表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白百合ノ棘  作者: 内藤はると
茨の絆
13/18

2.



 白河法律探偵事務所――なんとも奇妙な看板を見上げて私は首を傾げる。


 法律相談事務所ならわかるが、探偵とはどういうことだろう。大手の探偵事務所では弁護士と連携しているところも多いらしいが、両方を兼ねているところなどあるのだろうか?


 口を半開きにしてビルを見上げていた私の傍を女が通り過ぎていく。私は考えるのをやめて女のあとを追った。


 エレベーターで三階まで上がり、降りた先は短い通路とドアが一つあるだけだった。このビルは一つの階に大きな部屋が一つだけある構造らしく、それ以外ではエレベーターの隣に階段があるだけだ。だが通路の壁には大きな窓が並び、掃除も行き届いているために閉息感はない。


 女は事務所名が記載されたプレートのかかったドアをノックもせずに開け、そのまま中へと入っていった。当然私は廊下に取り残される形になる。


 閉ざされたドアの前で考えなしに女についてきたことを後悔した。私が入ることが出来るのは来客に対し開放的な――例えば飲食店や小売店に限られる。こういった事務所や会社は当然の事ながら関係者以外の立ち入りを禁じている。来客はあれど、それらは事前の了承アポをとるものだろう。つまり関係者である女がドアを開けたところで、部外者である私に対しては結界は有効なままのはずだ。


 以前にこのような場所に入ろうとして失敗したことがあるのを思い出す。結界に触れた時の強烈な嫌悪感――曇り硝子を引っかく音を耳元で聞かされるのに似た感覚を被るのはごめんだ。


 諦めかけ、溜め息をつきながら事務所のドアをそっと右手で押した。


「んな――!?」


 ドアに触れた右手がなんの抵抗もなくめり込み、その拍子にバランスを崩して頓狂な声を上げてしまった。


 私は肘までめり込んだ右手を慌てて引き抜き、ドアに顔を近づけた。もう一度ゆっくりと右手を伸ばしてドアに触れる。やはり右手はすんなりとドアを通り抜けた。一体これはどういうことだ。


 この部屋には確かに結界が存在する。たとえ空き家であっても完全に放棄されていない限り結界は残るのだ。結界が作用しないのは許可を得た者に限られる。つまり――私は既に部屋の主から許可を得ているということだろうか。


 理解が追いつかぬまま、私は意を決してドアを通り抜けた。今度は腕だけではなく体全体で室内へと入り込む。やはりなんの抵抗も感じられない。


 私は訝しみながら室内を見渡した。玄関には何足かの靴が綺麗に揃えられ、右手の下駄箱にはスリッパが並べられている。その横にはタイムカードの機械と職員のカードが差されたホルダーが取り付けられていた。


 玄関から入ってすぐの場所はオフィスになっているらしく、六つのデスクが向かい合う形で並んでいる。オフィスの壁には大きな書棚が並び、司法に関する本が整然と揃えられている。どう考えても部外者である私が入れるような場所ではない。


 混乱しつつもオフィスの奥へと目をやった。職員らしき三人の女が先ほどの女を取り囲むようにして何事か話している。


「――それじゃあ調査はいったん打ちきりですか?」


 眼鏡をかけた小柄な女が窺うような目で小首を傾げる。


「せっかく白河先生がついてくださったのにぃ」


 前髪を切りそろえたショートボブの女がおっとりとした口調で言った。私はこの事務所の看板に記されていた名を思い出す。


「そもそも所長が直々に調査なんかしなくてよかったんだよ。調査担当のあたしの立場が無いじゃない」


 背が高くひょろりとした、狐のように切れ長の目をした女が首を振った。


「ごめんね、今回は自分で受けたかったの。事後処理も引き続き私がやるから、みんなは仕事に戻ってください」


 白河が両手をあわせて三人を見渡した。女達はそれぞれ顔を見合わせてから口々にはい、と答えてデスクに戻った。


 白河はオフィスの最奥、壁一面に連なる窓を背にしたデスクに腰を下ろした。オフィス全体を見渡す位置にあるそのデスクはおそらくこの事務所の長が座る席だろう。他のデスクよりもやや大きく、大量の書類やファイルが脇に山と積まれていた。


