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白百合ノ棘  作者: 内藤はると
茨の絆
12/18

1.




 凶刃が煌き、殺意の眼が彼女に向けられる様子を私は静かに眺めていた。


 解き放たれる方法をずっと考えていた。雲のようにたゆたい、風のように流れる。それが私の望みであり、私が私であるために課したルールである。


 それが破られるなどあってはならない。たとえ何者であろうと私を縛ることは許さない。どれほど幽き存在に身をやつそうとも――否、幽き存在であるからこそけして譲れぬ一線だ。


 ――そうだ。これこそ私が望んだ結末なのだ。





 雲一つない晴れやかな朝だった。


 私は駅に向かうサラリーマンの流れに呑まれぬよう肩を竦めて道の端を歩き、チェーンの牛丼屋の前に立つ。今日は和食の気分だ。


 しばらく店の前で人の流れを追っていると、壮年の男が私の前を通って自動ドアの前に立つ。身なりもキチンとしていて落ち着きを感じさせる。ガラス戸が左右に開き、男の後に続くようにして私も入店した。


 男は二人掛けのテーブル席に腰掛け、注文を取りに来た店員に朝定食を注文した。私は男に向かい合う形で席に座り、右肘をついて料理が来るのを待った。


 数分も経たず料理の乗せられたトレーが男の前に置かれる。茶碗にはピカピカに光る白飯、かぐわしく香り立つ豚汁、それと生卵に味付け海苔、ひじきの小鉢という朝食かくあるべしというメニューが並んでいる。


 期待通りのメニューにありつけたことに感謝しつつ、右手を顔の前で立て拝む仕草をする。むろん口に入れるわけではないし、別に腹が減っているわけでもない。あくまで気分だ。


 いい具合に朝食を済ませられた、そう思った矢先だった。男は白飯に卵、味付け海苔、ひじきをぶちまけ、最後に豚汁をぶっかけたかと思うと喉に流し込むようにして平らげてしまった。たしかに腹に入れば同じだろうし、時は金なりとも言うがせめてもう少し味わって食べればいいのに。


 まぁ私が金を払うわけではないし、文句を言える立場ではない。男が明細を手にしてカウンターで会計を済ませ、自動ドアから出ていく後ろについて私も店をあとにした。


 男が人混みに紛れるのを視界の片隅で見送り、私は人混みを避けて脇道に入った。この先に公園があるし、そこのベンチに座ってしばらくのんびりするとしよう。


 伸びをして道の先に目を向ける。ふと電柱の影に座り込む男がいるのに気付いて私は顔をしかめた。爽やかな朝の空気の中ではあまり目にしたくはない。


 私は男の前を足早に通り過ぎざまチラリと視線を向ける。しわくちゃのスーツに色の落ちた革靴。右目は死んだ魚のように光を映しておらず、欠損した顔の左半分からはグシャグシャになった脳味噌や骨がはみ出している。虚空へと向けられた右目と視線が交わってしまったので、気が進まないが会釈だけしてさっさとその場を通り過ぎた。


 ああはなりたくないものだ――そんなことを思いながら小さなブティックの前で足を止めた。開店前の店内は照明が落とされ、ショーウィンドウが鏡のように通りの情景を映し出している。私はガラスに映る自分の姿をまじまじと見つめた。


 タイトスーツにパンプスに帽子、はては手袋まで黒で統一された服装。斜め被りした帽子は真上から見ると角の取れたひし形をしたフェルトハットで、羽と薔薇の飾りが取り付けられている。もちろんそれらも黒い。違う色と言えばシャツが白いくらいだ。


 顔はまぁ可もなく不可もなくといったところか。肌の具合や顔立ちから見て歳は十代そこそこ。別に化粧をしているわけではないのに目の縁が黒い。セミロングの黒髪は毛先をまとめて左肩から垂らしている。


 改めて奇抜な格好だと思う。自分でこの服装ナリを望んだ覚えはないが、仮にそうだとすればどういうセンスだったのか。まるで宝塚の男役がしていそうな格好だが。


 なんとなしに左腕を目の高さまで持ち上げる。本来ならばスーツの袖から伸びているはずの左手が私にはない。ちょうど手の付け根あたりで左腕は途切れ、断面からはどどめ色をした星空のような空間が覗いている。見ていると気分が悪くなるのであまり見ないようにしているが。


 強い風が吹き抜け、私は帽子を右手で押さえる。この帽子も体の一部であるため飛ばされたりはしないが、抜けない癖のようなものだ。


 ため息と共に帽子を被り直し、再び歩き出す。目指す公園は道路を渡った先にあるのだが、横断歩道は信号待ちの人々で溢れていたのであまり近づきたくない。私はガードレールを乗り越えて道路を横切ることにした。


 道路を渡りきるまでの間、幾台もの車が猛スピードで私の体を通り過ぎていく。そんなに急いでまで果たさねばならない仕事とはどんなものなのだろう。かつての私はどうだったっけ? 考えているうちに向かいの歩道へとたどり着いていた。


