第十話
*
無数の警官と鑑識が慌ただしく行き交う現場を中年の刑事はざっと眺め回す。通報から既に五時間以上経っているためこれでも落ち着いた方である。
通りには曲がり角の先まで進入禁止テープが貼られているため一般人の姿はないが、その先にたむろしているであろう野次馬の喧騒がここまで聴こえてくる。
「身元は割れたのか?」
刑事が遺体のそばに屈んでいる鑑識の男に呼びかける。こちらも刑事と同じく中年の、小柄だが体格のいい男だった。
「えぇ、二人共同じ高校の同級生のようですな。まだ若いってのに不憫なもんだ」
「不憫ってことはないだろう。このどっちかが連続殺人鬼かもしれないんだ」
刑事が横たわる遺体を交互に見ながらいった。三メートルほどの距離を置き、足を向け合うようにして少年と少女が横たわっている。
「もちろんどっちも無関係ってこともある。それで、なんかわかったのかい?」
「あぁ、男の方は心臓を刺されたことによるショック死だね。ほかに外傷は特にない。女の子の方は腹部に目立つ打撲痕があるほか、あちこち傷がある。どう考えても男のほうが女の子を襲って、最後の力で反撃されたってところだろう。ただ――」
鑑識の男が言いよどむ。刑事は先を促した。
「この左手首の傷がどうも不自然なんだ。力のかかり具合や傷の向きからするとまるで自分で切ったみたいに思える。最初は男が手首を切り落とそうとした時に出来た傷だと思ったんだけど――いや、それでも被害者が生きてるうちに手首を切ろうとするなんておかしいしなあ」
鑑識の男は既に少年を犯人と決めてかかっているらしい。刑事は少年の遺体に歩み寄り、顔を見下ろした。生前は美しく整っていたであろう少年の顔は醜く歪み、両目は驚愕したように見開かれている。
「男前が台無しだな――ん?」
刑事は少年の顔がひどく血にまみれているのに気づいて眉をひそめる。口と鼻からは大量の血が流れているが、これは胸の傷によるものだろう。刑事が気になったのは少年の頬から額にかけて飛び散った血痕だった。そこだけ別の方向から吹き出した血がかかっているように思えたのだ。
「なぁ、この坊主の顔の血なんだが――」
刑事が少年を指さしていいかけた時、通りの向こうから若い刑事が一人駆けてきた。
「早見刑事、さっきホトケの家に向かった捜査員から連絡きました。少年の方――名前は竜崎圭ですが、そいつの部屋の衣服から血痕が発見されました。ひと月前に殺害された男のDNAとも一致したそうです」
「なんだとぉ――確かなのか?」
「ええ。こいつの部屋からいろいろきな臭いもんが出てきましてね。その中に刃物や格闘技に関する本や雑誌が山のようにありました。部屋のノートパソコンには犯罪関連のブックマークがいっぱいです。こりゃあ決まりですよ」
鬼の首を取ったように鼻息を荒くする部下を見て、刑事は気分が白けていくのを感じる。部屋の有様や趣味をざっと見してその人間を判断するべきではない。そんな行いはマスコミにでも任せておけばいいのだ。お前にだって部屋を人に見られれば都合の悪いものはあるだろうに――口には出さないがそう思った。
「――そうか。そっちの女の子は?」
「女の子の方の名前は黒乃美沙。向こうも簡単な調査はしているようですが、両親が海外に出張中らしくてなかなか捕まりません。まったくひどい話ですわ」
「そうじゃなくて、向こうでは何か見つからなかったのかってことだよ」
刑事は少し苛々してきた。どいつもこいつも竜崎圭が犯人で結論づけている。もちろん状況的に黒いのは確かだが、それでも刑事には引っかかる想いがあったのだ。
「いや、特にはないようです。いかにも女の子の部屋って感じで綺麗なもんだったそうですが。まぁ部屋の押し入れのダンボールに少年誌の漫画本が多数詰められてたって程度ですか」
「――そうか。とりあえず黒乃美沙の家もしっかり調べるよういっといてくれ。何かわかったらすぐ報告しろよ」
若い刑事ははぁ、と気のない返事をして来た道を戻っていった。ため息をついている刑事に鑑識の男が訝しげに声をかける。
「随分こっちの女の子にこだわるね。なんか気になるのか?」
「あぁ。俺は最初に現場見たとき女の子――黒乃美沙の方が犯人だと思ったんだ」
「どうして?」
「綺麗すぎるんだよ。死に顔が」