 なんとまぁこの若さで法律事務所の責任者ということか。私は驚きを通り越して呆れてしまった。出来物というのはいるものだ。


 白河は鞄から取り出した書類を机の上に広げ、それからようやく手袋を外した。丁寧に二つ折りした手袋をさして広くないデスクの空きスペースに置いて仕事にかかる。くそ、あんな目の前に置かれては手が出せないではないか――私は溜め息をつき、窓枠に腰掛けた。


「先生、宅地評価の書類揃いました」

「白河先生、税務署長からお電話ですー」

「所長、調査報告書まとめたから確認お願い」


 次々に回される仕事を白河はてきぱきと片づけていく。その様子をしばらく眺めていたが、だんだん退屈になってきた。


 窓枠から立ち上がり、オフィスの中をフラフラと見て回る。コピー機等の大型機器や、ファックスにプリンターまで設置されている。弁護士の仕事がどういうものか詳しく知るわけではないが、思っていたよりこまごまとしたものが多いらしい。裁判で証人の矛盾をついたり論破したりするだけが仕事ではないということか。


 玄関側の壁際には二人掛けのソファが小さなテーブルを挟んで向かい合うように取り付けられている。簡単な内容であればここで応接し、重要な案件や会議などは奥にある応接室で受けるのだろう。私はそのソファに腰掛け、テーブルの上に置かれた来客用の雑誌立てに目をやった。情報誌や新聞に混じって絵本も置かれている。親子連れの依頼客も来るのだろうか。タイトルはそれぞれ鼻をなくしたゾウと、蜂の王子様。


 それらの本に興味を惹かれた。読書も音楽鑑賞も私の趣味であるが、言うまでもなく私は物体に触れられない。読みたい本があればそれを読んでいるものの傍で覗き見をしなければならないし、音楽もその場で流れているものを聴くしかない。物体に触れることの出来る霊もいるらしいが本当だろうか。


 私は本を諦め、しばらくソファに身を沈めて時間が過ぎるのを待った。やがてオフィスの窓から西日が射し込み、メガネが立ち上がって窓のブラインドを下げる。時計を見ると五時を過ぎたところだった。