 公園に入った私は木立の奥を目指して歩く。遊歩道から少し離れた場所で打ち捨てられたようにベンチが設置されている。腐りかけたベンチに好んで座るものなどいるはずがなく、ホームレスの寝床にされることもない。私にとっては落ち着けるお気に入りの場所だった。


 私はベンチに腰掛け、肘掛けに右肘を置いて足を組み、静かに目を閉じた。鳥のさえずりを聴きながら昼食は何にしようか考える。


 そういえば名乗るのを忘れていた。私の名前は黒乃美沙。


 世間一般で言うところの――『幽霊』というやつだ。





 私が自分のことで覚えているのは黒乃美沙という名前だけだ。生前自分がどういう人間で、なにが原因で死んだのかすら思い出せない。


 幽霊としてあちこちフラフラしてもうどれくらいになるだろう。本来ならば死んだ人間は洗礼を受け、無垢な魂へと戻されてから再び生を受ける。仏教で言うところの輪廻転生というやつだ。


 だが私のように魂となってからも現世をうろつく者が中にはいる。そのほとんどは死が受け入れられなかったり、死んだことに気付いていない連中だ。道ばたや木の上で虚ろな目をしている者達は大体これに分類される。


 ならば私は何故こうしているかというと、実は自分でもよくわからない。というのもこの姿になる前に自分から望んだらしいのだが、その時の記憶が綺麗に消え去っている。断片的にだがとても大きななにか――人間が『神』と呼んでいる存在と出会った気がするのだが、その後の私自身に関する記憶はすべて綺麗に消し去られてしまった。それが幽霊となる条件でもあったのだろう。私の左手が消失しているのもなにかしらのペナルティなのかもしれない。


 生前に大きな罪を犯したものはそれに応じた罰を受ける。現世で罪を犯し、死によって裁きから逃げられると考える者は多いが、それは大きな誤りだ。本当の裁きは死の後に訪れる。私の場合は左手に関してなにかしでかしたのだろう。いずれにせよろくでもない人間であったことは間違いない。


 それと幽霊になってわかったことだが、この暮らしも楽ではない。肉体的な疲労や消耗は無いが、精神の衰えがそのまま存在の消失へと繋がってしまう。消失とまではいかずとも、先に話した死んだ魚の目で虚空を見つめる連中の仲間入りを果たす羽目になる。それだけは御免だ。


 だから私は常になにかしらの指針を持つことにしている。日に三度の食事もその一つで、終わりの見えないこの生活に張りを与えてくれる。それは魂の活力とも言うべきものだ。


 ちなみに当面の目標は左手を取り戻すことである。取り戻すとはいっても別に奪われたわけではないし、そもそも最初から存在していない。どういう形で取り戻すのかもわからない。だがそれくらい曖昧で不可能に近い目標でいいと思っている。どうせ先は長いのだし、あっさり達成できては困る。


 私はスプリングの効いたソファの感触を確かめるように脚を組み直し、スピーカーから静かに流れるクラシックの音色に耳を傾けた。駅前の高級ホテルにあるラウンジはお気に入りスポットの一つで、落ち着いた音楽と快適な空調によって心地よいひと時を過ごすことが出来る。カフェも兼ねているため挽きたてのコーヒーが香るのもポイントが高い。


 とはいえ私が入ることが出来るのはこのフロアまでで、個々の客室でくつろぐことは出来ない。なぜならばそこには結界があるからだ。


 結界とはなにも魔法陣やバリアのような大層なものではない。見知らぬ他人の家に入ると居心地悪く感じるあれだ。


 個人の所有するスペースには必ず結界があり、幽霊である私たちがそれを越えて侵入することは出来ない。入るには必ず結界の所有者から『許可』を得る必要がある。


 人間ならば居心地悪く感じるだけで済むが、幽霊にとっては命に関わる。死んでいるのに命とは矛盾しているが、要はそういうことだ。一般的な店舗や不特定多数に解放されているレストスペースなどに結界はないので、私が羽を伸ばすにはそういった場所を選ぶ必要がある。


 向かいで新聞紙を広げている老紳士の前に置かれたコーヒーの香りを楽しんでいると、不意に後方からテーブルを叩く音が鳴り響いた。


「こんなことあり得ません!」


 背後を振り向くと壁際のテーブル席に座っていた客の一人が立ち上がっていた。二十代ほどの若い女で、顔を真っ赤にしてもう一人の女を睨みつけている。


「落ち着いてください高崎さん、他のお客さんがおられますから――」


 私に背を向ける形で座っていた女が声を押し殺して周囲を見渡す。だが高崎と呼ばれた女は構わず声を荒げた。


「彼に限ってこんなこと――大嘘よ! 桐原先輩に勧められたから頼んだのにこんな――こんないい加減な調査しかできない人だったなんて!」


 ヒステリックな声に私は強烈な不快感を覚える。事情は知ったことではないが騒ぐにしても場所を考えてほしい。背後に立って背筋をゾクゾクさせてやろうか。


「調査内容に関してはこれからお話ししますので座ってください。できれば場所を変えて――」

「結構です! 料金はお支払いしますのでもう連絡もしてこないでください」


 女は吐き捨てるように言って足早に席を離れる。そのまま休憩室を出てフロント脇にあるエレベーターに乗り込んだ。どうやらこのホテルの泊まり客であったらしい。


 その場に残されたもう一人の女はしばらくエレベーターを見つめていたが、やがてため息をつきながら周囲を見渡して頭を下げた。


「お騒がせして申し訳ありません」


 待合室には数名の客しかおらず、皆さして気にも留めていないようだった。女は席に戻り、テーブルに広げてあった書類をまとめだす。


 美しい――否、可愛らしいと言った方がいいだろうか。清潔感のある白いスーツとタイトスカートがよく似合う女だった。私の貧相な髪とは違い、たっぷりとした量感と艶のある長い黒髪。女性らしいふくよかさを兼ね備えた細身のボディライン。男であれば誰もが振り返りそうな美人である。