刑事がいうと、鑑識の男が少女の遺体を振り返り首をかしげる。
「あぁ――まあ、可愛い子だね」
「そうじゃあねえよ! この娘は殺されたんだぞ? だったら竜崎みたいに死に顔が歪むのが普通なんだよ。なのになんでこんな穏やかな顔してるんだ」
改めて黒乃美沙の遺体を見下ろす。まるで眠っているように安らかな死に顔だ。何かを成し遂げたように満ち足りて、かすかに微笑んでいるかのようにすら見える。刑事の長い経験の中で、こんな顔をして死んでいる被害者など一人としていなかった。
「まぁいわれてみればそうだね。――そうだ、この二人同じ学校の同級生なんだろ? なんか男女の問題があったとかじゃないかな」
「そんな単純な話じゃ――ん? この娘右手にしか手袋がないな。左手の手袋はどうしたんだ」
「抵抗した時に脱げたんじゃないのか? まぁ現場に落ちてるなら捜査員が拾ってるだろうからあとで聞いておくよ」
鑑識の男はそういうと向こうへ行ってしまった。刑事は釈然としない思いを胸に、それでも無くなったのが手袋で良かったのかもしれないと考えた。
ともかくこれ以上左手首のない死体が増えなければいいのだが――淡い期待を胸に抱き、刑事もその場を後にした。
*
どれくらいの時間こうしているだろう――桐原由香は自室のベッドでぼんやりと考えた。
すでに一週間は学校に行っていない。数日前から部屋を出ることもなくなった。たまに母親が声をかけてくるが答える気力すら湧いてこない。
由香はいまだに美沙が死んだ事実が受け入れられずにいた。学校でその報せを受けたときは悪い冗談だろうと思った。明日になればきっと私は美沙といつものように笑い合っている――由香は頑なにそう思い込んだ。
それから数日後、美沙の葬儀が開かれた。
柩で静かに横たわる美沙を目の当たりにした由香は、目を背け続けていた事実を突きつけられ半狂乱に陥った。柩の蓋を開け放ち、美沙の骸に縋り付くようにして抱き起こした。由香がどれだけ声の限りに叫んでも、氷のように冷たくなった親友は応えてくれなかった。
両親や周りの慰問客が数人がかりで引き剥がし、由香はようやく美沙の骸を手離した。
それからずっと由香は部屋にこもり、ベッドの上で無気力に横たわっていた。ここ数日シャワーはおろか洗顔すらろくにしていない。既に不潔さは気にならなくなっていた。
記憶に残る美沙との思い出を幾度となく反芻し、その度に涙をこぼした。
由香は美沙の目が好きだった。時折見せる憂慮でも哀愁でもない、ただ冷たく深い色をたたえた瞳に心を奪われた。美沙がその目をしているのに気づくと、由香は必ず美沙に呼びかけた。そうすればほんの一瞬だけ、美沙はその目で自分を見てくれたからだ。
由香は手を伸ばして携帯電話を手にした。バッテリーは切らさぬよう充電器に繋ぎっぱなしにしている。心のどこかで、美沙からかかってくるのではないかという思いがあった。友人や後輩からの着信は幾度となくあったが、由香はその全てを無視した。そしてコール音が止むのと同時に履歴を消去するという作業を繰り返す。
着信履歴の一番上には美沙との最後の通話履歴が表示されている。この履歴を消したくなかった。消えてしまったら本当に美沙は帰ってこない――そんな思いに囚われていた。
由香がふと机の上に視線を向けると、ペン立てにあるカッターナイフが目に付いた。
空腹や乾きだけではやはり難しい。最後のひと押しが必要だろうか――半ば自棄になった思考が由香にそう囁きかける。
その時握り締めていた携帯が振動と音で着信を知らせた。今度は誰からだろう――のろのろと画面を覗き込んだ由香は、そこに表示された名前を見て目を見開いた。ベッドから跳ね起き、外していた眼鏡をかけてもう一度画面を食い入るように見つめる。
「美、沙――!?」
画面には確かに美沙の名前が表示されていた。嬉しさと同時に残っていた理性が、こんなことはありえないと警鐘を鳴らした。だが由香はそれに耳を貸さず、震える指先で通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし――」
『桐原さん? 良かったぁ出てくれて。白河です』