「白河先生、明日の裁判で使う資料お返ししますねぇ」


 ボブ子が書類の束を白河のデスクに置いた。


「うん。なにかあったら連絡してね、お疲れさま」

「所長、私ら仕事終わったら駅近くのダイニングバー行こうって話してたんだけど、一緒にどう?」


 狐目が白河のデスクに来て上体を屈める。白河は申し訳なさそうに両手を合わせて微笑んだ。


「ごめんね、今日はこれから由香が事務所に来るの。例の調査で相談したいことがあって」


 由香――おそらくタクシーで電話をしていた相手か。確か六時頃に会うような話をしていたのを思い出す。雰囲気のいいダイニングバーなら私も行きたかったのに。


「桐原さんって先生の高校時代からの友達でしたっけ」

「白河先生がこの事務所立ち上げたのって、大切な人から探偵が向いてるって言われたからなんですよねぇ」

「やっぱり先生と桐原さんって――きゃー」


 メガネとボブ子が顔を見合わせて頬を赤らめる。おのれら高校生か。


「勝手に盛り上がらないの。由香とは親友だけどそういうのじゃないから」


 白河が二人をたしなめる。狐目が顔に垂れ下がっていた前髪をかきあげながらふぅと息をついた。


「でも普通ないよね、弁護士と探偵の兼業なんて。だからこそ国家資格のない私が働いてられるんだけど」

「相馬さんて前の探偵事務所長かったんですよねぇ? なんでこっちに来たんですか?」

「向こうでちょっとした問題起こしちゃったのと、なにより所長に惚れたから」


 そういって狐目が白河にしなだれかかる。ボブ子が笑顔のまま無言で狐目を引きはがした。


 先ほどから奇妙な違和感――なんともいえない食い違いを感じる。つい先ほども似た感覚を覚えた気がするのだが。


 その時玄関のインターホンが鳴り響き、談笑していた白河たちの目が玄関へと向いた。当然私も振り返る。


「オーッス、玉子いる?」


 快活な声と共に事務所のドアが開かれる。現れたのはごつい革ジャンに色の落ちたジーンズ、フレームの大きなサングラスをかけた長身の人物だった。


「由香、早かったね」

「ちょっと気になることもあったし早引けしてきた。担当してる事件もないしね」


 来客用のスリッパに履き替えながらサングラスを外すと、下から精悍な素顔が現れる。由香――名前からして女性だとわかるが、ぱっと見では男に思える。ボーイッシュな髪型と、そこらの男に引けを取らない体格のせいだ。


「桐原さん、こんばんわー」


 メガネ達がやたらと棒読みな挨拶を桐原にかける。彼女たちにとってあまり好ましくない来客であるらしい。


「や、お疲れさん。悪いけどちょっとお邪魔するよ」


 桐原は気にした様子もなく右手を上げて返した。


「――それじゃあ先生、私たちはこれで」

「うん。みんなお疲れさま」


 三人は白河に頭を下げ、釘を差すような視線を置きみやげに、桐原の横を通って退出した。


「ごめんねわざわざ来てもらって。コーヒー淹れるから応接室で待ってて」

「サンキュ。もともと私が個人的に相談された話を玉子に持ち込んだわけだし、出来ることならさせてもらわなきゃ」


 玉子――さっきも呼んでいたがそれが白河の名前か。変わった名前だ。しらかわたまこだからきっと学生の頃はシラタマというあだ名を付けられていたに違いない。私は勝手にそう決めつけた。


 慣れ親しんだ様子のやりとりを交わし、白河は給湯室に、桐原は応接室にそれぞれ入った。私もつられるまま応接室の中へと入る。単純な好奇心だった。


 応接室には革張りの長いソファが向かい合わせで並び、木製の長テーブルがその間に置かれている。玄関からすぐにある応接セットを豪華にした感じだ。桐原は入り口から近いソファに腰を下ろして長い脚を組む。私は向かい側にあるソファの右端に腰を下ろして彼女を観察した。外見の鋭さもさることながら、内側から漲るような魂の力を感じる。幽霊である私には近づきがたいほどだ。


「ごめんねーお待たせ」


 白河がコーヒーカップの乗ったトレーを手にして戻ってきた。白河は桐原と向かい合う位置、私のすぐ左隣に腰を下ろす。ふわりと花の香りがたった。


「実はあんたからの電話が来たすぐあとに玉緒――高崎からかかってきてさ、もう大体聞いてんだよね。事の顛末」


 目の前のテーブルに置かれたコーヒーで口を湿らせ、桐原が先に話を切り出した。


「そうなんだ。じゃあ高崎さんの彼氏――の浮気調査の結果も?」

「ホモだったんでしょ? 聞いた」


 頭を支えていた右腕が肘掛けから滑り、私はコントのようにソファから転げ落ちてしまった。


「うん。念入りに調べたから多分間違いないと思う」


 桐原は額に手を当て、深い溜め息をついた。私はテーブルを支えに立ち上がり、ソファに座り直す。


「――はぁ。彼氏が浮気してるかもって相談された時は想像もしなかったよ。あの子バスケ部の後輩でさ、ちょっと思いこみ激しいとこあって、答え出さないと気が済まない性格なんだよね。だから玉子に頼んだんだけど」

