつづってたの。えへへ」


 照れくさそうに白河は笑っているが、そういう物を他人に見せていいのだろうか。それはいわゆる黒歴史ノートと呼ばれる類で、見る側にも結構覚悟がいりそうなブツなのだが――。


「その――これって見せてもらっていいの? なんというか、あなたにとって大事な思い出なんじゃ――」

「いいの。美沙にはいつか見てもらおうと思ってたから」


 白河が真面目な顔で頷いた。断れる雰囲気ではなく、私は恐る恐るページを開いた。


 数ページ開いてみるが、予想に反して普通の内容だった。当時の白河が感じた思いが、日時と共に数行の日記形式で書きつづられている。とても綺麗な小さい字が整然と並んでいて、いかにも思春期の女の子が書いたものだと思わせられる文章だ。ただ、日記に書かれている内容は常に一人の女生徒に関するものだった。いうまでもなく私――正確には黒乃美沙に関する内容である。


 何月何日の何時に渡り廊下ですれ違ったこと、クラスの窓から体育でグラウンドを走る姿を眺めていたこと――学校生活の中で白河が黒乃美沙と接した内容が、ほんの些細なことであっても克明に記されていた。


 最初は数行で収まっていたそれらはページが進むごとに文字数が増し、途中から挿し絵なども挟まれるようになった。書いているうちに興が乗ってきたのか、もしくは胸の内にある想いが徐々に肥大化していったのか。どちらにせよ、読み進めていくうちに白河がそうであるということに確信を持つに至った。


「白河さんは女性を好きになる人なんだね」


 デリカシーがない気もしたが、私ははっきりと尋ねた。白河は別に動じた様子もなく頷いた。


「うん。私はずっと――今でも美沙のことが好き」

「私もそうだったの? あなたと私はそういう関係だったの?」


 白河はゆっくりと首を横に振った。


「ううん、美沙は普通の女の子だった。最初から最後まで私の片思いだったよ」


 力なく笑顔を浮かべてはいるが、私は気付いていた。白河の表情が一瞬とてつもなく暗く、深く沈んだことに。


「――そう。縁がなかったんだね」


 私は再びノートに目を落とした。別に生前の私がどんな性癖であったとしてもどうでもいい。万象の理から外れた私にとって、今や性などあってないようなものだ。むしろなぜこんなことを聞いてしまったのかと後悔すらした。


「あ、ほらこれ。私がさっき言ってた絵だよ。あんまり上手くないけど、学校から帰ってからずっと遅くまでかかって描いたんだ」


 白河が指さしたページには黒いスーツを着た女の子の絵が描かれていた。描いては消してを繰り返し、何度も何度も描き直したのだろう。確かに上手い絵とは言い難いが、細部まで細かく書き込まれた写実的な絵だ。


 縁が前後に長いひし形をしたフェルトハットには黒い羽があしらわれ、細い体のラインをぴたりと覆うような細身の黒いスーツ。確かに私の衣装と似ている――否、全く同じ格好をした少女の絵だった。


 私は背筋を冷たいものが走るのを感じた。私は今まで自分の姿に深く疑問を持ったことはない。それは取るに足らぬ事だと思っていたからだ。だが今は違う。私自身に対する疑問を生じさせる材料が目の前にあり、おそらく白河は他にもまだそれらを所持している可能性があった。


 この女から離れなければ――私は危機感にも似た焦燥に駆られた。彼女の側にいては私という存在が揺らいでしまう。今まで貫いてきた自我と矜持――たとえ自己満足にすぎなくとも、私はそれらを重んじて歩いてきた。今更それを妨げられてたまるものか。たとえ誰であろうと私の存在に干渉することは許さない。


 背筋を伸ばしかけた私の肩に白河が頭をもたれかける。つい先ほど味わえるようになった物質の重みが私の機先を挫く。胸の奥がざわめきだした私のことなど知る由もない白河が、トロンとした口調で呟いた。


「ねぇ、美沙。一つだけ私の方から聞いてもいい?」

「――なにを」

「もしも死んだら私も幽霊になれるのかな? 美沙と同じように」


 眠たげな口調だが、なれるよといえば即座に自分の首でも斬り落としそうな雰囲気があった。もっとも嘘をつくつもりなど最初からないが。


「無理だね。白河さんみたいに真っ当な人間は死んでも次の生が始まるだけ。私みたいなのはあくまでイレギュラー。変な期待はしないほうがいいよ」


 無意識に口調がぞんざいになっていた。感情を露わにするなど馬鹿げている。落ち着けと自分に言い聞かせる。


「そっかぁ。そうだよね――」


 白河はふふっと小さく笑い、閉じかけていた瞼を下ろした。吐息はやがて規則正しい寝息となる。泣き疲れたのに加え、精神的な消耗があったのだろう。白河は私の肩にもたれ掛かったまま眠ってしまった。