スピーカーから聴こえてきた間延びした調子の声に眉をひそめる。携帯を耳から離して再び画面を確認するが、そこにはやはり美沙の名前が表示されていた。
『私の携帯からも電話かけたんですけど繋がらなくて。いきなり電話かけてごめんなさい。驚かせて――』
「なんで――」
白河の言葉を遮るように由香が言葉を被せる。しばらく声を出していなかったせいかひどく喋りづらい。由香は大きく息を吸い込み、気持ち声を大きくした。
「なんであんたが美沙の携帯から電話をかけてるの? どうしてあんたが持ってるの?」
沈黙が訪れる。ややあって白河が再び話を続けた。
『突然で迷惑かとも思いました。だけどどうしても桐原さんとお話がしたくて――実は今、お宅の前まで来てます』
唐突な白河の言葉に息を呑む。由香はカーテンを閉め切った窓に近づいたが、確認するのがためらわれた。何故か言い知れぬ恐怖を由香は感じていた。
だが由香には白河をこのまま返すべきではないという思いも強くあった。なぜ親友の携帯電話を彼女が持っているのか、それだけはどうしても問いたださねばならない事だった。
『――お話はすぐに済みます。上がらせてもらえないですか?』
遠慮がちな口調で白河がいった。由香は少し迷ったが、意を決したように首を縦に振った。
「わかった。玄関の前で待ってて」
由香は通話を切り、窓を開けて澱んだ部屋の空気を外へと逃がす。シャツとショーツという格好だったのでスウェットの下だけを履いて部屋を出る。元々由香は部屋での格好には無頓着な性質だった。今の時間は母親も仕事に出ているので早くとも夕方までは帰ってこない。
鍵を開け、ゆっくりと玄関のドアを開ける。門扉の前に白河が両手をきちんと前で合わせた姿で立っていた。長い黒髪の先が風にそよいでいる。
「急にお邪魔してごめんなさい。あの、私――」
「いいから上がりなよ。――外、寒いから」
由香は出来るだけ白河に取り合わぬよう話を進めた。ドアを開け広げ、中に入るよう促す。
「それじゃあお邪魔します。あの、おうちの方は――?」
「今は私一人。遠慮しなくていいよ」
「そうですか――」
白河はどこか安心したような口調でそういうと、丁寧にお辞儀してから玄関へと上がった。由香はドアを閉めると後ろ手に鍵をかける。理由を聞くまで帰すつもりはなかった。
白河を自室に招き、開け放っていた窓を閉める。完全に空間が締め切られたことを確認し、由香は白河を振り返った。
「さぁ話してよ、なんであんたが美沙の携帯を持ってるか。あいつは最後の日に――あたしに電話をくれたその日に、死――」
思わず言葉が詰まる。口に出してしまったらもう覆らない気がした。心の底ではわかっているはずなのに。
「桐原さんがずっと学校に来てないのをクラスの人が教えてくれました。電話かけても繋がらないってみんな心配しています」
今度は白河が由香の質問を無視した。由香は白河に詰め寄り声を荒げる。
「質問してるのは私よ! 美沙が私に電話をかけたのは夜の九時過ぎだった。あんたはそれ以降に美沙と会ってることになる。じゃないとあんたが美沙の携帯を持ってるはずがない」
由香は白河より頭一つ分身長が高い。白河は軽く顔を上げて由香を見上げてから、ポケットから白い携帯電話を取り出した。それは由香もよく知っている、美沙が持っていた携帯電話に間違いなかった。
「あ、ああ――!」
反射的に白河の手からひったくるようにして奪い取り、由香は自分の胸にそれを押し当てた。涙が目から溢れ出す。
「美沙、みさぁ――」
「今日はそれを渡しに来たんです。あなたが持っているべきだと思いました」
白河の言葉を聞き、由香は再び白河を睨みつけた。
「桐原さんのいうとおり、私はあの日美沙と会いました。その携帯はその時に彼女からもらったんです」
由香の胸に歪な感情が湧き上がった。美沙が最後に会っていたのが自分ではなく白河であったことが許せなかった。
「どういうことよ――あんた知ってるの? あの日、美沙が何をしていたのか。どうしてあんな場所にいたのかも」
白河は目を伏せた。由香は白河の両肩を掴んで揺さぶる。
「教えなさいよ! あんたが知ってること全部話して!」
「教えません」
白河がゆっくりと首を横に振った。静かだが、決意を感じさせる重い口調。それが由香の逆鱗に触れた。