「高崎さんなにか言ってた?」

「信じてはないけど、一回話し合ってみるって。証拠もあるからって鼻息荒くしてたけど」

「あぁ――そういえば別れ際に一枚写真持って行っちゃったの。大丈夫かな」


 白河は持ってきていた封筒から写真を三枚取りだしてテーブルに置いた。桐原と一緒に私も写真をのぞき込み、先ほどの違和感を思い出すと同時に正体に気付いた。雰囲気が男女のそれであったのだ。


 ホテルでの白河と高崎のやりとりを思い出す。あの時高崎が激昂していたのはこれが理由か。「あなたの彼氏はゲイです」などといきなり聞かされたら取り乱すのも無理はない。


「やれやれ――面倒なことさせて悪かったね。あとは私の方で片付けるよ」

「ううん、これはどっちかっていうと私の担当だもん。浮気調査なんて刑事さんの仕事にないでしょ」

「弁護士だって担当外でしょ。――あぁ、あんたは探偵でもあったっけ」


 桐原は苦笑しながら言った。彼女は刑事だったのか。ならばこの鋭すぎる雰囲気も納得できる。私はソファから立ち上がり、談笑を続ける二人に背を向けた。彼女らに関する好奇心は満たされた。これ以上私が関わっていい話ではない。私は応接室のドアをすり抜けてオフィスに移動した。


 私は当初の目的を果たすため白河のデスクに近づいた。折り畳まれて置かれている革手袋に顔を近づけ、間近で眺める。やはり左手だけが使い込まれてやや色落ちしている。どうやら白河はこの手袋だけを長く愛用しているらしい。薬指に縫いつけられた金の指輪といい、なにか特別な意志が感じられる。


 私は何気なく自分の右手を手袋の側に置いた。そうしてみて気がついたが、私が右手にしている手袋とよく似ていた。デザイン自体はありふれたものであり、そこらを探せば見つかるようなものである。にもかかわらず、私は白河の手袋に奇妙なほど見慣れたものを感じている。まるでかつて失った自分の物であるかのような――。


 指先に違和感を覚え、私は目を見開いた。無意識に手袋へと重ねた右手が生地に触れていた。


「は――!?」


 私は手袋から手を離し、いまだ感触の残る右掌を目の前でかざした。言うまでもなく私は霊体だ。触れることが出来るのは同じ霊体のみ。物質に触れることなどあり得ない。地面を歩いたり椅子に座ったりは出来るが、それらの説明は面倒くさいので割愛する。


 私は気持ちを落ち着かせ、もう一度手袋に右手を伸ばす。指先に柔らかな生地が触れ、忘れ去っていた感触が伝わってくる。意を決して手袋を握って持ち上げると、当然の現象であるかのように手袋はデスクを離れた。


 私は手袋を握りしめたまましばらく呆然としていた。ここへ来てから驚かされてばかりだ。霊である私が物質である手袋を持ち上げているとは、一体どういうメカニズムなのだろうか。


 私は考えるのをやめ、人差し指と親指で手袋をつまんでプラプラと振った。左手のない私が左手にはめる手袋にだけ触れられるとはとんだお笑い草だ。自重しながら手首から先のない左腕を手袋に近づけた。


 垂れ下がっていた手袋が膨らみ、感触のない引っかかりが左腕に伝わった。あるはずのない左手に被せられた手袋が、私のスーツの袖と虚空の間で謎の浮力を得ている。幽霊の私から見てもそれは異常な光景だった。


 私は誘われるように手袋の裾を掴んで手首までずり下げる。空洞であるはずの手袋の中になにかが満たされ、はっきりとした左手を形作る。


 私は左手の袖から伸びる手袋――この場合は左手と呼称してしまえばいいのだろうか? それを小指から親指の順で一本ずつ曲げていく。神経が通っているかのごとくに手袋の指先は私の意のままに動いてくれた。


 痺れたように思考力が低下した頭でもこれだけは理解できる。どうやらも最も難解と思われていた目標――左手の奪還を、今私は成し遂げたらしい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