 私は白河を起こさぬようそっと抱き抱えながらソファに寝かせた。机にノートを置こうとしたが思いとどまり、白河のデスクにあった鞄の中に戻しておいた。さすがに第三者に見られたいものではないと思ったからだ。


 もう一度応接室に戻り、ソファで寝ている白河に彼女が着ていたコートをかけてから照明のスイッチを切った。オフィスが闇に閉ざされるが、私の目に光は不要だ。


 オフィスの鍵を内側からかけてからドアをすり抜ける。エレベーターは使わずに階段で一階まで降り、通りに出てからもう一度ビルの四階を見上げる。


 奇妙な体験だった。今までの中でもっとも波乱に満ちた一日であったと言えるだろう。私は今日あった出来事を思い返しながら歩道を歩き出した。


 哀れな娘だ――左手を目の前にかざして白河のことを思い出す。あれほど恵まれた人間に産まれながらとんだ業を背負って生きている。


 同性愛のことではない。無論それも一因ではあるだろうが、彼女ほどの人間ならばさしたるマイナスとはなるまい。私が哀れだと感じたのは、よりによって私のような人間を愛したことだ。


 私は生前に大きな罪を犯した。それがどういったものであるかは知らないが、間違いなく実感として魂に刻まれている。まともに生きることなど本来許されないはずの罪人であったはずだ。


 彼女はそんな人間に恋し、死別した。本来ならばそれで解き放たれるはずであったのに、あろうことかその人間に再会してしまった。死してなお白河を縛り付ける楔を増やしてしまうことになるとはとんだ疫病神だ。


 とにかくもう私たちは二度と関わり合うべきではない。白河が目を覚ましたとき、私がいないと知ったらどんな行動に走るかという心配はあったが、これだけ現実離れした出来事なのだ。案外夢だったと納得してくれるかもしれない。


 そんな期待を抱きかけたが、即座に自分の行動の迂闊さに気付いてしまった。夢であったと錯覚させるならコートを掛けたり電気を消したりなどの余計なことをするべきではなかった。馬鹿か私は。――いや、それでなくても彼女が大切にしていた手袋がなくなっているのだ。どのみち夢で片付けるのは無理だっただろう。


 馬鹿の考え休むに似たりという屈辱的なことわざが頭をよぎる。私は考えるのをやめて足を速めた。もう私には関わりのないことだ。明日からまた同じように日々を過ごすことだけ考えていればいい。


 そう結論づけ、交差点を渡ろうとした瞬間だった。左手が強く引かれ、前に進もうとしていた右足がぴんと前に伸びきった。


「いぃ!! ――まさか!?」


 白河が追いかけてきたのだと思い、私は身をよじるようにして背後を振り返った。だがそこには歩道を歩く人々が流れていくだけで、白河の姿などどこにもない。


 私は強い抵抗を受けている左手に視線を落とす。左手は別になにに掴まれているわけでもない。にもかかわらずその場から動かず、どれだけ力を込めても空中に貼り付けられたように静止していた。


「ちょ、ちょっとなにこれ!? なんで動かグワーッ!!?」


 一歩下がってから全力で左腕を引くと、あっけなく腕は動いた。その勢いに振り回されて盛大に尻餅をついてしまう。


「痛ったた――どういうことよぉ」


 尻をさすりながら立ち上がり、そっと左手を前にかざす。肘を伸ばしかけたところで堅いものに触れたが、当然そこにはなにもない。まるで見えない壁にでも触れたようだ。


 試しに左手を支点に体をぐるりと回転させてみる。左手を除く部分は当然のようにすり抜けるが、左手だけがその地点で引っかかったように動かすことができなくなった。


 私は気味が悪くなり、歩いてきた通りを逆に走った。だが大体同じ距離を行ったところで同じように左手だけが見えない壁に触れてしまう。


「なにこれ? なんなのこれ?」


 私はわけがわからなくなり、左手の引っかかる地点に沿うように走った。すると丁度円を描くように自分が進んでいることに気付く。その円はどうやら白河の事務所があるビルを中心としているようだった。


「やばい。これはなんかとてつもなくやばい!」


 私は無我夢中で左手の手袋に右手を伸ばした。どう考えてもこれはこの手袋をつけたことによって引き起こされたものだ。せっかく手に入れた左手だが、こんなことになるなら一刻も早く返さなければ。


 だが右手の人差し指を手袋の隙間に差し込もうとしても、まるで皮膚と同化したかのように縁が見あたらなくなっている。歩道の端でしばらく格闘を続けたが、結局手袋を脱ぐことはできなかった。


 失われた左手を手に入れた時は財宝でも掘り当てたような、まさに天にも昇るような気分だった。だがどうやらこれは、私にとって大きなペナルティを持つ呪いのアイテムであったようだ。




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