 私はなんとなく興味を惹かれ、立ち上がって女のテーブルに移動した。空いた向かい側の席に座ってテーブルの上に置かれた紙束に目を落とす。広げられた書類に混じって数枚の写真があった。


 写真には二人の男が写っていた。別にそれだけなら普通なのだが、どこか違和感を覚える。距離というか、空気だろうか――?


 首を傾げていた私の目の前で女は写真を束ね、茶封筒にしまった。書類鞄に茶封筒を入れ、代わりになにかを取りだしてテーブルの上に置く。カチャリという硬質な音がした。


 黒いゴートレザーの手袋――それ自体に目を引くところはない。だが左手だけが使い込まれて色褪せているのと、薬指にはめられた金色の指輪が不自然だった。よく見ると指輪は外れないように糸で縫いつけられている。右の手袋とはデザインも少し異なる。さっきのは指輪が机に触れて鳴った音のようだ。


 私は無意識のうちに右手を伸ばしていた。だが指先が触れる前に帰り支度を終えた女が手袋を拾い上げ、左手にはめてしまう。


 女は手袋に包まれた左手を右手で撫でる。その仕草で気付いたが女は右手の薬指に銀の指輪をはめていた。エンゲージリングであるなら左につけるのが一般的ではないだろうか。なんだか独特なセンスの持ち主だ。


 手袋を撫でていた女の手が止まり、ふと顔を上げた。女を見ていた私は自然と目が合う形になる。長い睫毛で縁取られた大きな瞳が間近で私を見つめてくる。


 まさか見えているのでは。一瞬ギクリとさせられたが、女は首を傾げて立ち上がった。私はほっと胸を撫で下ろす。


 レジで会計を済ませた女に続いてラウンジを後にする。私の脚は自然と女を追った。彼女が持つ手袋に対する興味がいまだに尾を引いていたからだ。何故かはわからないが、あの手袋を近くで見たいという強い欲求が沸き上がっていた。


 女はホテルを出るとターミナルに停車していたタクシーの運転席をのぞき込む。客に気付いた運転手は会釈しつつ手元のスイッチを操作した。後部座席のドアが自動で開き、女が車内に乗り込む。


 乗車の許可と共に結界は解かれ、私も女の後に続いてタクシーに乗り込んだ。女の横に並ぶ形でシートに座り、足を組んで膝の上に右肘を立て、右手で顎を支える。


 こういうときに片手がないのが不便だ。左手があればドアの肘掛けを使うことが出来るのに。肘を置いても支える手が無くては頭がグラグラしてしまう。


「目抜き通りの法律事務所までお願いします。場所は――」


 女が目的地を告げると、初老の運転手は得心したように頷いてドアを閉め、ゆっくりと車を発進させた。


 私は横目でちらりと女を見る。改めて近くで見ると本当に美しい。まだ二十代だろうが落ち着きがあり、街中を歩いている同世代の女達とは一線を画している。夜空を映したような黒い瞳を伏せた横顔は物憂げで、深い知性を感じさせた。


 法律事務所ということはそこがこの女の職場ということか。弁護士か行政書士か、いずれにせよ法律関係の仕事に携わっているのだろう。そんな事を考えながら女が手袋を外す機会を待ったが、残念ながら車内でも手袋は女のたおやかな手を包み込んだままだった。


 しばらく窓の外を眺めていた女が、不意になにかを思い出したようにシートから体を起こした。鞄の中から携帯電話を取りだして液晶をいじり、髪を掻き上げながら耳に当てた。誰かに電話をかけているようだ。


「――あ、私だけど。今大丈夫? 高崎さんのことなんだけどね――」


 女が電話に向かって話し始めた。先ほどホテルで一緒だった相手のことだろう。通話内容に興味はないため、私は窓の外を流れる景色を眺めることに専念した。


「ごめんね、そっちも忙しいのに。――ううん、大丈夫。それじゃあ事務所で待ってるから、また六時頃にね」


 やがて目的地に辿り着き、タクシーがゆっくりと停車した。ドアが開かれ、運転手が目的地に着いたことを告げてくる。女がカードで支払いを済ませている間に私は車から降りた。


 目の前には五階建てのオフィスビルがそびえ立ち、三階に女の職場であろう法律事務所の看板があった。だが看板に表記されていた奇妙な文字に違和感を覚え、私は思わず声に出して読み上げた。



「白河――法律『探偵』事務所?」


 

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