第一話
*
私には時折夢に見る景色があった。
果てしなく続く荒涼とした大地。太陽も月も星さえもなく、ただ闇ばかりが広がる無明の荒野。光はないのに、闇になれた私の目には何もない大地の果てまでが見えてしまう。それがとても恐ろしい。
漠然と夢であることは把握する。
だがこの夢が夢でなくなったとき。
いつかこの荒野をただ一人彷徨うことになったとき。
私は照らす光を持ち得るだろうか――夢から醒め、夢であったことに胸をなで下ろすたび私はそのことを考えた。
*
『――というわけで、連続殺人犯は現在も足取りが掴めず、捜査は難航しています』
テレビでは朝から物騒な話題が流れている。私はコーヒーを一口飲んでからため息をついた。
「連続殺人だってー。怖いねコージ」
私はテレビに目を向けたまま恋人に語りかける。一緒に暮らし始めてから二ヶ月ほどだろうか。目下ラブラブである。
「そういえば由香がおいしいクレープのお店見つけたんだって。今度の日曜一緒に行かない? ――もちろん二人でさ」
私はそう言いながらコージの左手にそっと手を重ねた。
『なお、凶器は特定されておらず、被害者の遺体には遺体には共通の特徴が見られることが公表されています。警察では犯行を真似た複数犯の可能性も考慮し、現在も調査を続けているということです』
「共通の可能性ってなんだろうね?」
私はコージの手をそっと持ち上げた。
手首から先のない左手だけを。
私は左手でその手首を包み込むようにして持つと、その手にトーストを握らせた。そのまま口まで運び、カリカリに焼けたトーストを頬張る。
「あ、もう時間だ。そろそろ行かなきゃ」
時計を見るとすでに八時を回っている。幸せな朝のひと時を楽しみすぎたらしい。このうっかりさん。
手早く朝食の残りを片づけ、食器を流しに置いた。洗うのは帰ってからにしよう。
「もう、コージが教えてくれないからだよ。え――私と一緒の時間を楽しみたかった? やだもー」
私は手にしたままの手首に頬ずりし、軽くキスをしてから手製の保冷袋に手首を詰める。冷蔵庫の一番上のスペースにその袋をそっと置き、袋の上から手首を撫でながら言った。
「それじゃ行ってきます。――なるべく早く帰ってくるからね」
私は冷蔵庫の扉を閉め、玄関に急いだ。用意して置いた鞄をひっつかみ、ドアの施錠を確認してから小走りでバス停まで駆ける。
「美沙ー! おっそいよー」
バス停で待っていた由香が手を振ってくる。私も手を振ってそれに答える。
今日もいい一日になりそうだ。
*
静かな校舎裏で私――黒乃美沙は困惑していた。
「えっと、それって――ギャグ?」
事の発端は約八時間前。
朝、げた箱を開けて封筒が入っているのを見たときは恥ずかしながら舞い上がってしまった。周囲の目に触れぬよう素早くセーラー服の裾をまくり、封筒を無理矢理捻じ込んで女子トイレに駆け込み中身を改める。
もしもイタズラだったらなんとしてでも犯人を探し出し、然るべき報いを与えなければ――そう懸念したが、それは杞憂に終わった。
『放課後校舎裏で待っています。あなたへの想いを言葉で伝えたい』
この時の気持ちをなんと言い表せばいいのか。
放課後の校舎裏――こんなところに人を呼び出す目的は愛の告白か、ヤキを入れる以外ない。そして私に限って後者はない。
私は別にモテるタイプではないし、モテたいとも思わない。だが他人にはっきりと好意を伝えられて喜ばないやつがいるだろうか。
もちろん好きとか愛してるとかそういう記述はない。だがそれ以外の理由でわざわざこんな手紙書くか? 書かねぇだろ。
それから私は天にも昇る気分で放課後を待った。
傍目にも浮かれて見えたのだろう。――ヤクでもやってんの? 由香にもそう言われたほどだ。
いざ授業が終わり、下校の準備を始める段階になって段々と緊張してきた。
――どんな人だろう?
――まずどんな風に話を始めたらいいだろう?
――めちゃくそイケメンだったらどうしよう?
期待と不安を入り交じらせ、私は友人の誘いをすべて断り校舎裏へ向かった。
だがここで初めて校舎裏が結構広いことに気づく。手紙を読み返したが詳しい場所までは書かれていない。
幸い周りに人はいない。手紙の差出人がくれば気づくだろうし、先に待っていたとしても気づけるはずだ。
そう思いながら鞄から手鏡を取り出す。髪型はきちんとしているし、事前に口もゆすいだ。完璧だ。
「黒乃さん――?」
突然背後から呼ばれ、危うく飛び上がりそうになった。
「は、はいぃ!」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。いかん落ち着け。呼吸を戻し、ゆっくりと振り向く。
出来るだけ笑顔で――余裕を持って。
私は胸を高鳴らせながら振り向く。だがそこに立っていたのは女子だった。驚かせんなよ。
「あぁ、C組の白河さんじゃあないの。どしたの?」
態度には出さないようにすべきなのだろうが、さすがにシケた声が出てしまう。自分で描いた甘美な物語の中へ土足で入られたような気分だ。
女子の名は白河玉子。名前だけは知っているが、別に友達でもなんでもない。むしろ嫌いなタイプだ。
彼女は一言で言えば美少女である。長く伸ばしたキラキラとした黒髪、垂れ下がり気味の眉に大きな目。その儚げな顔立ちに似合わぬ豊満なバストとヒップ。
男に好かれそうな要素を詰め込んだような女だ。早い話、女には嫌われるタイプということである。
こんなところに何をしにきたか知らないが、邪魔をされるのはごめんだ。とっとと散らしてしまおう。
「あのさ、私ここで人と待ち合わせしてて、だから悪いけどどっか行って――」
「来てくれてありがとう。――私本当に嬉しい」
「――は?」
今何か聞こえた気がしたが間違いだろう。間違いだよね?
「その手紙だしたの私です。――突然で驚いたよね?」
驚いたのは突然だったからとかそういうのではない。一体なんなんだお前。
「私ずっと黒乃さんのこと見てました。それだけで胸がいっぱいになって、幸せで。――どうしてもこの気持ちを知ってもらいたくて」
理解が追いつかない私を置いてけぼりにして、白河はどんどん話を進めていく。そういえばシラカワタマコでシラタマというのがこの女のあだ名だった――などと現状とまったく関係のない事を思い出す。
白河は両手を腰の前で合わせ、深々と頭を下げた。
「お願いします! 私と結婚を前提にお付き合いしてください!」
恋人すらすっ飛ばしていくのか――もはやなんと言葉を返していいかすらわからず、私はただ今の気持ちを口にすることしかできなかった。
「えっと、それってギャグ?」
「私の命にかけて誓います。真剣です」
白河が大きな目を潤ませ、まっすぐ私の目を見つめてくる。
彼女が私に愛の告白をしてくれた最初の相手――そのことについて、最早疑いの余地はないらしい。