「ふざけるな! わざわざ家まで押しかけた目的がこれを渡すこと? それではいそうですかって私が納得するとでも思ってんの?」
「美沙にも知られたくないことがあります。あなただからこそ知って欲しくないことが。だから私は絶対に教えません」
「さっきから美沙、美沙って気安く呼んでるんじゃあないわよ! つい最近知り合ったばかりのあんたにあいつのなにが――」
「私は美沙のことが好きです。この世の誰より彼女のことを想っています」
まるで歌い上げるように言い放った白河に由香は言葉を失った。好き、という言葉に友人へ向けるものではない響きが明確に込められている。
「なに? なによそれ――あんたってそういう趣味だったの? ――気持ち悪い!」
由香は胸にこみ上げた感情を嫌悪に変えて吐き出した。自分にはけして言葉にできないその想いを容易くいってのける白河に対して、羨望を抱いたことを認めたくなかった。
「あなたは私が好きな人が大切に想っていた人です。だから私は桐原さんの力になりたい。美沙もきっとそれを望みます」
由香は白河の左頬を強く張った。長い黒髪が揺れ、白河の唇から細い血の筋が垂れる。
「黙れ、あんたのせいで美沙は――! そう、そうよ――あんたが美沙になにかしたんだ! だからあいつはいつもと様子が違っていたんだ!」
由香は既に考えることを放棄していた。ただ渦巻く感情に任せてヒステリックに声を荒らげ、白河の胸ぐらをつかんで引き寄せる。そのままの勢いでベッドに押し倒し、馬乗りの状態で跨った。白河は抵抗する素振りさえ見せなかった。
白河の長い黒髪がベッドに広がり、乱れた前髪が目元を隠す。セーター越しにも見て取れる肉感的なボディラインと合わさり、その姿は自暴自棄になりかけていた由香の淫逆心を強烈に刺激した。
由香の脳裏に数週間前の美沙の姿がよぎった。シャツにホットパンツというラフな姿で、すぐ隣に腰掛けた美沙。自分にしか見せぬであろう親友の無防備な姿に湧きかけたほんの微かな劣情。
あの時は自己嫌悪に陥り、即座に否定した感情に由香は身を委ねた。美沙にしたように、私がこいつを汚してやる――由香は獣のように息を荒げ、顔を近づける。
「由香」
白河の唇から自分の名が紡がれ、由香は動きを止めた。虚空を向いていた白河の瞳が自分へと向けられているのに気付く。
底知れない闇をたたえた黒い瞳。それは美沙が時折見せたものと同じ目だった。
「あ――」
切れかけた理性の糸が再び繋がれた。白河は微動だにせずにいる由香の頬に両手を当て、そっと押し戻す。そのまま上体を起こし、間近で向かい合う形で由香を真っ直ぐに見つめる。
「私はあなたが羨ましかった。美沙のすぐ傍で、いつも笑い合っていられるあなたが。美沙が最後にあなたに電話をかけているのを見て、心の底から妬ましく思いました」
由香は何もいえなかった。白河が向けてくる漆黒の眼差しに身体中の神経が縫い止められているような気がした。
「あなたのいう通り、私の想いが美沙を苦しめた。私はそれを償わなければならない。残りの人生全てを懸けても」
白河の手が再び由香の頬を撫でる。肉体の縛めを解かれた由香は放心したように立ち上がり、そのままベッドのそばに尻餅をついた。
「――あなたは美沙が最後まで気にかけていた大切な人。だからこのまま駄目になっていくのを放ってはおけない。あなたは美沙が望んだように真っ直ぐで、幸福な人生を歩まなければいけないの。それがあなたの義務」
白河は審判者のような口調でそういうと、ベッドから立ち上がり乱れた衣服を直した。
「そのために私があなたを支えます。そして出来ることならあなたも私を支えてください。美沙を失った痛みは私にも――誰よりも深くありますから」
怯えた目で見上げていた由香を振り返った時、白河は優しい微笑みを浮かべていた。
「由香、今日はいきなりお邪魔してごめんね。明日は学校で元気な顔を見せて」
学校で白河がいつも見せている笑顔を向けられ、由香はようやく己が赦されたのだと感じた。
「は、い――」
由香が呟くように答え、首を縦に振るのを見て白河は嬉しそうに笑った。そして部屋の隅に落ちていた自分の鞄を拾い上げ、由香の部屋をあとにした。
白河が部屋を去ったあとも、由香は尻餅をついたままいつまでも部屋のドアを見つめていた。